『新ゴ−マニズム宣言』 第103章
『「引用」と称する「便乗本」の時代の幕開け』に徹底的に反論する

横山 好雄(「脱ゴ−宣裁判」を楽しむ会)


 8/31、自身の誕生日に「全面敗訴」の判決を受け、完璧に引導を渡された小林よしのり。何の因果か・・・、自身の誕生日に(笑)。
 この結果を受けて小林が『新ゴ−宣』紙上でいったいどんな反応を示すのか、上杉支援に集まった仲間の間では興味津々だった。「どうせまた一切無視でも決め込むんだろうよ」(私はこれ)、「いや、大々的に反論するぞ」、「欄外でちょこっと触れるだけだよ」等々々。様々な憶測が飛び交ったけれど、その結果が『サピオ10/13号』で明らかになりましたね。なんと16ペ−ジに及んだ大反論でした(笑)。悔しい気持ちがよ−く伝わってきましたよ。そりゃ悔しいよな。何せ訴えた事の何一つとして認めて貰えなかったんだから(ぷぷっ)。『新ゴ−宣』ファンを騙せる程度の詭弁じゃ裁判所には通用しないって事だよ。判事はあんたの信者じゃないんだからよ。
しかしまぁ、今回の103章、相も変わらず自分勝手な理屈ですなぁ。小林がここで述べている主張、そのまんまで、「絶対勝てる」って弁護士が言ってたんじゃなかったのか?。現実問題として敗けたんだからさ、勝てなかった理屈をまた読者に読ますってのはどうかと思うぞ(笑)。
 もっとも、この章がいかに詭弁とスリ替えに満ちているかは、裁判の流れを知らない人には恐らく解らないだろう。小林信者でなくても、この章を読む限りにおいては、「小林の言い分にも一理あるのかなあ」なんて思う人もいるやもしれん。いつだって彼はこの手だ。『脱正義論』にしたって「支える会」に友人でもいなけりゃ検証なんて出来ゃしない。最初から話半分で読める能力(「頭っから信じ込まない」ってだけの事が能力かなぁ)があるのなら何の問題も無いが、はなっから信用しちゃうような人も世の中には居るんだからよ。ああ、始末が悪い。
 私は今回の103章を読んで、初めて、小林に一方的に描かれてきた人達の気持ちが解ったような気がする。今まではどこかまだ他人事だったもんな。(それは上杉氏に対しても。)
 「訴状」から「判決」まで、その都度目を通してきた私としては、やっぱり反論せずにはいられない(笑)。猛烈に腹が立っている為、皆様の読むに耐えない表現も出てくるかもしれない(嘘)。とにかく、大方全てに渡って、徹底的に反論しておこう。
 小林の信者達よ、センセイの素晴らしい「論理」の前に改めてひれ伏すがよい。小林よしのりを嫌悪する全ての友人達よ、彼のふざけた「詭弁」を共に嗤おうではないか。

(文中、原告・被告ともに敬称は略す。「103章」からに限らず引用は[ ]で示す。改行は略。)

★お手元に『サピオ』を置き、「103章」をご参照の上お読み下さい。

【63ペ−ジ】
◆ [藤原紀香が誕生パ−ティをした沖縄のホテルで]判決を知っただと。本人にも会ったのか。羨ましいじゃねえか。(笑。軽くジョ−クから入ってみました。)

【64ペ−ジ(上段)】
◆ 小林センセイに念を押されるまでも無く、この裁判は「従軍慰安婦問題」や「イデオロギ−闘争」なんて全く関係無い。当たり前だろが。「楽しむ会」は今回の裁判において、上杉支援として集まったのは事実だが、個々人の考え方まで私は知らん。中には、「慰安婦問題が本質だ」と思っている人も、「これは小林とのイデオロギ−闘争だ」と考えている人もいるかもしれない。だからって、それがどうした。気にしなきゃいいじゃん(笑)。
 むしろそんな事を積極的に言ってきたのは小林側の人間ではなかったか。昨年の『サンデ−毎日8/16・23合併号』の記事には小林の代理人である中村弁護士のこんなコメントが載っている。[向こうは慰安婦問題そのものに引きずり込もうと考えているようだが、それには乗らない]。考えてねえよ(笑)。私と高橋弁護士(今裁判の担当)は判決の日の打ち上げの席でこのコメントについて懐かしく思い出し大笑いしたものだ。
 だいたい日本の裁判所がそんなに優しいわけないでしょうが。仮に、いくらこちらが「慰安婦問題」に引きずり込みたいと思ったって、「争点とは関係ありませんから」で終わりだよ。71ペ−ジで小林自身が言っているように、裁判所は訴え以上の事なんかに絶対触れてはくれない。まして原告はそっちなんだからよ。頭悪すぎ。(ちなみに71ペ−ジ、[これは完全に〜はずなのだ]の理解も全く間違っている。)
 それとさぁ、[この裁判を左翼は]って、いつもながらのこういうくくり方ね、もういい加減やめたらどうなのかなぁ。よくいるでしょ、ある個人の誤りを見つけるとたまたまその人がその時所属しているに過ぎない組織にまで拡大して批判してくる奴。「これだから○○の会は云々」とかさ。そんな言い方が通るのなら何だって言えるよ。もっと思いっきり拡大して「これだから日本民族は」って言っても可(笑)。
 本論に戻る。[要点はこれだけだ]なんて大見栄切るのなら定義は正確にしてほしい。[作者の許諾なく漫画作品の絵・カットを引用し]?。引用は許諾がいらないんだろ。いきなりの詭弁だな。もし著作権法を全く知らない人がこれを読めば、「引用と言っても一応許可はいるのか」なんて思い込まされてしまう(可能性もある)。そして小林の主張は、とにかく「許諾の有無」の一点にあるようにすら読める仕掛けになっている。「わしは申し入れがあれば許可した。無断で載せた事に怒っているのだ」ってわけ。引用にも許可がいると思い込まされたなら、「よしりんが怒るのもアタシ解るなぁ。黙って載せられちゃ誰だって怒るわよネェ」、チャンチャン。
 この冒頭で騙せればあとは小林の思う壷。[読者しょくんの常識に照らして]の言葉がこの詭弁を更に補強する。そりゃ人の物を黙って取りゃドロボ−だし、それがいけないのは常識だもんな(笑)。だけど繰り返すが、「『引用』とは著者に無断で出来る」ものなのだ。(こういう言い方をすると、「引用者の権利ばかりを主張して本来の著作権法の理念を無視している」と批判してくる者が必ずいる。裁判において小林もそう言った。しかし、「著作権者の権利の保護」は当然過ぎる程の前提であり、勿論私も共有している。その上での、引用についての私なりの言及なのだ。言葉じりを捉えた揚げ足取りのような批判に先手を打ってここで明言しておく。)
 小林にならって私も私なりの定義を挙げておく。「『脱ゴ−宣』における絵・カットの引用は適法か否か。改変は違法なものか、やむを得ないものか」、これだけ。「許諾の有無」は一切関係無い。
◆ 3コマ目にある『脱ゴ−宣』の表紙を見てちょうだい。これを小林の書いた本だと思う奴がいるか?。よしりん信者が、「やったあ、センセイの新作が出た」って思うか?(笑)。小林はこれを「不正競争防止法違反だ」と主張したのだ。つまり『脱ゴ−宣』を「小林の本だと勘違いさせて買わせようとしている」と言っているのだ。頭大丈夫か。
 訴状ではこうも言う。[この行為は、著名な原告ないし原告著作物に名を借り、その顧客誘引力を不当に利用して被告書籍を販売しようとする悪質なものであり、〜]。狂ってる。まあこの辺りが[便乗本だ]という主張に当たるんだろう。
 便乗という言葉を最大限広くとるなら、『脱ゴ−宣』は便乗本である。小林らの『朝日新聞の正義』もね。『脱正義論』は「薬害エイズ問題」への便乗本。なんか便乗ってすごく悪い事で、それだけで違法みたい。けど、そうなのか?。(ある事象についての論評がその事象に対しての便乗になるなら、この世には便乗でない物の方が少ないかもしれない。)100万歩譲って、『脱ゴ−宣』が本当に便乗本だとしても、それの何が問題か。小林が言ったのはあくまでも「不正競争」なのだ。「便乗」と「不正競争」は何の関係も無く、全く違う概念だろう。こういうスリ替えに騙されてはいけない。

