「脱ゴ−マニズム宣言」裁判 控訴審

控訴人/小林よしのり 提出書面

「原判決取消の理由書」に徹底的に反論する

 

横山好雄・「脱ゴ−宣裁判」を楽しむ会

 

----------------------------------------------------------------------はじめに

 上杉聰氏、及び東方出版の「完全勝訴」で第一審を終えた『「脱ゴ−宣」裁判』。

往生際の悪い(笑)小林よしのりさんの控訴により、高裁の裁判官の手をも煩わせる

事となりました。ゴメンね。

昨年11/9に行われた第一回口頭弁論では、小林氏より、大部な控訴趣意書が提出

され、明けて1/18、それに対する上杉氏側からの反論をもって、さあ、いよいよ

本格的な論戦の第二部が始まります。一審判決に溜飲を下げた方も、相も変わらず

「103章」をまんま信じて悔しいお正月を迎えた「よしりん信者」の方々も、どう

ぞ変わらぬご注目を。「楽しむ会」を代表して心よりお願い申し上げます。本年も皆

様に幸多からんことを。なんちゃって。

さて、現時点では、私はまだ上杉氏側の書面の内容については知りません。とても楽

しみにしている状態であります。去年の忘年会で高橋弁護士には、「めっちゃ期待し

てますよ」とプレッシャ−をかけときました(笑)。

 

 私は、控訴審における控訴人書面のタイトルというものは、例外なく「控訴趣意

書」というのかと思っとりました。今回提出された小林氏の書面は、「原判決取消の

理由書」というタイトル。別に何でもよかったんですね。この先、もし私が裁判の原

告になるような事があったら、絶対「本人訴訟」にして、訴状のタイトルは「わしが

〇〇ぴゃんを訴えた理由書」ってしよう。硬派路線なら、「全〇〇の為に司法を敵に

回しても訴える理由書」だな。決まり。・・・・・・。「決まり」じゃねえよ

(笑)。

 冗談はさておき、今回はこの「理由書」に反論しておきます。

前もって断っておきますが、以下の拙稿はもちろん私自身をしか代表しません。「楽

しむ会」の見解とは何の関係もありませんし、当然、上杉氏側の訴訟方針とも一切関

係が無い。小林信者の方、そのへん勘違い無きよう。(ったく、こんな断り書きまで

させんなよ。)

 

 さてと。反論の方法なんですが、見出し、小見出し等は小林氏の「理由書」に準じ

ましょう。思いっきり大まかな「要約」と、「引用」をもって小林氏の主張を紹介

し、それと対応させる形で私の反論を綴ります。(要約だけの箇所もあります。)

 その際、要約は《 》で示し、引用は[ ]で示します。

(改行は略。今回も、原告・被告ともに、基本的に敬称は略します。なお文中、私の

使う「カット」「絵」の両表現には概念上の別はあまりありません。気分かな。)

 では、ご笑覧下さい。

【注】当初、前・後半に分けて掲載する予定だったのですが、事情により、同時公表

となりました。

 

第一 引用について

 

T 総論

 

一 はじめに

 

《確かに著作権法は著作権者の承諾を得ない「引用」を認めているが、それは無制限

では有り得ず、著作権の保護と公正な利用とのバランス上にのみ許されるものであ

り、「正当な範囲内」でなければならない。その為にはカットを批判・批評する文章

と当該カットとの間に「主従関係」(付従性)が認められなければならないが、被控

訴人書籍を個別検討すると、批評文章を「主」とし、カットを「従」とする関係には

なっていないことが明らかである。》

 

◆ ふーん、なるほど。

 一審でもまさにそれが争われ、一点の曇なく上杉側の主張が認められたわけだ。さ

あ、問題は一審とは別の切り口の新見解(新証拠)をどこまで披瀝することができる

か、そしてそれが裁判所を(勿論、私をも)納得させられるだけのレベルに達してい

るものなのかにある。[以下、この点について詳論する]らしいので、聞いてみまし

ょ。

 

◆ その前に、「正当な範囲内」について簡単に。

 よく、「引用の目的上正当な範囲内」(三十二条)を「必要最小限」と同義に捉え

てしまい、取りあえずは「『全部引用』は出来ないんだな」と思い込んでいる人が多

い。又そう公言する人もこれまた多いのだが、こういう人に限って、「俳句や短歌は

例外」などと自信満々に言ったりもする。「法」なんだから例外なんてありませんっ

て。引用の「要件」さえ外さないのなら、他者の著作物を丸々全部引用したって一向

に構わない。例えそれが漫画でも。『ゴ−宣』だろうが『戦争論』だろうが、それが

自身の論説に必要ならば、要件を厳守しつつ堂々と全部(全コマ)でも引用すればい

い。

 「倫理」面から言えば、どうなのか、と思う人もいるだろうが、しかし仮に百コマ

の作品で、全コマに嘘や歪曲を交えて自分が中傷されたとすればそんな呑気なことも

言っては言られまい。百コマ全てを引用する必然/必要性は、一コマ毎に対応して書

かれる自分の「主」の文章に必ず表れる筈だ。すれば、読む人をして納得もさせられ

るだろう。又それ位の気概や覚悟がないのなら、例え一コマであれ、他者の著作物の

引用などすべきではない。そう思いません?。

 

二 主従関係とは

 

《注:ここでは、「藤田嗣治絵画複製事件」(「103章/反論」参照)の控訴審判

決を要約している。》

 

◆ ホントにしつこいようだが、非常に重要な判決なので、もう一度だけ(小林要約

より前後長めに)引用しておく。

[(略)また「公正な慣行に合致し」、かつ、「引用の目的上正当な範囲内で行なわ

れる」ことという要件は、著作権の保護を全うしつつ、社会の文化的所産としての著

作物の公正な利用を可能ならしめようとする同条の規定の趣旨に鑑みれば、全体とし

ての著作物において、その表現形式上、引用して利用する側の著作物と引用されて利

用される側の著作物とを明瞭に区別して認識することができること及び右両著作物の

間に前者が主、後者が従の関係があると認められることを要すると解すべきである。

そして、右主従関係は、両著作物の関係を、引用の目的、両著作物のそれぞれの性

質、内容及び分量並びに被引用著作物の採録の方法、態様などの諸点にわたって確定

した事実関係に基づき、かつ、当該著作物が想定する読者の一般的観念に照らし、引

用著作物が全体の中で主体性を保持し、被引用著作物が引用著作物の内容を補足説明

し、あるいはその例証、参考資料を提供するなど引用著作物に対し付従的な性質を有

しているにすぎないと認められるかどうかを判断して決すべきものであり、このこと

は本件におけるように引用著作物が言語著作物であり、被引用著作物が美術著作物で

ある場合も同様であって、(略)] ふぅっ。

 

《ここで重要なのは、「引用著作物が全体の中で主体性を保持」していなければなら

ないということである。本件でいえば、カット批評を内容とし、それ自体独立した読

み物として主体的に成立する文章が厳然と存在することが必要不可欠である。つま

り、カットがなくても、文章だけで独自主体的に成り立つ実体がなければならず、カ

ットなくしては文章がつながらず独自に成り立たないのでは、カットとの関係におい

て「主」だとは認められない。》

 

◆ 小林代理人弁護士は原審判決後、相当悩んだに違いない。一審での小林主張をい

ったん全て白紙に戻し、全く別の新たな主張をひねり出すか、ある程度一審主張に依

拠しつつ、再度検討し直したらこんな違法性が上杉側に見つかったと主張するか。こ

こでの主張は前者に相当する。

[カットに依存し、カットなくしては文章がつながらず、独自に成り立ち得ないよう

な文章では、カットとの関係において「主」とは認められない]のだそうだ。おかし

いなぁ。

 一審での小林主張は、「上杉が引用したいのはカットの中の文字部分のみであり、

そのことは採録されたカットの前後の文章を見れば一目瞭然」というものだった。つ

まり、カットごと引用しなくても、ネ−ム部分だけで「上杉の文章は支障なくつなが

っていくじゃねえか」ということだ。訴状ではこう述べられている。

[試みに、被告書籍において無断転載された多数の「カット」から「文字」のみを残

し「絵」を全て取り去ってしまっても、何らの支障無く被告の文章はつながってい

く]。

昨年1/20付、原告「準備書面三」からも引いておく。

[例えば、被告書籍六〇頁下段部分を、次のように文字だけ引用表現してみる。「慰

安所の効用について、よしりんは『慰安所が秩序を取り戻し現地の民間人への暴行を

防ぐ唯一の手段なのだ』(新ゴ−マニズム宣言二六章)と言う。だとすると、慰安所

は「秩序あるレイプ」の場ではなかったのかい?」

実にスム−ズに文章はつながり、流れていく。そこでは、引用が冗長になることも、

主観が入ることも一切なく、前提としての情報共有は完全であり、反論も言い尽くさ

れている。]

では、これら一審で展開されていた「論理」を、先の小林さん主張に当てはめてみま

しょう。「ネ−ムに依存し、ネ−ムなくしては文章がつながらず、独自に成り立ち得

ないような文章では、ネ−ムとの関係において「主」とは認められない」。ではこれ

を今挙げた引用箇所に当てはめてみましょう。依存しないよう、引用されたネ−ム部

分をはずします。「慰安所の効用について、よしりんは と言う。だとすると、慰安

所は「秩序あるレイプ」の場ではなかったのかい?」。なんじゃらほい。もうお判り

ですよね。ここでの小林主張がいかに意味のないものか。

 ここで小林は自身の一審主張と全く正反対の「論理」をひねり出した。一審の段階

では、小林は、「絵」と「ネ−ム」の分離可能性を主張していたのだから、ネ−ムの

みの引用が「スム−ズにつながる」ことをもって自身の主張とすることに何ら矛盾は

なかった。しかし判決では、上杉側主張の「不可分性」が認められてしまったわけ

だ。それは、仮にネ−ムのみが欲しい場合でも、正確を期する為にカットごと引用し

たって別に違法じゃないよ、ってこと。

 「整合性」から言えば、今まで良しとしてきたネ−ムの引用に絵がついただけなの

だから「スム−ズさ」においては何らの変化もない。つまり、私に言わせれば、「文

章としては小林さんが言うようにスム−ズに読め、なおかつ絵も入ってるから理解も

しやすい。お互い意図したとおりの判決でよかったネ。これからは仲良くしようぜ

(笑)」ということだ。

 しかし、あくまで「絵の引用は認められない」旨主張せざるを得ない小林は、整合

性などかなぐり捨て真反対の意見にすがった。あぁ・・・、カリスマはつらい。私な

らさっさと誤りを認めて謝っちゃうけどなぁ。

しかし、こんなものが「論理」としてホントに成り立っているのだろうか。カットの

引用が挟まれて書かれている文章を指して、「ここからカットを外したら君の文章は

独自には成り立たないよ」って言われてもなぁ(笑)。レトリックにしてもちょっと

ひど過ぎるんじゃない?。もし私ならどう答えるだろう。「だってカットの引用が挟

まれて書かれてるんだもん」、くらいかな(笑)。

 

◆ 議論の前提を整理しておく。

 先ず確認するが、一審判決は明確に漫画における「絵と文の不可分一体性」を認め

た。これが大前提ではあるが、だからと言って常に一体で引用しなければならないわ

けではないし、当然「同一性保持権侵害」になるわけでもない。要は引用者の主観、

判断、意図等によって自由に決すればいいだけだ。(詳しくは拙稿「103章/反

論」を読んでちょ。)

次に「引用」。どうも小林は引用の類型(パタ−ン)が解っていないらしい。なん

せ、[カットなくしては文章がつながらず]だからさ(笑)。

 引用の種類は三パタ−ンに絞られる(私見)。

 一つ目。他者の「著作物」を先ずそのまま引いてくる。その上で、「批評・論評」

「反論・批判」等、自由に俎上にのせるやり方。これは自分の著作部分と、被引用者

の著作部分とが別個独立した状態で著されている。一例を挙げれば、『教科書が教え

ない小林よしのり』(ロフトブックス)の中で、松沢呉一氏と宅八郎氏が「切通(弱

虫毛虫)理作」の爆発原稿をぶった切ったやり方がそれに当たる。・・・(複製型、

独立型)

二つ目。自身の論理に援用したり、その補強の為、また逆に、批判・反対意見の紹介

等の目的で自分の著作物中に他者の著作物をはめ込むやり方。例えば。「今私が述べ

たことについては、バカダ大学のバカボンパパ教授も、『それでいいのだ。反対の賛

成なのだ』(「バカボンを育てて」27頁)と述べておられ大いに励まされた。また

私への反論としては、同大学のピノコ助教授が自著「生まれ変わった私」の中でこう

述べている。『アッチョンブリケ』(36頁)。この点は真摯に受けとめたいと思

う」。こんなの(笑)。一般的には、これが一番多いパタ−ンかもしれない。・・・

(取り込み型)

三つ目。完全に相手に同意した時などによく使われる。皮肉を込めて、論争相手にそ

っくり返すようなパタ−ンも多いっすね。これは、他者の言であることを示しながら

も一言一句自身の言として語ってしまうやり方。あえて「取り込み型」と明確に分け

る必要があるのかとも思うが、やはり別物と考えた方がよいでしょう。私自身の例か

ら。「103章/反論」の中でこんなふうに使ってます。【もう一点、この判決で重

要な箇所は、「付従的な性質を有しているにすぎない」という所。[主従関係の判断

において考慮すべき要素をより具体的に記述し、「付従的な性質」という質的な観点

から判断すべきことを明らかにしている]。(前記『著作権判例百選/198

7』)】・・・(融合型)

 

◆ 今挙げた引用の類型を小林主張に当てはめて考えてみましょう。[カットに依存

し、カットなくしては文章がつながらず、独自に成り立ち得ないような文章では、カ

ットとの関係において「主」とは認められない]。カットなる表現は「被引用著作

物」とある意味同義ですから、小林のここでの主張は「取り込み型」「融合型」の引

用を全否定していることになる。「複製型」以外の引用は、被引用著作物なくしては

引用者の文章はつながらないし、独自にも成り立ち得ないのだから。

 小林がこの主張を通す為には、「取り込み型」「融合型」において、これらの類型

は引用とは認められない旨立証しなければならないのではないか。こりゃ、大変だ。

よし、これ、「求釈明」ね。

 全く、こんな引用の認識で「主従関係」を語られたのではたまったものではない。

稚拙過ぎるにも程がある。

◆ ここでの主張においてはカットなる表現はされていても、[文章がつながらず]

の部分に明らかなとおり、ネ−ムのこと以外の何ものも語ってはいない。「ネ−ムに

依存し、ネ−ムなくしては文章がつながらず、独自に成り立ち得ないような文章で

は、ネ−ムとの関係において主とは認められない」の方が、言ってる意味内容から考

えれば全然自然でしょ(笑)。事実、一審主張ではそう言ってたんだし。[そのカッ

トに書かれたネ−ムのみを抜き書きすれば足り](前記「準備書面三)とか、[カッ

トの中のネ−ムの一部が被告書籍に文字で引用されており](同)とかね。

 「カット」なる表現で、ネ−ムという言葉は出さずに、でも内容はネ−ムについて

のことを語る。これで一見、一審判決の「絵と文の不可分性」をある程度認めたかに

見せながら、本来はネ−ムだけの問題である所の「文章のつながり」をもって「カッ

トなくしてはつながらず」とカットにすり替える。結果、[カットとの関係において

「主」とは認められない]と言う。絵に描いた様な詭弁。『ゴ−宣』でこういうこと

やられると、読解力の足りない小林信者なんかは簡単に騙されちゃうんだよね。

なぜ「ネ−ム」なる言葉を避けるのか?。答えはもう言いましたね。

 

