出会いの中から未来をひらく

あのベートーヴェンに「わが不滅の恋人」と呼ばれ、ともに愛を誓い合った女性とは誰だったのか。彼の死後に発見された手紙でその存在が明らかになって以来、さまざまな研究者たちによって、数々の女性の名があげられてきた。
2世紀にわたったこの謎解きは、21世紀に入り新たな資料が出現したことで、解決をみることになる。そして、その女性の名を、世界ではじめて言い当てていたのが、青木さんだった。
1959年に青木さんがその説を発表した当時、専門家からは「おもしろいかもしれないが馬鹿げている」と評された。
「でも私にはピンときていたのですが、その後20年近く別の仕事に忙殺されてしまって」
それは、青木さんが思いもかけない成り行きで女性問題の評論家となり、講演や執筆に多忙を極めるようになったからだ。そのきっかけとは、なんと「女は産む機械」と考える男たちへの憤り、だった!
「74年の世界人口年のとき、人口学者たちは、日本は人口に関しては『微調整のきく社会』だから心配ないと言っていた。世論に圧力をかけることで、産んだり産まなかったりさせられると。私は『女は子産み機械じゃない』と非常に憤慨した」
たまたま新聞で「日本の選択」という懸賞論文の募集を知り、「女でなければ書けない人口論」をと、清書する間もなくつぎはぎだらけの原稿を送った。それが翌年の日本研究賞を受賞。その年は国際女性年で、一躍脚光を浴びることになった。
「ただ義憤にかられてやっただけでしたが、これ限りでやめますとは言えなくなって(笑)」
60年安保闘争後、さまざまな市民運動や画家の富山妙子さんらとウーマンリブの運動もしていた青木さん。そのままエコロジカル・フェミニズムの主唱者への道を歩むことになる。
「運動をしながら、本を読み、歩きながら考え、論理を組み立てて、書いた。老母を抱えて、綱渡りをするような大変さも体験した。でも人間は、やれるときにやらないとダメですね」
そんな時期が15年ほど続いた。その間にもベートーヴェン関係の研究書はしっかり集めていたし、80年代末には旧東側の東欧諸国にも行っている。
続きは本紙で・・・