【下段】
◆ [『〜の謎』や『〜の秘密』といったタイトル]の中に「〜の正義」も入れろって(笑)。
 [「ゴ−マニズム宣言」はわしが創作した言葉]か。だったらこれについても著作権侵害で訴えりゃよかったじゃねえか。そのタイトルが「思想・感情を創作的に表現している」って自信があんのならさ。
 普通、出版物においては、タイトル(題名)は著作権法の保護は受けないとされる。仮に誰かが『ゴ−マニズム宣言』という本を出したとしても争うべき余地は多分にあると私は思っている。現に、同タイトルの本なんて山ほどあるではないか。(小林の描いた『戦争論』にクラウゼビッツは文句は言えない。今生きててもね。)
 小林が何を根拠に「わしの創作」などとのたまうのかは知らんが、どこがどう創作なんだよ。イズム(ひなのちゃんと別れた男ではない)をつける用法なんて中学生だって思いつくよ。「傲慢」をカタカナにした部分が創作だって言ってんのかな?。まさか・・・。下に「宣言」って付けたのが新しい視点だったのか(笑)。
 これは私の推測だが、恐らく小林は本当に『ゴ−マニズム宣言』というタイトルを自分の創作物だと思っている。そしてきっとこのタイトルにも著作権法は適用できるものと思い込んでいたのではないだろうか。以下、推測架空対談。小林「これはわしの創作したタイトルだ。わししか使えないはずだろ」、弁護士「題名には著作権法は適用できないんですよ。それにこれは創作っていうより、過去の様々なアイデアを単に組み合わせただけの物ですから、創作って言うには無理があるかと・・・」、小「じゃあどうすればいい」、弁「まあ、不正競争でいくしかないでしょうね。でも自信無いなあ・・・」。(笑)こんな所でしょう。
 しかしまぁ、『脱正義論』を描いたんだから『脱ゴ−宣』という本を描く可能性だってあるって言うんだからスゴイ理屈だよ。それも[将来的には]だってさ(ああ・・・)。そこまで言うんなら「ゴ−マニズム」に商標登録でもしておけよ。認められるわけないけど。「『柔道一直線』を描いたんだから 『東大一直線』を描く可能性だってある」なんて言われてアンタ納得できますか?。マルクスも生きてりゃ万国の労働者に向けて『ゴ−マニズム党宣言』を描いたかもね。
 ああ、バカバカしい。でも小林が言ってるのはこの程度のレベルの話だ。
◆ 被告の名誉の為に最後のコマについても一言だけ言っておく。上杉著『天皇制と部落差別(三一新書)』は相当数[これ以上売れ]ている(笑)。(この本は本当に名著ですからぜひ読んでみて下さい。)

【65ペ−ジ(上段)】
 やっとこの裁判の本来の争点に入ってきましたね。まあ、16ペ−ジもあるとは言っても上杉側の意見までを対置する紙幅も、また心の余裕も無いでしょうからその点は責めますまい。今回この拙文を書く目的の一つは、対立している双方の、もう片方の意見・主張を提供し、検証の機会を持ってほしい故の事です。今号の103章を読んだだけでは絶対に判断は不可能なのですから。

◆ 小林は[フキ出しの中の意見が欲しいだけなのだ]と言い、[どうして絵が必要と言えるのか?]などとフザケタ事を言っている。裁判で説明しただろうがよ。その説明の方に理があったからこそ、上杉勝訴だったわけだろ。
 [とした方がすっきりして読みやすいではないか!]などとのたまうが、読みやすいか、読みにくいかなどは争点とは全く関係ないのだ。だいたい小林がここで描くバカ読者のような漫画の読み方をする奴がいるのか。ここでの小林の「漫画の読み方教室」に習えば、3コマ目にある『脱ゴ−宣』は、私達はこう読まなければならないそうだ。「よしりんは、慰安所とレイプはザザ−ッちが−うっと描くが〜」。アホか。「ザザ−ッ」なんて効果音をフキ出しのセリフと等位に読んでる奴なんていねえよ。面白えから『エ−スをねらえ』でもやってみよう。「ひろみ勝負よハイお蝶婦人パ−ンパ−ンパ−ンパ−ンパ−ンパ−ンあっ腕を上げたわねひろみ」。こんなシ−ンがあるのかは知らん(笑)。
 こういう効果音はコマを見た瞬間に無意識下で感得しているものだろう。こんな漫画の常識のような事を、小林が理解していない筈がなかった。上杉への反論の為なら、漫画の特性すら無視して荒唐無稽だと知りつつ言っているのだ。哀れだ。本当に哀れだ。「亀田の哀れお煎餅」だ。(小林の、敗訴とハイソサエティの駄洒落よりはレベルが高いでしょ。)
 では上杉側の意見はどういうものか。3コマ目にある『脱ゴ−宣』での引用における上杉側の主張を紹介しておく。
[セリフ部分には「慰安所とレイプはちが−うっ!!」とあり、絵の左半分が、鬼のような顔をした男が泣き叫ぶ女性をレイプしている場面、右がにこやかな男たちが慰安所の前に並び、慰安婦と思われる女性が笑いながら照れた男を布団に誘い入れているシ−ンとして描かれ、両者の間にはモ−ゼが紅海の水を割ったシ−ンを思わせる、原告が真っ二つに水を分けた姿が描かれ、両者が全く別物であることをイメ−ジで示している。
 このコマの引用について、原告側の「無断複製一覧表」は、「絵の表現に全く触れていない、単なる挿し絵」と批判しているが、文が絵について直接触れていないから挿し絵だとは言えないし、必ず触れる必要もない。
 このコマの絵によって、慰安所とレイプの違いがわずかなものか、根本的に異なるのか、また具体的にどのように異なるのかが初めてわかる仕組みになっている。こうして、原告は慰安所とレイプの違いをもっぱら絵によって読者に説明しているのであり、そうした原告の描き方をもって、被告は「よしりんは・・・と描く」と記したのである。
 被告がその後続けて「実態は、内部でしっかりとつながっていたのだ」と批判するのは、絵を含めてそうした理解が行われることを前提にしているのである。]
 よしりん信者達よ、お解りか?。
 小林は、「上杉が批判したいのは原告の意見・主張にあるのだから、絵までの引用は必要ない」などと言うが、上杉の批判は、小林の描くコマの中に含まれる「情報」そのものにあるのだ。その情報の中には絵もあり、そしてセリフもあるに過ぎない。どちらかだけで足るなどというレベルの話ではないのだ。
◆ ちょっとそれるが・・・。だいたい漫画においては文字だって絵の一部であること位、小林だって解っているだろう。セリフの活字をどんな物にするか、その与える効果を最大限考慮して慎重に選択している筈なのだ。例えば最後のコマ。何故小林はここを太字のゴシックにしたのだろう?。また四方からの斜線はどういう意味があるのだろう?。
 ここには絵が無いので引用するとすれば文字だけで足る。しかしそれで、情報の共有である所の「引用」と言えるのかという疑問は残る。また、斜線のデザインを含め、このコマ自体を絵(漫画における)だと言う事も可能なような気もする。ちょっとまどろっこしいが、つまり、このコマを引用された場合小林の批判はどういうものになるのか。ちょっと頭をよぎったもので・・・、余談でした。
◆ この裁判で小林は、「カットを複製せずに文字で説明する事は可能だ」と主張した。つまり先程引用したように、[セリフ部分には「慰安所とレイプはちが−うっ!!」とあり、絵の左半分が、鬼のような顔をした男が泣き叫ぶ女性をレイプしている場面、右がにこやかな男たちが慰安所の前に並び、慰安婦と思われる女性が笑いながら照れた男を布団に誘い入れているシ−ンとして描かれ、両者の間にはモ−ゼが紅海の水を割ったシ−ンを思わせる、原告が真っ二つに水を分けた姿が描かれ、両者が全く別物であることをイメ−ジで示している。]などと書けという事だろう。しかし仮にそうしたとしても、この文章によって受け取るイメ−ジは人それぞれ、千差万別だ。引用とは読者との「情報の共有」にある以上、このやり方はかえってマイナスですらある。
 ちょっとペ−ジは飛ぶが、P.75最初のコマ。ここからセリフだけを引用しても引用者にとっては大した効果は得られないだろう。小林がこのセリフにどれだけの怒りを込めているのかは、セリフだけの引用では絶対に再現できないからだ。(私が小林なら、このコマに関してだけは絵を含めた引用を求めるだろう。これだけ怒っている私が伝わらないのなら(笑)、それは「同一性保持権」の侵害だよ。)
 つまり、例えセリフのみへの論評だとしても、情報総体としてのコマ全体、その引用は認められるべきなのだ。いや、「認められなければならない」と主張して小林と真っ向から争ったのがこの裁判の本質的な争点なのだ。「著作権法」上の引用規定に照らして、それはどうなのかという話である。わかったか。
【下段】
◆ 先に引用したような形で上杉側は採録引用カット全てについて、詳細に必要性・必然性を主張している。従って下段の『脱ゴ−宣』からの3コマについても推して知るべしと理解してもらって全く構わない。長くなるから省略するけどさ。
 [絵の部分の批評はいっさい]無くても、[絵とセリフの関連性やその効果についての]批評もいっさい]無くても、引用の要件を阻害する事はないのだ。この点が、判決を読んでも小林の頭ではまだ理解出来ないらしい。 お悔やみを申し上げておく。