《他方、「従」たる被引用カットは付従的な性質を越えてはならず、カット自体が独

自性・独立性を主張してはいけない。もし読者が先ずカットに目を奪われたり、カッ

ト自体から著作者の意見やメッセ−ジを感得してしまうようならとうてい「従」とは

言えない。》

 

◆ これでは多かれ少なかれ「美術作品」の引用は不可能だ。文と絵なら、恐らく誰

だって先ず絵の方に目を奪われる(笑)。しかしこんな理屈は引用の要件とは全く無

関係ですな。  後の部分はいわゆる「藤田事件」での論点の一つ、「鑑賞性」の問

題を言いたいのかもしれない。これも、後述ということで。

 

◆ また、こうも述べられている。「従」たる被引用カットは付従的な性質を有して

いるに過ぎないものでなければならず、[(略)あくまで文章に従属して付加され、

その読者に対し、文章の理解を助ける補助的情報を提供する程度に止まらなければな

らない]。

 ・・・・・?。どうも小林という男、その引用が「どういう目的で行われる引用な

のか」といった観点が全く欠如している。

ちよっとここで「パロディ事件」判決を復習しておこう。急がば回れ。

[引用とは、紹介、参照、論評その他の目的で自己の著作物中に他人の著作物の原則

として一部を採録することをいうと解するのが相当であるから、右引用にあたるとい

うためには、引用を含む著作物の表現形式上、引用して利用する側の著作物と、引用

されて利用される側の著作物とを明瞭に区別して認識することができ、かつ、右両著

作物の間に前者が主、後者が従の関係があると認められる場合でなければならないと

いうべきであり、(略)引用される側の著作物の著作者人格権を侵害するような態様

でする引用は許されない。]

 ふぅっ。(ちなみにこの判決は旧法上のものなので「節録引用」しか認めておら

ず、[原則として一部を採録すること]表現されている。が、現著作権法において改

められた。)

 小林の言う、[あくまで文章に従属して付加され、その読者に対し、文章の理解を

助ける補助的情報を提供する程度に止まらなければならない]タイプの引用、それは

この判決に言う「紹介、参照」を目的として為される引用だろう。先に、「取り込み

型」の例として挙げた文章で検討してみる。例文はふざけてるけど(笑)。

 「今私が述べたことについては、バカダ大学のバカボンパパ教授も、『それでいい

のだ。反対の賛成なのだ』(「バカボンを育てて」27頁)と述べておられ大いに励

まされた。また私への反論としては、同大学のピノコ助教授が自著「生まれ変わった

私」の中でこう述べている。『アッチョンブリケ』(36頁)。この点は真摯に受け

とめたいと思う」。

 「今私が述べたこと」(仮にA)が、当然ながらここで含意されている「主」の文

になる(これは異論無いですよね)。そして、この時ここでされている引用、これら

は「Aの理解を助け、補助的情報を提供する程度」で何等差し支えないし、実際その

ような目的でされている引用だ。Aに近いバカボンパパの意見を「紹介」してまた違

った面からAへの理解を促し、しかし、反対論もあること(補助的情報)を示す為に

ピノコの意見も「参照」してもらう。こういった「紹介、参照」目的の引用では、A

に関連する箇所以外を引く必然性は全く無いし、目的から言っても、「同一性」を保

持する範囲での「必要最小限」であるべきだ。つまり、[あくまで文章に従属して付

加され、その読者に対し、文章の理解を助ける補助的情報を提供する程度に止まらな

ければならない](「融合型」ね)。

 しかし、もしこの文章全体が「複製型」の類型をもって書かれているとすれば、ま

た状況は変わってくる。その場合、「主」の文であるAの前段に「従」たる被引用文

(漫画カットでも)が引用されている筈だ。こうなると、[あくまで文章に従属して

付加され]だの、[補助的情報を提供する程度]だのと言った論理は、どんな引用に

でも無条件に当てはまる概念ではないことがお解り頂けるだろう。

 

◆ ちょっと横道。

 今述べた「必要最小限」は、「全部引用可能」と何等矛盾するものではないので勘

違いしないでね。為される引用の目的によって出来る場合と出来ない場合とがある、

それだけのこと。「引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならな

い」、この三十二条は、そういう意味として理解するべき。

 「論評」と、「紹介、参照」では、その目的において自ずと違うように、多用され

る類型もまた違うことが多い。「論評」を目的に「複製型」で行う場合、全文(全コ

マ)引用したってそれは全然構わない(要件遵守)。しかし、「紹介」目的での全部

引用なんて、普通ちょっと有り得ないでしょ。だから「目的」上、「正当な範囲内」

でやりなさいって言ってるわけ。明快だ。議論を呼ぶ箇所なんて全然無い。

 ついでだから、引用の「要件」についても触れておこう。

1.「公表された著作物であること」 

2.「明瞭に区別して認識できること(明瞭区分性)」 

3.「主従関係(付従性)」 

4.「出所明示」

 この四件である。要件としてはこの四件以外には無い。もしこれ以外に「要件」と

して為されている説明があれば、それは大方「主従関係(付従性)」での判断に含ま

れる。

よく、「引用するには必然性がなければならない」といった説明を見るが、ここに言

う必然性とは「広義」のそれである。例えば、『脱ゴ−宣』において『ゴ−宣』から

の小林画を引用するのは明らかな必然性がある。でも、突然『あしたのジョ−』から

の引用が混じってれば、何で?、ってことになりますよね。それ位広い意味での必然

性。本屋さんで、「雑誌のコ−ナ−はどこですか」と聞く類の必然性のこと。そこ

で、「野菜はどこに置いてますか?」って聞く人はいないでしょ。必然性が無いも

の。

 逆に「狭義」の必然性とは、引用者の文章に対して、そこでそのカットが引用され

たことの必然性という意味。そしてこの「狭義の必然性」は、まさに「主従関係(付

従性)」の中で判断すべきことで、一方で引用の要件として「主従関係」を挙げなが

ら、もう一方で「必然性があること」なんて言い方をするからややこしくなる。はっ

きり言えば、広義にしろ狭義にしろ、必然性なんていう概念は全て「主従関係(付従

性)」の判断の中に含まれるということで、別記する必要などないのだ。

 「引用の要件」とは先の四件である。

 

◆ 以上論証してきたように(寄り道も多かったけど)、今回の小林の「理由書」

は、引用の「目的」も、「類型」も、一切観念しないまま、その場その場で都合のい

い理屈を当てはめているだけだ。

 そこら中で綻びが露呈するのも無理はない。

 

《「主」と「従」という場合、両者同等よりやや勝っているという程度では「主従」

とは言えない筈であり、量的・質的側面や引用手法等から見て前者が後者に対して圧

倒的優位になければならない。》

 

◆ 何をもって圧倒的優位を判断すればいいのか、あたしゃ皆目わからん。質的な

面、引用手法に関しては同意するが、「量」って何だよ。だいたい絵に対して文章の

場合、量的な判断はどうすればいいの?。

 

◆ 私は「主従関係」の判断において量的な側面はさほど重要だとは思っていない

(勿論、完全にゼロでもないっすよ)。文章同士なら文字数、音楽の中で他楽曲を引

用する場合なら小節数、絵の中に絵(写真の中に写真)なら単純に大きさ、つまり同

種のものなら比較可能だとしても、こんなもの何か意味あります?。逆に言えば、比

較不可能な異種間の引用が有り得る以上、こんなことを判断の基準に用いてはいけな

いのではないかと思う時すらある。

同種間にしたってそうなのだ。仮に文章の場合、三十行の引用に対して百五十行で論

評すれば無条件にOKなのかと言えば、そんなワケはない。逆に、百五十行の引用を

たった十行で批評しても完璧な主従関係にあるものだって存在するだろう。(例えば

「論争」においてよく、自分の「誤読」を基に延々相手を批判したり、間違った情報

(認識)に依拠して延々自説を展開するような人がいたりする。こういった場合、そ

の誤読を指摘し、また真の情報を提示するだけで十分「主」足り得、その時に自分に

向けられた「相手からの批判」、また「彼の自説」を全て引用することには十分な必

然性が生じる。例えその割合が一:百だとしても。)

量的な検討にさして意味のないことがお解り頂けると思う。先に「融合型」の例とし

て挙げた文章にあるように、質的な観点からの判断(付従性)が最も重要なことなの

だ。

(これは私の勝手な解釈だと自認しつつ言うのだが、どうも「藤田事件」の判決も

「量」的なことにはさほどの重要性をおいていないのではないか。普通、重要なもの

から挙げますよね?。さりとて「要らない」とも言えないし・・・。皆さん、これ読

んでどう思います?。

[右主従関係は、両著作物の関係を、引用の目的、両著作物のそれぞれの性質、内容

及び分量並びに被引用著作物の採録の方法、態様などの諸点にわたって確定した事実

関係に基づき、]。)

 

◆ 「量」的な視点が無意味だと思う理由の一つに、著作権法上保護される著作物が

「無体物」だということがある。これは踏み込むと相当にややこしく、また、それな

りの長さも費やしそうなので今回は触れない。だったら書くなという話か。

 ただ、「103章」で小林が、[しかし文章は「活字」であり読者の目に触れるの

は編集者が貼った「写植文字」である]、[「活字」は著者の作品ではない]なん

て、これ以上ないほど大馬鹿なことをぬかしていたのを思い出したので、この点だけ

は正しておこうと思う。「違いますよ」、終わり(笑)。

「無体物」という概念が解っている人ならば、ここ(103章)での小林「論理」が

いかに幼稚なものかは理解できる筈。また同時に、「無体物」同士の「量」的な比較

に、私が何となく抱いている疑義についても、多少は共有して頂けるのではないかと

信ずる。

 

三 原判決における主従関係の認定

 

《略》

 

《原判決はわずかこれだけの理由で(前1)、しかも一つ一つのカットと対応する文

章との間の「主従関係」を一切検討せず、極めて概括的・抽象的に五七カット全ての

主従関係を認めた。不合理、不公平な認定と言う他ない。》

 

《以下本件における主従関係を、@引用の目的、A両著作物の性質・内容、B分量、

C採録の方法・態様、等の諸点に分け検討する。》

 

四 引用の目的

 

《『脱ゴ−宣』における控訴人カットの採録は、控訴人漫画に対する批評を目的とし

ているということであるが(原判決)、それを「主従関係」との関連で言うと、前提

として批評する被控訴人の文章がまず主体的独立に存在し、云々かんぬん。しかりと

すれば(「しかり」じゃねえよ−筆者)、被控訴人自身が書く代わりにカットをして

語らしめ、もってカットを本文の構成要素として使う「目的」で採録する場合はもは

や「従」とは認められないと言うべきである。》

《その場合においては、本文作成の手間を省く「目的」(!−筆者)、さらには後記

のようなカットの持つ商品価値やアイキャッチ力を借用する「目的」(!!−筆者)

の方が強いのである。》

 

◆ 前者については先述のとおり。ご丁寧に、「カットをして語らしめる」為の採録

だとして、三二カットを提示してくれている。この三二カットについて、一審ではど

のように主張されていたのかを検討するのも面白いとは思うが、先も長いし(笑)こ

こではやんない。

それより後者の「商品価値やアイキャッチ力」の主張の方に断然興味が湧きますね。

何て言うんだろう、ワクワク。

 

五 両著作物のそれぞれの性質・内容

 

 ここは面白いので全文引用する。

[原判決は、「一話完結の原告漫画のごく一部に過ぎず、カットはそれ自体が独立の

漫画として読み物になるものではない」とする。

 カットに独自の存在価値を認めないことで、本文との関係で「従」たるものとし、

もって本件引用を適法と認定しようとしたものである。

 確かに、一話完結の作品のみを「読み物」ととらえるなら、カットは「読み物」で

はない。しかしそうだとすると、あらゆる漫画作品は、一話丸ごと採録しない限り、

カットごとに分断して採録しさえすれば、自由勝手に無制限に無償利用できることに

なる。原判決はそのような卑劣な「フリ−ライド」を広範に許容する趣旨なのであろ

うか。明らかに不合理である。]

 

◆ なーに言ってんだか。全然理解できません。[一話丸ごと採録しない限り、カッ

トごとに分断して採録しさえすれば、自由勝手に無制限に無償利用できることにな

る]、これって「引用」のこと語ってんの?、「無断転載」のこと語ってんの?。

今あなたと上杉側が争っているのは何についてのことなの?(笑)。

《原判決は、カットの持つ独自の存在価値に気づいていない所に根本的誤りがある。

原判決のような認定は、文字対文字の引用関係には当てはまるであろう。またもし、

被控訴人がネ−ム部分のみを引用していたならば、「それ自体が独立の漫画として読

み物になるものではない」との認定も説得力を持ったであろう。しかし本件はそうで

はない。漫画カットは、「商品価値」「情報量」の二点において文字著作物の一文節

とは明らかに本質を異にしている。》

 

3 漫画カットの商品価値(経済的メリット)

《出版業界では、漫画カットを「引用」する場合、必ず事前に一カットごと細かく使

用許可を申請し、許可を得た場合にだけその「引用」を行っている。当然一定の使用

料を支払い、丸Cマ−クを必ず表示し、かつ出典も明示する。》

 

◆ [これが出版業界の一般常識]なんだそうである。

 だ、か、ら、それは著作権法に言う「引用」って言わないんだってば。日常語とし

て、一般的に使用されてる「引用」って用語と、著作権法上の「適法引用」をいい加

減ごっちゃにして語るのは止めて頂きたい。仮にも裁判所に対して提出している書面

なんだから。

恥ずかしいぞよ。

 

《ところが、文字著作物から一文節を引用する場合には、よほどの大量引用でもない

限り、漫画カットのように厳格に事前許可申請することはない。一体、この違いはど

こから来るのか。》

 

◆ 私も知りたい。

 小林の説明によれば、「小説などを一文節だけ示されても、誰のどの作品か即座に

判別できないが、ある程度ヒットした漫画作品なら一カット見ただけで、誰のどの作

品の一部かを一瞬で判別できるから」だそうである。「それはつまり、読者の関心を

即座に喚起し引きつける力があるということ」とも言う。なんじゃ、そりゃ。だった

ら、全く無名の、一瞬で判別できない新人の漫画カットならば許可は要らないわけ

か。なんだかなぁ。

 要するに、小林は、自身のカットは誰が見ても即座に判別できる程に有名だから特

別に扱えと言っているに等しい。

 がっかりしたよ。有名な漫画だろうが、無名の漫画だろうが、「漫画」という作品

自体に対する何等かの愛情から発せられていた理屈かとも思ってたんだから。んなわ

きゃ無えか(笑)。でも、そういう「論理」をもし立てられたなら、少しは説得力を

持ったかもしれない・・・。(裁判所に対してというより、全国の漫画愛好者に対し

てね。)

