投票以外の参政権もあるはずよ。

「教え子を再び戦場に送らないように」。それが戦時中、教師をしていた岩瀬房子さんの生涯を通じての願いとなっている。
「子どものころ、教えを受けた渡辺貞子先生の影響で、教師を目指すようになりました。先生は知的障害のある生徒をいつも気づかっておられたんです」
念願だった国民学校の先生になったとき、この国は戦争にどっぷりはまりこんでいた。
1944年、空襲が激しくなり、岩瀬さんは3年生の子どもたちとともに、東京から長野県の戸倉温泉に集団疎開した。
「子どもたちはリュックをしょって、遠足みたいにはしゃいでいるのですが、見送りに来たお母さんたちは駅で私の腕にすがって『うちの子はおねしょをするんです。先生よろしくお願いします』『風邪引きやすい子だから、心配で…』と。子どもたちの命を守れるだろうか…私もまだ20歳だったんですよ」
岩瀬さんは親を恋しがる子どもらに、夜は枕元で童話を読み、母親代わりを務めた。なるべく戦争から離れた楽しい日々を、と月見草の美しい川原でままごと遊びをしたりした。
45年になって、B29が大本営のある松代を偵察するようになる。ある夜中、空襲警報がけたたましく鳴り、グオオ〜と地鳴りのような轟音が近づいた。
「子どもたちをたたき起こし、玄関の板の間に頭を輪にして放射状に寝かせ、ふとんを上からかぶせて『頭、上げるんじゃないよ!』と叫びながら私はその上に体を投げ出したの。なんでそんなことをしたのかわからない。とにかく必死でした」
九死に一生を得た当時の生徒たちは、今でも岩瀬さんに会うと、こう言うそうだ。
「あんなに怖い先生は初めて見た」「ふとんの重みを肩が覚えてますよ」と。
8月15日。敗戦を知った子どもたちがはしゃいだ。「これで家に帰れる! お父さん、お母さんに会える」
「ああ、生きていることがいちばんの幸せなんだと。私は子どもたちから命の大切さを、しみじみと教えられましたね」
岩瀬さんの戦争の話は、もうひとつの「二十四の瞳」のようにも思える。だが、戦後しばらく、岩瀬さんはふさぎこむ。これから日本は、自分たちはどうなってしまうのだろう。絶望の淵から救ってくれたのが、新しく発布された憲法だった。
「すごい、すごい! 私、これで生き直せる、と思いました。あのときの歓びは口では言い表せない」
続きは本紙で・・・