Subject: [fem-events 352] 現代チベット小史(拷問被害者講演会参考)
From: "SAKAI Takayuki" <sakai175@mb.infoweb.ne.jp>
Date: Thu, 5 Oct 2000 00:38:34 +0900
Seq: 352

【転載歓迎】重複受信の方はご容赦を。

 アムネスティ日本のボランティアの坂井隆之です。

 別のメールでお知らせいたしましたとおり、中国支配下のチベットで政治的
・宗教的信念のために連行されて拷問を受けていた被害者を日本に招聘しま
す。 チベットの惨状はほとんど報道されることがありません。簡単に歴史を
振り返り、ご参考にしていただきたいと思います。かっての日本の朝鮮支配と
なんと似ていることでしょうか。

1)中国軍の侵攻から1959年の民族蜂起まで
2)共産化の押しつけと抵抗活動の圧殺
3)80年代後半の独立運動
4)90年代の徹底的な思想弾圧と拷問
5)問題解決の道

1)中国軍の侵攻から1959年の民族蜂起まで

 チベットは長い歴史をもつ中央アジアの独立国でした。国民の大部分があつ
い信仰をもつ仏教徒であることも知られています。仏教は国の柱でもありまし
た。

 しかし、1950年、成立したばかりの中華人民共和国が「チベットは中国の一
部である」と主張し、大軍をもってチベットに侵攻。チベット東部をたちまち
占領しました。チベット政府は国連に調停を申請しましたが、国連は各国の思
惑があって討議を延期。北京に呼ばれたチベット政府代表団は、本国との連絡
を絶たれたまま、中国が作成した協定書を前に「調印するか、それとも戦争継
続か」と脅迫され、調印を強いられ、1951年、チベットは中国に併合されまし
た。中国軍はチベットの首都ラサにも進駐してきました。

 協定書には、内政はチベット政府に任せることが明記されていましたが、協
定書はただの紙切れでした。中国の支配に反感を持つ者への容赦ない殺害、仏
教への迫害、中国軍が食糧を現地調達したことによる食糧難、中国軍と中国共
産党官僚の横暴。各地で抵抗活動が活発化しました。圧倒的な中国軍に対する
ゲリラ戦も展開されました。

 1959年3月、チベットの指導者ダライ・ラマ14世に対し、中国軍陣地から
「招待状」が来ました。「劇を上演するので観に来て下さい。ただし、護衛を
つけずに、たったひとりで来ること」。それまでにも、中国がダライ・ラマを
拉致するという懸念が広まっていました。チベット人の要人の暗殺・行方不明
も相次いで起きていました。この「招待状」が民衆の怒りを爆発させ、ついに
3月10日、首都ラサで3万の民衆が立ち上がりました。人々はダライ・ラマを守
ろうと、続々と広場に集まり、大通りに繰り出し、中国の圧政に抗議しまし
た。3月12日には女性たちが大きなデモに立ち上がりました。

 ラサ市内の各所で中国側と衝突が起きました。ダライ・ラマ14世は、自分が
これ以上チベットに留まっていると衝突が大きくなり、多くの命が失われてし
まうと考えて、17日にひそかに首都を脱出。2週間かけ、ヒマラヤを越えて、
インドへ亡命しました。当時、まだ24歳でした。しかし、彼の願いは空しく、
中国軍は広場の非武装の人々に対して無差別に機関銃を一斉射撃、流血の弾圧
を開始しました。3月10日の蜂起のすぐあと、中国軍はチベット中央部だけで
も8万7千人を殺害しました。10万の民衆がインド・ネパールへ脱出しました。
インド北部の町ダラムサラにチベット亡命政府が設立されました。(のちに、
3月10日は「チベット民族蜂起の日」として記念されるようになります。)

2)共産化の押しつけと抵抗活動の圧殺

 ダライ・ラマがいなくなったチベットで、中国は共産化を強行しました。

 チベットの精神的支柱は仏教です。各家庭は子どもが尼僧(女性)や僧(男
性)になることを誇りとし、国民のじつに20%が僧侶でした。チベットにはた
くさんの僧院があり、地域社会の支えとなり、学問の研鑽を積んだ僧侶が知識
階級を形成していました。