 何が「全創作者のため」であるか!、何が「敬意」であるか!!(怒)。

 

《控訴人は、控訴人カットの商品化については全て断ってきているが、唯一の例外が

(「全て」断ってねえじゃん)京都の扇子専門店が発売した「ゴ−扇」である。その

時のカット(「ごーまんかましてよかですか?」のカット)の使用料は三〇万円であ

った。》

 

◆ ぷぷっ・・・。ぶわっははは。「ゴ−扇」だって。これは証拠写真の提出までさ

れている。 うーん、見せたい。みんなに見せたい。私はマジで爆笑した。[「平成

のカリスマ小林よしのりが放つ ゴ−マニズム扇子」(ゴ−扇)]。コピ−もすごい

っす。売れたんだろうか?。 もうひとつ、「東京都消費者センタ−」のキャンペ−

ンポスタ−で使用されたカットも挙げられていて(「唯一の例外」じゃねえじゃ

ん)、こちらの使用料は一五〇万円だそうっす。 で、これらが何の立証証拠なのか

と言えば、[以上のような漫画カットの特質に照らすと、漫画カット(とりわけヒッ

ト作品のカット)を使うということは、それだけの商品価値、顧客誘因力、すなわち

経済的メリットを借用するということである。だからこそ、前記の通り、出版業界に

おいて厳格に事前承認を求める「常識」が存在しているのである]ということらし

い。

 初見の時、唖然とした、私の開いたままの口を想像してほしい。

 

4 情報量の多さ

《絵と文字との結合表現である漫画カットは、著者のメッセ−ジや多様な情報が一つ

のカットの中に凝縮されている。ことに「ゴ−宣」は現実の社会問題をテ−マにして

いることもあってネ−ムが非常に多く、背景や人物描写も精緻で具体的、写実的であ

る所に大きな特徴がある。》

 

◆ 要するにここでは、カットの情報の多さに比して上杉の書く文章は少ないと言っ

ているだけ。こんなことは既に原審で決着済みだよ。

 また、[ここで重要なことは、(略)それとは全く無関係に、複製カットに込めら

れた多様かつ大量の情報やメッセ−ジを直接感得し、もって原カット自体を「読む」

ことができるという現実である]とも言ってます。

 

《以上の通り、漫画カットの持つ商品価値(経済的メリット)や情報量は文字著作物

の一文節とは比較にならない程大きく、例え一カットだけでも一瞬にして読者の関心

を引きつける。原判決のように、「一話完結の原告漫画のごく一部に過ぎず、独立の

読み物になるものではない」との単純な発想からカット独自の存在価値を認めず、

「従」たるものと断定するのは、明らかに不合理であり間違いである。》

 

◆ 「単純な発想から」とは、言うも言ったりって感じですね。これじゃ森裁判長だ

ってホント怒るよ。私のような「バカサヨク」が司法に対して同情なんかするのは、

後にも先にも恐らくこの裁判が唯一だろう(笑)。

 

《略》 

◆ ほとんど既述の為。

 

《「藤田事件」控訴審判決では、複製された絵画について、「美術性に優れ」「読者

の鑑賞の対象となりうるものになっている」「読者は、同論文の記述とは関係なく、

本件絵画の複製物から美的感覚を得、これを鑑賞することができるものであり、本件

絵画の複製物は、読者がその助けを借りて富山論文を理解するためだけのものとは言

えない」として、「従」たる関係を否定した。本件に置き換えても同様のことが言え

るであろう。》

 

◆ つまり、上杉氏の文章とは全く関係なく、『脱ゴ−宣』の中の小林画から小林自

身の意見やメッセ−ジを感得し、これを「読む」ことができると言うのだ。だから、

「読者がその助けを借りて被控訴訴人の文章を理解するためだけのもの」とは言えな

いとして、「従」ではないと断じる。そんなバカな。

 こんなことを言い出せば、あらゆる引用がそうではないのか?。「複製型」にしろ

「取り込み型」にしろ、引用されたその範囲において、被引用者のメッセ−ジは確実

に感得できるんだから。(「一瞬に」かどうかなんてことは関係ない。)そして往々

にして、引用者が引用したいと思う文章なりカットなりはその作者の意見やメッセ−

ジが端的に表れている箇所が多いんだから。しかしまぁ、こんな理屈を持ち出すまで

もなく、「藤田事件」はあくまでもそれ単体で一個の作品として成り立っている「絵

画」のケ−スなんだから、いくら何でも牽強付会が過ぎるのではないか。

 小林さん、あなたは「一コマ漫画家」ではないんだよ。

 

◆ 「鑑賞性」について。

 「藤田事件」の判決における「鑑賞性」の問題は、専門家の間でも疑問が呈される

ことが多い。そうだよなぁ。鑑賞できる態様での引用は「付従性」を有しないという

ことになると、美術作品の引用は無条件にダメとも言えるわけだから。「藤田事件」

以降、この「鑑賞性」の概念が一人歩きし、その延長線上に「漫画の引用は出来な

い」なる風潮が定着したとの見方もある。

 『楽しむ会』も多大なお世話になっている北村行夫弁護士は、自著『判例から学ぶ

著作権』(太田出版)の中でこう述べる。

[ただ、本件判決は次の判示部分が一人歩きして、あたかも美術の著作物において

は、鑑賞性の感じられる利用の仕方は適法引用の要件を満たさないかの判例として用

いられる傾向にあることは憂慮すべきである。]

そして、その判決箇所を示した後、

[上記判示部分は、美術の著作物の適法引用の要件として鑑賞性を除去して用いよと

までいっているのではない筈である。作品全体の鑑賞性なしに利用しうる場合がある

こと、本件がそのような場合であるにもかかわらず鑑賞性のある用い方をしているこ

とを、本件に即して示したものとみるべきであろう。こう見るか否かによって、今後

の事案に対する本判決の意義も異なってくる]

と結んでいる。

 また、ライタ−の松沢呉一さんも、「ポット出版」のホ−ムペ−ジで公表した『小

林よしのりと著作権』の追記の中でこの問題に触れている。以下その全文。

[北村行夫弁護士が「JUCC通信」(日本ユニ著作権センタ−発行)第61号に今

回の判決についての報告を書いており、「判決の認定の仕方に、異論を持つ人はいな

いだろう」とまとめている。また、北村弁護士が以前から疑問を呈していた「小学館

対藤田嗣治事件」の高裁判決に対して、今回決着をつけたという点で評価もしてい

る。これは「鑑賞性」の問題で、ことによると、小林側は、控訴審において、これを

持ち出してくるかもしれない。

 簡単に言えば、引用された著作物がそれ自体鑑賞できるのは引用の範囲を逸脱する

という考えだ。しかし、これを言い出すと、短歌や俳句をそのまま引用することはで

きないことになる。百歩譲ってこの考え方を認めるとしても、数ペ−ジにわたって紹

介することで初めて鑑賞し得るマンガの数コマを引用したところで鑑賞性があるとす

るのは難しいだろう。]

二審で「鑑賞性」を主張してくることを予想するなんて、「さすが松沢さん」(By

長田長治)。私なんか・・・、[恐らく二審での小林の主張はこの部分(注:出版業

界の慣例)に重点をおいて展開されるのではないかという私なりの予測があるから

だ。「明瞭区別」「主従関係」において上杉側に瑕疵が無い以上、小林のすがれる争

点はもうそこにしかない](「103章/反論」)だもんな(笑)。まだまだ甘い

ぜ。ああ、恥ずかしい。

 しかし実際、「鑑賞性」についてここまで言ってくるとは正直思っていなかった。

松沢氏言う通り、無理があり過ぎると考えていたからだ。また、「鑑賞性有り=付従

性無し」のような風潮(為に、「漫画の引用は出来ない」)は、著作権法関係者(弁

護士さんも含め)の間では大方の総意として疑問視されているだろうとも判断してい

た為、その疑念が払拭された一審の判決は、この点に関してのみなら誰も異論を持た

ない筈だと考えていたことにもよる。むしろ、歓迎される筈だと。

「103章/反論」掲載後に触れた一審判決に関しての論及もそれを裏付けるものが

多かった。『コピライト』(1999/11月号)では弁護士の大江修子氏がこう述

べる。[とはいえ、前掲藤田嗣治絵画複製事件以降、被引用著作物が美術の場合、鑑

賞性が認められる限り付従性がなく、結局ほとんど引用が認められないのではないか

との疑念も生じていた中、引用著作物との関係で当該カットを使用する必要性・合理

性を具体的に説明しうる限り、漫画カットを引用できることを示した点でも、本判決

の意義は大きいと思われる。]

 昨年12/4、『著作権法学会』の秋季学会として「著作物の引用」と題するシン

ポジウムが開かれた。私も参加。(ちなみに斜め後ろの席には、小林代理人の中村弁

護士と、トッキ−が座ってました。あちらさんも一応勉強してるのね。)中で、パネ

ラ−の一人、大家重夫氏は「藤田事件」の判決について、「独立性を有し、鑑賞性も

有し、それでも付従性性質を失わない絵画写真というケ−スは有り得ないか」(大家

氏レジュメ)と、やはり疑問を呈していた。そして、本件一審判決に対しても、「原

告カットがそれ自体が独立の漫画として読み物になるものではいけないか」(同)と

述べ、その点で一審判決は、もう一歩の印象だと語ったのだ。大家氏が指摘した判決

部分を引いておく。

[原告カットは、最低でも見開き二頁の一話単位で、通常は八頁の一話単位で完結す

る原告漫画のごく一部に過ぎず、原告カットはいずれもそれ自体が独立の漫画として

読み物になるものではない。]

 なる程、この部分だけを読むなら、一コマ漫画や四コマ漫画の場合だったらもっと

厳しい要件が課せられるのかとの疑問が無くもない。大家氏もこの点を含意して、あ

らぬ誤解を与えることを危惧したのだと思われる。しかし、もう一歩の判決、ってい

うのは言い得て妙ですね。実際、そう言われると私も同意せざるを得ない。

 原判決は、「鑑賞性」に関しては故意に言及を避けたのではないか。まあ、原審は

それが問われていたケ−スではないのだから触れていなくても当たり前なんだけど。

でも、だったら先の判示部分は「余計だなぁ」との印象は残る。原告カットが原告漫

画のごく一部だろうが、全部だろうが(「一コマ漫画」のようなタイプという意味

ね)、付従性の判定においては一切関係が無い旨明快な言葉が欲しかった。

 

◆ 以上述べてきたように、私が知り得る限り、「鑑賞性」(によって漫画引用が否

定されるやに思われていたこと)に関して言えば一審判決に異議を唱えた専門家はい

ない。ウェブ上のバカ理屈なら腐る程あるかもしれないが(笑)。(しかし私が知ら

ないだけかもしれず、もしいるのならぜひ教えてほしい。マジで読みたいので知って

いる方、本当にお願いします。)そして、世の著作権関係者は絶対に歓迎していると

私は断言する。小林主張はそれに逆行して、「藤田事件」の所まで戻せと言っている

のだ。

 百万歩譲って、「絵画」や「写真」の作家の主張であるなら、まだ聞く耳も持と

う。が、小林が自身の「一コマ」に関して、それも「藤田事件」をフエンして、「鑑

賞性がある」などとぬかす主張に傾ける耳など持たぬ。笑止だ。

 

五(ママ) 分量

 

1 文章の量(後掲「引用対比一覧」参照)

《カットを批評する文章が「主」、カットが「従」という為には、量的に見てカット

のそれを大きく上回るボリュ−ムの文章が必要である。ましてや、前記のような漫画

カットの持つ付加価値や情報量の大きさに鑑みると、それに対して文章が「主」と認

められる為には圧倒的なボリュ−ムがなければならない。》

 

◆ 以下がまた、相当に面白い。

[なお、ここで対比される文章が、カットについて直接論評している部分に限定され

るべきなのは当然である。直接論評する文章の前後の関連文章を加えて量の水増しを

したものと対比したとしても、それだけ文章とカットとの結びつきが弱まるというこ

とであり、それはすなわちカット使用の必要性が薄まり、カットの独立性が認めら

れ、「主従関係」が否定されることになるからである。

 原判決が「被告書籍中の原告カットに関する記述内容」(三一頁以下)で認定して

いるのは、ほぼ、カットについて直接論評している部分に限定されており、妥当であ

る。]

皆さん、一読、理解できますか?。私も初めは何の疑問もなく読んでおりました。つ

まり、カットに直接触れた文章だけで「主従」の判定をしてくれ、前後の関連文章を

も含めた量でカットとの「主従」を判定しないでくれ、こう言ってるんだなと。小林

側に立つとすれば、当然こう言いたくなりますよね。だって「量」の問題を話してる

んだから。だったらここでの「論理」は反対じゃなきゃ(笑)。中村、瀧澤両弁護士

さん、あなた達、本当に大丈夫ですか?。

[直接論評する文章の前後の関連文章を加えて量の水増しをしたものと対比した]ら

[それだけ文章とカットとの結びつきが弱ま]って、[カット使用の必要性が薄ま

り、カットの独立性が認められ、「主従関係」が否定されることになる]のなら、水

増ししたものと対比してもらった方がいいんじゃないっすか(笑)。全く、書きなが

ら自分で解んなくなっちゃってるんだから、堪らなく困ったちゃんである。

 小林論理でいけば、ここでの正解はこうなる(小学校の国語教師か、俺は)。「な

お、ここで対比される文章が、カットについて直接論評している部分に限定されるべ

きなのは当然である。直接論評する文章の前後の関連文章を加えて量の水増しをした

ものと対比したとしたら、それだけ文章とカットとの間に量の上での拮抗が生まれ、

結びつきが強まるということであり、それはすなわちカット使用の必要性を高める。

逆にカットの独立性は薄まり、「主従関係」が認定されることになるからである」。

お解りか?。こういう論理だからこそ、[原判決が「被告書籍中の原告カットに関す

る記述内容」(三一頁以下)で認定しているのは、ほぼ、カットについて直接論評し

ている部分に限定されており、妥当である]わけでしょ。

 ホント、絵に描いたような「自家憧着」君。皆さん、反面教師にいたしましょう。

 

◆ しかしまぁ、よくよく考えてみればスゴイ理屈だこと。こういう言い分が通るの

は、普通なら一審の判定基準が、「前後の関連文章を加えて量の水増しをしたものと

対比していた」場合だけのような気もするが如何か(笑)。実際は小林主張のとお

り、「カットについて直接論評している部分に限定」して判断していたんだから何を

か言わんやである。「妥当である」じゃねえだろよ。

 

2 頁中の占有率

《量的に比較する為の指標として、カット採録頁中に、文章とカットとがそれぞれど

の程度の面積割合を占めているかを考慮すべきである。》

 

◆ いや、参った。こんなことまで言ってくるとは正直全く予想していなかった。よ

ほど立証「論理」に行き詰まったと見た。占有率・・・。・・・面積。とほ

ほ・・・。

 

