平成一二年(ネオ)第三五九号 著作権侵害差止等請求上告事件

      上  告  人         上   杉       聰
             外 二 名
      被 上 告 人         小林よしのりこと 小林善範

平成一二年六月一三日

   上 告 理 由 書

      右上告人ら訴訟代理人弁護士    土   屋   公   献
      同                高   谷       進
      同                小   林   哲   也
      同                小   林   理 英 子
      同                加   戸   茂   樹
      同                五   三   智   仁
      同(担当)            高   橋   謙   治

最高裁判所 民事部 御中

第一 本件控訴審判決には、次のとおり表現の自由(憲法二一条)の解釈の誤りがあり、さらに、引用(著作権法三二条)と同一性保持権(同法二〇条)の関係について何らの検討も行っていないから、理由不備、審理不尽の違法があり、加えて、判決の結論に影響を及ぼすべき漫画のコマの概念について理由不備、審理不尽の違法が存在する。

 自己の論評を展開するに際して、どのように被引用物を引用するかは引用者の表現の自由(憲法二一条)として最大限尊重されなければならない。上告人著作をどのように構成するかはまさに上告人の表現の自由そのものなのである。
 もちろん、被引用者の著作者人格権を侵害する方法で引用することはできないが、そうでない限りはいかなる編集方針で引用することも自由でなければならない。

 本件に関する最高裁判所の判例はないが、平成五年一二月一日東京高等裁判所判決(雑誌「諸君!」反論文掲載請求控訴事件。事件番号平成四年(ネ)第七六五号)は、文章の要約引用について、次のように判示している(なお、改行、傍線は上告人が付加したものである。)。
 「著作権法二〇条一項は『著作者は、「本件のように専ら公表された他人の著作物を評論の対象とする場合には、当然のことながらその対象とされる著作物(以下「原著作物」という。)を引用した上で、これに対して自己の意見ないし見解を表明することとなるのであり、したがって、評論者の引用に係る原著作物が評論の前提事実のうち主要な部分を構成することになる。
 この場合における引用は、原著作物をその著作者名で登載又は転載するのではなく、あくまでも評論の前提として取り上げるだけであるから、原著作者の同意を要するものではないし、また、どのように引用するかは一応評論者の判断に委ねられることになる。
 すなわち、著作権法三二条一項によれば『公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行われるものでなければならない。』とされているから、公正な慣行に合致し、かつ、評論という引用の目的に照らしてみて正当な範囲内にある限りは原著作物をどのように引用するかは評論者が決し得ることである。
 そして、一般的に「引用」という中には、原形のままその全体を引用すること(全部引用)、その一部のみを引用すること(一部引用)、その大意を把え簡潔に示すこと(要約)が含まれるから、どのような形式で引用するかということも、評論者の判断に任されることになる。
 問題は、どのような条件を具備すれば、前記の公正な慣行に合致し、かつ、評論という引用の目的に照らしてみて正当な範囲内にあるといえるかという点にあるが、その基準を一義的に定立することは困難であり、要は、具体的な事案において、評論の趣旨・目的、対象となる原著作物の取り上げ方、原著作物と引用文との相違の程度等を総合考慮し、社会通念に照らして判断するほかない。
 もっとも、他人の著作物に対する評論は、その性質上、対象となる原著作物を批判的に取り上げることが多く、しかも、自己の見解との相違点を際立たせる必要がある場合も存することは否定できない。また、引用の許される基準をあまりに厳格に定立すると、事実上評論の自由が制約を受ける結果となるおそれもある。この種評論が現代民主社会において果たしている役割にかんがみると、萎縮効果を生じさせるような基準は避ける必要がある。
 そこで、前述の判断の際に考慮すべき諸要因に評論の特質として掲記した諸点を併せて考察すれば、評論の前提となる引用が、その一部において原著作物と相違している場合であっても、全体的に考察してみて主要部分において原著作物の趣旨から逸脱していないと認められるときには、当該引用は、公正な慣行に合致し、かつ、正当な範囲内にあるというべきである。

 (中略)

