平成15年(受)第1793号、1794号

謝罪文掲載等請求上告受理申立事件

申立人        小林善範外 1 名

相手方         上杉 聰

答 弁 書         平成16年 月 日

相手方訴訟代理人弁護士   土   屋   公   献

同             高   谷       進

同             小   林   哲   也

同             小   林   理 英 子

同(主任)     高   橋   謙   治

同             中   田       貴

同             中   村   仁   志

 

最高裁判所第1小法廷 御中

1 最高裁判所平成9年9月9日判決(以下「最高裁平成9年判決」という。)と「事実の摘示」について 

1 最高裁平成9年判決は、「新聞記事中の名誉毀損の成否が問題となっている部分について、そこに用いられている語のみを通常の意味に従って理解した場合には、証拠等をもってその存否を決することが可能な他人に関する特定の事項を主張しているものと直ちに解せないときにも、当該部分の前後の文脈や、記事の公表当時に一般の読者が有していた知識ないし経験等を考慮し、右部分が、修辞上の誇張ないし強調を行うか、比喩的表現方法を用いるか、又は第三者からの伝聞内容の紹介や推論の形式を採用するなどによりつつ、間接的ないしえん曲に前記事項を主張するものと理解されるならば、同部分は、事実を摘示するものと見るのが相当である。また、右のような間接的な言及は欠けるにせよ、当該部分の前後の文脈等の事情を総合的に考慮すると、当該部分の叙述の前提として前記事項を黙示的に主張するものと理解されるならば、同部分は、やはり、事実を摘示するものと見るのが相当である。」、「本件記述は、元検事の談話の紹介の形式により、上告人がこれらの犯罪を犯したと断定的に主張し、右事実を摘示するとともに、同事実を前提にその人格の悪性を強調する意見ないし論評を公表したものと解するのが相当である」などと判示している。 

 すなわち、同最高裁判決は、表現の中に「事実」の摘示の要素があれば「事実の摘示の判断基準」、「事実」の摘示の要素がなければ「論評の判断基準」を用いるべきとしている。

 そしてここにいう「事実」とは、「証拠等をもってその存否を決することが可能な他人に関する特定の事項」(同判決)である。

2 なお最高裁が「論評の判断基準」を適用したサンケイ新聞事件(最高裁昭和62年4月24日判決)は、公党同士の論争という最も高度の公共性が認められる極めて特殊な事案であり、その広告の内容も政党間の政策に関する論評である。

 同様に「論評の判断基準」を適用した通知表に関するビラ配布事件(最高裁平成元年12月21日判決)において争われた表現は、「愚かな抵抗」「有害無能」などであって、これらの表現は「証拠等をもってその存否を決することが可能」とは言い難い内容であり、後述する「生の事実」や「法的事実」の摘示が争われた事案ではない。

 したがって、最高裁平成9年判決の上記基準は、当然ながら、過去の判例と矛盾抵触するものではない。

3 事実には、「生の事実」と、「法的事実」とがある。

 「生の事実」とは、例えば「Aは、Aの妻を射殺することについて、Bと話し合っていたこと」など、法的評価を加える前の事実である。

 「法的事実」とは、生の事実を素材として法的規範や経験則等を用いて法的に評価した結果、要約・再構成された事実であって、「生の事実に法的評価が加わったもの」である。例えば「Aは殺人の共同正犯である」「Aは殺人未遂事件及び殺人事件の犯罪を犯した」という事実である。

 この「法的事実」の摘示に対して、「事実の摘示の判断基準」を用いるべきか「論評の判断基準」を用いるべきかが本件の最大の争点である。

4 人の社会的評価は、不名誉な生の事実の摘示によっても低下するが、生の事実に法的評価を加えたもの、即ち法的事実を摘示する方がより大きく低下するものである。

 法治国家においては、社会の最低限度のルールである法に違反したときは、当該個人に対して大きな社会的非難が加えられることになる。したがって、違法と評価される行為を行うと、当該個人の社会的評価は大きく低下する。「Aは不道徳なことをした」、「Aは不当なことをした」という非難より、「Aは犯罪を犯した」という非難の方が、遙かに当該個人の社会的評価を低下させるものであることは明白である。

 また例えば、「Aがお金を支払わずに店先からバナナを持って走っていった」という生の事実を摘示しても、読者は、それがAの社会的評価を低下させる不名誉なことかどうかは直ちには理解できない。Aが店主の子供であって親である店主から貰ったなど、Aにそうする権利があったのかもしれないからである。

 しかし「Aは窃盗をした」という法的事実を摘示した場合、読者は、それがAの社会的評価を低下させる不名誉なことであると直ちに理解できる。

 したがって、不名誉な法的事実の摘示の方が、生の事実の摘示より、人の社会的評価を大きく低下させるものである。

 とりわけ犯罪事実の摘示は、そのこと自体に強度のマイナスの評価が当然に包含されている。「Aが犯罪を犯した」という表現は、「Aが民法○○条に違反した」という表現より遙かに大きく当該個人の社会的評価を低下させることになる。本件叙述は、「盗んで」「ドロボー」というものであって、虚偽の犯罪事実(著作権法119条違反)の摘示である。

5 そもそも、事実の摘示と論評とで、判断基準を異にすることとなったのは、事実の摘示はその真否を判断できるが論評の場合はその真否を判断できないこと、事実の摘示は個人の社会的評価を低下させる程度が大きいこと、論評は表現者の個人的評価・個人的意見であることが明らかであるため、事実の摘示に比して当該個人の社会的評価を低下させる程度が小さいことによる。

 すなわち、法や判例は、他人の社会的評価を毀損する言明は原則として違法であることを前提として、真実性の証明か相当性の証明ができた場合には違法性や責任を阻却することで、表現の自由を保護している。

 しかし、真実性の証明が不可能な事項、即ち証拠によって存否を決することができない事項については、そもそも真実性の証明が不可能であり、名誉毀損の程度が低いため、その前提事実の真実性・相当性の証明で足りることとしたのである。

 つまり、証拠によって存否を決することができない事項については、社会の認識が一致することはない。そのような事項の言明は、表現者の個人的意見であると読者は理解する。社会の一致した非難を受けないことから、かかる事項の言明による当該個人の社会的評価の低下の度合いは、事実の摘示の場合と比べて低い。

 しかし事実は、証拠等によってその存否を決することができる。証拠によって存否を決することができるということは、社会が、その事項の存否について一致した認識を持つことが可能であるということである。よって不名誉な事実が摘示された場合には、社会から一致した非難を受けるのであり、これによりその者の社会的評価は大きく低下する。

 そして、法的事実の摘示のある場合は、前記のとおり生の事実の摘示のある場合より一層名誉毀損の侵害の程度が大きいのであるから、名誉を十分保護するためには、法的事実の摘示も事実の摘示であると解すべきである。