《既述の通り「主」「従」という概念から、両者同等より若干上回る程度では足りな

いと解される。したがって頁中の二分の一程度であれば勿論のこと、三分の一程度を

カットが占有している場合にも到底「従」とは認められない。》

 

◆ 勿論その場合、空白部分は除いて比率を判断すべきなのは言うまでもないんだっ

てさ(笑)。なんかバカバカしくなってきたな。悲しくもなってきたな。もういいか

な、どうでも。子供の頃に帰りたい・・・。[以下占有率を分けて摘示する]なんて

言ってさ。ふん、だ。「カットが二分の一」とか「三分の一ないしそれ以上大きな占

有率」なんて言ってさ。ふんっ。そういうコマを二六個も挙げてボクたちのこと虐め

やがって。そんなに「引用」がダメなのかよぅ。自分だって、自分だって、人んとこ

のペ−ジからとか、たくさんたくさん盗ってるじゃないかあ。

 取り乱しました。すいません。

要するに、「絵がでけえよ」ってことですな。こんだけでかきゃ、先ずカットに目を

奪われ、内容を読まされるってわけです。[カットが頁の中で主たる構成要素となっ

ている]とも言う。

 反論になっているか自信ありませんが、頁中あんなに小っちゃいけど、ボクはいつ

もののちゃんに目をうばわれ、まっさきに内容を読まされています。藤原先生が出な

い日は、ボクは一日中元気がありません。夜は夜で、頁中こんなに小っちゃいのにワ

ガハイの出てるまんがにまっさきに目を奪われ、今日はリリ子さんが出てないので残

念でゆっくり寝れません。反論になっていないですね。10歳くらいで、ゴメンなさ

い。

 

◆ 「藤田事件」判決は、確かに「図版の大きさ」も考慮の対象に入れている。しか

し、その他様々の検討要素のうちの一つというだけのことで、それも、単体で完結し

ている美術作品の代表とも言い得る「絵画」のケ−スでの判定だからこそだ。百聞は

一見にしかず。その判決部分。

[(略)叙上の本件書籍の紙質、図版の大きさ、掲載の配置、カラ−図版の色数に関

する各事実と(証拠:略)中の本件絵画の複製物としての仕上がり状態を総合すれ

ば、右複製物は、モノクロ−ム図版のものも含め、いずれも美術性に優れて読者の鑑

賞の対象となりうるものとなっており、本件絵画の掲載されたペ−ジを開いた富山論

文の読者は、同論文の記述とは関係なく、本件絵画の複製物からの美的感興を得、こ

れを鑑賞することができるものであり、本件絵画の複製物は、読者がその助けを借

り、富山論文を理解するためだけのものとはいえないものと認めるのが相当であ

る。]

 しつこいようだが、一枚で完結している「絵画」という作品だからこそ、上記のよ

うに「紙質」までをも含め総合的に判断したのだ。小林作品中の「一コマ」と同列に

論じられるわけがないだろう。

 

◆ またも横道。

 「藤田事件」判決はこうも述べている。

[このように本件絵画の複製物はそれ自体鑑賞性を有することに加え、それが富山論

文に対する理解を補足し、その参考資料となっているとはいえ、右論文の当該絵画に

関する記述と同じペ−ジに掲載されているのは二点にすぎないこと前記認定のとおり

であって、右論文に対する結び付きが必ずしも強くないことをあわせ考えると、本件

絵画の複製物は富山論文と前叙のような関連性を有する半面において、それ自体鑑賞

性をもった図版として、独立性を有するものというべきであるから、その限りにおい

て富山論文に従たる関係にあるということはできない。]

これを逆に読むなら、引用者の「主」の文章が厳然として存し、少なくとも同ペ−ジ

上でその文と結び付きが強い態様で当該絵画が採録されているなら、例え鑑賞性を伴

っていても独立性を有しているとまでは言えず、その限りにおいて「従」たる関係も

成立し得る。

 「鑑賞性有り=付従性無し」に疑問が呈されてきたのも解る気がしませんか?。

 

◆ 本論に戻る。

 この小林主張のバカバカしさは「頁中の」という部分にある。「主従関係」の判断

基準とされる「藤田事件」の判決から、「頁中の占有率」なんていう概念を読み込ん

だのは恐らく小林が初めてだろう。[当該著作物が想定する読者の一般的観念に照ら

し、引用著作物が全体の中で主体性を保持し、被引用著作物が引用著作物の内容を補

足説明し、あるいはその例証、参考資料を提供するなど引用著作物に対し付従的な性

質を有しているにすぎないと認められるかどうかを判断して](同判決)。

 ここで重要なのは、「全体の中で」という点だ。それは、(あるカットが引用され

た)その「章」全体の中で、あくまで上杉文が主体性をもって存在しているかという

ことだ。カットが採録されているその「頁」についてだけで判断するのであれば、

又、もしそんな判断でいいのであれば、引用位置を適当に動かすだけで、ダメだった

ものがOKにもなり得る。それこそ、ただの挿し絵ではないか。

 『脱ゴ−宣』の場合、あくまで「引用」として採録しているカットである以上、そ

の採録位置は上杉文の内容によって自ずと決まるのだ。同書をお持ちの方は、パラパ

ラとめくって見てほしい。「章」ごとに実に様々な位置に引用カットが採録されてい

ることが解るだろう。「取り込み型」の引用である以上、あまりにも当然のことだ。

ここでも小林は、「引用の類型」に思い至らすことなく、縷々勝手な理屈を述べてい

るに過ぎない。それも、恐ろしく幼稚な。

 

3 合計五七カットという数の多さ

《略》

 

◆ 「数」なんて関係あるか。バカバカしすぎるので略。

 

六 被引用著作物の採録の方法・態様

 

1 カットをして語らしめるV 《略》VV ◆ 既述。(鳩出したり、脱出したり。それ

は奇術。)VV 2 拡大複製(「拡大複製対比一覧」参照)

《驚くべきことに(大仰だなぁ)、被控訴人書籍では、原カットより拡大して複製し

ている箇所が多数ある。カットを補助的参考資料の限度で使用する場合には、原カッ

トの内容を一応認識できれば足りるのであって、原寸である必要すら全くなく、縮小

して複製されたものでも十分なはずである。》

 

◆ これをもって、[大きなカットのインパクトによって読者の関心を強く引きつけ

る効果、あるいは文章量の少なさをカットの大きさでカバ−し頁を埋める効果、など

を意図したものとしか考えられない]と断ずる。[「主従関係」の認定要素とはまさ

に逆行する所為]なのだそうだ。

もう、言えることはこの際何でも言っておこうってことですな。

 小林の「論理」でいけば、新聞からの引用は、あの文字以上の大きさで引いてはい

けない。また、ある一文節を強調したいが為に、その部分のみポイントを大きくした

り、太字にしたりしてもいけない。そんなバカなという話だ。少なくとも、縮小し過

ぎて、細部が判別できないような態様で為された引用よりは数段ましだろう。小林自

身が言うように、《絵と文字との結合表現である漫画カットは、著者のメッセ−ジや

多様な情報が一つのカットの中に凝縮されている。ことに「ゴ−宣」は現実の社会問

題をテ−マにしていることもあってネ−ムが非常に多く、背景や人物描写も精緻で具

体的、写実的である所に大きな特徴がある》のだから、同一性保持の観点から言った

って、何等責められるようなことは無い。

 ちなみに、「頁中の占有率」の主張からすれば、「拡大複製」はあなたにとって有

利な筈だ。よかったね。

 

◆ ここに至ってもまだ小林よしのりという男は「引用」の何たるかが全く解ってい

ない。「要件」を充たし、その採録を「適法引用」足らしめている最大の要因は、

「主」である引用者の文章なのだ。仮に、同じ文章の中で、そのカットが小さくなれ

ば急に従となり、そのとたん引用として認められる(認める)とでも言うのか。もし

カットを倍の大きさでの採録に変えたら、とたんに従ではなくなり、引用とは認めら

れなくなるとでも言うのか。しかりとすれば、「主」の文章など何だってよいではな

いか。

「主従関係(付従性)」について、もう一度よく勉強することをお勧めする。

 

3 セリフへの批判と附従性(「附」はママ。判例では「付」)

《略。ほとんどが一審での主張の繰り返し。》

 

◆ 要するに、「絵」や「絵の効果」について全く触れていないから、[そこでの

「絵」は、漫画の複合一体性故に、いわば「文」のおまけとして余分(過大)に引用

されたもの]であり、付従性は認められないと言いたいらしい。

また、相変わらず、[漫画は確かに絵と文の「複合表現」ではあるが、それらは「不

可分」ではない]、なんて言ってもいます。

 

七 総論まとめ

 

《以上の通り、@目的、A性質・内容、B分量、C採録の方法・態様などあらゆる要

素から分析しても、原カットの複製掲載に関しては、「主従関係」を認めることは困

難である。 [よって「附従性」の要件を満たさず、右複製転載は全て著作権法違反

行為と断じざるを得ない。]》

◆ はいはい(笑)。

 

U 各論

 

《以下、各カットごとに、@カットに触れた文章(原判決を採用)、A複製されたカ

ット(原寸大)を比較しつつ、Bその採録状況に「主従関係」が認められない理由を

摘示する。》

 

◆ Bについては、《前記「総論」での理由付けを前提に、特に各カットごとに特徴

的な理由だけを摘示するものであって、ここに列記した理由に限定する趣旨ではな

い》なんて、わざわざ断りを入れてます(笑)。だったら、出し惜しみしないで全部

挙げればいいじゃん(笑)。その方が断然説得力を増すでやんす。

 では、その「引用対比一覧」なるもので小林がどんなことを言っているのか三例ほ

ど紹介しておこう。

 先ずは「カット1」(ごーまんかまして〜)。

 

[カット1の採録状況に「主従関係」が認められない理由

 @カットの大きさに比べ、カットに触れた文章の量が極めて少ない。

 Aカット内容の分析批評は一切なく、そのようなカットがあることを紹介するの

み。

 Bカットをして語らしめており、カットを取り去ると文章が成立しない。

 Cカット自体、「ゴ−マニズム宣言」シリ−ズを通じてのタイトルカットとでも言

うべき象徴的かつ著名なカ  ットであり、読者の関心を強く引きつける力がある。

 D既に商品化もされており、商品価値が極めて高い。]

 

 反論は既に述べてきたので繰り返さないが、この中のDについてだけ一言。

 現実に商品化されたことをもって、「商品価値」だの「アイキャッチ力」だのとぬ

かすのなら、「カット1に関しては」ということを明確にしてほしい。この一例をも

って、『脱ゴ−宣』採録(引用)カットの全てに敷衍されたんじゃ、たまったもので

はありませんって。  ちなみに引用カットの中で商品化されたというのはこのカッ

トだけなので、D項目まで挙げられたのは、この「カット1」のみ。B項目が一番多

く(23カット分)、@項目しか挙げられないものが5カットもある。

 

「カット3」(安部英のカット)

[カット3の採録状況に「主従関係」が認められない理由

@カットに触れた文章の量に比べてカットが非常に大きい。]

 

 こんだけ(笑)。認められない理由がこれだけだということは、もう少し小さかっ

たならば「主従関係」足り得ていたと考えているのだろう(か?)。では、どの位な

らよかったのかお聞きしたい。「○o×○o」でお願い(笑)。

( なるほど、これじゃいくら何でもカッコ悪くて、先に「断り書き」をしていた理

由もよく解りますね。)

 

「カット8」(鈴木邦男氏とのツ−ショット)

[カット8の採録状況に「主従関係」が認められない理由

 @カットに触れた文章の量が極めて少ないのに比べてカットは非常に大きい。

 A原カットを拡大複製している。しかも拡大率が大きい。

 Bカットをして語らしめており、カットを取り去ると文章が成立しない。

 Cカットは採録頁の二分の一を占めている。]

こんな調子です。後は全て推して知るべし。何度でも言いますが、ちょっと「稚拙」

過ぎます。

 

★ 遅筆ですいません。ここまでで、まだ、約半分なんです(笑)。このまま継続し

て書き続けると、時間的に相当の遅れが予想されますので、取りあえずここでいった

ん中断し発表することにします。

 遅筆でホントすいません。

 現時点では、第二回裁判も終了し、私自身、上杉側提出書面を読んでおります。で

すから「後半」では、そちらでの上杉側主張も紹介しつつ反論していきます。

 なるべく早く小林主張の全貌(大仰だって)を皆様に知って頂けるよう努力します

ので、もうしばらくお待ち下さい。こまめにアクセスしてね(^ー^)。

 では、いったんさいなら。

               2000/1/23

 

【後半】

 

第二 同一性保持権侵害について

 

一 はじめに

 

《被控訴人書籍では控訴人の著作にかかる漫画カットを多数無断複製しただけでな

く、そのいくつかには改竄を加えている。控訴人としては、自己の作品に書き込みを

されたり、変更を加えられることについて耐え難い精神的苦痛を余儀なくされてい

る。ところが原判決はそれら全てを適法と判断した。しかし、その理由づけは杜撰き

わまりなく、著作権法の解釈を明らかに誤ったものばかりである。》

 

二 無断「引用」との関係 二重の著作権侵害

 

《本件での改竄は、使用許諾を得た著作物について、その使用に際し勝手に改変した

というものではない。あくまで、無断で「引用」したものについて、さらに改竄して

いるという事案である。著作権者である控訴人としては、二重にその権利を侵害(制

限)されているのである。》

 

◆ どうしてこうまで身勝手な解釈を裁判所に対して主張することが出来るのだろ

う?。あらゆる「引用」は無断で行われるものである以上、こんな理屈で「二重の侵

害」なんてことがあるわけがない。

 大体、二重だろうが三重だろうが、小林さん、あなたはとにかく著作権侵害を認定

して貰えばいいんだからどちらかに絞って主張した方が得策だと思うよ。つまり、

「改変」のコマに関して言えば、「引用」であること自体は認めてしまって、しかし

「同一性保持権侵害」であると主張する方が断然有利だと思うし説得力も増すと思

う。なのに、両者を併せて、「二重の侵害」なんてことを言うからバカにされる(

笑)。

 

《著作権の保護と公的利用とのバランスを図るという基本理念に照らすと、右のよう

な二重の侵害行為をもって(二重の犠牲を強いるのであれば)「やむを得ない」改変

か否かの解釈認定はより一層慎重な吟味が必要である。[他にとるべき方法が全くな

く、真にやむにやまれぬ状況でない限り、本件のような重大な著作権侵害行為を適法

とすべきではない]。》

 

◆ 第二十条/「同一性保持権」とは以下のようなものだ。

[著作者は、その著作物及びその題号の同一性を保持する権利を有し、その意に反し

てこれらの変更、切除その他の改変を受けないものとする]。

 ここで問題になるのは、[その意に反して]という部分の解釈だ。これを、あくま

で著作者の「主観的意思」だと判断すると(仮に「法」の理念はそうだとしても)、

色々不都合なことが多すぎる。カラ−写真の作者はモノクロでの掲載を拒否できるこ

とになるし、文章の場合、原文と異なる改行(一行文字数という意味での「改行」)