【66ペ−ジ(上段)】
◆ [単なる「さし絵」として使ってペ−ジかせぎしている]のか。ひどいな、そりゃ。前述のとおり、これらのコマに関しても何の問題も無し。上杉側の抗弁は判決では全て認められている。
◆ カツトの一コマ一コマにそれなりの労力が費やされている事には敬意を表しておくがそれは文章だって同じ事だ。こういうのを「泣き言」と言う。
 このコマは103章で読む分にはそれ程違和感は無いのだが、小林は裁判でもマジでこんな主張をしたのだから呆れる。判事団の情に訴えたワケやね。
◆ 朝日新聞にコメントした若桑みどり氏について、[上杉と同じ日本の戦争責任資料センタ−の者]などと書くがこれも全くの嘘である。こういうやり方で、身内のコメントであり信用に値しないようなイメ−ジにしてしまう。姑息だねぇ。
【下段】 ◆ 最初のコマ。これも小林が裁判で言ってた事。こんな風に言ってます。
[それは歌詞とメロディとが有機的に結びついた歌謡曲においても同様であろう。例えば、ある曲の歌詞の一部に差別的表現を含んでいると批判する本を出版するとする。その際、歌詞とメロディは有機的一体であるからといって、そのCDのコピ−を勝手に作成し、本の付録に付けることも許されるのであろうか。被告らの論によれば、それも自由ということになるのであろう。]
バカである。この例に比肩されるのは、『脱ゴ−宣』の付録として小林著作の本が丸まる付いているような場合。「例え」としての意味を為していないのだ。(この部分が出てきた所で私は確信したのだが、多分、書面を書いているのはトッキ−あたりじゃないのかな。だって、頭悪過ぎるんだもん(笑)。代理人の弁護士は最終的な手直し程度だと思う。まぁ、決めつけはイカンが。)
 ついでに言っておくが、[歌詞とメロディとが有機的に結びついた]などと述べてあたかも上杉側主張の「絵とネ−ムは不可分」と同列に論じられるような例だと考えているようだが、漫画と歌が同じかよ、コラ。どこまで頭の悪さを自慢するんだろう。ちょっと些末的ではあるが一応反論しておく。
 歌の場合、詞・曲・アレンジと著作権が分立しているケ−スが多い。(勿論全て一人の場合もある。)こういうケ−スを「結合著作物」と言う。だからこそ詞だけを集めた「○○歌詞集」は作曲者の許諾無く作れるし、メロディだけを集めた「○○インスト集」も作詞者の許可無く作れるのだ。本来の意味での「有機的一体」なら作曲者がイヤだと言えば歌詞集も出せなくなってしまう。唄声喫茶はどうする。また、逆の場合「歌のない歌謡曲」も作れない。TBSラジオの朝はどうなる。
 つまり、こういう例を挙げること自体が著作権についての理解がまるで無い事の証明なのだ。「結合著作物」と「共同著作物」の概念の違いすら解っていない。呆れたものだ。 ◆ 2コマ目は議論の余地があるだろう。[詞と曲は一体]ではないのでそんな理由は問題外だが、仮に歌詞のみへの批評だとして、参考資料としてのフレ−ズの引用は無理なのだろうか。実は私はそうは思っていないのだが、ここに踏み込むと本論とはかけ離れ過ぎるのでまたの機会に。(ってあるのかいな。)
◆ ここで、歌謡曲の例に照らして「絵とネ−ムは不可分」について検証してみたい。先の例(歌詞集やメロディ集)に当たる『ゴ−宣』の「ネ−ム集」や「カット集」がそれ自体単独で成り立つかどうかが問題なわけだ。この点については、大阪の「楽しむ会」が小林の提訴と同時に気付いて(笑)作業に入り、上杉側証拠として裁判所にも提出している。
 要するに、『新ゴ−宣』のある章からネ−ムだけを抜き出したもの。またカットからネ−ムを全て消したもの。当然ネ−ムだけじゃ全然意味が通じてこないし、絵だけじゃ面白くもなんともない。当たり前か。
 「有機的一体・不可分」とは、それぞれを分離した上で、なお「単独での利用価値」があるかどうかによって決まるのだ。言葉づらだけの意味で、単に「分けられるか否か」などという意味で使われているのではないこと位解りそうなものではないか。小学校への入学をお勧めしておく。

【67ペ−ジ(上段)】
◆ 3コマ目。語るに落ちる。何がなんでも「許可の申し込み」や、「許諾の有無」という点に収斂させたいわけか。先述のようにそんな事はこの裁判とは全く無関係。聞き捨てておけばよい。しかし、このコマもちょっとごまかされやすいので解説はしておく。
 ここでの小林の言い分を素直に聞いていると、まるで許可を求めれば無料でOKするが如くにも聞こえる。そんな筈はねえよな。
 「著作権法」と一口に言ってもその概念は二つの柱からなっている。「著作者人格権」と「著作権」。前者は、「公表権」「氏名表示権」「同一性保持権」からなり、これらは小林一人の一身専属であり譲渡できない。また、後者は、「複製権」や「上演・演奏権」「展示権」等からなり、「著作財産権」という位置付けだ。(これに「出版権」や「著作隣接権」などが加わるが、今裁判にはあまり関係がない。)
 「著作財産権」とは俗な言い方をすれば、その著作物を使って儲ける権利はその著作者にしか無いという権利だ。そして他者からの使用申し込みに対して、許諾しようが、拒否しようが、全く自由だし、許諾した場合、その使用への対価を決められる権利でもある。例えば、『脱ゴ−宣』の出版にあたり、東方出版が小林に正式に使用を申し入れたとする。その時小林が使用料として提示した額がいかに業界の「公正な慣行に合致」していなくても(笑)、誰も文句などは言えない。(許可を求めれば多分そうなっただろう。)合わなければ使用を断念すればいいだけの話だ。
 つまりこのコマで小林が言うOKとは、そういう意味が含意されている筈なのだ。みんな、騙されないようにね。
【下段】
◆ 小島功氏には、「著作権法を勉強して下さい」としか言いようがない。でも『ヒゲとボイン』は好き。
◆ [慣例]の理由がスゴイですね。[才能と努力で完成された「絵」に対する敬意]ときたもんだ。文章の引用では許諾を得る事が慣例になっていないのは、文章ごときは[才能と努力で完成された]ものではなく、敬意も払われていないからか。今わかったよ。
 小林センセイ・・・、天才にも程があるのではないでしょうか(笑)。
 引用には許可はいらないが、だからこそ、著作者への敬意があるからこそ、引用の「要件」から外れないように、誰もが細心の注意を払って引用しているのだ。例えその目的が、「批判」や「罵倒」だとしてもである。あんたのように、他者のペ−ジからそのまま持ってきてペタペタ張り付けて一コマ作るような奴に言っても伝わらんかもしれないが。
◆ 最後のコマ、こりゃ一体何だ?。皆さん、理解できましたか。私の頭が悪いのかなぁ。  「作品」としての文章を、一文字一文字の活字や写植文字の次元にまで還元して、[作品ではない]だって?。(よしりん信者も含めて、私は本当に聞きたいんだけど、こういうのって小林は本気で言ってるんですか?。それともある程度、詭弁って解っていながら反論の為のレトリックとして言ってるんですか?。教えて。)
 しかし、こんな言い方がOKなら私はすごく得意だ(笑)。[しかし文章は「活字」であり]を援用すれば、「しかし漫画は印刷によって大量に複製されたただの『紙』であり」と言うのもOK。ただの紙だから「作品」ではない事は言うまでもない(笑)。要するに、作品と言えるのは文章なら「自筆の原稿」のみ、漫画なら「原画」のみである。お後がよろしいようで。

【68ペ−ジ(上・中段)】
◆ 相田みつをの作品を引用するのに、活字で足ると判断すれば活字にして引用すればよかろう。[独特の書体と有機的一体となって]いる事について論評したいのなら堂々と複製して引用すればいい。それだけのことだ。
 こういう時、引用の要件である「主従関係」が重要になってくる。例えば、『相田みつをの「独特の書体」の世界』(笑)って本があったとして、その本の中でその書体を紹介する引用が一枚も無けりゃ読者にとっては相当不親切な本だろう。(「あまりにも有名だから」って理由は今は無しね。)だからって何例も大量にいるか?。書体についての論評という「主」に対して、その例として挙げている複製(「従」)が多過ぎればそれは問題かもしれない。(しかし、何例も大量に載っていても違法ではない場合も有り得るだろう。要は「主」である引用者の文章によって規定されるわけで、個々具体的に全て違う。一般論で語ること自体無理があるとも言えるわけだが、あえて小林のバカ論理に反論すればという感じで受け取って下さい。)逆に著者が書体なんかに一切興味が無く、完全な作品論としての本を書くのなら全て活字だって構うまい。その著者がそれでいいんならね。
 「引用」においては常に引用者の文章、表現が「主」なのであって、被引用者の「作品」が天才の物だろうが子供の作文だろうがそんな事は一切関係無い。主に対しての従が多過ぎりゃ「主従関係」が逆転するのだから、その分違法に近づく。それだけの話だ。(「主従関係」とは単純に量だけの問題でもない。この点は、判決の方に入ってからまた触れる。)
【下段】 ◆ だからそんな事は文筆家にだって言えるんだよ、タコ。(いかん、品良くしなきゃ。)
 スタッフやバイトのいる研究者や文筆家なんて山ほどいるのではこざいませんか?。

