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「被差別日系研究所」を仲間と立ち上げる
金 美穂さん
聞き手竹内 絢
撮 影常見 藤代
当事者が自らを代表するために
 「被差別日系研究所」の立ち上げ準備のために来日した金美穂さん。「被差別日系」という言葉は、日本のレイシズムの構造下におかれ、今なお社会的復権が認められずにいる人々を総称する言葉として、金さんが使い始めた。植民地支配の下に置かれた朝鮮人、アイヌ民族、琉球民族、および被差別部落民なども含まれる。
 「日本において支配の根底にあるのは天皇制。そこで弱者とされている人たちが一緒になって『私たちはこういう当事者なんだ』と言いたいときに、それを表現する言葉がなかった」
 NPOセクターができ、インフラが整備されていく中でも、巧妙に被差別の人々は締め出され、国際会議などの世界的な運動の場でも、当事者が自らを代表できない現実がある。金さんは当事者が資源や教育、情報を得て能力や可能性を高めていくこと、当事者同士の連携が必要だと強く感じている。
 今、アメリカ、日本(東京、神戸)、韓国に事務所を置く準備を進めており、東京では「おんな組」を主宰する辛淑玉さんの事務所を拠点にする。トップダウンではなく、参加するすべての当事者と対話して進めていく方針だが、最低限、組織のビジョンや方向性は提唱していく。研究所設立のアイデアは、これまで一緒にやってきた仲間の中から自然に生まれた。
 「みんなに主導権がある空間を守るのはとても大切。一緒にやろうという宣言は、差別をひとりで抱え込まなくていい、ということ。希望も見いだせるし、もっと強くなれる。阿波根昌鴻さんの『五本の指』の考え方と同じです」


 在日朝鮮人3世として福岡に生まれ、9歳のとき失神するまで同級生に頭を殴られ大けがを負った。そのときの近所の日本人の反応が忘れられない。「あらゆるレベルで同化しろ、『帰化』しろという圧力を感じた」と金さんは振り返る。
 この事件後、下関の朝鮮部落で生まれ、本名を貫き勤務医となった2世の父親は「日本社会は娘の世代になっても変わっていない」と痛感し、娘を守ろうとアメリカに移った。帰国後、国籍条項を盾に地域のすべての学校が中学校1年生の金さんを拒否し、仕方なくアメリカンスクールに入学。そのために一家は、妹まで学費が負担できなかった。
 「私と妹が転々としたのは第二の『家族離散』。ハルモニたちの時代に、家族をばらばらにした植民地時代の政策がまだ生き残っているがゆえに、私は妹と一緒に成人できなかった。義務教育や基本的人権を保障する憲法から除外されている現実がまだ続いている」
 基本的人権や公民権を奪われた民にとって、「お金」以外に安定性の鍵を握れない場合が多い。「ステップダウン」を選んでいる金さんは「1世、2世が土台を築いてくれたからこそ私にはこの選択肢が与えられている。とっても恵まれている」と言う。

続きは本紙で・・・

きむ みほ
 1972年生まれの在日朝鮮人。日米で市民運動グループを結成するなど国際的な社会正義運動に参加する傍ら、通訳および、被植民者団体組織を対象とするコンサルティングを行う。29歳のときアメリカ・カリフォルニア州オークランドにあるデータセンターに入る。第1回「やより賞」の選考で最終まで残った。

「ごめんください」とは、ふぇみん1面のインタビュー記事です
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