にすらNOと言い得る。何がどうだろうが、とにかく、私の「意に反している」と主

張し続けることは可能だ。また、作者の「主観的意思」などは予め予測し得ない以

上、制約が多すぎる事となり、実際問題「引用」自体が不可能にもなる(極論すれ

ば)。

 「同一性保持権」において、小林の言う、[他にとるべき方法が全くなく、真にや

むにやまれぬ状況]を原著作者の判断に委ねることは著しい不公平を招くことにもな

るのだ。

 

《他人の著作物を無断で引用したいのであれば、要件を遵守しつつ、基本的に原カッ

トを「改変」することなくそのままの状態(ただし、縮小複製はその「従」たる性質

を強めるものであるから、これには含まれない)で使うべきである。

例えば、無断引用することで第三者の権利を侵害する恐れがあるからといって、その

権利を守る為ならば当然に著作権者の権利をさらに重ねて犠牲にしてもよいとする理

由はない。第三者の権利侵害と著作権者の権利侵害とで、どちらがより深刻で現実的

かという対比が必要であろう。その結果によっては、例えばそのカットの引用をや

め、文字で表現するよう努力するということも求められるべきである。》

 

◆ 当たり前だ。上杉氏はまさにその「対比」を行ったのだ。その結果、あのような

引用を選択したのだ。今頃、何言ってやがる。

 一審はまさに小林の言う、「どちらがより深刻で現実的か」を争ったんじゃなかっ

たのか?。少なくとも一審は、「どちらがより深刻で現実的」だと認定した?。今

頃、何言ってやがる。

「原状引用」なんてことは、小林に言われるまでもない。問題は、「原状引用」が他

者の権利を侵害する場合に、「そのカットの引用をやめ、文字で表現するよう努力す

るということも求められるべき」なのかどうかだ。つまり、その引用自体を、引用者

において諦めなきゃいけないのかどうかだ。

 そんな筈はないだろう。(諦める人がいても、それはそれでいいですけどね。)

 

◆ [例えばそのカットの引用をやめ、文字で表現するよう努力するということも求

められるべきである]。

 「求める」のは勝手だし、「求められるべき」とするのも勝手だ。しかし、現実に

上杉氏はその選択をせず、目隠しを入れた上での引用に踏み切った。であるならば、

その引用が、「やむを得ないものか否か」だけが問われるのであって、こんな方法も

あった筈だ、又あんな方法でもよかった筈だなどと言っても何の意味もない。

 裁判所は、目の前にある事象の「適法/違法性」のみを判断すればそれでよく、

「選択可能性」までを勘案する必要などない筈だ。

 

1 

《著作権法第二十条は次のように規定する。(略/前述)》 

 

2 

《前項の規定は、次の各号のいずれかに該当する改変については、適用しない。

(一)(二)(三)/略

(四)前三号に掲げるもののほか、著作物の性質並びにその利用の目的及び態様に照

らしやむを得ないと認められる改変。》

 

3 

《そもそも、著作物が無断で改変された場合には、その創作した著作物が自己の意に

沿わない表現を有することになり、当然著作者は精神的苦痛を受ける。同一性保持権

とは、このような苦痛から著作者を救済する制度である(ベルヌ条約六条の二第一

項、田村善之「著作権法概説三五六頁)。

二十条の規定のしかたから明らかな通り、著作物について改変を受けない権利は、著

作者人格権として原則的に保護されなければならないものである。その改変が許され

るのはあくまで例外であり、真に「やむを得ない」場合に限定して許されるに過ぎな

いのである。》

 

◆ 《真に「やむを得ない」場合》、その客観的な判断基準を定立できないことが問

題なのだ。引用者が「やむを得ない」と判断しても、原著作者が「そんなことはな

い」と常に言える状況がある以上、小林の言ってることには何の意味もない。現に、

一審判決で「やむを得ない」改変だと認定されたって、まだ小林自身がこんな主張を

言い続けていられることがそれを証明している。(勿論、いつまでもそう言い続ける

「権利」はあると思ってはいるが。)

 

◆ 小林が挙げている、「ベルヌ条約六条の二第一項」についても簡単に触れてお

く。

 著作権法113条にはいわゆる「みなし侵害」という規定がある。中の3項が以

下。

[著作者の名誉又は声望を害する方法によりその著作物を利用する行為は、その著作

者人格権を侵害する行為とみなす。]

 この「名誉・声望」を保護するという規定は、[一九四八年のベルヌ条約ブラッセ

ル規定(六条二(1)規定)以降の改正条約で規定されている考え方に基づくもの

で、尊重権(right of respect)と呼ばれている(黒川徳太郎訳・ベルヌ条約逐条解

説四六頁)](別冊ジュリスト「著作権判例百選(第二版)/1994」P.159

より)。

 この「尊重権」を上位に置けば(現著作権法への全面改正は一九七〇年)、当然

に、「同一性保持権」における「その意に反して」という意味は、著作者の「名誉又

は声望を害された場合」と考えるのが自然だ。つまり、名誉毀損や誹謗中傷に当たる

ような「改変」についてならばある程度客観的な判断も可能だし、それが、著作者の

「意に反して」いるだろうとの予測はつく。そういった「改変」をされない権利であ

り、また利用者(引用者)においては、そういった「改変」をしてはいけないという

意味だと捉えるべきなのではないだろうか。単に、「自己の意に沿わない」から「精

神的苦痛」を受けたなどという意味にまで拡大すれば、「同一性」を巡る果てしない

千日手に落ち込む。

 きっと小林さんがいつまでもそう言い続けるであろうように。

 

◆ 「同一性保持権」の例外規定である、「やむを得ないと認められる改変」につい

ては、学説上も、「緩やかに解するべき」とする説と「厳格解釈」と真二つに見解が

分かれている。この二説について、先の「著作権判例百選(第二版)」の中、「法政

大学懸賞論文事件(「P.135)」の項より引いておこう。筆者は元木伸氏。

[この点について、更に、論じた学説のなかには、許されるべき改変について、その

範囲をやや緩やかに解するもの(第一説)と、厳格に解するもの(第二説)とがあ

る。第一説は、著作者人格権は「著作者の精神的・人格的利益の保護のために法的承

認を受けた権利であるから、厳密にいえば著作物の改変にあたる場合であっても、そ

れが著作者の精神的、人格的利益を害しない程度のものであるときは、同一性保持権

の侵害とはならないと解すべきである。」とする考え方(半田正夫・著作権法概説

〔第六版〕一三二頁)がある。]

 上に述べた「尊重権」の概念に近いとも言える。基本的に私は、こちらの説に同意

する。本件に即して言うなら、上杉氏の行った引用における「改変」は、小林の「名

誉・声望」を害したり、「精神的・人格的利益」を何ら損なってはいないと考えるか

らだ(※注)。この説に立つ以上、それらが害され損なわれた旨、明確に立証するこ

とを私は小林に要求する。それが、「わしの意に沿わない」などという幼稚なもので

ある限り私は認めないし、当然、裁判所も認めることはないだろう。次、第二説目。

[これに対し、第二説を取る学説としては、「抽象的な規定(同項四号)が権利を制

限する例外規定であることを考え合わせつつ、厳格に解釈、適用されなければならな

い。したがって、これは、さきに見た三つの具体的場合(同項一号ないし三号)と同

程度の改変ならば、著作者も受忍しなければならないぐらいに解し、その受忍の枠を

越えるような解釈は、厳に慎まなければならないところである。」(半田正夫 = 紋

谷暢男編・著作権のノウハウ〔新装第四版〕一二七頁)がある。さらに、この説に立

って、校正における改変を厳格に制限するものとして、「同一性保持権は著作者人格

権の中核をなすものであって、原則的には一字一句、句読点や改行などの改変も認め

ない趣旨と解するのが相当である」(安倉孝弘・著作権関係事件の研究二七九頁、同

旨、佐野文一郎 = 鈴木敏夫・新著作権法問答七三頁)とするものがあり、

(略)]。

 この第二説には同意できない。と言うより、積極的に否定したいと思う。小林がこ

ちらの説に立っているからという意味ではなくね(笑)。

 「同項一号ないし三号」は、学校教育の目的上やむを得ない用字や用語の変更、ま

た、建築物の増・改築、修理などについて述べられた規定であり、どう考えたって、

「真にやむを得ない」ケ−スについて述べている。もし第二説のような考え方に立つ

のなら、そもそも「四号」など初めからいらないではないか。一ないし三号以外に

も、様々なケ−スが想定され得るからこそ、わざわざ「前三号に掲げるもののほか」

と規定しているのではないのだろうか。であるならば、[さきに見た三つの具体的場

合(同項一号ないし三号)と同程度の改変ならば、著作者も受忍しなければならない

ぐらいに解し]とするのは、明らかに矛盾だと思う。具体的事例を挙げて、限定的に

「適用しない」としているものと、「前三号に掲げるもののほか」と断りを述べ、

「性質並びにその利用の目的及び態様に照らし」と、かなり裁量の余地を残している

文言とを同列に捉えてしまうのは如何なものか。

 また、校正において、「一字一句、句読点や改行」の改変も認められないのなら、

いったい何の為の校正なのか(笑)。あたしゃワケが解らん(ここはちょっとヘ理屈

モ−ド)。

「権威を疑え」という某センセイのご意見に従い、ちょっと学説に疑問を呈してみま

した(笑)。

 以上、現実に二つの解釈があることは事実であり、裁判所内でどちらかに統一され

ているわけでもないという点が恐い所でありんす。実際、ここでの「大学懸賞論文事

件」は、一審、二審で正反対の判決となった。一審の判断は、第一説に近く、同一性

の侵害を否定したのだが、しかし二審においては同一性保持権侵害と認定された。こ

ちらは第二説に近い。(というより、殆ど第二説のまんまという印象。相当厳格に解

釈している。)

 こういう事ってままありますね。全く同じものを裁いているというのに・・・。

「裁判」って、恐い。(詳細は、「著作権判例百選」でご確認を。そこそこ大きな図

書館なら絶対置いてあると思いますよ。)

(※注)百歩譲って仮に損なっている恐れがあったとしても、「第三者の人権擁護」

という目的において、「『可罰的/実質的』違法性理論」で対抗(抗弁)することは

十分可能だと考える。

 

4 

《無断改竄行為が、二十条二項四号の規定によって「やむを得ない」改変として適法

とされる為には、二十条二項一号ないし三号に具体的に列挙された要件に匹敵する程

度の理由を必要とすると解すべきである(大学懸賞論文改変事件、東京高判平成三年

一二月一九日)。》

 

◆ 前述。

 いろんな「判例」にあたっていることだけは認められますね。反論するのも簡単だ

けど。都合のいい所だけをつまみ喰いするんじゃなく、もうちょっと体系的に勉強す

るがよろし。

 

二 カット4について

 

1 原判決の理由付け

《略》

 

2 弁論主義違反

《原審において被控訴人らは、右カットを改変した理由として「肖像権侵害」を主張

している。被控訴人らは、モデルの「不快」や「名誉感情侵害」などには一言も言及

していないのである。当然、「不快・名誉感情侵害」という点は、原審において全く

争点となっておらず、控訴人は一切反論の機会を与えられていない。

[被控訴人が全く主張していない事実を判決においていきなり採用し、それを法律要

件に当てはめ「やむを得ないと認められる改変」であると断じた原判決の認定は、弁

論主義に違反する不当な不意打ち裁判である。]》

 

◆ えっ!?、そうだったっけ。言ってなかったかなぁ。正直、私はびびった。「内

容」についてというんじゃなく、それを確認する為にまた最初から通読しなきゃなら

ないことにさ(笑)。何回読んでると思ってんだ。もう、勘弁してよ。

 そうだ。「上杉側/反論書面」はもう提出されてんだっけ。それ、パクっちゃえ

(笑)。

[「2 弁論主義違反」について

 控訴人は、名誉感情侵害という点は原審において全く争点となっておらず弁論主義

違反と主張する。

 しかし、被控訴人は平成一〇年六月一五日付被告準備書面六頁、平成一一年四月一

五日付被告準備書面七頁、同四五頁及び同四六頁において明確に名誉権侵害について

言及している。  したがって、控訴人の弁論主義違反との主張は失当である。]

あ〜ぁ。なんだかなぁ。「103章」でも似たようなとこがあったけど、裁判所への

提出書面でも同んなじ事やってんだ(笑)。

 ちゃんと読もうよ、ねっ、トッキ−。(専従の担当者はあなたでしょ。コラっ。メ

っ。)

 

◆ 「上杉側の言い分だけじゃ信用できねえよ」、なーんて言う疑い深いよしりん信

者の為にもう一つ紹介しておきませう。

 『コピライト』(2000/2月号)に、原審判事である榎戸道也氏の講演録(タ

イトル/「最近の著作権判例について」)が掲載されている。[被控訴人が全く主張

していない事実]だの、[弁論主義に違反する不当な不意打ち裁判]だの、アホぬか

せっちゅうねん。当の一審裁判官がどう認識しているのか、よーく見てごらん。

[これに対して、被告は、(略)同条2項4号のやむを得ない改変であると主張しま

した。なぜやむを得ないのかというと、原告の漫画はそこに描かれている人物の肖像

権、名誉権を侵害するような絵であるから、そういう第三者の肖像権、名誉権を侵害

するような絵をそのまま引用すると、結局、自分もその第三者の肖像権、名誉権を侵

害することになる、だから、そういった第三者の権利、利益を侵害しないようにする

ためには、目隠しをするのはやむを得なかったのだという主張です。](P.8)  

 

3 「醜い」とは

《原判決は、「同人がこれを見れば不快に感じる程度に醜く描写されているものと認

められる」とする。しかし、一体いかなる証拠に基づいて、又いかなる基準によりそ

う認定したのであろうか。

 原判決の認定は、客観性の認められない主観的・恣意的判断であり、著作権の保護

の範囲を決める解釈論としては、到底認め難い杜撰なものである。》

 

◆ 先ず前段。

 コイツら(ここは敢えて「コイツ」扱い)、裁判所を一体何だと思ってやがるん

だ?。「いかなる証拠に基づいて」ってなぁ…。裁判の判決における「認定」に、証

拠を挙げろって言ってんだぜ。小林さん、「自由心証主義」って言葉、ご存知?。

(※注)

 こういう主張をみると、やっぱり書いてるのは時浦あたりなのかなぁ、とも思う。

「弁護士」のレトリックとは、あたしゃとても思えないんだよねぇ。

 上杉側も簡単にこう反論している。

[しかし、名誉毀損の訴訟一般において、名誉毀損の有無を判断するのは裁判所であ

る。したがって、裁判所が「同人がこれを見れば不快に感じる程度に醜く描写されて

いる」かどうかを判断できることは当然であって、かかる基準は裁判規範として充分

に客観的かつ明確であって、客観性の認められない主観的恣意的判断であるとの控訴

人の主張は失当である。]

当たり前ですね。次、後段。

[著作権の保護の範囲を決める解釈論]なんてことは、そっちが勝手に言ってる(思

い込んでる)だけのこと。裁判所がそんな認定をしているわけではないことは、「1

03章/反論」でも述べたとおり。あぁ、バカバカしい。

(※注)「自由心証主義」を全面的に肯定しているわけではありません。

 