 ところで、評論の前提として他人の著作物を引用する場合において、それが忠実な全部引用又は一部引用でない限り、原著作物との関係においては改変に該当することが多いと考えられる。
 しかしながら、評論の対象となる原著作物の紹介がすべて改変に当たるものとして許容されないというのでは、表現の自由の保障を保し難いことになるであろう。
 そこで、右改変が引用の形式をとって行われる場合においては、同法三二条一項により公正な慣行に合致し、かつ、引用の目的上正当な範囲内で行われたと認められ、かつ、その他評論としての域を逸脱するような事情が存せず、その違法性が阻却されるときには、著作者人格権(同一性保持権)との関係においても、同法二〇条二項所定の『著作物の性質並びにその利用の目的及び態様に照らしやむを得ないと認められる改変』に該当し、違法性が阻却されるものと解すべきである。
 したがって、この限りでは名誉毀損の不法行為としての違法性阻却と著作者人格権侵害行為としての違法性阻却とは一致するものと考えられる。被控訴人らが右両者の違法性阻却について同一の主張をしているのも、この見地からみれば、肯認できるところである。
 そして、この点に関する当裁判所の判断は、先に示したとおりであって、本件評論部分における原著作物の引用は、公正な慣行に合致し、かつ、正当な範囲内にあるということができ、しかも、評論としての域を逸脱しているような事情も存しないから、著作者人格権侵害との関係においても違法性を阻却されるものということができる。」

 右判決も「公正な慣行に合致し、かつ、評論という引用の目的に照らしてみて正当な範囲内にある限りは原著作物をどのように引用するかは評論者が決し得ることである」と正しく指摘している。  また、どのような条件を具備すれば、前記の公正な慣行に合致し、かつ、評論という引用の目的に照らしてみて正当な範囲内にあるといえるかという点については、「評論の趣旨・目的、対象となる原著作物の取り上げ方、原著作物と引用文との相違の程度等を総合考慮し、社会通念に照らして判断するほかない」と判示している。
 そして、そのうえで、「もっとも、他人の著作物に対する評論は、その性質上、対象となる原著作物を批判的に取り上げることが多く、しかも、自己の見解との相違点を際立たせる必要がある場合も存することは否定できない。また、引用の許される基準をあまりに厳格に定立すると、事実上評論の自由が制約を受ける結果となるおそれもある。この種評論が現代民主社会において果たしている役割にかんがみると、萎縮効果を生じさせるような基準は避ける必要がある。そこで、前述の判断の際に考慮すべき諸要因に評論の特質として掲記した諸点を併せて考察すれば、評論の前提となる引用が、その一部において原著作物と相違している場合であっても、全体的に考察してみて主要部分において原著作物の趣旨から逸脱していないと認められるときには、当該引用は、公正な慣行に合致し、かつ、正当な範囲内にあるというべきである。」と判示している。

 以上の点は、全て本件にもあてはまるものである。
ア 批評目的の引用の場合、批評者が主張、発表したいのはあくまで批評部分であって、引用部分はその前提を構築するために必要な限度で引用するにすぎない。
 他方、批評者は批評の前提を構築するために必要な限度で引用することができ、紙数節約などのレイアウト上の理由等のため、原著作物を批評者なりに要約して引用することも公正な慣行として一般に広く行われている。
 よって、本件においても、引用に際して、漫画のコマのセリフ部分のみを引用するか、コマを引用した上でさらにセリフ部分を抜き出して引用するか、コマを批評者たる上告人なりに文章で説明、要約して引用するか、コマをそのまま批評文中に織り込んで引用するかなどの引用方法の選択権は、批評の自由、表現の自由として批評者たる上告人に憲法上認められているのである。
 そして、原著作物を何コマ、どのようなレイアウトで引用するかについても、批評の自由、表現の自由として上告人に憲法上保障されているのである。ただ、「全体的に考察してみて主要部分において原著作物の趣旨から逸脱していると認められるとき」に限って、当該引用が違法となるにすぎないのである。
イ 引用に際して、漫画のコマを批評者なりに文章で説明、要約して引用することも公正な慣行として一般に広く認められている(甲七八、甲八二、甲八四、甲八七、甲九〇、甲九二など)。被上告人自身も漫画のコマを批評者なりに文章で説明、要約して引用することは認めている(原告訴状八頁等)。
 しかし、その場合における原著作物の改変の程度は、本件のコマの配置変更(以下「本件配置変更」という。)より遙かに大きいことは自明である。漫画のコマを文章に置き換えて説明、要約する作業においては、必然的に批評者の主観が多分に混入してしまうからである。
 したがって、本件配置変更を伴う引用は、文章で説明、要約して引用する方法より、遙かに原著作物に忠実な引用方法であって、改変の程度の小さい引用方法である。
ウ そして、本件控訴審判決も指摘するように、本件配置変更があっても本件カットの意味内容は同じものとして理解できる(控訴審判決六二頁)。
エ したがって、本件配置変更を伴う引用は、その一部において原著作物と相違しているかもしれないが、「全体的に考察してみて主要部分において原著作物の趣旨から逸脱していないと認められるとき」に該当する。
 よって、本件配置変更を伴う引用は、公正な慣行に合致し、かつ、正当な範囲内にある。