【69ペ−ジ(上段)】
◆ 細かい事だが、小林の姑息さを一つ指摘しておく。梶村太一郎氏に目隠しを施したカットを見てほしい。何か今までの『脱ゴ−宣』からのカットと違ってません?。そう、不自然な位、「絵」のみのカットなんですね(笑)。今までのは割と大ざっぱに、上杉文章までを含めて載っけてるのにさ、何でこのコマだけこんな事するのかね。
 『脱ゴ−宣』での、このコマに続く文章はこうである。[と言ったと描かれているのだ。「・・・・・・と考えるとしたら大間違いだぞ!」の箇所が抜けている。]これでたった2行。真下にあるカットの上杉文(ここで、元「慰安婦」の〜)と同じ量。左側にはまだ余白だってあるんだからよ、わざわざ文章部分切って張り付けるような姑息な真似すんなよ(笑)。
人の言った言葉が、小林の漫画にかかるとどのように変質させられてしまうかの証明として上杉が挙げたコマに対して、こういうセコイ操作をする男ですよ、全国のよしりん信者の皆さ〜ん(笑)。自らこのコマが捏造であった事を認めたようなもんですな。
 しかしまぁ、こんな簡単に突っ込まれるようなこと何でやんだろ?。私ごとき「ばかサヨク」の知能でも気づいたんだから、全国で相当数の人がこれに気づき嘲笑っている筈だ。  「よしりん企画」の連中ってのは、注意深いのか、思慮浅いのか(笑)。
【下段】
◆ はっきり聞いといてやるよ。[似顔絵も作者の主張であり批評である]か、ケッ。だったら何故上杉の似顔絵は出てこない?。あんたが敗けた当の相手だろうがよ。今回出てこなきゃいつ出てくんだ(笑)、いつ批評があんだよ。P.65の一コマ目なんて悲しすぎるぞ。ビビッて描けないんなら偉そうな事言ってんじゃねえよ。
 『噂の真相別冊/日本の文化人』での松沢呉一氏の指摘は正しかったな。小心者がよ。ケッ。
◆ 「コマ割りの変更」に対する訴えも呆れた物のうちの一つだ。[「コマ割り」も絵の一部]ってねぇ、そりゃそうだろうが、これは引用された上での3コマだよ。[わしが何もない空間に指をさしている]ってさあ(笑)、上の2コマに対する指さしであること位、うちの隣の5歳の男の子でも解ったぞ(笑)。こんなバカなこと言い出しゃ、そもそも、ある漫画作品から一コマだけ抜いてくる事自体が「同一性保持権侵害」だろうが。
 小林の言う[コマ割りの改ざん]とは、例えば、4コマ漫画の2コマ目と3コマ目を入れ替えたような場合に言い得る事なのだ。そしてそのように引用しておいて、入れ替えた事への言及が無いのなら、間違いなくそれは「同一性保持権」の侵害に当たる。しかし、入れ替えた事を断った上で、オリジナルと入れ替え後についての解説をするとか、独自の見解を出すとかの目的においては、同一性侵害かは議論の余地があるだろう。
 そもそも著作権法に言う「同一性保持権」とは、あたかもオリジナルがそうであったと誤認するような改変に対しての権利なのだ。モナリザに髭を書き入れて引用し、書き入れた事への言及が無かった場合、初めてその引用箇所でモナリザに出会った人は「はぁ、モナリザってのは髭があったんか」(笑)と思ってしまうだろう。こういう改変はいけないという事だ。
 ちなみに、小林が「改ざんだ」と訴えたのに、判決では「同一性保持権」に言う改変にすら当たらないと判断されたカットもあるのだが、今章では出てこないので反論も省略。
◆ 最後のコマ。じゃあ何で小林センセイは敗けたんだよ?(笑)。反論はこれで十分。