 また法的事実の摘示は、表現者の個人的評価・個人的意見であるとはいえない。法的事実の摘示によって、読者は、その事実が真実であると理解するのである。法的事実、即ち「生の事実に法的評価が加わったもの」は、裁判所において最終的に「証拠等をもってその存否を決することが可能」な事項である。読者は、法的事実は言論者の純粋な個人的意見とは捉えず、真実であるかもしくは社会一般の共通の理解であると受け止める。「Aは殺人罪の犯罪を犯した」という表現は、この点で「愚かな抵抗」「有害無能」などの論評の表現と全く異なるのであって、こうした表現によって対象者の社会的評価は大きく傷つけられることになるのである。

6 最高裁平成9年判決の事案においても、Aは、「いつ、どこでXが誰とどういう話をしていたか」というXの具体的な生の事実を摘示したわけではない。あくまでも「Xが殺人罪になる犯罪行為をした」という法的事実を摘示したのである。

 同判決は、「Xは極悪人、死刑よ」という見出しについて、「本件見出し1は、Aの談話の紹介の形式により上告人がこれら(注:殺人未遂事件及び殺人事件)の犯罪を犯したと断定的に主張し、右事実を摘示するとともに、同事実を前提にその行為の悪性を強調する意見ないし論評を公表したもの」と判示している。

 「殺人罪等の犯罪を犯した」という表現は、生の事実に法的評価を加えたものである。つまり、同判決は、本件見出し1が「殺人未遂事件及び殺人事件の犯罪を犯した」という法的事実を主張している、と認定している。

 他の見出しについても同様に、同判決は、「殺人未遂事件及び殺人事件の犯罪を犯した」という法的事実を認定している。

 さらに同判決は、「原判決は、…右嫌疑に係る犯罪事実そのものの存在については被上告人においてこれを真実と信ずるにつき相当の理由があったか否かを特段問うことなく、その名誉毀損による不法行為責任の成立を否定したものであって、これを是認することができない」とも判示している。

 犯罪事実とは、法的評価を加えた結論であって、法的事実である。

 よって、同判決は、法的事実の摘示がある場合には「事実の摘示の判断基準」を用いることを明確に示している。

7 この点、同判決の評釈として、次のような評釈が存在する。

「存在の証明される事実から、それとは別の事実の存在を推理する言明を、事実と意見のいずれに分類するかの問題である。推理の主観的性質は否定できず、その表現には修辞がつきものである。この点に着目すれば意見言明として扱うこともできよう。しかし、主観的推理ないし心証もその目指すところの結果は、真偽が客観的に検証され得る事実である。この点に着目すれば事実言明に分類すべきことになる。

 事実摘示型名誉毀損において、摘示事実の真偽につき厳格責任を排するわが判例の立場からは、事実推理言明は事実言明として扱うべきである。なぜなら、十分に合理的な基礎に立った妥当な推理であるならば、結果が真実と証明できなくとも、真実と信ずるに相当の理由があるとして保護され得るからである。とりわけ、犯罪の告発の大半が事実推理言明であることを思えば、原告の受ける打撃の深刻さとの均衡上も、事実推理言明の保護はこの程度で足りると言うべきである。本判決が推論形式による事実の摘示に言及しているのも、この趣旨からであると解することができる」(山口成樹・東京都立大学助教授/法学教室・判例セレクト’97/24頁)。

 すなわちこの評釈も、@事実推理言明もその真偽を客観的に検証しうる点で事実言明と異ならないこと、Aアメリカと異なり我が国では相当性の立証により表現者は免責されること、B犯罪の告発等の事実推理言明による被害が深刻なことから、事実推理言明には「事実の摘示の判断基準」を用いるべきとしている。

 そもそも言明には、多かれ少なかれ評価や推論が含まれる。

 例えば「私は、AがBを殺しているに違いないと思う」という言明にも評価、推論が含まれており、意見であると見る余地も理論的にはある。

 このとき、「AはBを嫌っていたから、私はAがBを殺しているに違いないと思う」と言明すれば、前提事実(即ち真実性の証明対象)は「AがBを嫌っていたこと」になるのであろうか。逆に言えば「AがBを嫌っていたこと」さえ立証すれば、自由にこのような言明をなし得るのか。

 さらに「市長Aは業者Bと一緒に歩いていたから、私は市長Aが業者Bのために汚職をしているに違いないと思う。」と言明すれば、前提事実は「市長Aが業者Bと一緒に歩いていたこと」になるのであろうか。

 そのような結論が不合理であることは明白である。

 これらの言明において、Aの社会的評価を貶めると考えられる叙述は、「殺人罪を犯した」「汚職をした」という点にある。

 そして、これらはいずれも証拠等によってその存否を検証可能である。

 したがって、これらの場合には、「事実の摘示の判断基準」が用いられるべきである。

 本件も同様に、「相手方の社会的評価を貶めると考えられる叙述は何か」から出発しなければならない。

 それは「上杉はドロボーをした」という叙述、すなわち「相手方が複製権侵害を行った」という点にある。

 そして、相手方が複製権侵害を行ったか否かは、証拠等によってその存否を検証可能である。

 したがって、相手方が複製権侵害を行ったか否かは、最高裁平成9年判例のいう「事実」であって、「事実の摘示の判断基準」が用いられるべきである。

8 医療法人十全会事件判決(最高裁昭和58年10月20日判決、大阪高裁昭和55年9月26日判決、大阪地裁昭和52年7月29日判決)においても、法的事実の存否が争われている。

 これは精神病院における医療行為が犯罪行為にあたるとして新聞等に告発した行為が名誉毀損に当たるか否かが争われた事案である。

 本件と同様、この事案においても、「なされた医療行為の内容」という生の事実についてはほとんど争いがない。争いがあったのは、かかる生の事実に法的評価を加えた結論として、当該行為が違法な行為であったか否かである。

 同事件控訴審判決は、「真実性の証明ないし虚偽の事実か否かが問題となるのは、右Aのベッド拘束が本件告発がいうように『何ら医療及び保護の必要がない』のに行われたもので監禁、暴行に当たるか否かという点である」と述べている。そしてさらにその「監禁、暴行に当たるか否か」という法的評価の判断にあたっては、「手段、方法の相当性」というまさに法的評価について検討している。

 すなわち、「なされた医療行為の内容」という生の事実に法的評価を加えた法的事実について、真実性・相当性が争われたのである。

 1審は、当該医療行為は正当な医療行為であると認定して、これを犯罪行為にあたると公表する行為は名誉毀損となると判示した。

 しかし2審は、当該医療行為は違法な医療行為であると認定して、これを犯罪行為にあたると公表する行為は真実の「事実」の公表であるとして名誉毀損とならないと判示した。

 最高裁も、2審を維持し、告発事実については重要部分につき真実性の証明があったと判示している。これは即ち、「違法な医療行為の存在」という法的事実に関して事実摘示があるとした上で、かかる法的事実について真実性の証明があったと判示しているのである。最高裁は、決して「告発した意見・論評」の前提事実について判断しているのではない。

 この事案において、当該医療行為の適法性については、1審と2審で判断が分かれており、必ずしも一見して明白であるとはいえない事案であった。当該医療行為の適法性という専ら法的評価に関する争いであったが、同判決は、事実の摘示のある場合として、「事実の摘示の判断基準」を適用している。