4 本件控訴審判決の誤り
ア 本件控訴審判決は、引用方法についていくつかの代替手段を列挙して、このような代替手段もあるのだから本件配置変更は違法であると断じている(控訴審判決六三頁)。
イ しかし、そもそもいかなる表現手段を採用するかは上告人の表現の自由に属する事柄であり、前記のように公正な慣行に合致し、かつ、評論という引用の目的に照らしてみて正当な範囲内にある限りは原著作物をどのように引用するかは上告人が自由に決し得る事項である。
ウ そして、後記三のとおり、本件控訴審判決が列挙するような代替手段では上告人の意図した効果は発揮できなかったのであり、上告人が自己の表現を達成する上では、本件のようなコマの配置しか考えられなかったのである。
エA 本件控訴審判決も指摘するように、本件配置変更があっても本件カットの意味内容は同じものとして理解できる(控訴審判決六二頁)のであり、本件配置変更は、原著作物の趣旨の主要部分に何ら変更を加えるものではない。
B にもかかわらず、本件控訴審判決のように、些細な点に変更があることを理由に損害賠償請求及び出版差し止めを認めれば、原著作者が、自己に批判的な批評に対して容易に攻撃できることとなる。
 すなわち、本件控訴審によれば、些細な同一性保持権侵害を理由とした損害賠償請求、出版差し止めが容易に認められることとなり、前記「諸君!」反論文掲載請求控訴事件判決の指摘するとおり、事実上評論の自由が制約を受ける結果となってしまうのである。
C 本件においても、被上告人は、コマの配置変更、コマの拡大引用、コマの一部引用など些細な事項を挙げ連ねて、執拗に上告人著作の出版差し止め等を求めて上告人を攻撃したが、本件控訴審判決が確定すれば、原著作者は、今後もこうした手段によって自己への批判者を攻撃することが可能となり、その結果、引用を差し控えたり批評自体を差し控える萎縮効果が著しく作用することとなる。
D そもそも、前記「諸君!」反論文掲載請求控訴事件判決の指摘するとおり、評論の前提として他人の著作物を引用する場合において、それが忠実な全部引用又は一部引用でない限り、原著作物との関係においては改変に該当することが多いのであり、それらを全て同一性保持権侵害とすることは、表現の自由を著しく侵害するものである。
E 「表現の微妙な部分まで」(本件控訴審判決六二頁)同一であることを要求する本件控訴審判決の論理からすれば、仮に上告人が漫画のコマを文章で要約して引用した場合であっても、漫画を文章で要約して引用するという、本件配置変更より程度の大きな改変を行った以上、被上告人は同一性保持権侵害を主張しうることとなる。
 しかし、漫画のコマを文章で要約することは前記のとおり公正な慣行として一般に認められているのであり、右本件控訴審判決の論理が常識に反し表現の自由を侵害することは明らかである。
 さらに、本件控訴審判決の論理を押し進めれば、拡大して引用すること、縮小して引用すること、コマの一部を引用することなども、原著作物の「表現の微妙な部分」について変更しているとして、全て同一性保持権侵害となるおそれが生じることとなるから、萎縮効果が働き、およそ引用全般が行えないこととなる。同一性保持権に関するかかる解釈は、明らかに表現の自由を侵害するものである。
オA 社会通念上も、批評の前提としての引用の場合、原著作物の趣旨の主要部分について逸脱していない程度の正確性を備えていれば足り、強度の正確性は要求されていない。引用はあくまで批評者の著作の前提として行われるにすぎず、被引用著作物の量、形態等は、引用著作物の形態、レイアウト、引用者の意図等に沿った形で改変されることがむしろ通常であり、読者も批評を読む前提として被引用物を参照するにすぎず被引用物が原著作物そのものであるとは考えないのが通常であるし、批評者と原著作者の関係は、通常全くの第三者の関係であって、学術論文における著作者と出版者のような緊密な関係もなく、むしろ批判的な批評の場合には敵対関係であることすらあり、強度の正確性をそもそも期待しがたいからである。
 だからこそ、原著作物を批評者なりの文章で要約して引用するという改変の程度の大きい引用方法も、社会通念上広く認められているのである。
B また、多少不正確な引用であったとしても、原著作物の流通は何ら妨げられていないのであるから、読者は原著作物を容易に確認することができるのであり、この点においても学術論文等の出版における同一権保持権の問題とは明らかに異なる。
 原著作物におけるコマの位置関係と本件配置変更後の位置関係は確かに異なるが、本件配置変更があっても、上告人著作の読者は原著作物の趣旨の主要部分を十分感得できるし、原著作物を参照して正確なコマの位置関係を確認することも容易になし得るのである。
C よって、そもそも引用に際しては強度の正確性を要求されていない以上、本件程度のコマの配置変更は、何ら同一性保持権を侵害するものではない。