 寺院・僧院は凄まじい攻撃を受け、中国軍の砲撃・銃撃で次々に跡形もなく
破壊されました。チベット全土で僧院の99%が消滅しました。女性・男性を問
わず僧侶は追放され、抵抗すれば拷問と強制労働の果ての死が待っていまし
た。大勢のひとが強制労働キャンプに送られて、わずかな食糧で木材伐採など
の重労働をさせられ、次々と餓死・衰弱死していきました。

 悪名高い「批判集会」が頻繁に繰り返され、僧侶、仏教信仰の厚い者、「チ
ベットを解放してくれた中国に感謝しない」者は、群衆の前で激しく殴打さ
れ、糞尿を浴びせられました。殺生厳禁の戒律を知りつつ、僧侶に虫を殺させ
てみたり、女性と男性の僧侶を引きずり出して、群衆の前でセックスをさせま
した。そして彼らを殴打し石を投げるよう群衆に命じました。これが、中国共
産党のいう「旧弊の打破」「改革」でした。

 中国内地と同じデタラメな農業政策が押しつけられ、毎年、大勢のひとたち
が餓死に追い込まれま、総数は34万人以上に達しました。反感を示す者は容赦
なく監獄へ、強制労働キャンプへと送られ、拷問で命を奪われました。チベッ
ト人は信仰の自由を奪われ、言語の自由を奪われ、さらに、自分の国に居なが
ら、流入してくる中国人の下になり、二級市民とされました。

 ダライ・ラマ14世は積極的な非暴力主義を訴え続けていますが、こちらの非
暴力に対して相手が暴力を用いてくるとき、その暴力にも非暴力で対抗するこ
とは、ときに、あまりに困難なこともあります。中国侵攻以来、武器を取って
戦うひとたちも少なからずいました。しかし、チベットにはジャングルなどな
く、国際的な支援もなく、圧倒的な中国軍に対しては絶望的な戦いでした。ゲ
リラ戦は70年代までに全滅させられ、43万人以上が死にました。

 中国は内地と同様に公開処刑を「活用」し、大勢の群衆を動員して集会を開
いてから、銃殺刑を繰り返しました。80年代になっても、チベット亡命政府と
連絡を取っていた青年たちが次々と公開処刑されました。

 チベットの人口は約600万でしたが、チベット亡命政府は、そのうち120万人
が命を奪われた、と推計しています。監獄や強制労働キャンプでの死者(43万
人以上)、でたらめな農業政策による餓死者(34万人以上)、中国軍と戦った
戦死者(43万以上)。人口の5人にひとりが死にました。これは、ポル・ポト
政権下のカンボジアの民族虐殺と、ほぼ同じ割合になります。

3)80年代後半の独立運動

 80年代になると、一時的な「開放政策」で、制限の中にありながらも、生き
残っていた僧侶たちが寺へ戻ることを許され、ひとびとは力を合わせ、破壊さ
れた寺院の再建を始めました。

 また中国当局が外国人のチベット旅行を解禁しました。チベットを訪れた外
国人は、チベット各地で寺院・僧院が無惨に破壊されて廃墟と化している異様
な様子、これまで細々と伝えられてきた民衆の惨状を確認し、海外でチベット
の人権問題への関心が高まりました。また、ダライ・ラマ14世が外国人にも広
く信望を集めていることが、チベット人にも伝わりました。

 中国当局が融和策のために受け入れたチベット亡命政府からの訪問団の一行
は、中国当局の厳しい規制にもかかわらず、民衆の熱狂的な歓迎を受けまし
た。チベット民衆の間で、打ちひしがれていた民族意識が勇気づけられまし
た。

