マンガに洗脳されてしまう若者たち 

上杉 聰


 

小林氏が私を告訴

 私が大好きだった漫画家・小林よしのり氏への永訣の思いを込め、彼をやさしく、かつ激しく批判して『脱ゴーマニズム宣言』(東方出版、以下「拙著」)を昨年出版した。私の周りからは、仕返しにマンガで醜く描かれるから、相手にするのは止めておけ、という声が強かった。
 たしかに、拙著を出版した直後の『新ゴーマニズム宣言』第55章(『SAPIO』12/ 26)で、小林氏は私への反論を少しだけ試み(つまり私の批判点にほとんど反駁できなかった)、そこに私の顔をえらく醜く描いたものだ。
 あまりにも悪く描いたために、見ず知らずの人から「あなたは小林氏と論争している、あの上杉さんですか?」などと尋ねられたことは一度もない。似ていないのだ。だが、彼が醜く描いた私の顔は、本物(もっといい男なのだ)を知らない読者に、かなりすり込まれたはずだ。私一生の不覚だった。
 大学での私の講義の最中に、例の『SAPIO』を広げて読んでいた学生----実にけしからん。注意しときゃよかった!ーーが、授業を終えて出席票を私に提出する際、しげしげと顔を正面から眺めて行った・・。これなど、実に不愉快だ。マンガによって肖像権の侵害が行なわれた大被害のひとつだ。確実に告訴に値する。
 しかも私の友人の中には、何を血迷ったか「あの絵は上杉に似ている」と不埒にも主張する輩が一部に発生、私が彼の眼前で本物を見せつつ、小林漫画の間違いを納得させるまでどれほどの時間がかかったか・・。実に被害は甚大だっ!。
 ところで、小林氏からは、私が彼の漫画を引用したことにより、著作権侵害などで拙著の出版差し止め請求と告訴などが昨年末にあった。それまでの経過は、『週刊金曜日』(12 /19)と『インパクション』(106号)などに書いたので、ここでは詳細を省略する。
 私の周囲では、著作権をめぐって面白い論争になると、裁判ざたへの強い期待を表明してくれる友人が多かった。火事と喧嘩はやはり大きい方が楽しいらしい。早々と裁判支援の申し出をしてくれる人、「小林はなにをしているのか! 応援レターを送ろう!」などと訴訟をけしかけようとする人など、なだめるのが大変だった。
 しかし、売られた喧嘩は買わねばなるまい。裁判の内容などは弁護士と相談の上、また紹介したいと思う。今は、最近気づいた気になることを書いておきたい。  

漫画でマインド・コントロール

 拙著『脱ゴーマニズム宣言』を読んだ小林氏の読者からは、「小林さんがこんなひどい人だとは思いませんでした。裏切られました!」と電話してきたり、この書をきっかけに私の属する日本の戦争責任資料センターへの入会が何人もあったりで、拙著が『新ゴー宣』によって傷つけられた「精神の解毒剤」の役割をかなり果たしてくれていることが嬉しい。
 だが、最近の『SAPIO』に送り届けられる小林ファンからの「応援レター」によると、拙著を読んでいないか、せいぜい立ち読み程度で、小林氏の漫画だけを眺めて、彼に声援を送っている人が多いようだ。自分をしっかり持った読者なら、一方だけを読まず、両方の本を慎重に検討し、さらに他の文献や資料に当たるなどして自分の頭で判断するものだ。ところが、ファンとしての自分を否定されるのが怖いのか、それさえできない。
 この事実を見るとき、漫画にマインド・コントロールされる若者の実態が浮かび上がってくる。他人の主張を自分の力で検討し直す力もなく、方法も知らない、とてつもなく幼稚で精神的体力に欠けた青年たちである。
 私が漫画を引用したことを、小林氏は「ドロボー本」と非難したが、ある小林ファンは、その言葉をそのまま口移しでオウム信者よろしくオウム返しして私を非難した(『SAPIO』12/ 24号70頁の欄外)。ところが、小林氏が私を「ドロボー」と呼ぶ根拠は、下のコマによるのである。