 よって、本件配置変更を伴う引用は、著作権法三二条一項により公正な慣行に合致し、かつ、引用の目的上正当な範囲内で行われたと認められ、同法二〇条二項所定の『著作物の性質並びにその利用の目的及び態様に照らしやむを得ないと認められる改変』に該当するものであって、著作者人格権侵害との関係においても違法性を阻却されるものである。

 にもかかわらず、本件控訴審判決は、代替手段をいくつか挙げるのみで、引用(著作権法三二条)と同一性保持権(同法二〇条)の関係について何らの考察もせず、理由を付することもなく本件配置変更は「やむを得ない改変」(著作権法二〇条二項四号)に当たらないと断じているが(本件控訴審判決六三、六四頁)、上告人の表現の自由を侵害するとともに、理由不備、審理不尽の違法が存する。

 以上のとおり、本件控訴審判決は、上告人の表現の自由(憲法二一条)を侵害する違憲な判決であり、かつ、引用(著作権法三二条)と同一性保持権(同法二〇条)の関係について何らの検討も行っていないから、理由不備、審理不尽の違法があり、破棄を免れ得ない。

三 本件配置変更の代替手段の不存在
 本件上告人著作における編集方針として、できるだけ読みやすく、わかりやすく構成することが編集方針とされた。同時に、被引用著作物を極力読者に体感させることができる形で引用することで、被引用著作物と引用著作物の対等な関係での論戦を実現しようと心がけたのである。
 具体的には、上告人著作は、引用著作物である文章の間に被引用著作物である漫画のコマが織り込まれる形で構成されている。
 その結果、読者は、目線をいちいち大きく移動させずに、被上告人の漫画部分と上告人の批評部分を継ぎ目なく流れるように読み進むことができるのである。