 次の部分は相当恐ろしいっす。覚悟して読んでちょ。

[そもそも人間の表情などその時々の感情によって千変万化する。例えば、激昂した

一瞬の表情、泥酔したときの表情などを撮影した写真を後から見せられると、本人は

著しく「不快」に思うのが通常である。しかし、その不快な表情も本人の表情の一つ

に他ならない。本件カット4についても、控訴人自身が目の当たりにした川田龍平氏

の一瞬の表情が、まさにそのようなものであったのである。原裁判所がそれを否定し

うる根拠はどこにもないはずである。]

 

◆ ああ、恐ろしい。小林の知り合いでなくて本当によかった。

 とにかく「目の当たり」にしたと小林が認識すれば、奴はどんな絵で人を描こうが

誰もそれを否定できないらしい。今後小林さんに会う予定の人がいたら、フルフェイ

スのメットを脱がないことをお勧めする。

 相変わらず描かれた方の意識には無頓着らしい「天才」には、やはり基本から教え

るしかないのだろう。「マ−ク・レスタ−事件」判決(一九七六年/東京地裁)では

こう述べられている。

[(一) 氏名及び肖像に関する利益の法的保護

 通常人の感受性を基調として考えるかぎり、人がみだりにその氏名を第三者に使用

されたり、又はその肖像を他人の眼にさらされることは、その人に嫌悪、羞恥、不快

等の精神的苦痛を与えるものということができる。したがって、人がかかる精神的苦

痛を受けることなく生きることは、当然に保護を受けるべき生活上の利益であるとい

わなければならない。そしてこの利益は、今日においては、単に倫理、道徳の領域に

おいて保護すれば足りる性質のものではなく、法の領域においてその保護が図られる

までに高められた人格的利益(それを氏名権、肖像権と称するか否かは別論とし

て。)というべきである。]

 お解りでやんすか?。

 勿論、俳優・歌手などの芸能人やプロスポ−ツ選手等については、若干の制限があ

る旨言及されている。しかし、少なくとも、一般人に関しては、一九七六年の時点で

ここまで明確に判示されているのだ。[裁判所がそれを否定しうる根拠は]いくらで

もあるということだ。

 

◆ 写真なり、似顔絵なりの問題点は、まさに一瞬の表情の「固定化」にある。「写

真」の場合まだ現実の本人であるという分、割り引いて考えられるとしても(それに

したって、次の瞬間にはまた違った表情になっている筈なのだから、恣意的に醜い瞬

間の「写真」を選んで公表することは問題だろう)、「似顔絵」は、作者の目に「そ

う映じた」というだけの根拠しかないのだからより一層の制限がされるべきだろう。

 ここでの小林の主張は、相手が「不快」だろうが何だろうが、「わしが目の当た

り」にした表情がそうだったのだから文句を言うなということだろう。大した男だ

な。何様のつもりだよ、コラ。

[原裁判所がそれを否定しうる根拠はどこにもない]?。それじゃ「名誉毀損」のあ

らゆる裁判は不可能だな。私がどれだけアンタを中傷しバカにしようが、どれだけゆ

りぴゅーを傷つけようが、「私が目の当たりにした」アンタ達の印象がそうなんだか

ら、裁判所はそれを否定できないもんな。

 上杉側は、こう述べている。

[控訴人の右主張には、表現者としての利害や感情しか眼中になく、描かれる側の人

権への配慮や、相手を傷つけたのではないかという自省の念は微塵も見られない。

(略)

 表現の自由といえども、他者の人格権を侵害しない限りにおいてのみ認められるの

は当然であり、にもかかわらず「目の当たりにした」から否定できまいと居丈高に主

張する控訴人の主張は独善的で到底受け入れられるものではない。]

 小林さんがこれらの意味に気付くことはこの先あるのだろうか。

 

4 「醜い」「不快感」「名誉感情」 −基準の不明確さ−

[このような曖昧不明確な判断基準を用いるならば、著作人格権として原則的に保護

されなければならない「同一性保持権」の侵害は極めて広範囲で許容され、著作権の

保護など無きに等しい状態となる。]

 

◆ てめえの「権利」だけは声高に叫びやがる(笑)。他者の「名誉」や「人格権」

に無頓着な野郎に、「著作者人格権」の保護だなんて言われたくねえよ。

 あなたの言葉を、そっくりお返ししてやろう。

「『わしが目の当たりにした』などと言う曖昧不明確な判断基準を用いるならば、人

格権として原則的に保護されなければならない『肖像権』の侵害は極めて広範囲で許

容され、人格・尊厳の保護など無きに等しい状態となる」。

 わかったか。

 

5 似顔絵の引用と批評

《政治家や著名人を批判的・皮肉的に描写する、いわゆる「風刺画」においては、モ

デルとなった人物は「不快」に思うのが常であろう。そのような風刺画を第三者が

「引用」する場合、モデルの「不快」を理由に、勝手に墨塗りなどの改竄をすること

が許されるとは到底考えられない。ところが原判決によるとそれが出来ることにな

る。明らかに非常識である。》

 

◆ まーたスリ替えてる。

 上杉氏が目隠しを入れたのは「政治家や著名人」だったかい?。目隠ししたカット

は、いわゆる「風刺画」だったかい?。バカも休み休み言いなさいって。

上杉氏は『脱ゴ−宣』の中で、ちゃんとこう述べてるぜ(P.16)。

[もちろん私は、よしりんがなんらかのイメ−ジを自分自身の内に抱き、描写するこ

と自体を否定しているわけではない。そんなことをしたら漫画そのものが成り立たな

いし、公的場にいる阿倍氏のような者が表現の対象となることは許されるべきだ。し

かし、私的な一個人を描く場合には、おのずと限度というものがある。そこには肖像

権の侵害、名誉毀損の問題が発生する。ましてや、マイナス・イメ−ジを繰り返す場

合は暴力になる。]

 おわかりか?。

 もっとも、引用者の判断が、政治家においてなお「肖像権/名誉権」は守られるべ

きだと判断した上で行った墨塗りなら、それこそ第三者がとやかく言うことじゃあり

ませんって。後はその引用者と原著作者の問題でしょうが。

 だからさぁ、この一審判決を一般論に敷衍して語ること自体に無理があるんだって

ば。あたしゃ、ある程度この手の反論は予測していた。だからこそ、「103章/反

論」で私はあのように書いたのだ(「74ペ−ジ/下段」部分参照)。

 

《(略)そもそも「似顔絵」とは、モデルの一瞬の表情の特徴を的確に捉え、そこを

強調して表現することで、時にはモデルの人格・人間性までも浮き彫りにし、見る者

に共感を覚えさせる表現手法として広く社会的に認知され、受け入れられている。》

 

◆ まーたスリ替えてる。

 なんと小林はここでの主張を「山藤章二の似顔絵塾」に仮託して語っているのだ。

ホント、大丈夫か。

 『ゴ−宣』の中の登場人物は、「山藤章二の似顔絵塾」での似顔絵と同じレベルで

語れる「似顔絵」としてのキャラなのか?。そこまで自分の作品を貶めてどうする。

そうではないだろう、小林さん。

 あなたの作品中の人物は、全て現実の中で生き、現実にあなたと会い、会話を交わ

し、そしてあなたの感情になんらかの影響を与えてきた人物の筈だ。そうであればこ

そ、描かれた方とすれば、現実と違うことに戸惑い、怒り、反論するのではないか。

「似顔絵塾」のような一枚完結の似顔絵であるなら、描かれた内の誰があなたに文句

をつけよう。

 ふざけるのはいい加減にしたほうがよい。

 

  《このことは小説や論説等、文字著作でも同じである。例えば文芸評論におい

て、自分の作品を酷評された小説家は強い「不快感」を抱くであろう。しかし、だか

らといって、第三者がその評論文を引用する際、その小説家の「不快」を理由に勝手

に「伏せ字」にしたり、表現を変えるなどということが許される筈がない。》

 

◆ 明らかに「常識」を逸脱した表現を交えてその評論が為されているのなら、そう

いうことも有り得るんじゃないですかねぇ。「表現を変える」ってのは問題があると

思うが、「伏せ字」は全然有り得るだろう。

 大体、「表現を変える」なんてケ−スが本件のどこにあんだよ。「伏せ字」に該当

するものしか無えだろうが。「許されるはずがない」のは当たり前だよ。「許される

はずがない」ケ−スを自分で勝手に挙げてんだから(笑)。

 

《モデルの「不快感」が予想される場合においてその引用者がやるべきことは、いき

なりそれら著作物を勝手に改竄することではなく、原カットをそのまま引用して、そ

れらについて批評・批判することである。例えば、「この似顔絵は本人よりも醜い。

本人はもっと美しい」などと論評すればよいのである。》 

 

◆ バッカじゃなかろか、家庭の事情。(分かる方だけ、偉大な芸人をたまに思い出

して下さい。)

 「不快感」が予想されるからああいう風に引用したんだろうがよ。自分で何言って

るのか解ってるのだろうか。「原カットをそのまま引用して批評・批判すること」っ

てさぁ(笑)、上杉氏はあなたが挙げたバカ例文みたいな批評がしたい為に龍平氏の

カットを引用したわけじゃないぜ。そんなことは、『脱ゴ−宣』を読んだ全ての人が

解ってるよ。

 

《そして、そもそも「醜い」と論評する為には、「醜い」ままで正確に引用しなけれ

ばならない筈である。》

 

◆ だからぁ、「醜い」と論評する為じゃないっての。二度と目にしたくもない本だ

ろうけど(笑)、ちゃんと読んでよ、頼むから。上杉氏はこう書いている(「5 似

顔絵の引用と批評」での引用文に続く文章)。

[HIV訴訟の原告である川田龍平君の顔を醜く描いたこの絵も、よしりんと彼の関

係が悪くなって以来、何度も繰り返して漫画に掲載された(肖像権保護のための目隠

しは引用者による。以下の目隠しも同じ)。こうしたすり込みが一個人、しかもエイ

ズへの偏見がまだ強いこの社会の中で、カミングアウトした弱い立場の被害者を批判

したり痛めつける手段として使われるというのは犯罪だ。]

これを読んで、小林と同じように、「醜い」と論評する為の引用だと思う人がいたら

ぜひご連絡頂きたい。近所にある、よいと評判の塾を紹介する。そこは「国語」だけ

でも通えるらしい。

 

6 「目隠し」の目的

《確かに、「写真」に目隠しを入れることは一般的手法であろうが、漫画や絵画の似

顔絵に目隠しを入れるなどという例を控訴人は知らない。》

 

◆ 知らないのなら、これを機会に覚えておけばいい(笑)。私も覚えたから。

《プライバシ−の保護こそが「目隠し」本来の目的である。そこでは決して描写の

「醜さ」を覆い隠そうとしているのでもなければ、当該人物の「不快感」や「名誉感

情」の保護を目的としているのではない。

(原判決では)目隠しの目的を、「描写された人物の権利を保護する」と抽象的に認

定している限りにおいては正しいが、その「権利」の中身として、「プライバシ−」

などではなく、「醜さ」や「不快感」や「名誉感情」などに結びつけている点で、明

らかに社会通念に反しており、判断を誤っている。》

 

◆ 一体何が言いたいのか。「社会通念」なんて小林に言われたかねえよ(笑)。

 小林、トッキ−、お得意の「論法」ですね。『ゴ−宣』でもしょっちゅう出てくる

から「よしりん信者」になりそうでフラフラしている人はよく覚えておくといいよ。

 先ず、自分で勝手に「定義」を挙げます(笑)。ここでは、「目隠し」は「プライ

バシ−保護の為に行われる」と、とにかくそう限定してしまう。そうしておいて、そ

れ以外の目的での「目隠し」を全て否定する。「社会通念に反している」などと大上

段に振りかぶってもOK(笑)。だって定義は「プライバシ−の保護」なんだから。

誰が何と言おうと、そういう定義なんだから。

 先の要約文に続き小林はこう主張してくる。「定義」のあとの「否定」の部分ね。

《川田龍平氏は、自ら積極的にマスコミに登場した人物でありその容姿は一般に周知

されている。その意味で、このカットの人物が川田龍平氏であることをあえて秘匿す

る必要はない。上杉自身が実名を明記しているのであるから、なおのこと当該人物の

特定防止、プライバシ−保護といった目的はそこには存在しえないのである》。どう

です、見事でしょ。上杉氏自身が「川田龍平君」と明記しているのだから、「特定防

止、プライバシ−保護」以外の目的で目隠しを入れたんだな、などとは決して発想し

ようとはしません。自身の「定義」が揺れることは、きっと彼には耐えられないので

しょう。他者との「論争」においては、よく、こうしてどんどんドツボにはまります

(笑)。

 「定義」「否定」ときたら、最後が「結論」ですね。[よって、右カットにおいて

「目隠し」を施す合理的理由は一切存在しない。つまり、そこには「やむを得ない」

事情は全く認められないのである]。・・・・・。なんだかなぁ(笑)。

 最初の定義である「プライバシ−の保護」、もしこれ以外に合理的な目隠しの根拠

があれば小林の理屈は簡単に瓦解します。

 極論すれば、『ゴ−宣』は、全てこういった幼稚な論理で成り立っている漫画で

す。冷静に、ゆっくり読めば、多分10歳位からその詭弁には気付けます。しかし、

それをさせないだけの「絵」の迫力、加えて巧みな「展開力」がある。

 希有な漫画家ではありますね。

 

7 「目隠し」の効果 [つまり、原判決の言葉を借りれば、原カットのままでは

「同人が見れば不快に感じる程度に醜く描写されている」のが、黒く目を隠されたカ

ットの方はその醜さがなく(軽減し)、同人が見ても不快に感じない程度になった、

ということであろう。

しかし、判決別紙対比表(一)の二つのカットを見比べたとき、一般人の常識に照ら

して、本当にそのように言えるのか大いに疑問である。]

 

◆ あなたが疑問に思おうがどうだろうが関係ないって(笑)。知るかっ。

 これに続くの次の文章が、又とてつもなくスゴイんだわさ。心臓の弱い人は気をつ

けた方がいいかも。

 

[実名を表記された川田龍平氏自身が、目隠しをされたカットを見て、果たして「こ

れで醜くなくなった。これなら不快じゃない」と言うであろうか。]

 

◆ 唖然・・・。盗っ人猛々しいとはこのことだ。これが悪意を込めた似顔絵を先に

描いてる奴の言う台詞か(怒)。

 順序が逆なんだよ、ドアホ。あの『脱正義論』でのカットを見た龍平君自身が、果

たして、「別に醜く描かれていない。これなら不快じゃない」とでも言うであろう

か。

 自分勝手もたいがいにせぇっちゅうねん。

 

[試みに、自分の顔写真に黒く目隠しを入れてみるとよい。一般人の感覚からすれ

ば、黒く目隠しをされた顔写真は、余計に犯罪容疑者のような、あるいはスキャンダ

ラスな雰囲気をもたらし、それ自体かなり不快なものである。]

 