 したがって、この最高裁昭和58年10月20日判決も、生の事実に争いがなく法的評価について争いがある場合において、事実の摘示があると判断しているのである。

9 小学館の主張するように、法的評価は全て論評であるとして「論評の判断基準」を用いたとすると、次のような不合理が生じることになる。

 法的評価の場合の全てに「論評の判断基準」を適用するとすると、前記医療法人十全会事件判決の事案のように、なされた医療行為の内容という生の事実について争いがない場合には、「当該医療行為は違法であり、病院は不法監禁を行い、傷害を行っている」という言論は全く自由ということになる。

 もちろん、当該事案のようにその言論内容が真実であれば全く問題はないが、仮に、真実でない場合にも名誉毀損が成立しないというのでは、病院の受ける打撃は著しいものがある。

 しかも、「論評の判断基準」によれば、生の事実に争いがない以上、捜査の結果不起訴となった後も、未来永劫、当該病院は「不法監禁や傷害を行った病院」と呼ばれ続けることを甘受しなければならないことになる。かかる表現に真実性も相当性も不要というのは、余りにも表現者側に偏った判断である。

10 本件における申立人らの主張は、次のとおりとなる。

 @何コマ無断複製したか等の生の事実については争いがない。

 A複製権侵害かどうかは法的評価である。

 B法的評価の言論については「論評の判断基準」を用いるべきである。

 C「論評の判断基準」における「論評の前提事実」は生の事実である。

 D生の事実は真実だから、「相手方が複製権侵害をした」「上杉はドロボーである」という表現は、別件著作権裁判が確定する前はもちろん、確定した後であろうとも全く自由である。

 このような結論は、常識的にみて到底認められない。司法制度が完備している我が国においては、判決が確定したらそれに従うのが当然であろう。別件著作権判決で複製権侵害行為が存在しないことが確定したにもかかわらず、「上杉は複製権侵害をした」「上杉はドロボーである」という表現をし続けることができるという結論は、余りにも非常識である。また裁判制度の意義を著しく没却するものである。

 現実の行為としては、相手方が行った行為は無断転載行為ではあっても同時に引用行為であって、適法な行為である。したがって、相手方は「ドロボー」をしていないのである。換言すれば、小林が「ドロボー」「わしの絵を盗んだ」と叙述することが許されるのは、引用行為でない無断転載行為に対してのみであって、「上杉はドロボーである」という叙述が、法的評価のみを述べているという考え方は、根本的に誤っている。かかる叙述は、あくまで「生の事実に評価を加えたもの」を叙述しているのであって、事実の摘示の一種である。

 申立人らのかかる主張の結論の不合理さは、法的事実の摘示を論評であると無理に構成した点にある。

 別件著作権訴訟確定後において、申立人らは、一般論として「原判決の論理は不当である」などと判例そのものを批判するならばともかく、少なくとも「上杉はドロボーである」と述べることは許されないはずである。この結論は、いたって常識的な結論である。

 かかる常識的な結論すら導き出せない申立人らの主張の不合理性は明白である。

 また例えば刑法197条の収賄罪の場合、職務関連性が要件である。職務関連性の判断は、Aの職務や贈り主の業務など生の事実を素材として、関連性の有無をどのように法的に評価するかの問題である。

 そして政治家Aが収賄容疑で政敵Bから告発されたが、生の事実には争いがなく職務関連性のみが争われた場合で、結局嫌疑なしという捜査結果であった場合、その後においてもなお政敵Bは「Aは収賄した犯罪者である」と言い続けることができるかどうかである。

 

 法的評価の言論は自由であるという申立人の主張によれば、嫌疑なしという捜査結果が出ても、なお言い続けることができることになる。これは明らかに不合理である。

 

11 この不合理さを回避するために、小学館は「確定し世間の評価も定まった議論にあえて異を唱える場合は、表現方法によっては、論評の域を超えて違法性を阻却されない場合もある」(小学館上告受理申立理由書30頁)と修正条項を加えている。

 

 しかし何故「確定し世間の評価も定まった議論にあえて異を唱える場合」は論評の域を超えて違法性を阻却されないのか、全く不明である。

 

 確定し世間の評価も定まった通説にあえて異を唱える諸説の中から、有力説が芽生え、それが次第に次世代の通説に育っていくのである。確定し世間の評価も定まった議論にあえて異を唱える場合は論評の域を超え違法性を阻却されないとすることは、少数説の抹殺に他ならない。議論の進歩を抹殺する全体主義的発想である。

 

 あらゆる論評は、たとえどんなに少数者の論評であっても、論評として保護されなければならない。そこにこそ言論の自由の真の重要性があるのである。

 

 小学館の主張は、政界、経済界、宗教界などの権力者を批判する論評が「確定し世間の評価も定まった議論にあえて異を唱える場合」と判断される危険性が大きいことを完全に看過しており、論評の自由の重要性を完全に見失っている。

 

 論評の自由に多数決原理を持ち込むことは、言論の自由の意義のほとんどを滅失させることに他ならない。

 

 結局、小学館は、「論評の判断基準」の適用範囲を無理矢理に拡大した結果生じる結論の不合理さに、自ら気づいたのである。そこで、妥当な結論が出るようにするために、論評の保護の範囲を大きく狭め言論の自由を破壊する、およそ採り得ないような修正条項を加えているのである。

 

 また、「確定し世間の評価も定まった議論にあえて異を唱える場合」か否かは、およそ不明確なメルクマールである。「確定し」「世間の評価も定まった」といえるかどうかは全く不明確であり、このような不明確な基準は基準たり得ない。このような基準立ては萎縮的効果が大きく採用し得ない。

 

 小学館の主張に無理があるのは、法的事実の摘示に対して、これは法的評価にすぎないとして、「論評の判断基準」を適用した点にある。

 

 「事実の摘示」を生の事実の摘示に限定し、法的事実の摘示を法的評価にすぎないとすることの不合理さは上記のとおり明らかである。

 

12 そもそも、名誉毀損の成否を考える上での出発点は、一般人が本件叙述を見たときにどう考えるかである。申立人と相手方との間で何が争点であるかが出発点ではない。

 

 申立人と相手方の間で、引用条項の適用の可否が争われていたとしても、本件叙述をみた一般人がそのように感じず、事実の摘示があると感じるのであれば、それは、事実の摘示のある場合である。引用条項の適用の可否が争点であろうとなかろうと、そのようなことは関係ない。

 

 本件叙述の名誉毀損性を判断するにあたっては、一般人が本件叙述を見たときにどう考えるかから出発しなければならない。

 

 一般人は「驚いたのはわしの絵を無断で盗んで乱用」「人の絵をこれもあれも全部引用だと使いまくって、ちゃっかり自分の本の挿絵にしてしまうのはドロボーだ!ドロボーは許さん!」「絵を勝手にドロボーしていいという理由にはならない。…わしの絵がなかったら商品として成り立たなかったはずだ!おまえの文は10円だ!わしの絵が、1190円だ!」

 