2 縮小引用について
 本件控訴審判決は、乙第七号証のようにカットを縮小して引用しセリフの文字を文章で抜き出して引用する代替手段が存在すると指摘する。
 しかし、乙第七号証のようにカットを縮小して引用しセリフの文字を文章で抜き出して引用した場合、読者はカットそのものを体感することができない。縮小され極めて見づらい絵部分と引用文章中に抜き出されたセリフの文字を合わせても、決して本来のコマの迫力、説得力を読者に体感させることはできないのである。
 その結果、上告人の意図した「対等な論戦」を迫力ある形で行うことができなくなってしまう。  よって、カットをこれ以上縮小して引用することは、被引用著作物を読者に体感させるという点で著しく劣り、引用者の意図する効果を発揮できず、そのような引用方法は代替手段とはいえない。

3 見出しの周辺の空白
 本件控訴審判決は、カット37の採録頁の見出しの周辺の空白を使用する方法が代替手段として存在すると指摘する。
 しかし、見出しの後に一定の空白部分を作ることは、見出しを目立たせ検索を容易にするという見出しとしての機能を維持するために必要不可欠である。
 そのため、上告人著作の他の全ての章でも、一貫して、五行のうち始めの三行の中央に見出しを置き二行余白をとるという形式でレイアウトしているのであり、この章だけ余白を削ることは他の章と全く釣り合いが取れず極めて不自然なレイアウトとなってしまう。
 したがって、かかるレイアウトは実際上採り得ない。
 また、上告人著作の当該頁の下段にコマを配置した場合、上段はわずか二行の文章しか存在せず、極めて不自然な空白が生じてしまう(別紙レイアウト例@)
 その結果、文章が寸断されることとなり、文章にコマを織り込むことで継ぎ目なく文章とコマを読ませようと工夫した上告人の表現が実現できなくなってしまう。
 したがって、かかるレイアウトも実際上採り得ない。
 よって、カット37の採録頁の見出しの周辺の空白を使用する方法は実際上採り得ない。

4 見出し導入部のない頁
 本件控訴審判決は、カット22ないし24のように見出し導入部のない頁で一段を全て使う方法が代替手段としてあると指摘する。
 しかし、「・・もういちど検討してみよう。(当該カット)このように・・・」(上告人著作六四頁)という文章中にコマを織り込む構成は、目線をいちいち移動させずにそのまま読者に読み進んでもらうために必要不可欠な構成であり、上告人の意図した表現そのものである。
 したがって、見出し導入部のない頁にカット37だけを置き上告人の文章部分と分離することは、引用著作物たる批評文と被引用著作物たる当該カットの物理的な距離を拡大し、目線を移動させずにそのまま読み進むことを不可能とするもので、そのような方法では上告人の意図する表現を実現できないのであって、代替手段とはいえない。

5 別の頁にかかる方法
ア 本件控訴審判決は、カット3のように引用したカットとそれに触れた被控訴人の文章が別の頁にかかるようにする方法もあると指摘する。
 しかし、カット3も被控訴人の文章に被引用カットが織り込まれる形でなされており、本件控訴審判決の指摘する方法が具体的には何を指すのか不明である。
イ 本件控訴審判決が、たとえば別紙レイアウト例Aのようにコマが別の頁にかかることを意図しているのであれば、それは大きな誤りと言わざるを得ない。
 上告人著作は、各頁ごとに上段、下段と読み進められるように構成されているのであり、かように引用した場合、上告人著作六四頁の上段を読んだ読者は、二コマ目(「日本軍は・・管理している」のセリフのあるコマ)まで読み進めずに上告人著作六四頁の下段に移ってしまう。
 逆に二コマ目まで読み進めてしまった場合、そのまま次頁の文章を読み進めてしまい、意味が通じなくなってしまう。
ウ また、本件控訴審判決が、たとえば別紙レイアウト例Bのように別の段にかかることを意図しているのであれば、それもまた大きな誤りであることは一目瞭然である。
 かかる引用方法は、本件配置変更より遙かに両コマの連続性を失わせるものであって、全く上告人の意図する表現ではない。
エ したがって、本件控訴審判決が指摘するような、引用したカットとそれに触れた被控訴人の文章が別の頁にかかるようにするという方法は採り得ない。

 以上のとおり、本件控訴審判決が列挙するような代替手段では上告人の意図した表現効果は発揮できなかったのであり、上告人が自己の表現を実現する上では、本件のようなコマの配置しか考えられなかったのである。
 よって、上告人の採った本件引用方法がやむを得ないものであったことは明らかである。