       
  盗っ人猛々しいとは
  こういうやつのことだ
  どんな専門家に確認した
  のか知らないが
  『磯野家の謎』以降
  ブームになったいわゆる
  『謎本』も 最近の
  『エヴァンゲリオン研究本』でも
  業界の慣例として
   
  認められている
  「部分的な引用」は  
  あくまでも
  セリフなどの
  文章部分のみ
 
  に限られている
  漫画・アニメなどのビジュアル作品などの
  内容を評する場合でも
  その作品の画面を著作権者に
  無断で転載してはならない と
  いうのは常識中の常識だ
  
「新ゴーマニズム宣言」第55章『SAPIO』12/26号66頁第3コマを引用)

 これを眺めると、中央の五行だけが目に飛び込むように工夫されていて、背景にある多くの本は、まるですべて彼の主張の論拠と感じるように巧みに配置されている。一目で、「漫画の絵の引用は許されていない」と思わされる仕掛けだ。小林氏の読者は、このコマに隠されたトリックを読み取る力がない。上の読者もそれにひっかかって私を批判した。
 ところが上のコマを、文字の大小に関係なく読んでみると、「業界の慣例として」の一行があることに気付く。ならば、「漫画の絵の引用が許されていない」のは、たんに「業界の慣例」だということになる。つまり、漫画関係者同士が、互いの権益を守るため、他の漫画の引用を控えてきた、ということにすぎない。
 したがって、これは著作権法などの法律によって禁じられているものでなく、漫画関係者が相互の権益を守り、もしそれに従わない者がいた場合、業界の内部で仕返しするなど、閉鎖的で談合的なシキタリがあることを述べているだけなのだ。著作権法第32条は、「公正な慣行に合致」し「報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で」「公表された著作物は、引用して利用することができる」と明記している(松沢呉一氏もこの点を『SPA!』誌[12/ 17号]で私の側に立って説明してくれている)。
 ところが、右のコマを読み流すと、終りから三行目に「著作権」という言葉が出てくる。さらに前後のコマにも「著作権」の語がいくつも出てくるため、知らない人は著作権法そのものにそう書いているとばかり思ってしまう。そうして心理的に圧倒されているところに、最後の行で「無断で転載してはならないというのは常識中の常識だ」というキメの言葉をすり込まれてナットクしてしまう。もうそれだけで拙著を「ドロボー本」呼ばわりする読者まで出現する。
 このように小林氏の漫画は、トリックによって成り立っているのだが、こんなトリックにまんまとはまってしまう読者の方が問題かもしれない。物事を厳密に考えたり、正確に思考する力に欠けているのだ。そして、そんな幼稚なファンの手紙を掲載して読者のご機嫌を取り、小林教祖はひそかにニンマリしていることだろう・・ワシのトリックの腕はまだ衰えていない、だまされるヤツはわんさといるわい・・と。そういえば小林氏は、よくトックリ・セーターを着ている。やっぱり彼はトリック漫画家なのか?・・・・いやいや、こんなこじつけで他人を批判してはいけない。  

トリック漫画家の手口

 正しいか間違っているかを自分の頭で判断する力を持たず、マンガのトリックにマンマとはまってしまう若者の特徴については、拙著で精神的体力の衰弱として紹介した。
 ここでは、前掲の『SAPIO』で、また単行本『新ゴーマニズム宣言』第4巻で、性懲りることなく小林氏が「慰安婦」の強制連行問題について描いているので、あらためて別の角度から批判しておきたい。精神的虚弱体質の若者が、小林氏のいかなるトリックにはめられているかを、明らかにすることは、いずれ彼らがマインド・コントロールから覚める時に役立つだろうからである。
 私は拙著『脱ゴーマニズム宣言』の中で、小林氏のだましのテクニックについて少し説明したが、全体的に彼のだましの手法を列挙するなら、次の四つの方法に分類される。