【70ペ−ジ(上段)】
◆ 一コマ目。[ここで引用されたのは]って何のこと?。こいつの日本語はホンマわかれへん。マジでしばらく解らなかった。「ここで『引用』とされたのは・・・この2点」って事でしょう、多分。
 「引用」において最も重要な裁判は小林がここで言う「パロディ事件」と、「藤田嗣治絵画複製事件」である。前者から後者を経て「引用の要件」は判例として確立されたと言っていい。少し長くなるが、非常に重要な点なので私なりの解釈を提示しておきたい。
 両事件を全く知らない方の為に、思いっきり簡単に説明しておく。
「パロディ事件」=マッド・アマノが、写真家・白川義員の作品(雪山の滑降)に別の写真(タイヤ)をはめ込み、自己のモンタ−ジュ写真作品として発表した。(小林の絵参照。)勿論白川の許諾は得ず。白川提訴、一審は白川が勝つ。控訴審において白川の請求は棄却され、アマノの作品の「節録引用」(旧著作権法)が認められる。上告審で破棄差し戻しとなり、最終的には和解。内容は白川の完全な勝訴であり、アマノの引用の抗弁は認められなかった。16年もかかったのよ。
「藤田嗣治絵画複製事件」=小学館(笑)が、発行した美術全集の中で藤田嗣治の絵画を無断で掲載。(許諾が得られなかった為らしいが。)著作権者である未亡人が提訴。小学館は「適法な引用だ」と抗弁。小学館敗訴(笑)。
 「パロディ事件」では、判決は先ず一般論として引用についてこう述べた。
[引用とは、紹介、参照、論評その他の目的で自己の著作物中に他人の著作物の原則として一部を採録することをいうと解するのが相当であるから、右引用にあたるというためには、引用を含む著作物の表現形式上、引用して利用する側の著作物と、引用されて利用される側の著作物とを明瞭に区別して認識することができ、かつ、右両著作物の間に前者が主、後者が従の関係があると認められる場合でなければならないというべきであり、(略)引用される側の著作物の著作者人格権を侵害するような態様でする引用は許されない。]
 そしてここに、具体的に「パロディ事件」での争点を当てはめ判決を導いた。
 P.75の4コマ目は何を根拠に言われているのか?。[「明瞭区別」「主従関係」2点]は、[写真どころか]どころか、まさに写真のケ−スで判示された基準なのだ。[パロディ写真裁判の根拠になった]わけではなく、この裁判での判示が先例となり、これ以降、引用における「要件」の基準となったのだ。そして先にも述べたとおり、「藤田嗣治絵画複製事件」において確立した。小林ったら、無茶苦茶言いよる。まあ素人の私の言より専門書からの言葉を聞こうか。『著作権判例百選/1987』の「藤田嗣治絵画複製」事件の項より引いておく。筆者は板東久美子。
[本判決は、美術史に関する論文中に絵画の複製物を掲載することが、著作権法三二条一項により許容される「引用」に該当するか否かが論じられたものである。
 同項は、許される引用は、「公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない」と規定しているが、その要件が抽象的であり、また、もともと引用自体多様なものがありうるため、具体的にどのような場合が同項の引用に該当するかはなかなか明確な線を引くことが困難である。判例の蓄積が望まれている分野であるといえよう。その中で、いわゆるパロディ・モンタ−ジュ写真事件の最高裁判決が引用に該当するための要件について判断の基準を示し、リ−ディング・ケ−スとなった。しかし、同事件はパロディという特殊な創作形態について判断したものであり、必ずしも引用に該当するか否かという観点で論ずべき典型的な事例とは言いがたい。それに続く本事件では、引用に関し多く問題となる場合の一つが対象となっており、そのような事例について裁判所の判断が示された意義は大きいと考えられる。]
 小林、小林信者たちよ、お解りか?。
 後半で述べられているように、「引用」に関してならばこの事件を検討する事が最善だと思われる。それにこの事件、被告は「小学館」だしよ(笑)。先の説明で気付かれたと思うが、小学館は、実は今裁判での上杉の立場にいる。ケ−スもほぼ同じ。敗けたんだけどね(笑)。
 これは、また推測に過ぎないが、恐らく小学館は小林が勝てない事を知っていたはずだ。過去の自社の敗訴であるこの「藤田嗣治絵画複製事件」を検証すれば小林の言い分が通らないのは予測できただろう。そう考えれば、この訴訟自体に小学館が名を連ねなかったのも理解できるではないか。「著作権」は小林自身に帰属する類の事だから当然だとしても、「不正競争」はまさに小学館の問題なのだ。『新ゴ−宣』の出版権は小学館にあるだろう事は誰にだって予測できる。逆に言えば、小林が自分で『新ゴ−宣』を出版・販売する可能性が無い以上、不正競争なんて小林には関係あるとは言えないのだ。こう書くとよしりん信者の非難が聞こえてきそうだ。「センセイは印税契約なんだから関係ないわけないだろ(怒)」。ハイ、そうですね。しかし、誰が見ても本当に「不正競争防止違反」なら、小学館が加わらない事をこそ不思議に思える程度の感受性は欲しい。
 さて、本論に戻る。どうもアチキは話がずれていく癖がありんす。
 先の「パロディ事件」の判決でちょっと注目してほしい箇所がある。[引用とは、紹介、参照、論評その他の目的で自己の著作物中に他人の著作物の原則として一部を採録することをいうと解するのが相当であるから]という所。「紹介、参照」程度でも引用だと述べられているのだ。小林が今裁判で主張したのは、「カット内の絵に触れていない以上引用はできない」という事だったが、この判決を素直に読めば、そんな厳密なものでもない事が理解できる。「要件」さえはずさなければね。
 また、[一部を採録すること]という点は今は改められている。全部引用を否定すると、俳句などの論評が不可能になるからだ。だから「藤田事件」でも今裁判の判決でも、[全部又は一部を]と表現されている。
◆ さて、問題の箇所です。小林が裁判でも力説していた「公正な慣行に合致していないし、正当な範囲内でもない」という点。ここも重要。
 これについては、どうも上杉側も小林の主張につき合ってしまった感が私にはある。小林は「慣行」を、出版業界や漫画業界の慣行として語っているわけだが、これは、「各業界の慣行」などというそんな意味なのだろうか。ここがどうも解せん。
 引用について、漫画業界では慣行になっていないが文章業界(?)では慣行になっている。仮に、美術業界ではなってなく、建築業界ではなっていて、彫刻業界はOKで音楽業界はダメなんて事になったら、そんな文言はもう「法」とは言えないのではないか。つまり、「公正な慣行」という概念には、様々なケ−スが想定され得る「各業界の慣行」などという意味合いは含意されてはいないという事なのだ。
 この点について、裁判所としてある一定の見解を判示したのが「藤田嗣治絵画複製事件」であった。この事件が「引用」の裁判において重要なのはこの点にある。判決は、こう述べている。
[(略)また「公正な慣行に合致し」、かつ、「引用の目的上正当な範囲内で行なわれる」ことという要件は、著作権の保護を全うしつつ、社会の文化的所産としての著作物の公正な利用を可能ならしめようとする同条の規定の趣旨に鑑みれば、全体としての著作物において、その表現形式上、引用して利用する側の著作物と引用されて利用される側の著作物とを明瞭に区別して認識することができること及び右両著作物の間に前者が主、後者が従の関係があると認められることを要すると解すべきである。そして、右主従関係は、両著作物の関係を、引用の目的、両著作物のそれぞれの性質、内容及び分量並びに被引用著作物の採録の方法、態様などの諸点にわたって確定した事実関係に基づき、かつ、当該著作物が想定する読者の一般的観念に照らし、引用著作物が全体の中で主体性を保持し、被引用著作物が引用著作物の内容を補足説明し、あるいはその例証、参考資料を提供するなど引用著作物に対し付従的な性質を有しているにすぎないと認められるかどうかを判断して決すべきものであり、このことは本件におけるように引用著作物が言語著作物であり、被引用著作物が美術著作物である場合も同様であって、(略)]
 どうでしょう。
 「パロディ事件」で一般論として示された、「明瞭区別性」「主従関係」は、ここ「藤田事件」の判決では、引用における「公正な慣行」「正当な範囲内」の要件だとされている。つまり、この2点を外れない事が、「引用における公正な慣行」の意味として判例上定着したということなのだ。先に、「前者から後者を経て『引用の要件』は判例として確立された」と言ったのはこういう意味だ。
 又それは、各業界の慣例や慣行がどんなものだろうがそんな事は全く関係ないという事でもある。だって収拾つかなくなるよ、そうじゃなきゃ(笑)。
もう一点、この判決で重要な箇所は、「付従的な性質を有しているにすぎない」という所。[主従関係の判断において考慮すべき要素をより具体的に記述し、「付従的な性質」という質的な観点から判断すべきことを明らかにしている]。(前記『著作権判例百選/1987』)
小林信者も以上までを理解できるのならば、4コマ目のセンセイの理屈がいかに意味を為さないかが解るのではないか?。[「明瞭区別」と「主従関係」]がまさに前提条件なのであって、それが「公正な慣行の内実」なのだ。[この前提条件を欠いたままで]ってさぁ、もう少し勉強してから発表してね(笑)。
◆ 以上述べた事からすれば、上杉側は、小林の「漫画界の慣行」などという主張は無視してもよかった。「公正な慣行の内実」を訴え判断を仰ぐだけでも十分勝てたと思う。しかし正直に告白すれば、この点に気付いたのはかなり後になってからの事で、はじめは私も一冊でも多く漫画引用のされた批評本を探し、証拠として提出し、「漫画界にそんな慣行はない」と訴えていく事が重要だと考えていた。勿論、その方法は裁判所に対して確実に効果的だったと思うし、今も間違っていたとは思っていない。なのに何故こんな事を長々と書いてきたか。恐らく二審での小林の主張はこの部分に重点をおいて展開されるのではないかという私なりの予測があるからだ。「明瞭区別」「主従関係」において上杉側に瑕疵が無い以上、小林のすがれる争点はもうそこにしかない。まあ、それに先手を打ってここで反論しておきたかったわけ。長くなってゴメンね。

【70ペ−ジ(下段)】
 ふうっ。やっと判決のコマに入ってきたか。コイツへの反論はほんと大変だ(笑)。突っ込み様がいくらでもあるので(笑)勢い長くなったりもするし。あっ、それは私の癖か。
 まあ、ボチボチやっていきましょか〜。(憂歌団の木村風に)

◆ 判事団の名誉の為にも言っておくが、判決は小林がここで言うバカ理屈のような意味で原告の主張を退けたわけではない。前にも述べたが、この点は「不正競争」の訴えだったのだ。であるならば、何もタイトルだけの話ではないこと位解るでしょ。タイトルも含めての装丁全体に渡っての判断で判決は書かれているのだ。訴状で小林は、『脱ゴ−宣』は『ゴ−マニズム宣言』と『脱正義論』を[単純につなぎ合わせたものである]とまで言い切ったのだ。裁判長はこの訴えにひっくり返ったという(嘘)。
 ここでの小林の地の文は、テメエに都合よく判決文を要約しているとも言えるので原文を示しておく。
[ところで、自己の商品表示に他人の商品等表示が含まれるとしても、それが、専ら商品の内容、特徴等を表現するために用いられた場合は、他人の商品等表示と同一又は類似のものを使用したとは認められないところ、「脱ゴ−マニズム宣言」の「脱」は右2(二)のような意味であること、右3で認定した被告書籍の体裁及び右一2(二)で認定した被告書籍の内容を総合すると、「脱ゴ−マニズム宣言」のうち「ゴ−マニズム宣言」の部分は、被告書籍の内容を説明するために用いられたものであると認められるから、「脱ゴ−マニズム宣言」が「ゴ−マニズム宣言」を含むからといって、原告の商品等表示と同一又は類似のものを使用したとは認められない。
 また、「脱ゴ−マニズム宣言」の表示は、原告書籍の表題の一部である「脱正義論」とは同一でもなければ類似でもない。]
ぎゃはははは。当たり前と言えばあまりにも当たり前。自分らの『朝日新聞の正義』に当てはめて、[自分の頭で考え]てごらん。
◆ 「脱」の一字がつけばそれは私の作品だ(笑)。しかしそれは「内容との連動において」という事なのだ。「脱ゴルゴ13」ってタイトルで、読んでみりゃ「サザエさん」の事だったらオイオイってことになろう。判決もちゃんと[専ら商品の内容、特徴等を表現するために用いられた場合は]って、そう言ってるだろが。要するに小林センセイは、下段2コマ目でこんなバカ理屈を展開したいが為に一コマ目のように判決文をはしょったのだ。
 何でもありか?(笑)。

