もうこれ以上我慢するもんか

東京大空襲から63年。アジア太平洋戦争末期の3月10日、米軍のB29爆撃機325機が、33万トンもの焼夷弾を落とし、東京の下町は炎に包まれた。正確な死者数やそれぞれの名前も分からないままだ。
東京大空襲で生き残った人々は高齢になってきた。風化しつつある記憶≠つなげようと、彼ら、彼女らにカメラを向ける女性がいる。
広瀬美紀さんは最初、仮埋葬地を撮影して歩いていた。東京大空襲や仮埋葬地の存在は、ある年の3月にテレビの報道番組で知った。東京大空襲のことは知っているつもりだったが、本当のことは何も知らない自分に気付いた。
わずか2時間で10万人が亡くなったこと、その遺体は多くが身元も確かめられずにすぐ仮埋葬されたこと。それらをカメラとともに少しずつ追い始めた。90カ所にも及ぶ仮埋葬地は、子どもたちが遊ぶ公園や普通の寺院だった。錦糸町駅の近くにある錦糸公園には当時、1万3000もの遺体が仮埋葬されたが、そんなことは想像もつかないような、平和な風景だった。
「仮埋葬地を撮り歩いていて、ふと気付いたんです。これらの場所も意味があり大事だけど、今生きている人たちを撮らないと、って。残された時間は多くないから…」
大空襲を経験した人の多くは70代、80代になっている。当時小学生だった人の多くは疎開していて空襲の体験はない。そう考えると、自分にとっても残された時間が少ないことを意識し始めた。
戦禍のひどかった地域に建つ「東京大空襲・戦災資料センター」や様々な人の紹介で、東京大空襲で生き残った人を訪ね始めた。
「親と話をした記憶や、楽しく団欒をした記憶がない」と広瀬さんは言う。小さいころから音楽や美術が好きだったが、親に注目してもらうため理系の道を進んだ。親に認められず、自分を抑圧して生きてきたと振り返る広瀬さんは「人生とは、我慢して生きていくものとずっと思ってきた」と淡々と語る。
理系の大学を卒業し、医療系の大学院に進学。大学院では動物行動学を学んだ。養老孟司さん(脳科学者)の研究室に身を置き、そこで「養老さんに、丸ごと認めてもらえた」。広瀬さんは少しずつ変化していった。 大学院を出て、中学校の理科の講師として働き始めた。「生徒には、おのおのが好きな分野で生きていってほしい。じゃあ、自分のやりたかったことは何だっけ?」と自問自答。講師として1年目の冬、写真が好きだったことを突然思い出した。大学生のころに友だちに誘われてやってみた写真に感動し、魅了された記憶がよみがえった。
「もう、我慢したくない。30歳は目の前、迷ってるヒマはない」と、夜間の写真学校に通い始めた。
続きは本紙で・・・