A、悪いイメージを繰り返してすり込む方法
B、些細な一部分を突いて全体を否定する方法
C、歪んで描いた上に、完全に間違ったイメージをすり込む方法
D、まったくのデマを、それらしく事実のように描く方法
 「A」については、拙著で川田龍平君の顔の描き方などの例をあげて、かなり詳しく説明しておいた。次の二つのコマも、彼のこの手法をよく表している。どちらも昨年2月1日の「朝まで生テレビ!」に出演した際の私の顔を小林氏が描いたものだ。左は、昨年の3月12日号の『SAPIO』に載ったもので、ここでは私個人への批判はまだ行われておらず、そのため顔もそんなに悪くない。
 ところが、右は拙著『脱ゴーマニズム宣言』への反論を彼が描いた11月26日号掲載の「新ゴーマニズム宣言」第55章にある顔で、その差たるや、月とスッポン、トンビと油揚げ??くらいの違いがある。彼が敵意を抱いた相手をいかに悪く描くか、よい例だ(いずれの目隠しも引用者による)。



   <現在のところ絵を略す>   


(「新ゴーマニズム宣言」第37章第2コマ目を引用)


   <現在のところ絵を略す>   


(「新ゴーマニズム宣言」第55章『SAPIO』12/26号65頁第3コマ目から引用/)

 この「悪人ヅラ」(ホントはもっとイイ男なのだっ!)を、彼は同雑誌の8頁内に、なんと25回も繰り返し、繰り返し、繰り返し、(この間22回を割愛する)、登場させているのだ(私の「おでこ」だけと、暗くて顔がよく見えないシーンも合わせると、27回にものぼる!・・・いやいや、少し興奮してきた・・)。何も知らない読者に、私のイメージを、こんな顔にすり込まれてしまったのだ(トホホ・・・)。
 「B」は、論争では誰でもよく使う手なので、とくに小林氏独自の方法とはいえないが、「C」は、彼のもっとも得意とする手法だ。先のコマで、業界の慣例と著作権法とを混同させるように歪んで描いた上に、最後に「漫画の絵を無断で転載してはならない」というデタラメをすり込む方法は大したもので、説得力があった。  

歴史を見通す力の欠如

 同じ「新ゴー宣」第55章には、吉見義明氏の「広義の強制連行説」は、秦郁彦氏による済州島調査によって吉田清治証言が批判されて以降、その「すりかえ理論」として登場した、と述べているのだが、ここにも「C」の手法がいかんなく発揮されている(「B」の手法も加えられているが、些末になるので、ここでは省略する)。
 トッキーことスタッフ・時浦兼は、次のように、あたかも真実であることを強調するかのように激しい表情で「専門」知識を吐露する(彼は、よしりん企画内では、別名「日本の戦争冤罪研究センター所長」とも呼ばれている)。


   吉見がこの時
   初めて唱えたのだ!
   1989年から始まった
   慰安婦運動の根拠だった
   吉田清治の        <現在のところ絵を略す>    
   「どれい狩り的強制連行」が
   1992年4月に崩れたから
   同年11月に吉見が「広義の
   強制連行」を作り出したのだ!

(「新ゴーマニズム宣言」第55章『SAPIO』12/26号68頁第2コマ目を引用)

 文章が転倒していてわかりづらいが、冒頭にある「この時」とは、後半にある「19 92年・・11月」に吉見氏が「広義の強制連行」を『従軍慰安婦資料集』で述べたこ とを指している。つまり、


   そこで同年11月
   ようやく出てきたのが
   吉見義明の
   「広義の強制連行説」

   「人狩り強制連行」の
   証拠が          <現在のところ絵を略す>   
   なかったために
    出てきた・・
 
   日本国内向けの
   すりかえ理論に
   すぎないのだ!

(「新ゴーマニズム宣言」第55章『SAPIO』12/26号69頁第1コマ目を引用)

というのだ。
 先のトッキーが激しく叫ぶシーンから、上であたかもスリカエが実在したかのように描いたコマまでの約1頁の間には、その間の「物語り」として、次のような事実が列挙されている。ところが、重大な[ ]内の事実だけは省略され、歪められているのだ。

1973年 千田夏光『従軍慰安婦』が出版
1983年 吉田清治『私の戦争犯罪』が出版
     [1988年]
1989年 大分市の主婦が「慰安婦」運動開始
     [1991年8月]
     [1992年2月]
1992年4月 秦郁彦氏が済州島調査
同 年11月 吉見義明『従軍慰安婦資料集』発刊