【71ペ−ジ(上段)】
◆ [「資料を提供する」ためなどというあいまいな理由でカットが好きなように使えるのなら]元々こんな裁判は起こってはいない。ここで先に引用した判決をもう一度見ておこう。 [そして、右主従関係は、両著作物の関係を、引用の目的、両著作物のそれぞれの性質、内容及び分量並びに被引用著作物の採録の方法、態様などの諸点にわたって確定した事実関係に基づき、かつ、当該著作物が想定する読者の一般的観念に照らし、引用著作物が全体の中で主体性を保持し、被引用著作物が引用著作物の内容を補足説明し、あるいはその例証、参考資料を提供するなど引用著作物に対し付従的な性質を有しているにすぎないと認められるかどうかを判断して決すべきものであり、このことは本件におけるように引用著作物が言語著作物であり、被引用著作物が美術著作物である場合も同様であって、(略)]
ここでの判決を今回の判決も踏襲したのだ。
 P.77で小林が言うように、確かに私も裁判所というものは[前例踏襲主義]で、やりきれないと感じる判決の方が多い。(将来的には日本の裁判も「陪審制」であるべきだと確信している。)しかし、だからと言って裁判の全てを否定するなどという「左翼小児病」的な考えもない。(死刑制度は別。)支持できる判決、絶対に支持できない判決、その二通りがあるだけだ。
 さてと。「主従関係」の定義として述べられている中で「参考資料」という言葉も出てくる。だが「資料」と判断するに足る要件はなかなかに厳密で厳しそう。(ちなみに、[「主従関係」とは単純に量だけの問題でもない]と述べたのはこの辺りを指してのこと。また先に、[この判決を素直に読めば、そんな厳密なものでもない事が理解できる。「要件」さえはずさなければね]と書いたが、要件が厳しい分、それさえ守れば「紹介、参照」程度でも引用と認められるよ、という意味。)小林が言うような[あいまいな理由]とは程遠いのが理解できるだろう。まして小林が、フォントを大きくして強調するなら、普通[評価のもととなる]の部分の筈だ。判決を理解できる読解力が備わっていればさ(笑)。そこに目がいかないから4コマ目のような「バカ絵」を書いてしまう。まあ、小林の言葉を信じてそんな複製をする編集者がもしいれば、どんどん訴えられてどんどん裁かれりゃいいだけか。私は知らん。
【下段】
◆ 概略は今述べた。言っていないことは書けないとなりゃ「判決文」自体書けやしない(笑)。
 小林が、[上杉側が全く言ってなかった]というのは一体何の事だろう?。さっぱり解らん。上で私が引用した「藤田事件」の判決文は、準備書面で上杉側も引用しているのに。まさか「それは引用で、自分の言葉としては言ってない」なんて言うんじゃねえだろうな、張っ倒すぞ(笑)。まあ、どうせ読者の誰も確認できないと思って適当に描き殴っただけでしょう。一生やってろ。
◆ ここで小林が言いたいのは、恐らく、裁判における「不告不理の原則」という事だろう。それは厳密に言えば刑事裁判(刑事訴訟法)での用語で、「起訴事実以外は裁け(か)ないということ。広義にとれば民事裁判も含め、「当事者の求めたこと以外は判断しない」という裁判原則のこと。例えば判決の中で、「今まで漫画の引用が認められてこなかったのは出版業界の悪しき慣行であった」なんて言明すれば、「不告不理の原則に反している」として業界からの猛反発をくらうであろう。そういう意味。小林がここで言うような事に当てはまる様な概念ではない。聞き捨てておけばよろしい。
◆ 3コマ目。ここまで「判決」が理解できず、被害妄想的に解釈されてしまったら、もう歯止めは完全に無くなったに等しい。しかし、よくもまぁ、次から次とアホな例が思いつくもんだ(笑)。そのアイデアがスト−リ−漫画でもう一度発揮できればと真剣に思うよ。もう遅いけど。

【72ペ−ジ(上段)】
ここでの「慣行」に対する反論・私見は先に述べたとおりだ。ただ、裁判中は小林の主張を真正面から受け止め、同じ土俵上で対抗してきたのでここでもそれに沿って反論しておく。
◆ 提出証拠に、一コマ目で描かれているような量の差はありません(笑)。まあ多少はセンセイの方が多かったかもね。ここで小林信者の皆さんに質問です。こういうシ−ンでどうしてセンセイは自分に関しては「○○冊」とはっきり明言しないんですか?(笑)。上杉側の冊数はちゃんと限定してるのに。「センセイの方は膨大な量だから数えるのを省略したんだよ、バカサヨクが(怒)」。でも裁判の証拠って、「甲何号証」「乙何号証」って打って提出されてるから数なんてすぐ分かるんですよね。(真下のコマで小林自身が描いてるでしょ。)まぁいいけど。
 しかし仮に小林の方が100倍多かろうが、それがどうしたって話だ。訴状では、[本件被告書籍のように、(小林漫画を−筆者)「引用」と称して「カット」すなわち「絵」そのものを闇雲に多数無断複製しているものは他には例を見ない]とまで小林は言い切った。既に『教科書が教えない小林よしのり』が出ているにも関わらずである。また、「サザエさんの悲劇」「磯野家の謎」では「サザエさん」からのカットが使用されておらず、カット紹介も全て文章で行われているとして、それをもって、これが[原作の著作権に配慮をした、きわめて合理的常識的態度であり、かつ「公正な慣行」というべきもの]とまで言い切ったのだ。アホらしくてやってられん。ならばこっちは、「そんな事はありませんよ」と、『教科書が教えない小林よしのり』に夏目房之介氏の本を足して、2冊も提出すれば十分だろう。争っているのは「数」ではなく、「現象の有無」なのだから。小林よ、お解りですか?。
(もっと厳密に言うなら、その本の中で行われている各「引用の形態」が問題なのであって、冊数を競っても何の意味もない。)
◆ 小林が解る筈がなかった。あくまで数で勝れば「公正な慣行」は我にありとでも考えていたんだろう。こうなるともう「被害妄想癖」は止まらない。裁判長への中傷まで始まった(笑)。
【中段】
◆ 何件かあったクレ−ムは、「著作権法」上の落ち度がないのでそれ以上の域を出ないのだ。夏目氏が訴えられたなんてニュ−スを聞いた事がありますか?。こういう事言うから「語るに落ちる人」って言われるんだって(笑)。
【下段】
◆ 小林の「著作権法」意識の低さが如実に出たのが最後のコマだろう。上杉側もこんな男に訴えられたんじゃ目も当てられないな。なんでこんな奴が「著作権侵害」を云々できるんだろう。
 これには今裁判での小林の主張をそのまんま返してやればいい。「絵について触れてねえじゃねえか、ボケ」(笑)。しかしこんな地の文でサザエさんを描けると本気で思っていたみたいだからマジで恐れ入るな。「慣例」の前にダメだったんじゃなくて、引用の「要件」の前にダメなんだよ。つまり地の文章に対して、絵がサザエさんである必然性がまるで無いでしょうが。読者に「家族」を感得させる絵なら何でもよく、そんなら自分で描けって話だ。漫画家だろよ。
 引用の要件としての「必要性・必然性」は要件とするには抽象的に過ぎ、要件足り得ない。(これについても後で述べる。)しかし、これとは別の意味でここでのサザエさんは確実に必要性がないだろう。
 また小林は、そのままの複製ではなく自分での模写なら「著作権」に触れないとでも考えているのだろうか。(P.74でもそう。)そんな事はないんですよとだけ言っておく。また、[あきらめてシルエットにした]って著作権侵害になる可能性は多分にある。シルエットにしても感得できる程そのキャラクタ−特有の特徴が顕著な場合などは止めておいた方が無難だよ、センセイ(笑)。

【73ペ−ジ(上段)】
◆ 取り立てて反論する程のコマはないか。でも一言だけ。
 一コマ目は小林に同意するよ。堂々と「慣行」と書けばよかったんだ。それで何の影響があるわけじゃなし(笑)。理由は既述。
【下段】
◆ この判決には私も少しばかり驚いた。あまりにもキレイに、上杉側の主張どおりに認められてしまったからだ。それはいい。しかし、これを万人に納得させられるだけの「論理」が判決からは私はどうしても読み取れないでいる。私自身が自信を持って人に説明できないのだ。顰蹙覚悟ではっきり言えばこの判決文はちょっと弱い。勝ったからOKとも、ちょっと私の性分的には言えない。
 明確な「プライバシ−侵害」の場合はまだ分かりやすいが(宅八郎氏のペ−ジから切通の住所を消してセンセイが自作品に転載したようにね)、しかし、「快・不快」みたいな百人百様の感情について、引用者の判断に全てが委ねられてしまって本当に良いのだろうか。そこがまだ解せん。
例えば今後、引用者が、自著において似顔絵を引用する場合に、もし今回のケ−スのようにその引用が新たな「名誉侵害」を再生すると引用者が考えるならば、その似顔絵の当事者に確認してみるというのはどうだろう。その絵の当事者がさして気にもしていなければそのまま原状引用(著作権的には、やはりこれが「鉄則」なんだから)すればいいし、逆の場合なら堂々と『脱ゴ−宣』のような引用をすればよい。まっ、一案ですけど。
 誤解されぬよう付言しておくが、それでも今回の(ケ−スでの)判決を私は支持している。ただこの判決を、「一般論に敷衍して語れる自信がない」という意味で言っているだけだ。あくまでも、「今回のケ−ス」での目隠しが認められただけだと認識している。またその方がいいと思う。

