情報は“つなぐ人”がいてこそ生きてくる

1990年代、雨後のたけのこのように各地に女性センターが生まれた。その多くに図書室が設置され、女性の力になる情報が蓄積されている。「女性情報」とは、女性が抱える問題を解決するための情報で、女性センターでは、ジェンダーに敏感な視点で資料を収集している。
尼川さんは、女性センターの図書室の基礎をつくった一人。80年ころから女性と情報を結ぶ活動を続け、道なき道を手探りで開拓してきた。女性センターの図書室をつくっていく際、従来の図書分類では対応しにくい女性問題の資料の分類を構築し直し、ミニコミやチラシをきちんと資料として提供するなど、女性センターに必要な視点やノウハウを積み重ねてきた。
「人は、困ったときや先が見えないときに情報を求めるでしょう。本を飾ってあるだけじゃだめ。先人たちが残してきたものを結んでいく仕掛けを持つライブラリーをつくらなきゃ」
尼川さんは大学図書館に25年勤め、そこでライブラリアンとしてのノウハウやスキルを積み重ねた。また、20代のときには大学内に保育所をつくる運動を始め、事務局長を5年続けた。
熊本で育った尼川さんは思春期のころから「自分の人生、思うように伸び伸び生きたい」と思っていた。保育所運動にのめり込んだのは、保育所さえあれば、同僚たちも仕事や人生をあきらめずにすむ、自分の人生を生きたいはず!という一点だった。
支持を集めるためにリーフレットを作って配り歩き、資金集めのために廃品回収やバザーをした。そしてついに、大学内に保育室をつくることができた。
「でも、私が子どもを産んだときにはその保育室はつぶれてた。それで悟ったの、運動する人には恩恵はないって(笑)。あとの人のために、というくらいの気持ちで始めないとだめね」
神戸に住む尼川さんにとって95年の阪神・淡路大震災は大きな出来事だった。神戸の町を元に戻そう、早く復興しよう、というかけ声が大きくなるにつれ、尼川さんは「元の町が良かったんだろうか? これからのまちづくりをどうすればいいのか」という気持ちがわいてきた。
「震災後の神戸は、一種の高揚状態だった。女性は家の片づけをし、男性は今まで以上に働いた。性別役割分業が復活し、まちづくりもほとんど男性中心で進められた。それが一番我慢できなかった」
震災直後の2月初め、近くに住んでいた弁護士の長谷川京子さん、建築家の中川倶子さんと喫茶店で落ち合った。互いの無事を確認した後、震災後の町をこれからどうすればいいのか話し合い、「シンクタンクをつくろうよ!」と意気投合した。
「知恵をためて芽吹かせる」という意味を含ませた、「ウィメンズシンクタンク・ユイ」が誕生した。フォーラムを企画したり、行政にかかわっていったり、幅広い活動を続けてきた。そして多くの女性たちが「ユイ」から巣立っていった。
「震災になったら、地域でしか集まれないでしょ。だから地域にある資源が大切だって気づいた。それを使っていろんなことをやって、人間関係を耕して、それをまた町に還元していく。『ユイ』があったから、いろんなことを乗り越えてこれたよね」
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