「上杉ドロボー本」「上杉聰のわしの絵をドロボーしたこの本」などの本件叙述を見たときに、「上杉と小林の間で法的評価についてのみ争いがあるのか」とは感じない。一般人が、本件叙述を見て「上杉は、小林の絵を無断で盗んだのだろう」と思うことは必定である。したがって、本件叙述が事実の摘示を含むことは疑う余地がない。

 

 「上杉が(絵を)盗んだ」という叙述を、わざわざ生の事実と法的評価に分解して考える必要はない。一般人がこの叙述から何を感得するかを考えるべきである。

 

 「上杉が(絵を)盗んだ」「ドロボーだ!ドロボーは許さん!」という断定的な本件叙述を見たとき、一般人は、「上杉は、複製する権利を違法に侵害する行為を行ったのであろう」と考える。まして小林は、著作権法違反になるという根拠を縷々述べており、読者は、本件叙述は単に小林の個人的意見にすぎず何の根拠もないものであるとは到底考えない。

 

 よって本件叙述は、法的事実の摘示であって、「証拠等をもってその存否を決することが可能な他人に関する特定の事項」の摘示である。よって、「事実の摘示の判断基準」を用いるべき場合である。

 

 仮に、「上杉が(絵を)盗んだ」等の本件叙述を見たとき、一般人が「小林は、上杉が複製権侵害行為を行った、と考えている」と考えたと仮定しても、結論は同様である。

 

 前記最高裁平成9年判決は、推論形式であっても間接的ないし婉曲に事実摘示と解せる場合には、「事実の摘示の判断基準」を適用すべきとしている。

 

 したがって、仮に一般人が「小林は、上杉が複製権侵害行為を行った、と考えている」と考えたとしても、かかる叙述は、推論形式で間接的に「上杉が複製権侵害行為を行った」という事実を摘示したと考えるのが相当であり、「事実の摘示の判断基準」を適用すべきことには変わりがない。

 

13 確かに、本件叙述中には、相手方の主張も記載されている。

 

 しかし、その内容は簡素なものであり、相手方の主張を批判するために一部分のみを引用したものである。むしろ相手方の主張を部分的に取り上げることにより、「ドロボー」という叙述が十分吟味された結論であって真実であるかのように装う効果を生んでいる。

 

 小林の本件叙述を見て、「今後裁判で上杉が絵を盗んだかどうかは明らかになるのであって、現時点ではどちらの言い分が正しいかわからない」などとは、一般人は思わない。最高裁平成9年判決の事案において、一般人が、「Aは死刑よ」という表現を見て、「Aは今後裁判で死刑かどうか明らかになるから、現時点ではどちらが正しいかわからない」などと思わないのと同様である。

 

 また「この著作権侵害事件に関しては弁護士を立てて断固とした法的措置を取る!」という表現は、「著作権侵害行為」が存在することを前提として、裁判で「断固とした法的措置」、即ち出版差し止めや損害賠償を求めることを述べているのである。本件叙述は、決して「両説のいずれが正しいかについて今後裁判所の判断を仰ぐ」というような非断定的なものではない。「法的措置を取る」というのと「裁判所の判断を仰ぐ」というのでは、全くその意味合いは異なる。

 

 仮に本件において、小林が叙述の文脈において「著作権法上適法な引用かどうかという高度に専門的判断であり、判例学説上の解釈基準も決して一義的明確な状況であるとは言いがたい」(小林上告受理理由書4頁)ことをきちんと紹介し、「学説上両説あり、いずれが正しいかわからないが、私は著作権法違反となると思うので、裁判所の判断を仰ぐ。」と表現したのであれば、そもそも相手方の社会的評価は毀損されない。

 

 しかし、申立人らは、「上杉はドロボーだ」と断定的に叙述して相手方の社会的評価を明白に毀損しているのである。

 

 したがって、「上杉はドロボーである」という表現が真実性・相当性を備えないのであれば、申立人らはその責任を負うべきである。

 

14 小林は、本件漫画において、次のように描いている。

 

「驚いたのはわしの絵を無断で盗んで乱用」(甲1号証1頁目)

 

「人の絵をこれもあれも全部引用だと使いまくって、ちゃっかり自分の本の挿絵にしてしまうのはドロボーだ!ドロボーは許さん!」(同2頁目欄外)

 

「盗人猛々しい」(同2頁目)

 

「絵を勝手にドロボーしていいという理由にはならない」(同3頁目欄外)

 

「わしの絵がなかったら商品として成り立たなかったはずだ!おまえの文は10円だ!わしの絵が、1190円だ!」(同3頁目欄外)

 

「上杉ドロボー本」(同3頁目)

 

「ドロボー本を出すやつが」(同5頁目欄外)

 

「このドロボー本」(同7頁目)

 

「ドロボー本で逆襲」(同7頁目)

 

「ドロボー本を持ち上げて」(同7頁目)

 

「上杉聰のわしの絵をドロボーしたこの本」(同8頁目)

 

 <相手方が泥棒の格好をした絵>(同8頁目)

 

 これらはいずれも、「相手方が複製権侵害行為を行った」という趣旨を表現しているのであって、「他人に関する特定の事項」である。そして「相手方が複製権侵害行為を行った」かどうかは、「証拠等をもってその存否を決することが可能な事項」である。

 

 したがって、事実の摘示のある場合である。

 

 常識的に見ても、これらの表現は、いずれも相手方による「複製権侵害行為」が存在することを当然の前提として断定的に述べているだけであって、これらは到底論評とはいえない。

 

15 言論は、天下国家のあり方、政策論、学術論争など「他人に関する特定の事項」でない領域であれば、名誉毀損となる心配はないから、完全に保障されている。確かに、かかる領域の表現の自由は無制限に保障されるべきであろう。

 

 しかし、「他人に関する特定の事項」に関する表現の場合、当該他人の名誉との人権相互の衝突が生じる。そのため、表現の自由は名誉毀損法理によって制限されるのである。

 

 これは表現の自由の内在的制約であって、何ら表現の自由を侵害するものではない。

 

 つまり言論の自由は、言論が他人の名誉を毀損しないことを原則としており、ただ他人の名誉を毀損する言論であっても、それが真実であるか相当であれば例外的に違法性や責任を阻却されるのである。

 

 本件において、仮に「漫画の絵を数十カット無断で転載する行為は、複製権侵害行為であると考える。」という一般的な叙述のみ存在し、「上杉はドロボーだ」という趣旨の叙述がなければ、「他人に関する特定の事項」にはあたらないから、名誉毀損の問題とはならない。

 

 しかし、小林はそのような著作権法上の一般論を表現したかったのではない。まさに「上杉はドロボーだ」という「他人に関する特定の事項」を表現したかったのである。そしてさらに「ドロボーである上杉の従軍慰安婦に関する見解などペテンである」と言いたかったのである。

 

 小林が「上杉はドロボーだ」という「証拠等をもってその存否を決することが可能な他人に関する特定の事項」を表現したいのであれば、小林は、言論者としての最低限のルールとして、名誉毀損にならないよう、かかる表現についての真実性・相当性を備えるべきである。これは、人権相互の調整の帰結として当然である。