【74ペ−ジ(上段)】
◆ しかし小林の主張もまた無茶苦茶なのだ。
 答弁書で上杉側は小林の描いた似顔絵に対し「肖像権侵害」を主張したのだが、それに対して小林はどう反論してきたか。こんなん言ってます。
[そもそも「肖像権」とは、「何人も、その承諾なしに、みだりにその容姿・姿態を撮影されない(似顔絵にも描かれない)自由・権利」と解されるところ、自らマスコミに登場しその容姿を公にしている者は、一般に、その公的活動の範囲内において肖像権を放棄ないし包括的承諾をしているものと解すべきである。(略)その「公人」の似顔絵を公表することは肖像権を侵害するものではない。(略)
 原告が原告書籍において掲載した似顔絵は、いずれもマスコミに登場した人物ばかりであり、何ら肖像権を侵害するものではない。]
 ねっ、恐ろしいでしょ(笑)。「公人」って言葉も小林にかかるとこんな勝手な解釈をされてしまう。しかし、裁判所に対してこんな事よく言ったよ。スゴイ度胸(笑)。マスコミに登場すりゃ「公人」で、肖像権を放棄、ですよ。普通、言えるか?。
 「公人」ってのがどういう人のことを指すのか自分の弁護士に聞いてごらん。
◆ 3コマ目。この意見については既述のとおり。ここで小林の言う事に関しては、少なからず同意できる部分が正直私にはある。要は、[第三者が「当人が不快に思]っていることを万人に納得させられるだけの根拠が必要だということなのだ。
 もっと議論しませう。
◆ さて、小林が好き勝手に挙げている「例」ですが、賢明な読者の方なら何ら例としての意味を為していない事にお気づきでしょう。「歌謡曲」の例の時もそうでしたが、小林って、あるケ−スにおける例が、そのケ−スでの例としての適格性があるかについて検証する能力がどうも無いらしい。知能的には恐らく10歳位かと思われます(笑)。
 小林よ、冗談ではないのだ。この裁判で問われたのは、引用者が引用する上での「第三者への侵害をどう防ぐか」ではないか。上杉文や柳美里文の小林への侵害(本当にこの文章が侵害だとしてね)を、小林本人が引用してどうする(笑)。何の「例」なんだよ(笑)。いいかい。アンタが挙げた例文を他の誰かが引用する時が問題になってるんでしょ、解る?。自分が[実に不快]なら[伏せ字]もへったくれもないよ、引用自体しなきゃいい(笑)、それだけの事だろが。担当編集者もさぁ、いい加減何とか言ってやってくれよ。いくら何でもちょっとひど過ぎるぞ。
【下段】
◆ 「それでも今回の判決を支持している」と先に述べた。その理由をここでも少し説明しておきたい。先ず、前ペ−ジ下段で小林が引いている判決文に続く文章を引いておく。(中略)の部分ね。
[このような場合、原著作物に相当な改変を施すことを許容しなければ、当該著作物を引用する際に、引用者において右第三者の人格的利益を侵害するという危険を強いることとなり、さもなければ、当該著作物の引用を断念せざるをえない。
 著作物の適正な利用の確保を目的とする著作権法二〇条二項の趣旨に鑑みると、]
 以下、小林引用に続く。この判決で私が注目する箇所は、[感じる程度に][おそれが高い]、そして今挙げた部分の[許容しなければ][断念せざるをえない]等の文言である。私は判事団の苦渋をこれらの言葉に見る(なんちゃって)。しかし、そう認めざるを得ない程に、今ケ−スでの小林の似顔絵は「悪意」に満ち、「中傷」のレベルにすらあると裁判所が判断したという事なのだ。だから、こういうケ−スでの目隠しが「同一性保持権侵害」になるのだとすれば、そもそも「引用」すらができない事になり、それは二〇条二項と矛盾する。よって目隠しは「やむを得ない」と言っているのだ。(ほとんど判決文そのまんまじゃねえか、笑。)既述のとおり、「あくまでも、今回のケ−スでの目隠しが認められただけ」で、[主観的に判断しただけで表現に墨塗りしてもいい]などと述べたわけではないのだ。仮に引用者が、[第三者が「不快なはずだ」と主観的に判断]し、改変を伴った引用を行って原著作者より訴えられたとして、今回の判決がそのまま抗弁に適用できるかどうかはそのケ−ス毎に異なるだろう。当たり前か。
 私が、「それでも今回の判決を支持している」のは、「原状引用」が鉄則であるからこその「やむを得ない改変」に対する、「消極的支持」である。
これで伝わったかなあ?。
◆ 最後の「コマ割り」のコマ。
今回の「同一性保持権」での判決は、先ず、[著作権法二〇条一項にいう「改変」に当たるかどうかについて判断し、「改変」に当たるものについては、次に、著作権法二〇条二項四号にいう「やむを得ないと認められる改変」に当たるかどうかについて判断する]という方法を採った。
 ここでの「コマ割りの変更」は「改変」に当たるのだそうだ。けど、あたしゃ納得いかない。上杉側も、「レイアウトの都合」は確かに強調したが(なお、これ以上縮小するのでは文字の判読が困難となり引用の意味を為さない)、あくまでも主張の本旨は[かかるコマの移動程度では、漫画においては同一性を失うものではない]という点にあった。「改変じゃねえよ」って事ね。
 よく文章の引用で最後に(原文は縦書き)とか、(原文は二段組)とかの注釈があるけど、確かにそれに当たるものが抜けていた(笑)。それさえあれば判決は、「そもそも改変に当たらない」となったのではないか。先にも言ったが、引用された上での3コマに対して、一コマ下に来たからって「改ざん」はねえだろよ。漫画においては連続性の破壊こそが「コマ割りの改ざん」なのであって、ここでの引用にそんな非難が的外れな事は先に5歳の男の子で例証したとおり(笑)。仮に、指さしのコマを一番前に置き、3コマ連続で横に並べた引用をされたのなら、[わしが何もない空間に指をさしている](笑)って論難もあたってるけどさ。

【75ペ−ジ(上段)】
◆ 一コマ目。めっちゃ怒ってる。
 小林の言うとおり。「引用」においては漫画の「絵」だろうが、文豪の「小説」だろうが、書道家の「書」だろうが、作曲家の「音楽」だろうが、俳人の「句」だろうが、5歳の子の「絵日記」だろうが全て引用者のものなのだ。為に「要件」が厳密に定められていることは、縷々述べてきたとおり。それに『脱ゴ−宣』の適法性と、小林の著作権における権利は何にも関係がないよ。
 それにしても、インパクトのある絵ですね(笑)。こういう「カット」で何となく「ネ−ム」の方も納得させられちゃうんだよね。くわばら、くわばら。
◆ 残りの3コマ。概略はもう十分説明してきたとの自負がありんす。よしりん信者も理解してくれたよな。軽く補足にとどめよう。
 [もともと活字引用の基準]ってなあ、たいがいにしとけよ。何を根拠にぬかしてんだ?。何がなんでも「主従関係」「明瞭区別」を「パロディ事件」の判例だと思わせて、今回の判決も「パロディ事件」が基になっていると錯覚させたいらしいが、既述のように「引用」の裁判における判決の踏襲は全て「藤田嗣治絵画複製事件」からなっている。そして「藤田事件」の判決では既にこう述べられていた。[このことは本件におけるように引用著作物が言語著作物であり、被引用著作物が美術著作物である場合も同様であって]。小林、信者たちよ、お解りか?。「引用著作物が言語著作物(上杉文章)であり、被引用著作物が美術著作物(小林漫画)である場合も同様」なんだってよ。
 自分の頭で考えるのは、センセイ、あなたの方では(笑)。ついでに小林信者たちも自分の頭で考えろよな、盲信ばっかりしないでさ。(猪突盲信、笑)
【下段】
◆ あぁ、いったいどこまで頭が悪いのか。
 別に上杉側は[うそをつ]いてはいない(笑)。引用した57ヶ所とそれ以外の25ヶ所(確認してないけど小林を信じて)は簡単に説明できる。上杉側書面からの私なりの要約で答えておくか。
 「原告は、引用の要件とされる明瞭区別性、主従関係の他に、引用の客観的必要性・必然性が必要であると主張する。しかし引用は、そもそも議論を進める上での前提を整備する為に必要となるに過ぎず、極論すれば、原典のペ−ジ数を示すことによって引用を一切行わない事もできる。その場合、情報共有の面で難があると言えるが、とにかく引用なしで批評文を書くこと自体は理屈の上からはできるのである。したがって、引用を行わずに文章を書ける以上、客観的な必然性を備えた引用などというものは存在し得ず、かかる要件はあらゆる引用を否定することにもなる。
また、引用を行った方がよりわかりやすくなるか、逆に引用を行わず説明文によって代用できるか等の判断は、まさに引用者の表現の自由そのものであり、第三者が判断すべき事柄ではない。よって、引用の客観的必要性・必然性という要件は定立し得ない。したがって、引用の必要性・必然性は引用者の主観、目的、意図等によって決するしかない」。
後半の部分をここでの小林への返答としよう。
 まぁもっと簡単に言えばさ、要するに上杉の中での「重要度の違い」って、ただそれだけの事なんじゃないの(笑)。確認してないけど。鬼の首でも取ったように[絶対説明できないはずである]なんて力説するような事か?。まあ私のような凡人にはカリスマの思考までは解りません。
 実は小林は、ここでの「客観的必要性・必然性」以外に、引用は「必要最小限度」であるべきだとも主張している。そしてこの2点は、何故か「藤田事件」において被告の小学館が主張した抗弁と全く同じなのだ。弔い合戦のつもりかな(笑)。小林が今章でもっぱら「パロディ事件」のみを取り上げ、対して「藤田事件」の方が全く出てこないのは、被告が小学館であった事と無関係ではない。絶対。
 「藤田事件」の判決において、「引用の必要性・必然性」については、著作者の主観を考慮せざるを得ず判断基準とするには客観性に欠けるとされた。また、「必要最小限度」についても、限度を著しく越えれば被引用著作物の付従性を失わせるのだから、それは主従関係の判断において考慮すれば足りるとし、個別の要件とする必要を認めなかった。逆に言えば、引用の要件は、「明瞭区別性」と「主従関係」の2要件(シュウマイではない)に限定されたのである。
 ここで、今回の判決からも一応引いておく。
[原告は、適法な引用であるためには、引用について客観的な必要性又は必然性がなければならないところ、被告書籍の内容は、原告の意見に対する批評であり、原告の絵に対する批評ではないから、絵を含めた作品全体を引用する必要性又は必然性はない旨主張する。  しかし、一般に著作物の引用は、右1で示した引用の要件を充たす限りにおいて、引用著作物の著者が必要と考える範囲で行うことができるものであり、前記1の要件に加えて引用が必要最小限度のものであることまで要求されるものではない。]
「藤田事件」の判決が踏襲されている以上、小林の主張が認められる筈がなかった。
 しかし本当に何の因果なのか。「藤田事件」において、小学館は身を挺して「引用の要件」の確立に貢献した。今、小林は身を挺して、その要件は「漫画にも当てはまる」ことを明確にしてくれた。「小学館」と「小林」って・・・・・(笑)。
 しかしまぁ、ここでの『脱ゴ−宣』からの「貼り付け」ったら(笑)、もう完全に開き直った感があるな(笑)。こういうやり方そのものを自分の主張にしてこの裁判を始めたというのに。(上杉側に代わって小林の理屈を援用し、「文章に触れてないし、文批評をしていないではないか」とでも抗議しておくか。)
 それとここでの日本語も私にはさっぱり理解できない。これって矛盾なく論旨がつながってるんですか?。皆さんは私と違って、ちゃんと理解できてるんですか?。