 [ ]の事件を除いてだけ考えれば、秦氏の調査によって吉田証言が崩れ、吉見氏の『従軍慰安婦資料集』で「広義の強制連行説」が出現した、という「物語り」は、矛盾なく成立する。おまけに「慰安婦」問題は、大分市の主婦、つまり日本人が引き起こした問題、ということにもなる(この点は、『新ゴー宣』第4巻でも小林氏は多くを語っている)。
 ところが、[ ]の中には、大切な事件が入る。まず [1988年]には、韓国での文民政権の成立、つまり軍事独裁政権が倒され、民主化が飛躍的に進んだ、という大事件が入る。この結果、韓国で集会やデモが自由に行えるようになり、それまで口を封じられていた戦争被害者たちが周囲に訴えることが可能になった。日本での裁判のため出国も自由に行えるようになった。
 たしかに、小林氏が描いたように、日本の主婦が韓国に出かけて行って被害者を探した事実はある。だが、そうした韓国の国内社会の構造的変化なくしては、思い付いても実行すらできないことだった。そして、大きな物事の動きは、そんな小細工で進むものではない。大分の主婦は、その後、「慰安婦」問題などを取り上げる場に、まったく登場しないではないか。彼女の努力は徒労に終わったのだ。
 むしろ「慰安婦」問題の第一次の高まりは、それまで韓国で民社化運動の先頭を走っていた37の女性団体が連合して韓国艇身隊問題対策協議会を1990年に作ったことだ。金学順さんのカミングアウトは、直接にはそれが準備したし、今も彼女たちを支えているのは、その名乗り出を訴訟にまで持ち込んだ韓国太平洋戦争犠牲者遺族会(約二万人)も含めて、韓国の民主勢力なのだ。
 「反日的日本人がでっちあげた『慰安婦』問題」という図式は、物事を表面だけ見る者には意味を持つかも知れないが、深く背後まで見通す洞察力のある者には通用しない。たとえば、日本軍の被害はアジア全域に及んでいるが、被害者が日本に対して訴訟まで起こしているのは韓国とフィリピンだけだ。これは、民主化が進んでいる、という共通項で初めて説明できる。中国の被害者が最近訴訟をはじめたが、民主化の遅れのため出国がままならないため、今も不安定な裁判になっている。歴史が動く姿とはこのようなものなのだ(以上について詳しくは拙著第20章)。  

被害者の名乗り出が与えた衝撃

 さらに[1991年8月]には、元「慰安婦」である金学順さんのカミングアウトが、[1992年2月]は、その後名乗り出た被害者を含めて、東京地裁に提訴した事件が入る。どちらも、多くのテレビ、マスコミが大きく取り上げ、大ニュースになった。
 金学順さんの名乗り出に衝撃を受けた吉見氏は、防衛庁で以前見た記憶のある資料を再調査して、いわゆる日本軍の関与を証明する陸軍省「副官通牒」を発見した(拙著28頁)。この新聞発表が1992年1月11日のことだ。そして吉見氏はこの時、「副官通牒」に密接に関連する「内務省警保局長通牒」も同時に発見していて、それを分析していく中で、当時日本が「婦女売買禁止に関する国際条約」に加盟しており、その国際法上の制約を強く受けていたこと、さらに同条約第2条は「詐欺に依り、又は暴行、脅迫、権力濫用その他一切の強制手段」を禁止し、強制連行を「詐欺」を含むものと「広く規定している」ことを発見する。
 さらに同年2月を皮切りに、東京地裁に提訴した元「慰安婦」9人の訴状を分析した吉見氏は、「2名は人狩りともいうべき文字通り暴力的な方法で連行されたと主張しているが、他の多くはだまされて連行されたと述べている」ことを知る。それを先の「婦女売買禁止に関する国際条約」に照らすとき、これも条約に違反していることを見いだす。「一般には、強制連行というと人狩りの場合しか想定しない日本人が多いが、これは狭義の強制連行であり、詐欺などを含む広義の強制連行の問題をも深刻に考えてしかるべき」(以上は、吉見『従軍慰安婦資料集』より)との結論を下したのである。
 吉見氏が「広義の強制連行」を活字で発表するのは右資料集が刊行された同年11月のことになるが、資料集は厳密な校訂を必要とし、刊行には長い時間を必要とする。彼が「広義の強制連行」の問題に気付くのは、同年初頭の資料の分析を通してのことであり、さらに被害者による訴状の分析結果によるものである。以上のことは『従軍慰安婦資料集』の当該箇所(32〜35頁)に詳しく書かれており、それを読めば誰でも分かる。
 ところが、この時告訴した被害者のほとんどが問題にしていない「狭義の強制連行」だけを確かめに、秦郁彦氏が済州島に出かけたのは、ほかならぬ被害者が裁判所に提訴した2ヶ月あとのことである。その後発表された秦氏の調査報告(5月)を吉見氏が読んで、「狭義の強制連行」にこだわる秦氏の姿勢を批判しつつ右の文章を書いたことは、容易に想像できる。
 こうした事実は、小林氏によって削られた[ ]の中の重大事件を歴史の表舞台に引き出して初めて見えてくることだ。現実から一部の細かな事実を削ってデフォルメするやり方は漫画の手法そのものであり、なんら問題はない。しかし、重大な点を削って些末な部分を大きく強調するというのは、歴史の偽造に当たる。人の顔や姿を悪くデフォルメする罪は個人に限定されるが、歴史をデフォルメして偽造にまで及ぶ罪は果てしなく大きい。  