 

16 本件において、「上杉聰は、小林よしのりの漫画の絵を数十カットについて小林の承諾なく転載した。」というのが生の事実である。そして「上杉聰は著作権法に違反する複製権侵害行為を行った。」というのが生の事実に法的評価を加えた法的事実である。

 

 原判決は、「控訴人が控訴人著作に被控訴人小林が執筆した漫画を採録した事実については当事者間に争いがなく、ただ、その事実が引用条項によって適法ということができるか否かの法的評価に争いがあったものである。」とし、「法的解釈適用のみが問題となっている事項であっても『証拠等をもってその存否を決することが可能な他人に関する特定の事項』に類するものということができ」「事実を摘示するものとみるのが相当である」と判示している(原判決23、24頁)。

 

 原判決は、生の事実、法的事実という言葉こそ使用していないが、本件は「事実を摘示するものとみるのが相当」とし、「事実の摘示の判断基準」を用いた点で、至極正当な判決である。

 

 逆に、本件において「事実の摘示の判断基準」を用いないとすると、前記最高裁平成9年判決や前記医療法人十全会事件判決(最高裁昭和58年10月20日判決)と明白に矛盾することとなる。よって、本件において「事実の摘示の判断基準」を用いるべきであることは明らかである。

 

 

 

第2 小学館上告受理申立理由書第2、第2項(14頁以降)について

 

1 小学館は、最高裁平成9年判決の解釈として「そこに用いられている語のみを通常の意味に従って理解した場合に、証拠等をもってその存否を決することが可能な他人に関する特定の事項を主張しているものと直ちに解せるとき」であっても「文脈等から、事実摘示とは解されない場合もありえる」(18頁)と主張するが、かかる主張は明らかに失当である。

 

 最高裁平成9年判決の一般的理解は、次のとおりである。

 

 @そこに用いられている語のみを通常の意味に従って理解した場合に、証拠等をもってその存否を決することが可能な他人に関する特定の事項を主張しているものと直ちに解せるときは、「事実の摘示」である。

 

 Aそこに用いられている語のみを通常の意味に従って理解した場合に、証拠等をもってその存否を決することが可能な他人に関する特定の事項を主張しているものと直ちに解せないときであっても、

 

  a 当該部分の前後の文脈や、記事の公表当時に一般の読者が有していた知識ないし経験等を考慮し、右部分が、修辞上の誇張ないし強調を行うか、比喩的表現方法を用いるか、又は第三者からの伝聞内容の紹介や推論の形式を採用するなどによりつつ、間接的ないしえん曲に前記事項を主張するものと理解されるならば、同部分は、「事実の摘示」である。

 

  b 右のような間接的な言及は欠けるにせよ、当該部分の前後の文脈等の事情を総合的に考慮すると、当該部分の叙述の前提として前記事項を黙示的に主張するものと理解されるならば、同部分は「事実の摘示」である。

 

 つまり、上記@及びAa又はbの場合は「事実の摘示」であると述べていると解されている。

 

 上記@は、直接述べていないが、上記判旨の文理上当然である。

 

 「Aと直ちに解せないときであっても、BならばCである」という表現は、Aと直ちに解せるときには、Cである」ことを意味する。文理上極めて当たり前のことである。

 

 また最高裁平成9年判決の原審である東京高裁平成6年1月27日判決(判例時報1502号114頁)は

 

「事実言明は、そこで用いられている言葉を一般的に受容されている意味に従って理解するとき、ある特定の者についての現実の事実又は行為を叙述した表現であって、右事実又は行為の真偽が証拠により証明可能であるものをいい、」と述べている。

 

 これを踏まえて、最高裁平成9年判決は、事実言明の範囲を原審の認定した範囲よりさらに広げているのである。

 

 判例評釈でも、「『事実とは、ある特定の者について現実の事実または行為を叙述した表現であって、右事実または行為の真偽を客観的に証拠により確定できる性質を有するもの』という基準を前提としながら、事実摘示といえるかどうかについてさらに緩やかに解している」(甲63号証、130頁)、「@証拠等をもってその存否を決することが可能な他人に関する特定の事項を主張するものと理解されるならば、それは事実の摘示である。A前記事項の主張については、用語の通常の意味から理解できなくても、前後の文脈等を総合的に考慮して、間接的・婉曲的・黙示的にその主張が理解できればよい。」(情報化時代の名誉毀損・プライバシー侵害をめぐる法律と実務/静岡県弁護士会編/ぎょうせい 30頁)と理解されている。

 

したがって、「そこに用いられている語のみを通常の意味に従って理解した場合に、証拠等をもってその存否を決することが可能な他人に関する特定の事項を主張しているものと直ちに解せるとき」であっても「文脈等から、事実摘示とは解されない場合もありえる」(18頁)との申立人小学館の主張は明らかに失当である。

 

2 「(3)法的見解の表明は、事実摘示か論評か」(19頁以下)について

 

(1) 「法的見解の表明は、事実摘示か論評か」という議論の立て方は正しくない。法的見解の中には、事実摘示を含むものもあれば、含まないものもある。問題は、「証拠等をもってその存否を決することが可能な他人に関する特定の事項」を含むか否かであって、含むのであれば前記趣旨から「事実の摘示の判断基準」を、含まないのであれば「論評の判断基準」を用いることになるのである。

 

 そして本答弁書第1で述べたとおり、「上杉はドロボーである」等の本件叙述は、単に法的見解を述べたにとどまらず、法的事実の摘示をも含むものである。

 

 「上杉はドロボーである」という叙述は、「証拠等をもってその存否を決することが可能な他人に関する特定の事項」であって、抽象的、一般的な法的見解の表明とは異なる。

 

 小林が「引用の要件として○○が必要であると考える」「判決は○○の点で誤りである」ということだけを表現するのは完全に自由である。こうした法的見解の表明や判例評釈は、「他人に関する特定の事項」ではないから名誉毀損の問題とならないからである。

 

 しかし、「上杉はドロボーである」という叙述は、他人の社会的評価を貶める「証拠等をもってその存否を決することが可能な他人に関する特定の事項」であるから、完全に自由なわけではない。

 

 他人の社会的評価を貶める表現をなす者は、言論者の責任として、原則として、真実性か相当性を具備する必要があり、ただ真実性の立証がそもそも不可能な「論評」の場合のみ例外的に前提事実の真実性で足りると考えるべきである。

 

(2) 最高裁平成元年12月21日判決(通知表に関するビラ配布事件)の事案においては、「教師としての能力自体を疑われるような『愚かな抵抗』」、「教育公務員としての当然の責任と義務を忘れ」、「お粗末教育」、「有害無能な教職員」等の表現が問題となっている。

 

 これらの表現事項は「証拠等をもってその存否を決することが可能」ではない事項であるから、論評であるとされたのである。

 本件は、「複製権侵害行為」という表現が問題となっており、「複製権侵害行為」の存否は「証拠等をもってその存否を決することが可能」な事項であって、全く事案を異にするものである。