 こうして、あまりに人命を粗末にしてきた中国政府の圧政に対する怒りが、
再び押さえ難いものとなってきました。

 1987年9月、ダライ・ラマ14世はワシントンを訪問。アメリカ議会下院人権
問題小委員会でスピーチし、チベット問題の平和的解決のために交渉を開始す
るよう、中国政府に呼びかけました。しかし、中国政府は「チベット人民はみ
な幸せに暮らしている」、分裂主義者と交渉の余地はないなどと大量宣伝を展
開し、交渉提案を拒否・・・。

 首都ラサに緊張が走りました。9月27日、チベット仏教の総本山・ジョカン
寺の門前で僧侶たちがデモに立ち上がり、逮捕。そして10月1日には、2000人
の民衆が蜂起しました。

 チベットでは、戦死・餓死・拷問死などで人口の5人にひとりが他界してい
ます。家族を失っていないひとはほとんどいません。中国に逆らえばどんな過
酷な運命が待っているか、みな知っています。それでも、ひとびとは次々に街
頭に繰り出して来ました。口々に「チベットに自由を!」「チベット独立万歳
!」「ダライ・ラマ法王万歳!」と声をあげ、行進しました。ひとびとは警察
に押しかけ、逮捕されていた僧侶を解放しました。

 しかし中国側は黙っていませんでした。非武装の民衆に対して、容赦なく実
弾を射撃してきました。生き残った者は引きずられてトラックで連行され、激
しい拷問を受けました。1987年10月だけで、600人が連行されました。

 1988年3月5日には、さらに大きな蜂起が起こりました。中国側はためらわず
に実弾を射撃し、流血の弾圧を行いました。ひとびとが総本山の寺に逃げ込む
と、突入して無差別に実弾を発砲し、総本山は血の海となりました。僧侶が目
をくり抜かれて建物の屋上から突き落とされて死にました。

 どれだけのひとが殺され、拷問されたことでしょうか。それでも、デモは数
回にわたって大規模に繰り返されました。1989年3月、ついに中国は戒厳令を
布告。軍を前面に出して、徹底的な弾圧が展開されました。総本山の門前では
200人が虐殺されました。中国当局は疑わしい人物の家には夜中に片っ端から
押し入り、有無を言わさず連行しました。

 「毎夜、どこからか悲鳴が聞こえてくる」。当時のラサの恐怖はこのように
伝えられました(なお、北京の天安門広場で青年たちが虐殺されたのは1989年
6月)。戒厳令は1990年5月に解除されましたが、徹底した弾圧は続いていま
す。「チベット自治区政府」にはチベット人幹部が増えましたが、実権はあり
ません。

 夜間の連行は日本人旅行者にも目撃されています。監獄や強制労働キャンプ
の惨状は、是非、生き残ったひとたちの証言に接していただきたいと思いま
す。

4)90年代の徹底的な思想弾圧と拷問

 90年代に入って、大量の中国人がチベットに流入してきました。人口構成の
激変が起こりました。もともとチベット高原は人口の少ないところです。中国
人の大量流入で、首都ラサはもちろん、チベット全体で、すでにチベット人が
少数派に転落してしまいました。そればかりか、職を奪われて失業するチベッ
ト人が続出しています。

 90年代、中国当局は、抵抗活動への徹底的な弾圧と平行して、「愛国教育」
「愛国キャンペーン」という思想統制を強化。わずかに残った寺院・僧院の中
にも公安警察の事務所が設置されました。僧侶には共産党の思想学習が義務づ
けられ、そこではダライ・ラマを罵らなければなりません。僧侶の中にスパイ
を多数送り込んでおり、中国支配に反発する発言は直ちに公安に通報されま
す。

 いま、チベットは、ほぼ完全に中国当局に封じ込められて、息もできない状
態です。組織的抵抗活動は不可能な状況です。散発的に、ほんの数人が「チ
ベットに自由を」と叫んでデモをし、たちまち公安警察に殴り倒されて連行さ
れるだけです。チベット人には、「中国共産党の支配を受ける少数民族」とし
て何をされても従順になるか、監獄・強制収容所で拷問に苦しんで息絶える
か、命がけでヒマラヤを越えて亡命するか、いずれかの選択肢しかありませ
ん。監獄から生きて出られたひとも、職がないばかりか、毎日、警察に呼ば
れ、何をしていたか、誰と会ったのか、執拗に調べられ、精神的に追いつめら
れ、亡命するしかない状態に追い込まれています。