【76ペ−ジ(上段)】
◆ あ〜あ、言うと思った(笑)。先の判決文で既に答えてある。「引用」っいうてものは、[要件を充たす限りにおいて、引用著作物の著者が必要と考える範囲で行うことができるもの]なのだ。また今裁判での判決ではこうも言う。
[また、漫画は、絵と文が不可分一体となった著作物であるところ、原告は、そのような漫画によって自己の主張を展開しているのであるから、絵自体を批評の対象とする場合はもとより、原告の主張を批評の対象とする場合であっても、批評の対象を正確に示すには、文のみならず、絵についても引用する必要があるというべきであり、絵自体を批評の対象としていないから、絵について引用の必要がないということはできない。]
「絵と文が不可分」とは、「漫画」という形態についての事実を述べたに過ぎず、そのような形態によっている以上引用において絵が引かれる事も当然であると判決は言っているのだ。何も「不可分」だから常に一体で引用しろなどと言っているわけではない。どこにそんな事が書いてあんだよ、ボケ。
 [一般に著作物の引用は、右1で示した引用の要件を充たす限りにおいて、引用著作物の著者が必要と考える範囲で行うことができるものであり]、それは「ネ−ムだけ」を引用しようが、「絵だけ」を引用しようが、「コマ全体」を引用しようが全く引用者の自由だということだ。(それによって著作権者の権利が侵害されるなどという事は全くない。「侵害がある」とすれば、それは「要件から外れている」からである。「引用の理念」は全く揺るがない。)
 敗訴による被害妄想で判決を好きなように曲解しデタラメな解釈を垂れ流す。今回の第103章は私は許し難い。例えお天道様が許してもね(笑)。 というわけですので、どうぞ好きなだけ猛烈に抗議して、ますます私たちを楽しませてちょうだい(笑)。
【下段】
◆ 地の文に関しては、もう十分でしょう(笑)。ここでは、一つだけの指摘にとどめます。  三二条で認められている「引用」は、[公表された著作物は、引用して利用することができる]と先ず最初に規定している。この後、[この場合において、その引用は、公正な慣行に〜](P.70の2コマ目)と続くわけだ。小林は明らかに故意に冒頭を省略している。(絶対に紙幅の都合などではない。)「引用」の前提条件は、「公表された著作物」であるという事だ。これは前提などというよりも、「絶対の条件」である。
 このコマで転載されている各文書は公表されたものだろうか?。確認を取るまでもなく相当の確立で違うと断言できる。小林の著作権意識、引用の認識とはこの程度のものなのだ。「あきれて〜ものも〜言えな〜い」(By忌野清志郎。パンク「君が代」も宜しくね、っと。)

【77ペ−ジ(下段)】
◆ 「論理的にこちらが支離滅裂」だって?。縷々述べてきたように、[向こうが支離滅裂なのは歴然・・・](笑)。
◆ [「便乗本」であることを暗に認めた]、か。こ奴の暴走を誰か止めてくれ。私自身は、仮に便乗本だとしても「それの何が悪い?」という立場だが(既述)、上杉側答弁書では当然の事ながらそんな言い方はしていない(笑)。
 原告は訴状で、[原告書籍の顧客誘引力は絶大と主張する。確かに、被告著作が売れている原因の一つは、原告著作に対する反論を載せているからである。社会問題をわかりやすく一方の立場から問題提起する原告著作なくしては、被告著作はこれほどまでには売れなかったかも知れない。
 しかし、そのことと絵の引用とは全く別次元の問題である。(略)
 被告著作を購入する読者は、従軍慰安婦問題や「ゴ−マニズム宣言」についての被告上杉の批評・主張を知るために購入しているのであり、原告著作のコマを眺めるために被告著作を購入するのではない。
 さらに、従軍慰安婦問題は、原告が問題提起する以前から大新聞数社の意見が互いに異なる社会的関心事であった。
 被告著作は、従軍慰安婦問題という一般人の関心あるテ−マについてわかりやすく批評した点が読者を引きつけたのである。
 したがって、被告著作が売れている点と絵の引用とは因果関係がない。]
 よしりん信者たち、理解できますか?。これのどこがどう[「便乗本」であることを暗に認めた]んでしょう(笑)?。
◆ 私も、小林も判決をちゃんと読めば(代理人にちゃんと説明を受ければ)、理解できるさプロだもの・・・と安心しきっていた。しかし、ここまで被害妄想主義で強引に曲解した1章を作ってしまうとは・・・。自分の頭で理解できるスタッフなんか「よしりん企画」にゃホントにいないわ・・・・・・(点の数も同じ、芸が細かいでしょ、笑)。

【やっと最後の78ペ−ジ】
 いやぁ、長々とおつき合いさせました。多少は「小林よしのり」という男のデタラメさ・インチキぶりがご理解頂けたでしょうか。
 もっとも私が今さら指摘するまでもなく、『教科書が教えない小林よしのり』(ロフトブックス)が完璧に引導を渡しているとは思っていますが、今章に関してだけは、裁判の流れを知っている者にしか的を射た反論はできないのではないかと考え私は今日まで生きてきました(笑)。当初の予定では「上欄外」、又P.84「フロム・リ−ダ−ズ」も含めて反論しておこうと思っていたのですが、何か、さすがにちょっと長くなり過ぎた(笑)。
 いい加減にしておいた方が賢明でしょう。
では最後の一点。

◆ 泣きながら抱き合っている[左翼ども]というのは多分私たちの事だろう(笑)。判決の日に[集会開いて]たのは、日本中で恐らく「楽しむ会」しかいないだろうから。[漫画批評も引用も何の関心もなく]、か。随分ナメられたもんだな。
 著作権に関しては恐らく日本で一番詳しいであろう弁護士と、著作権に関しては恐らく日本で一番関心を持っているであろうライタ−氏と、漫画業界に30年身を置き、小林に関しても恐らく日本で何番目かに詳しいであろう編集者氏を招いてシンポジウムまで開催した「サヨク」がなんで何の関心も持ってないんだよ(怒)。
[すべてがバカである!]。ハイハイ。まぁ、カリスマの天才に言われたんじゃ仕方ない。甘んじて受けながら残りの人生を歩いていくよ(笑)。
 サヨナラ。

◆ 小林信者を自認する者たちよ。「目覚め」るのに、遅過ぎるということはない。

1999/10/11 以上

追記:この「拙文」に対する反論は、下記宛に文書でお願いします。

中野区中央2−11−4−105 「資料センタ−」気付
「脱ゴ−宣裁判」を楽しむ会

◆ 全てへの返答は約しかねますが、「論争」に値すると判断したものに関しては追って「論争上のル−ル」を提示します。管理者とも相談の上、このホ−ムペ−ジ上で「公開論争」ができるように努力したいと考えています。