◆ バカじゃねえのか。こんな例が本件に何の関係があんだよ。

[醜く描かれた自己の似顔絵とそれに目隠しをした例を挙げてどちらがよりましかを

論ずべきであり、控訴人の右主張はすりかえの議論に他ならない]。(上杉側/「反

論書面」)

 

◆ だいたい、ついさっき(『6「目隠し」の目的』)は、「プライバシ−保護」の

目的において目隠しを肯定的に扱ってたんじゃなかったのか(笑)。こんなふうに言

ってたじゃん。 [次に、一般に「目隠し」が使われるのは、例えば、いわゆる「写

真週刊誌」に、芸能人と秘密裏に交際する一般私人が登場する場合や、犯罪の容疑者

が少年や知的障害者の場合などにおいて、同時に実名を伏せるのと併せて、当該人物

の特定が容易にできないようにし、もって当該人物のプライバシ−を保護しようとし

ているのである。これこそが「目隠し」の本来の目的である。]

 「プライバシ−保護」ってのは、[余計に犯罪容疑者のような、あるいはスキャン

ダラスな雰囲気をもたらし、それ自体かなり不快な]感情を受忍した上で成り立って

たわけだ、あなたの理屈じゃ。こりゃ簡単に入れられんなぁ(笑)。

 6での主張とここでの主張、それで結局、「目隠し」は良いの、悪いの?。

 

《原カットが「醜い」と言うのであれば、目隠しカットはその「醜さ」をより強調し

増幅せしめていると言っても過言ではない 

その二つのカットを見比べる時、原判決の「原カットに目隠しをすることによって目

の部分が隠されたため名誉感情を侵害するおそれが低くなったものということができ

る」との認定が、いかに一般人の感覚から乖離した、強引なこじつけであるかは明白

である。》

 

◆ 前段。「過言」だと思う(笑)。次。

 

◆ 小林は、何か大きな勘違いをしている。原判決が、「同人がこれを見れば不快に

感じる程度に醜く描写されている」、そう認定している以上、「目隠し」がそれをほ

んの少しでも軽減していればそれでよいのである。

 長くなるが、この「目隠しの改変」について、ここでちょっと検討しておこう。最

初に断っておくが、あくまで、本件における「目隠しの改変」についての検討であ

る。(冗談みたいな考察に見えるかもしれないが、「原理」はこういうことなのだと

思う。)

 例えば、原状カットでの不快感(名誉感情の侵害)を「−10」だとした場合、目

隠しを入れることにおいて「±0」が要請されているわけではない。そして、原状カ

ットの時点(引用前の段階)で上杉氏の中に既に「不快認定」がある以上、どう転ん

でもプラスにはならん。でもプラスにする改変が無いわけじゃなく、例えば、一回ホ

ワイトで消してしまって、目や、口元の表情とかを変えちゃえばいい(笑)。小林

が、「5 似顔絵の引用と批評」の所で言っていた、《しかし、だからといって、第

三者がその評論文を引用する際、その小説家の「不快」を理由に勝手に「伏せ字」に

したり、表現を変えるなどということが許される筈がない》という部分での「表現を

変える」がこれに当たる。そして、これは許されないこと、既に述べた。

また、この場合の「±0」とは、実は「引用自体しない」ことを表す。何故なら、引

用した上での「±0」とは、「目元・口元」双方を隠すことに他ならず、それではこ

のカットの持つ本質的特徴の全てが感得できなくなり、結果、「引用(採録)」が無

い状態とそれはさほど変わることがないからだ。(これは、文章における「伏せ字」

に該当する改変であることが理解できていれば自明のことだろう。)つまり、原カッ

トに「不快認定」をした時点で、その「不快感」を全て解消した上での引用などは成

立しないし、不可能なのだ。

 であるならば、「やむを得ない」範囲内での「改変」において目指すものは、「−

10」から限りなく「±0」に近づけることではなく、「−7」辺りを志向すること

ではないのか。もっと極端に言えば、限りなく「−10」に近く(「原状引用」が鉄

則である以上)、且つそこから遠ざかることだ(「やむを得ない」範囲での、「必要

最小限」で)。言語矛盾のようだが、要は、そういうことなのだ。

 ここで、「不快認定」についてだが、それは、引用者の判断がそうであれば足りる

(不快感など感じなければ、つまり、モデルの「肖像権」や「名誉権」に頓着しなけ

れば、そもそも目隠しなど入れる筈もないのだから)。その判断は、引用者のみが持

ち得る性質のものであり、上杉氏のその判断に異を唱える権利などは誰にも無い。こ

れは、私自身が多分に勘違いしていた面もあり、「引用しない」(「±0」)という

選択可能性に重きを置き過ぎていたきらいがあった。「−10」(原状引用)か、

「±0」(引用断念)かの選択など、実は何の問題でもなかったのだ。その「間」の

選択肢もあること、そして、現に上杉氏がその選択をしたこと、重要なのはそれだけ

だ。

 先の、榎戸道也氏の講演録(「最近の著作権判例について」)の中から判決につい

ての当該箇所を引いておこう。一審の裁判官が、この点についてどう説明しているの

か参考になる筈だ。

[目の部分に黒い線を引いて目隠しをしたことについて、この判決は、まず黒い線を

入れたことは、著作権法20条の「改変」に当たると判断しております。次いで、

「やむを得ないと認められる改変」かどうかについて検討し、これを認めました。そ

の理由として、例えば資料2の対比表(一)について言えば、原カット(イ)は、これ

を本人が見た場合に不快に感じるように描かれており、いわゆる人格的な利益である

名誉感情を侵害するおそれが高いものであると考えられるが、そういう場合に、この

原カット(イ)をそのまま引用すると、結局、引用者が描かれた人物の人格的な利益を

侵害するおそれがあることになるが、引用を認めた著作権法の趣旨からすると、そう

いう第三者の利益の侵害の危険をおかすような形での引用しか認めていないとは考え

られないから、そのような場合には、相当な方法で改変して引用することも「やむを

得ないと認められる改変」に当たると述べています。そういう一般論を述べた上で、

資料2の対比表(一)にあるような目隠しをすることは、一般的に描かれた人物の権

利を保護するために広く行われている方法であること、目隠しをすることによって、

幾分かでも名誉感情の侵害のおそれが低くなっていると言えること、目隠しをしたこ

とが、本文中で明示されていることといった点を考慮しまして、この目隠しは、相当

な方法による改変であると認められるから、「やむを得ない改変」に当たると判示し

ました。]

 しつこいようだが、榎戸道也氏は原審の裁判官である。その人をしてこう説明して

いる。[幾分かでも名誉感情の侵害のおそれが低くなっている]。そう、「幾分か」

でいいのだ。「−10」が「−7」程度になれば、それで充分なのだ。(だからこそ

原判決も、「名誉感情を侵害するおそれが低くなった」と表現している。)ほんの少

しだとしても、「軽減」されてさえいれば、それで充分であることを一審判決は示し

たのだ。《第三者の権利侵害と著作権者の権利侵害とで、どちらがより深刻で現実的

か》を、「漫画」のケ−スにおいて初めて判示したのが第一審の判決なのだ。

 それは、東京地裁「知的財産権部」の、明確な「意志」でもあるだろう。

 

◆ 異論もあるかもしれない。目元を隠しても、殆ど「−10」のまんまだと感じる

人もいることだろう。実は私も、「不快感」(名誉感情の侵害)が減じているとはそ

れほど感じてはいない。それは、口元の描写も相当ひどいからに他ならないのだが、

しかし、果たして本当にそれだけの理由だろうか。

 そうではなかったことにやっと気付いた。「不快感」の減少を感じないのは、既に

原カットが脳裏に焼き付いているからなのだ。小林が描いたあの嫌な「目」を、目隠

しの黒線の下に見てしまうからなのだ。逃れることができなくなっている。つまり、

仮に真っ黒に塗りつぶしたシルエットだったとしても、私はきっと、意識下では原カ

ットを見ている。

 漫画の「刷り込み」とはそういうことなのだ。

初出である『脱正義論』で元もと龍平君のカットを知悉している人ならば、きっと私

と同じような感想を抱くのではないか。つまりそれらの人達にとっては、「目隠し」

など実は大した意味はない。だって「原カット」を知ってるんだから(※注)。しか

し、『脱ゴ−宣』で初めてその「絵」に触れた場合ならどうだろう。原カット自体の

情報が何ら無いのならば、私の思う印象とは、また全く別の受けとめ方がなされる筈

だ。そして、上杉氏の行った改変はそういう人達をも含め対象とするものではなかっ

たか。であるとすれば、改変の「効果」については説明するまでもないだろう。

(※注)次項8の反論の中で、上杉側はこう言っている。

[(略)被控訴人が無修正で引用することは、読者に当該カットのイメ−ジを刷り込

んでしまうことになり、さらなる人権侵害を引き起こす結果となる。未だ当該カット

を見たことのない読者に対する関係でそうした人権侵害を引き起こすのはもちろんで

あるが、既に当該カットを見たことがある読者に対する関係でも、当該カットのイメ

−ジを重層的に刷り込んでしまう点で、さらなる人権侵害を引き起こしてしまうので

ある。]

 

◆ 前掲(前半)『コピライト』の中で、大江修子弁護士はこの点につきこう述べ

る。

[「やむを得ない改変」の認定については、改変以外の代替手段の不存在ということ

が考慮されるべきと思料する。この点で、(カット4)については目隠しという改変

をしなくても、論説文内での説明によって人物の人格的利益の侵害を防ぐことができ

たのではないか、(略)]

 本件事案を正確に把握しているのか理解に苦しむ。(まあ、私の勘違いもこれに近

いものがあったので偉そうなことは言えないのだけど・・・。)

 大江氏への反論については、ここまでの私の検討が意図どおりに伝わっているなら

不要だと思料する。

 

◆ 以上、「目隠し態様での改変」についての、私なりの「検討/検証」でした。

 反論、歓迎。(「103章/反論」追記参照)

 

8 人格的利益侵害の現実的危険は存在しない

《原判決は、原著作物に相当な改変を施すことを許容しなければ、当著作物を引用す

る際に引用者において右第三者の人格的利益を侵害するという危険を強いることにな

り、さもなければ、当該著作物の引用を断念せざるを得ない」という。しかし、この

点も明らかに不合理である。》

 

◆ つまり、仮に侵害があったとしても人格的利益を侵害しているのは控訴人(小

林)の方なのだから、「醜い」と批判的に扱っている(人格的利益を擁護しようとし

ている)上杉が、小林を飛び越えて責任を追求されるなどということは有り得ないと

言うのだ。

 相変わらず、勘違いも甚だしい。上杉側反論を引いておく。

[被控訴人及び原判決が指摘しているのは、当該カットの引用自体によって直ちに

「第三者の人格的利益を侵害する」ということであり、そのような危険を引用者に負

わせないために相当な改変は許容されるということである。

 第三者から責任追求されるか否かは次の次元の問題であって原判決に対する批判と

はなり得ない。]

 当たり前だ。

 上杉氏は、別に龍平君からの責任追求を避ける為に目隠しを入れたわけじゃない。

小林が、宅八郎作品から「切通(弱虫毛虫)理作」の住所欄を伏せ字にして引用した

のも、当時は子分のようだった切通からの責任追求を避ける為ではあるまい(笑)。

ここでの小林の理屈から言えば、勝手に住所を公開しているのは宅の方なのだから、

小林が原状のまま引用したって切通が宅を差し置いて小林の責任を追求することなど

考えられないのだから、小林は、著作権法に則り伏せ字になどせず引用すべきだった

のではないのか(笑)。

 反論していて情けなくなってくるが、相手が相手だしそれも仕方ない。

 

  《『脱正義論』での初出から『脱ゴ−宣』発行までの一年二ヶ月の間、膨大(二

〇万部)な発行部数において右カットは現実に広く公表されていたのである。この

間、川田氏自身やそれ以外の第三者から、「醜く描かれており名誉感情を害する」と

の指摘や責任追求は一切ない。そのような状況において、同カットを引用し「醜い」

と批評するに際して、「引用者において右第三者の人格的利益を侵害する」事態が改

めて発生することはおよそ有り得ないというべきである。》

 

◆ しかしまぁ、身勝手さここに極まれりという感じですね。小林宛に直接の「指

摘」や「責任追求」が無いのだから、上杉よ、安心して引用しなさいって言ってるの

だから。テメエの「人権無視」に荷担しろとでも言うのか。

 反論していて情けなくなってくるが、相手が相手だしそれも仕方ない。

 

9 引用断念のおそれもない

《被控訴人書籍においては多数の「似顔絵」を「引用」しているが、そのうち目隠し

をしているのはわずか三カットに過ぎない。逆に、目隠しせずに「引用」している似

顔絵は一〇カットにも及ぶ。

 そこでは、目隠しを施すか否かについて何ら明確な基準があるわけではなく、全く

恣意的・場当たり的に行われている。「醜い」か否か、「不快」か否かなどという判

断基準でその区分けを説明することは不可能である。》

 

◆ 「一般論」に敷衍して語ろうとするから「不可能」なのだ。

 先にも述べたが、引用者である上杉氏の判断、それが全てでありそれ自体を否定す

ることは誰にもできない。もしも、同じカット(龍平君)を引用する必要があなた

(小林に非ず)にあったとして、あなたが上杉氏の判断と全く逆の判断をするなら、

その時は目隠しなど入れず、堂々と原状のまま引用すればいい。それだけのことだ。

 「103章/反論」で私はこう書いた。[もし今回のケ−スのようにその引用が新

たな「名誉侵害」を再生すると引用者が考えるならば、その似顔絵の当事者に確認し

てみるというのはどうだろう。その絵の当事者がさして気にもしていなければそのま

ま原状引用(著作権的には、やはりこれが「鉄則」なんだから)すればいいし、逆の

場合なら堂々と『脱ゴ−宣』のような引用をすればよい](「P.73下段」部

分)。

 バカである。とてつもなくバカだったと我ながら情けない。[「名誉侵害」を再生

する]と考えたのならば、自身の判断と責任において「やむを得ない改変」を選択す

ればいいのだ。当事者への確認によって左右される程度の、つまり、本人が「気にし

ていない」と答えたなら目隠しなどせずに引用できる程度の「侵害(不快)認定」と

は、お前(私ね)にとって何ぞやという話だ。我ながら、呆れ果てるしかない。

 

◆ 上杉側反論。

[(略)被控訴人は、目隠しを入れられないのであれば、川田龍平氏らの肖像権・名

誉権侵害となる表現を自らの手でさらに公表することは自己の良心に照らしてできな

かったのであり、目隠しをしたうえでの引用か引用断念かの二者択一を迫られていた

のであって、この点を看過した控訴人の右主張は失当である。

 なお、被引用カットのうち三カットのみ目隠しをしたのは、既述(平成一〇年六月

一五日付被告準備書面六頁)のとおり、当該三カットについては対象の肖像権、名誉

権侵害の度合いが甚だしいと判断したからである。]

 

10 「不正確な引用」

《(「醜い」と評していることを指して)そうだとするなら、被控訴人の言を借りる

なら、その批評対象であるカット4を正確にそのまま引用しなければならない筈であ

る。それをあえて目隠しによって覆い隠し、「醜くない」絵に変えた上で不正確な引

用をしたことは、まさに論理矛盾というほかない。》

 