(3)ア 小学館は、「原判決は、裁判所が公権的判断を示すべき事項について、その法的解釈適用のみが問題になって意見が対立している場合において、一方の見解を述べることが事実摘示であり、論評者は、公正な論評の法理による保護を受けることができないとする。この原判決の見解によれば、意見の前提事実が如何に正確であっても、裁判所が採用しない解釈や意見は、虚偽の事実摘示に当たることになって、法的解釈適用に関する主張に相当性があって免責される場合を除き、名誉毀損の責任を負担することになる」と主張する(22頁)。

イ 確かに言論の自由は、他者の人権を侵害しない範囲においては無制約である。

 法的見解や解釈について、独自の見解を採ることや、見解のみを表明することまでは全く自由である。「当該事実関係において殺人罪が成立すると解するのが妥当か否か」について、どんなに突飛な解釈を採っても、また突飛な解釈を表明しても、それはまさに言論の自由である。言論の自由はそのような少数説を保護することに大きな意義があるのである。

 しかし、そのような独自の見解に基づいて、他人が犯罪を犯したと表明することまでは、真実性・相当性を備えない限り許されない。これは名誉権という人権を保護するために表現の自由が内在的に有する制約である。

 本件においても、申立人らは、一般論として「漫画の引用がどこまで許されるか」を論じることは完全に自由である。

 しかし、不名誉な「他人に関する特定の事項」を述べることは、他人の名誉を毀損する。かつ、それが「証拠等をもってその存否を決することが可能」な事項の場合、名誉毀損の程度は大きい。

 したがってその場合には、名誉毀損法理によって言論の自由が制限されるのである。しかしその場合でも真実の言論は許されるし、相当性を備える言論は許されるのである。

 他人の名誉を毀損する言論を行う以上、言論者としては、その言論が真実であることを立証しうるだけの調査を行うか、もしくは、最低限、真実と信じたことが相当であるという程度の調査を事前に行うべきである。それすら怠るような無責任な言論は、他人の名誉を犠牲にしてまで保護する価値はない。他人の名誉を毀損する無責任な言論は、社会にとって有害無益である。真実性・相当性を備える責任ある言論は、免責されるから、かかる責任ある言論が萎縮することはない。

 したがって、他人の名誉を犠牲にしてまで保護されるためには、真実性の検証が可能な事項については、当該事項自体についての真実性・相当性が必要であって、例外的に真実性の検証が不可能な事項についてのみ、前提事実についての真実性・相当性で足りると解するのが妥当である。

 したがって、他人の社会的評価を低下させる言明を行う以上、当該言明自体が検証可能な事項であるならば、当該事項について真実性・相当性を立証すべきである。

 すなわち、他人の社会的評価を低下させる言明それ自体が検証可能ならば、当該事項について真実性・相当性が必要であって、前提事実が如何に正確であっても当該事項について真実性・相当性を備えないならば名誉毀損の責任を負担するのが相当である。

 このように判断した原判決の判断は誠に正しいものであって、その判断を非難する小学館の主張は失当である

ウ そもそも、他人の社会的評価を貶める「事実」については、言論者は、発現の一言一言について、社会的評価の低下につながらないか、低下する場合真実と認められるか、もしくは、相当と認められるかどうかを吟味した上で言論する必要があることは小学館も争わないところである。

 したがって、他人の社会的評価を貶める「生の事実に法的評価を加えたもの」についても、言論者にその吟味の手続を行わせ、学説・判例に照らして相当と認められるかどうかを吟味させることは、何らおかしいことではないし、言論者に過大な負担を課すものでもない。

 言論者にこのような吟味の過程を求めることは、他人の社会的評価を無用に貶める言論が減少する点で、社会にとって有益である。

 別件著作権訴訟において、申立人小林は、「文章は引用できるが漫画の絵は引用できない」という漫画の特権的地位を主張していた。このことは「業界の慣例として認められている『部分的な引用』はあくまでもセリフなどの文章部分のみに限られている」「漫画・アニメなどのビジュアル作品の内容を評する場合でもその作品の画面を著作権者に無断で転載してはならないというのは常識中の常識だ」という本件漫画の叙述からも明らかである。

 しかし、絵画の引用が認められることや漫画の引用が行われていること等は、事実、学説や判例の調査を行えば容易に知り得た。したがって、事前調査さえ行えば、漫画の絵の引用ができないという考え方が、およそ世間に通用しないことも容易に知り得たのである。

 漫画にそのような特権がないことは、世間一般からすれば常識であり、別件著作権訴訟は当然の結論を確認したにすぎない。

 小林の「漫画特権論」と言うべき法的見解が如何に漫画家側に偏ったものかは、然るべき事前調査を行えば容易に知り得たのであり、そうであれば常識人なら「上杉はドロボーである」等という断定的な叙述は到底行い得なかったのである。

 断定的表現を行う以上、真実性、相当性を備えるべきであり、真実性の立証が困難であるならば他人の名誉を毀損する断定的な表現を避けるべきである。

 事前調査さえ行っていれば、常識人なら、叙述の文脈において「著作権法上適法な引用かどうかという高度に専門的判断であり、判例学説上の解釈基準も決して一義的明確な状況であるとは言いがたい」(小林上告受理理由書4頁)ことをきちんと紹介し、「学説上両説あり、いずれが正しいかわからないが、私は著作権法違反となると思うので、裁判所の判断を仰ぐ。」等と表現したはずであって、そのような表現であれば、そもそも相手方の社会的評価は毀損されずに済んだのである。

 したがって、法的事実についての真実性・相当性を求めることは、社会にとって有益である。

(4)ア また小学館は、「法的評価が分かれ、国民の間で大いに議論されるべき事項であっても、それが司法審査の対象となる事柄であれば、名誉毀損の責任を問われる危険を冒すことなくしては、議論できないというのが原判決の考え」であって、言論を萎縮させると主張する(23頁)。

イ しかし「他人に関する特定の事項」でなければ、名誉毀損になる可能性は皆無である。

 一般に法律雑誌等で行われる多くの判例評釈等は、「他人に関する特定の事項」についてではなく、一般的抽象的な法律問題について述べられているから、そもそも名誉毀損になり得ない。

 多くの判例評釈等は、その文脈や、人物の名前を仮名にする表現方法などから、明らかに一般的抽象的な法律問題について論じているのであって、「他人に関する特定の事項」について論じているのではない。

 しかし判例評釈といえども、例えば、ロス疑惑事件における三浦氏の無罪が確定した後に、三浦氏の名を実名で挙げ、生の事実を列挙して「それでも三浦氏は殺人を犯している」などと論ずることは、やはり事実摘示にあたる。

 結局、判例評釈だから事実の摘示ではないのではなく、その評釈が、事実の摘示を含んでいるかどうかが問題なのである。

ウ そしてある表現において、当該叙述が「Aが殺人罪の犯罪行為を行ったこと」に主眼をおいているのか、それとも「当該事実関係において殺人罪が成立すると解するのが妥当か否か」に主眼をおいているのかについては、その文脈や表現方法等を検討することによって充分区別可能であって、前者の場合は「誰が」という主語が重要な役割を果たしており「他人に関する特定の事項」の摘示であるが、後者の場合は「他人に関する特定の事項」の摘示に該当しないのである。