 さらに、現地からの情報では、今年(西暦2000年)は、「文化大革命の再
来」と言われるほど思想弾圧が荒れ狂っています。公安警察が民家を抜き打ち
に回って、部屋に飾ってある仏壇・仏像・仏画の撤去を命令しています。そこ
までやっています。(みなさんの家に、夜、急に公安警察がやって来て、みな
さんが心の支えにしている大事な物を指して「捨てろ」と命令することとを想
像してほしいのです。)公安に逆らえば、よくない運命が待っているだけで
す。

 宗教的・政治的な理由で、いまも数千人が拘禁され、拷問を受けています。

 また、最後に触れておきたいことは、軍の駐留のことです。チベットを制圧
するために、またインドに対抗するために、チベットには中国軍の大軍が駐留
しています。総数は30万から50万と言われています。これだけの軍隊が駐
留することが、チベットの女性にどのような苦しみをもたらすか。多くを語る
必要はないと思います。

5)問題解決の道

 ダライ・ラマ14世は、「チベットの『独立』は求めない。中国の枠に留ま
り、外交と国防は中国に任せる。内政の権限はチベットの手に返してほしい」
と提案しています。これは、チベット人リーダーの意見としては、かなり穏健
です。完全独立を求める意見のほうが強いのです。彼は、民衆の苦しみを終わ
らせるためには、独立にこだわるべきではないと考えています。

 彼は、チベット民衆には、「自分の信念を表明して拷問されるよりは、嘘を
ついてかまわない」とメッセージを送っています。抵抗のあり方についても、
「暴力からは何も生まれない」と非暴力主義を強く訴えています。国際政治に
ついては、アジア2大国(インドと中国)の間の緩衝地帯として、平和宣言を
したネパール政府と協力して、中央アジアの平和地帯を作りたい、と述べてい
ます。

 チベット問題の平和解決のためには、中国はダライ・ラマ14世と交渉するし
かありません。完全独立の回復を求める亡命チベット人リーダーや支援者をお
さえて、チベット側に譲歩させて何とか解決を図るには、ダライ・ラマ14世の
絶大な影響力なくしては、まず無理です。しかし、中国政府はダライ・ラマと
の交渉を拒否したままです。

 おそらく中国は、彼が死ぬのを待っているのでしょう。ダライ・ラマ14世が
死ねば、チベット人は求心力を失い、亡命チベット人たちの抵抗運動は四分五
裂して弱体化する、外国からの支援も激減する。あとはチベット国内で徹底的
な弾圧と思想教育をすれば、やがては「従順な少数民族」になる。それが中国
政府の考える「チベット人問題の最終解決」なのでしょう。

 90年代になって僕がチベットを訪れたとき、町中で目を光らせる公安筋の数
があまりに多かったことを思い出します。北京よりもピョンヤンよりも多かっ
た。中国軍の駐屯地が市内にあり、毎朝、軍人たちが掛け声かけて市内を行
進。町の一等地には中国人の経営する商店やホテル・・・。

 歴史的には、チベットと中国は、千年も前には戦争をしていましたが、その
後は持ちつ持たれつ、それなりにうまくやってきました。中国政府が歴史に学
んで、賢明な道を歩んでほしいと思います。その日が来るまで、拷問で命を奪
われるひとがひとりでも減るように、同じアジアの片隅に住む者のひとりとし
て、心掛けたいと思うばかりです。

(なお、「チベット側・中国側の主張を比較したい」という方もおられるで
しょう。手近なものでは、『地球の歩き方』のチベット編に、双方の主張を年
代順に併記したわかりやすい年表があります。)









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