 なお付言すると、上告人著作の各頁の上段左端と下段右端は社会通念上連続しているから、仮に上告人が別紙レイアウト例Bのように引用したのであれば同一性保持権侵害とならないことは明らかである。しかし、その場合、両コマの連続性は本件配置変更より遙かに失われ、改変の程度が本件配置変更より遙かに大きくなることは自明である。
 そのため、上告人は、本件のように配置変更したのであり、より改変の程度が大きい別紙レイアウト例Bの引用方法が認められて、より改変の程度の小さい本件配置変更が認められないのは明らかに常識に反する。

四 漫画のコマの概念に関する理由不備、審理不尽
本件控訴審判決は、カット37の上段のコマについて「二つの異なった場面が左右に書かれているから…二コマというべき」(本件控訴審判決五九頁)としている。

 しかし、社会通念上及び業界の慣行上、同一枠内に複数の場面が描かれていても一つの枠線で囲まれているものを一コマと数えるのである。
 本件カット29、32右下、40などにも、いずれも二つの場面が描かれているが、これらはすべて原告「無断複製一覧表」でも一コマとして数えられており、第一審判決でもそのように認定されている。
 また、たとえば、一コマ漫画において、一つの枠の中に二つの場面を描いていても、社会通念上、それはあくまで一コマ漫画であって、二コマ漫画ではない。コマとは一つの枠線に囲まれたものという認識は、一般人及び出版業界に共通の認識である。
 一つの枠線に囲まれたものは一つのコマであるという常識は、漫画家である被上告人も熟知しているのであり、だからこそ、被上告人は控訴審において、上告人のコマ数に関する右指摘に対して何ら反論できなかったのである(平成一二年二月二四日付控訴人(被上告人)準備書面参照)。

 したがって、たとえ二つの場面が描かれていても、一つの枠線で囲まれている場合には一つのコマ(カット)である。
 一つの枠線で囲まれているにもかかわらず、二コマと数えることはおよそ社会常識に反しており、かつ、漫画におけるコマという概念を根底から覆すものである。

 また、本件控訴審判決のようにカット37の上部が二コマと考えることは意味内容からしてもおかしなこととなってしまう。
 平成一二年一月一二日付被控訴人(上告人)準備書面三三頁で述べたとおり、カット37の下段のコマの人物像が指し示す意味内容は「奴隷状態だった慰安婦」に対して「日本軍が人権を与える方向に管理」することであるが、「奴隷状態だった慰安婦」の絵は上段のコマの右側に、「日本軍が人権を与える方向に管理」する絵は上段のコマの左側に描かれているのである。
 本件控訴審判決の判示するように上段のコマが二コマであるなら ば、原著作物において、右人物像の指し示す対象は「日本軍が人権を与える方向に管理」する絵だけということとなるが、右人物像が指し示す意味内容に「奴隷状態だった慰安婦」も含まれることは明らかであり、本件控訴審判決の誤りは明らかである。

 そして、カット37の上部のコマが一コマか二コマかによって、配置変更による表現内容の変更の程度が異なってくるのであり、右の点は判決の結論に影響を与える可能性のある重要な点である。
 すなわち、平成一二年一月一二日付被控訴人(上告人)準備書面第二、三(三一頁以下)で詳論したとおり、カット37の上部が一コマならば、カット37下部の指を差している人物像のコマの配置を本件のように配置したとしても、指を差している対象は同一のコマということになるが、二コマの場合には、本件配置変更によって指を差している対象がずれることとなるのであり、その結果、配置変更による表現内容の変更の程度が異なってくるのである。

 しかも、本件控訴審判決は、この点について何ら審理を尽くさず、かつ、何らの証拠にも基づかず、場面が二つだから二コマであるというおよそ常識に反した断定を述べるのみで、何ら実質的な理由を述べていない。

 したがって、本件控訴審判決の右認定は明らかに経験則に違背し、理由不備、審理不尽の違法が存する。

以  上