 「法的評価が分かれ、国民の間で大いに議論されるべき事項」は、後者の抽象化、一般化された法的見解の方であって、このような見解の発表は、他人の社会的評価を毀損しない。

 前者の当該個人が犯罪を犯したか否かという個別的問題は、裁判所で決せられるべき問題であって、国民の間で議論する意味はない。それでも、他人の社会的評価を毀損する表現をしたいのであれば、その場合には真実性・相当性を備えるべきである。

 原判決の結論によれば、他人の社会的評価を毀損する表現であり、かつ、真実性・相当性を備えない表現のみが名誉毀損となるのであって、正当な言論が萎縮することはあり得ない。

 そして、名誉を毀損される立場からすれば、法的事実の摘示とりわけ犯罪事実の摘示の場合、生の事実の摘示より著しい社会的評価の低下を招来するのであって、犯罪事実の摘示の場合には、均衡上も、言論者に対して当該犯罪事実についての真実性か相当性を求めるべきである。

(5) 「不合理であること」(24頁以下)について

ア 小学館は、別件裁判か当該名誉毀損訴訟で裁判所の判断が示されるまで、真実か否かがわからないことになるが、このことは奇妙である、通常の名誉毀損事件であれば、摘示事実や前提事実の真否という点の先験性は明らかである、と主張する(24頁)。

イ しかし、この主張も、誤りである。

 名誉毀損の場合、摘示された事実の真実性は、裁判の場ではじめて明らかになることであり、決して事前に自明なこととして存在するわけではない。

 例えば、政治家Aの女性問題の記事をB誌が掲載した場合、Aはかかる記事は事実に反すると主張し、B誌は真実であると主張して争いが生じる。

 現代社会において、この事実の存否を確定するのは、絶対的な神ではなく、裁判所である。換言すれば、ある事実の絶対的な存否はそもそも神ならぬ他人にはわからないことであり、名誉毀損でいう真実性は、裁判によって検証された結果である社会的なレベルでの真実をいうのであって、かかる社会的なレベルでの真実は、裁判の判決によってはじめて明らかになることであって、決して事前に判明していることではない。

 政治家Aの女性問題について、B誌が真実性・相当性を立証できない限り、仮にB誌の記事が神の目から見れば真実であったとしても、名誉毀損による責任を負わねばならないのである。

 また刑事裁判の後に民事裁判で名誉毀損が争われる場合に、先の刑事裁判での結論が後の民事裁判の判断に大きな影響を与えることもよくあることである。この場合も、先の刑事裁判の結果によって真実が明らかとなり、それを前提として後の民事裁判が進行するのであって、本件と同様の構造である(もちろんこの場合であっても、先の刑事裁判の判断が誤りであることを後の民事裁判において十分に主張立証できれば、刑事裁判の結論と異なる結論となることもあり得る。この場合も後の民事裁判の結果として事実が明らかとなるのであって、先験されているわけではない。)。

 いずれの場合も、決して先験されているわけではない。

 したがって、名誉毀損事件における真実性は、訴訟においてはじめて明らかになるのであり、名誉毀損事件の場合通常は先験性があるとの小学館の主張は明らかに失当である。

 別件著作権訴訟及び本件訴訟において、上杉は、複製権侵害行為はないと主張し、そのことを確信している。申立人らは、複製権侵害行為はあると主張し、おそらく軽率にもそのことを確信していたと思われる。

 名誉毀損行為時点においては、このように両者の主張が分かれており、これが後に訴訟の場で真実が明らかになるという構造は、何ら先の政治家の例と変わりがない。

エ 事実の証明による違法性阻却の機会を奪う(25頁)との小学館の主張も不可解である。

 申立人らは、「法令の解釈・適用」を立証すべきなのではない。「上杉はドロボーである」即ち「上杉が複製権侵害行為を行った」という本件叙述が真実であることを立証すべきなのである。

 つまり申立人らは、別件著作権訴訟判決で示された主従関係論やその他の法令の解釈適用を前提としてなお「上杉が複製権侵害行為を行ったこと」を立証するに足る生の事実を立証すべきなのである。

 判例や法解釈というものは、従来のそれらの積み重ねであり、連続性を有するものである。よって従来の判例や法解釈を研究すれば、おおよその方向性は見いだせるものである。すなわち、事前調査を行えば、ほとんど勝訴するか、勝敗は微妙か、ほとんど敗訴するかは十分判断できるものである。

 別件著作権訴訟の判断は、決して突飛なものでも従来の判例・法解釈から外れたものではない。むしろ、主従関係論が適用され、その結果複製権侵害行為が存在しないと認定されることは、従来の判例・法解釈からすれば明白であり、少なくとも当然予想可能であった。

 そのような従来の判例・法解釈を前提としてもなお勝訴するに十分な生の事実が揃っていたならば、「上杉が複製権侵害行為を行ったこと」の真実性は立証可能である。

 逆に言えば、従来の法令の解釈・適用を前提として、ほとんど必ず勝訴するというほど生の事実が存在していないのに、「上杉はドロボーである」と他人を犯罪者呼ばわりして断言したこと自体が誤りなのである。

 学説が対立しており、A説の基準からすれば「上杉はドロボーである」と立証できるだけの生の事実はあるが、B説の基準からすれば立証に必要な生の事実が足りないという場合においては、「上杉はドロボーである」という他人の法的事実に関する断定的な言明を行うべきではない。

 勝訴するに足る十分な証拠がないにもかかわらず、あえてそのような言明を行った以上、裁判所がB説を採用して生の事実が足りないと判断した際には、その結果は法の不知により自ら招いた結果であって、保護に値しない。

オ そもそも小林は、「法令の解釈・適用」を抽象的に訴え出たわけではない。小林は、別件著作権訴訟において、複製権侵害行為の存在という「事実」を主張立証していたのである。

 別件著作権訴訟において、小林は、「被告らは、前記各違法事実を認識しまたは容易に認識し得たにもかかわらず、共同して前記各違法行為をなしたものであるから、共同不法行為者として…」(別件著作権訴訟訴状15頁)と主張している。即ち主張立証の対象は、「複製権侵害行為という不法行為」の存否である。

 別件著作権訴訟判決(甲4,5)も、複製権侵害行為等の不法行為の存否について判断しているものである。

 これらの判断対象は、「行為」であって、事実である。決して、法的評価のみが判断の対象となっていたのではない。不法行為という事実の主張立証の過程で、法的評価が問題となったとしても、あくまで主張立証の対象は「行為」という「事実」の存否である。

 本件においても、相手方は、申立人らが相手方による複製権侵害行為が存在すると主張した点について、虚偽の事実摘示があると主張しているのであって、小学館は、相手方による複製権侵害行為が存在することについて真実性、相当性を主張立証することができるのであり、何ら違法性阻却の機会は奪われていない。ただ小学館は、真実性の立証に関して、別件著作権訴訟判決を覆すに足る主張立証をしなければならないというだけであって、決して違法阻却の機会そのものが奪われているわけではない。