◆ 既述。もう十分ですよね。

11 まとめ

《略》

 

三 カット53および54について(判決七六頁以下)

 

《略。カット4に同じ》

 

◆ アチキの反論も同じ

 

四 カット27について(判決七三頁以下)

 

《原判決は、@加筆があっても「原カットの内容は完全に認識できる」こと、及びA

「控訴人著作物の一部であると誤解するおそれは存在しない」ことを理由に、右加筆

行為は二〇条一項の「改変」に当たらないとし、「やむを得ない」ものか否かを考慮

するまでもなく適法としている。》

 

《しかしこれは同一性保持権の本質を明らかに見誤っている。

 著作物への無断加筆が行われると、その瞬間、原著作物とは異なった表現をもたら

されるのであり、そこから直ちに著作権者の名誉感情は害され精神的苦痛が発生す

る。》

 

◆ ここでもまた「ベルヌ条約」を持ち出している。

 そして、その苦痛は、原カットの内容が完全に認識できなくなったからでもなく、

また加筆部分が原著作物の一部であると誤解する恐れが出たからでもないと言い、あ

くまで自己の著作物の形を変えられたこと、それ自体による精神的苦痛なのだとのた

まう。

 先の「ベルヌ条約」についての言及をここでの反論に替える。

 

3 《もし、原判決のように極めて狭義に「改変」か否かを判断するならば、いわゆ

る「パロディ事件」での写真も「改変」ではないということになろう。なぜなら、右

写真では、@元の山岳写真の内容は完全に認識でき、しかも、A巨大なタイヤが著名

な山岳写真家の作品の一部であると誤解することは一般的に有り得ないからであ

る。》

 

◆ こらこら、こら(笑)。

 こんな幼稚な理屈にも反論しろと言うのか。「子供電話相談室」か、ここは。

いいかい。マッドアマノは一枚完結の写真作品の中に別にタイヤの写真を「貼り付け

た」んだよ。あなたが勝手に決めつけている@の中の、「内容は完全に認識でき」っ

てどういうこと?。背景に写る一番大きな山は、巨大なタイヤ写真の貼り付けによっ

て全然認識できないよ。一番かっこいい山なのに(笑)。いい加減だなぁ。

 翻って『脱ゴ−宣』。上杉氏の加筆は、正確に言えば、文字を囲った「丸」とその

「指示線」の一部である。この点、原判決も厳密に認定しこう述べる。

[カット27における原カット(ロ)に対する加筆のうち、原カット(ロ)内に位置

するのは、文字の一部を丸で囲んだ線とこの丸を欄外に導く線の一部であり、右線が

あるとしても、原カット(ロ)のもとの内容は完全に認識することができる。]

 要するに、「新実」「殺人未遂」「麻原」等の文字は、厳密に言うなら、上杉本人

の著作物内に書かれているわけだ。つまり、この文字郡は「加筆」ではない。どうも

小林の主張を聞いてると、さも小林著作物内に「新実」だの「麻原」だのと書き込ん

だみたい。ここ、勘違いしないように、皆さん。

もし上杉氏がこの2コマをそのまま使い、「業者」や「強制連行」を一端消した上で

「新実」や「殺人未遂」に変えたとしたのならば、いくら「書き換えは筆者による」

と断りがあっても、それはまずいと思う(法的に勝ったとしてもね)。しかし本件の

ケ−スは、文章で言うなら、強調したい部分をゴシックにしたり、傍点を付したり、

又は二重線を引いたりといった類に相当することで、そも「改変」などという概念に

当てはまるとはどうしても思えない。原判決が、[著作権法二〇条一項にいう「改

変」ということはできない]と判示したのは極めて当然のことだろう。

 小林は前2で、「完全に認識できる」とか、「原著作物の一部であると誤解する恐

れ云々」などとは無関係に、「同一性保持権」の前提条件である、「改変」には当た

るとの認定が為されるべきと主張している。その上で、「やむを得ない」改変か否か

を実質的に検討すればよい、と。

 しかし、これを「改変」と認定すれば上に挙げた文章での例におけるようなことも

全て「改変」に当たることになり、裁判所とすればそんな判断は採り得ないだろう。

探すのにさほどの苦労はいらない「傍点は筆者」だの「ゴチックは引用者による」だ

のといった日常茶飯の方法が、実は「やむを得ない」改変だったなんて誰が納得する

と言うのか。

 

《カット27に関する原判決の認定は誤りであり、同一性保持権を侵害する「改変」

に当たるというべきである。》

 

[ちなみに、控訴人書籍(証拠略)を見ると一目瞭然であるが、控訴人の作品では必

ず、コマ割の欄外スペ−スに、控訴人自身が手書きでコメントを書き込むのが、通例

となっている。したがって、仮に百歩譲って原判決の基準によったとしても、読者が

被控訴人による加筆部分を控訴人著作物の一部であると誤解するおそれは十分に認め

られるのである。]

 

◆ こらこら、こら(笑)。「不正競争」に匹敵するバカ理屈(笑)。本気なのか。

大丈夫か?。何でも言えばいいってもんじゃないだろよ。

 引用当該コマ以外のスペ−スは上杉氏の著作物だぜ。何書こうが上杉氏の勝手だ

よ。それを小林著作物(当該カット)の一部だと誤解する読者がいたとしたって(い

ねえよ)、そりゃその読者固有の○○○の問題だな。

 百万歩譲って小林の言うとおりだとしよう。でも、『脱ゴ−宣』のP.37には既

に加筆前の原カットが載ってるぜ(笑)。(このカットが先にあるからこそ、「加

筆」した上での反証が説得力を持って読者に伝わるのだ。)つまり、「小林論理によ

ったとしても、読者が被控訴人による加筆部分を控訴人著作物の一部であると誤解す

るおそれは万に一つも認められないのである」。

 ちゃんと読めよとジュリエット。(あまりにバカバカしい理屈だったので、バカバ

カしいダジャレで締めてみました。)

 

[よって、原判決の基準によってもよらなくても、被控訴人のカット27への加筆行

為は著作権法二〇条一項の「改変」に当たると解すべきである。]

 

◆ ・・・・・・・・・・・。

7/8

《略》

 

五 カット37について(判決七四頁以下)

 

《原判決は、コマの配置変更は「改変」に当たるとしながら、@各コマを読む順序に

変更が生じる可能性はないとし、Aそのままのコマ割で引用する為に縮小すると、ネ

−ム部分が判読しにくくなると認められるとして、「やむを得ない」改変であると認

定している。》

 

《(証拠略)は被控訴人書籍より小さな版であるが、全て引用は縮小複製されてい

る。ネ−ムの文字は極めて小さくなっているが、それでもレイアウトなど一切変える

ことなく、必要となるネ−ムは本文中で全て抜き出して「引用」しているのであ

る。》

 

◆ 「従」として利用する以上、そうあるべきなんだとさ。

 この五は、えらく冗長に述べられているのだが、要は、「103章」でのよしりん

主張とさほど変わらない。以下、6まで続くのだが面倒だからここでまとめておく。

3・漫画家はコマの配置に心血を注いでいる。

・二コマ目と三コマ目が縦に並べられた為、構成意図が全く無視されている。控訴人

自身の視線と指はあらぬ  方向を指し示し、間の抜けた意味のない構図になってし

まっている。

・原判決は、絵と文字の不可分性を認め「正確な引用」と認容しながら、コマの配置

変更に関しては単純に   「読む順序」だけを基準にしている。「改変」によって

意味合いや意図が破壊されているにも関わらず、そ  の点は全く無視されている。

4・原カットのまま縮小した場合にどの程度判読しにくくなるのか、全く検証されて

いない。原判決の認定は、  イメ−ジだけを語るものであり、全く証拠によらない

ものである。

5・同カットの採録頁には、見出し周辺に大きな空白がある。

・レイアウト上、わずかな工夫・努力をしていれば、強引なコマ割の配置変更は容易

に避けられた。

6・原判決は、安直にコマ割を変更した被控訴人の行為を簡単に容認し、控訴人に一

方的犠牲を強いたあまりに  バランスを失した不公平な判断である。

・「やむを得ない」理由は一切認められず、著作権法違反行為と断ぜざるを得ない。

 

◆ こんな所ですわ。大した主張は無いでしょ(笑)。簡単に済ませましょうね。

 その前に。

 今まで誰も気付かなかった点が「上杉側反論」において指摘されました。小林も、

上杉側も、裁判所も、当然の如く「三コマ」だとばかり思っていた当該カットです

が、実は「二コマ」だったのですね。びっくりしました。注意が足りませんでした。

気付いたのは、高橋弁護士かなあ、上杉さんかなあ。

 だいたい小林さんが訴状の段階からずっと「三コマ」なんて言ってっからいけねえ

んだよ(笑)。描いてる本人がこれじゃあなぁ。そりゃ、こっちは間違うっての(

笑)。

 

◆ 『脱ゴ−宣』P.76のカットを見ておくんなまし。この引用を見て、「わしが

何も無い空間に指を指している」と小林は主張するであろうか(実際、してないのだ

けど)。でも、整合性から言えばそう主張しなきゃね。ましてこのカット、ネ−ムで

は「見ろ!」って言ってんだから。「構成意図」がズタズタにされてんじゃん

(笑)。

 小林さん、もういいだろう。恣意的で場当たり的な主張を繰り返しているのはいっ

たいどちらなのか。裁判に訴える以上「整合性」は最も大切なことではないのか。

 『ゴ−宣』じゃないんだぜ。

 

◆ 上杉側が控訴審において唯一勝ち取るものがあるとすれば、ここでの「改変」認

定の取消しである。「103章/反論」でも述べたように、私はどうしても納得がい

かないのだ。

 漫画における「コマ割りの改竄」を言うなら、それは「連続性の破壊」にしか有り

得ない。恣意的に、自由に、一コマ抜く引用が認められて、何故二コマになったとた

ん、急に原状配置が要請されるのか。

 例えばABと連続する二コマを批評する場合、先ずAを引いて批評した後、Bを引

用して批評するようなケ−スもあろう。またAだけの場合もあれば、Bだけのケ−ス

もあるだろう。何の問題があるか。そして、ABいっしょに引用する場合、BAと配

置する必要などおよそ有り得ないし、そんなことが要求されるレイアウトの都合も有

り得ないだろう。ならば、一般的観念に照らしABの連続が感得されるならば、それ

は「改変」ではないのではないか。かかる「論理」が改変だというのならば、一コマ

の引用でも改変だと言い得るケ−スが必ずある筈だ。原判決がそこまでを含意して

「改変」だと認定したのならば、まだ納得する用意もあるのだが・・・。

 

◆ 百歩譲る。原判決の「改変」認定を認めよう。しかし、それは、あくまで「三コ

マ」を所与の前提として判断されたものである。つまり、「横横横」の原状を「横横

縦」と配置したことが「改変」だとされたわけだ。

 しかし、「二コマ」なんである。「横横」を「縦縦」に配置したに過ぎない。もし

これが改変なら、「縦書き」の原文を「横書き」に引用することも(レイアウト上の

やむを得ない)「改変」だということになりはしないか。

 裁判所は、当該カットが「二コマ」であることに気付いていたかもしれない。しか

し、当事者間にそのことについての争いがなかった以上、「三コマ」として判断せざ

るを得なかったとも考えられる(違うだろうけど)。今回上杉側が提示した「二コ

マ」は、いわゆる新証拠に当たる。判断の前提である「コマ数」が違っていたのだか

ら、改めて判断し直す必要が生じるわけだ。

 「改変」ではないと思う。

 

◆ この点、私と高橋弁護士の心は『バロム1』のように一体だ。(古っ、齢がバレ

るなぁ。)

[また、コマ(い)のみを引用することも、コマ(う)のみを引用することも部分引

用として認められる。

 たとえば、(証拠略)のように引用することも認められるのである。そして、かか

る引用が改変にあたる余地は全くない。

 本件では、レイアウトの都合上、コマ(い)を被控訴人著作の上段上部に引用し、

コマ(う)を上段下部に引用したにすぎず、そもそも改変にはあたらない。

 コマの順序を入れ替えたりするなど意図的に意味内容に改変を加える場合であれば

ともかく、左端のコマ(う)を下段に引用したにすぎない本件カットは改変にあたら

ないというべきである。]  

 

六 まとめ

 

《略》

 

第三 損害について

 

[控訴人は、原審及び本件控訴状において、著作権法一一四条一項により控訴人の損

害を算出しているが、同条二項による算出に改める用意がある。

 必要に応じ追加主張する。]

 

◆ やっと気付きやがったか(笑)。一一四条一項が通る筈などないことは、「答弁

書」(1998/2/27)の段階で上杉側が主張してたろ。

お手元に『著作権法』がある人などそう多くはないだろうから(笑)、簡単に説明し

ておく。第一一四条一項は、侵害を受けた者(小林)の損害額の算定に当たって、侵

害者(上杉・東方出版)の受けている利益を、その損害額と推定できるというもの

だ。つまり、小林の損害額は『脱ゴ−宣』の売上げと同額だと主張していたわけ。ス

ゴイでしょ。

だけど無理なんだよねぇ。それは『小学館』のみができる主張なんだから。ぴったり

の判例があるから、参考までに紹介しておこう('78/6/21東京地判、「日照

権」盗用事件)。一読理解しやすいように、「原告」「被告」「原告書籍」「被告書

籍」等の文言を本件に当てはめて引用する。

[ところで、小林は、上杉らが『脱ゴ−宣』の発行、販売によって純利益を得たと

し、その額を自己の損害の額として主張する。しかしながら、小林が自ら『ゴ−宣』

の発行、販売を行っていないことは本件口頭弁論の全趣旨により明らかであるから、

小林が著作権法第114条第1項の規定を援用して、上杉らが『脱ゴ−宣』の発行、

販売によって得た純利益の額を自己の損害の額として主張する余地はないものという

べきである。

 したがって、小林はその著作権の行使につき通常受けるべき使用料に相当する額の

金員を自己の損害として請求しうるにとどまることになる。]

 後段に出てくる「通常受けるべき使用料」云々が、今回小林がこちらに改めたと言

う同条二項。最初からこっちの主張しかできなかったのだから、そうしとけばよかっ

たものを。カッコ悪りぃなぁ(笑)。

 こちらの主張に変えたとたん、請求額には雲泥の差が生じる。だって、通常の「使

用料」だもん。今までの二六二〇万(爆笑)(精神的苦痛への慰謝一〇〇万を含む)

が、一体いくらに減じてしまうのか・・・。

 私の興味はつきません。

 

◆ ちなみに、一一四条一項による請求の大もとには「不正競争防止法」違反の主張

がある。二項に改めたということは、この「不正競争」の主張を取り下げたというこ

と。

 めでたし、めでたし(笑)。

 

★ 以上で全て。長かったですね。読了多謝。

【追記】

◆「謝意」

 本拙稿執筆にあたり、北村行夫弁護士の『判例から学ぶ著作権』からは多大な影響

を受けております。また、ライタ−の松沢呉一さんの書く「著作権」に関する種々の

論考にも大変感化されています。

ありがとうございました。

 

2000/2/21