(6) 平成9年最判違反(26頁以下)について

 小学館は、判例評釈を読む一般読者は、普通、事実摘示であるとは考えないと主張する。しかし誤りである。

 「判例評釈」だから事実摘示でないのではない。前記のとおり「判例評釈」の中には「証拠等をもってその存否を決することが可能な他人に関する特定の事項」を含むものと、これを含まないものがある。含むものは事実摘示のある場合であり、含まないものは事実摘示のない場合である。

 本件漫画の叙述は、「上杉はドロボーだ」という趣旨のものであり、一般人は、かかる叙述を見れば、「上杉が複製権侵害行為を行った」という事実摘示を含むものと理解するものである。

第3 小林善範上告受理申立書第2第1項(3頁以降)について

1 申立人小林は、原判決について、「相手方の無断大量複製行為を『違法な引用』であるとの見解を表現した場合、もし控訴審判決のようにそれを『事実の摘示』と解したならば、『違法な引用』との事実を立証しない限り、または、『違法な引用である』と信じるに相当な事由を立証しない限り、申立人小林は免責を受けられないこととなる。このような解釈をとるならば、本件に限らず一般的著作権者としては、自らの著作物がいかに大量に無断複製されたとしても、それを『著作権侵害である』と自由に意見表明できないことになる。」と非難する(4頁)。

 しかし、申立人小林のかかる主張は、根本的に誤っている。

 著作者は、いかに大量に無断複製されたと主観的に感じたとしても、それだけで「著作権侵害である」と自由に意見表明できるわけではない。

 「大量の無断複製」という生の事実が存在するわけではない。「大量」かどうかは評価した結果の結論であって、その評価は、著作権者の主観によって決められるものではなく、最終的には裁判所で決められるものである。

 例えば、数コマのみ無断複製された場合に著作権者が「自分の絵が大量に無断複製された」と感じたとしても、それを「著作権侵害である」と表明することは、真実性又は相当性を備えない限り違法である。

 また「著作権侵害行為」の存否は、複製物の量だけで決まるものではなく、その他の事実を総合考慮した結果として決せられるのである。

 ある著作の執筆・公表が著作権侵害行為であると主張する以上、かかる主張をなす者が著作権侵害行為の存在について真実性か相当性を備えるべきことは当然である。他人の名誉を毀損する言論をなす以上、相当な調査が要求され「自由に意見表明できない」のは当然である。

 したがって申立人小林の上記主張は単なるエゴにすぎず、原判決に対する批判になっていない。

 言論は、他者の人権と衝突しない範囲においては自由であり、裏付け調査を取ることは必ずしも必要ではない。しかし、他者の人権と衝突するときには、無責任な言論は許されない。自己の言論の裏付け調査を行い、仮にその裏付け調査が不十分であった場合には自ら責任を取ることを前提としてはじめて、他者の人権を傷つける言論をなしうるのである。そうでなければ言論市場は機能しない。

2 「著作権者が言論活動をあえて控えざるを得ない」(4頁)との批判も全く妥当しない。

 仮に、通常の著作権者が、相当性を備えるべく充分な調査をして、「著作権法上適法な引用かどうかという高度に専門的判断であり、判例学説上の解釈基準も決して一義的明確な状況であるとは言いがたい」(4頁)ことを知ったのであれば、「上杉はドロボーである」などの断定的な叙述は行わない。相手方の名誉を毀損しない形で表現するのが通常である。

 例えば、叙述の文脈において、「著作権法上適法な引用かどうかという高度に専門的判断であり、判例学説上の解釈基準も決して一義的明確な状況であるとは言いがたい」ことをきちんと紹介して、「学説上両説あり、いずれが正しいかわからないが、私は著作権法違反となると思うので裁判所の判断を仰ぐ。」と表現すれば、そもそも相手方の社会的評価は毀損されないのである。

 逆に、「著作権法上適法な引用かどうかという高度に専門的判断であり、判例学説上の解釈基準も決して一義的明確な状況であるとは言いがたい」ことを知っていながら、なお「上杉はドロボーである」などの断定的な叙述を行ったのであれば、真実性の証明に失敗したときは責任を負うのは当然である。断定的叙述は、名誉を毀損する程度が大きいのであり、あえてそのような表現を用いた以上、責任を負うのは至極当然の結論である。

 本件においても、申立人小林は、複製権侵害行為の表明に関する相当性を備えるべく充分な調査を行うべきであった。

 それさえ行えば「予測としては、適法な引用にあたると判断される蓋然性があり、被控訴人らに有利にみても、せいぜいその判断は著作権法の専門家にとっても困難であり、複製権侵害と判断される蓋然性が高いとは到底言えない状況であった」(原判決31頁)ことは知り得たのである。

 そうであれば小林は、本件のように断定的に「ドロボー」等の表現を行うことはなかったはずである。

 このように裏付け調査を怠り、真実性の証明にも失敗した以上、小林が責任を負うのは当然である。

3 仮に著作権訴訟で著作権者が第1審で勝訴して第2審判決が出されるまでの間に「ドロボー」表現をした場合について、申立人小林は云々するが(5頁)、その場合には第2審で敗訴するまでは相当性の要件を備えることがありうるかもしれない。しかし、第2審で敗訴した瞬間から相当性の要件を備えることはほとんどないであろうから、それ以後は少なくとも断定的叙述が許されないのは当然である。

 控訴審判決の判断は適正である。

4 小林は、「当時の判例学説に照らすならば、相手方の本件採録行為が適法と判断されるであろうと予測することはおよそ困難」(5頁)であり原判決の論法が支離滅裂であると主張する。

 しかし、小林は一方で「著作権法上適法な引用かどうかという高度に専門的判断であり、判例学説上の解釈基準も決して一義的明確な状況であるとは言いがたい」(4頁)とも主張している。

 主張が支離滅裂なのは、原判決でなく小林の方である。

 フジタ画伯事件等の判例を少し調べさえすれば、主従関係論が適用され、相手方の当該行為が引用行為であると判断される可能性が高いということは当然予測できたはずである。別件著作権訴訟においても、全ての審級において引用行為との判断が維持されていることからもこのことは明らかである。

5 小林善範上告受理申立書第2第3項(6頁以下)について

 「直ちに」の解釈については、既に控訴審において相手方が控訴人準備書面1の7頁以下で詳述しているとおりである。

 申立人小林の主張は、最高裁平成9年判決の誤読であり、このような主張をしているのは申立人小林以外には知らない。

 上記最高裁判決の一般的な理解は、「『事実とは、ある特定の者について現実の事実または行為を叙述した表現であって、右事実または行為の真偽を客観的に証拠により確定できる性質を有するもの』という基準を前提としながら、事実摘示といえるかどうかについてさらに緩やかに解している」(甲63号証、130頁)というものである。申立人小林の主張は、かかる一般的な上記判決の理解とかけ離れており、完全に誤っている。

以  上