「誘拐」は「強制連行」でない?

 もちろん、吉見氏の文章の方が秦氏よりあとに出ているので、小林氏なら「先に気が付いたように嘘をついている」と言うかも知れない。百歩譲って、もしそうだとしよう。その場合でも、何か問題あるだろうか? 
 ここで問題になっているのは、元「慰安婦」の人たちの連行が違法なものだったかどうか、ということだ。多くの人々は、最初に出てきた吉田証言が強烈だっただけに、その違法性を「人狩り」としてイメージした。
 フィリピンや中国など、当時の交戦国であれば、暴力的な連行が主流だったが、統治機構のしっかりしている旧植民地の被害者の多くの連行は、「だまされて」(韓国の場合68%)であり、「人狩り」のようなむきだしの暴力を使うものは少ないことが、被害者多数の名乗り出によって明らかになってきた。
 では、「だましによる連行」は「強制連行」ではないのか。「誘拐」を考えてみればよい。「お母さんが入院したからおじさんと一緒に車でいこうよ」などと言ってだまして連れていくことを「誘拐」と呼ぶ。これは広い意味の強制連行ではないのか。「違法行為」ではないのか。これが誘拐罪(刑法224条)に当たることは、国際条約を持ち出さなくても、国内法からみても「常識中の常識」だ。小学生だって知っている。
 次の新聞記事は、『脱ゴーマニズム宣言』に掲載を予定していたものだが、あまりにも簡単な理屈をクドクド述べるのも読者を馬鹿にしていると削ったものだ。だが、まだわからない(ほんとうは、わかりたくない)人が多いのであえて紹介しておこう。



   女 高 生 を コ ン ク リ 詰 め   
   少 年 ら 数 人 で 殺 す
   連 れ 去 り 監 禁 の 末


       <以下本文を略す>


(朝日新聞1989年3月31日朝刊)

 右の被害女性は、「だまして連れ去られ」て、そのあと加害者の家に「監禁」された。そのあとレイプされて殺され、コンクリート詰めにされたという。「奴隷狩り」ではないのでこれは犯罪ではないのか。小林氏が



   その根拠の吉田証言が
   ウソとなると
   「なんだ じゃ     <現在のところ絵を略す>    
   どこの国の軍隊にも
   あった下半身の問題に
   すぎんじゃないか」
   という話になる

(「新ゴーマニズム宣言」第55章『SAPIO』12/26号69頁第6コマ目から引用)

と描くように、コンクリート詰め殺人事件は「だまし」による連行なので、絵にあるようにありふれた「どこにもある下半身の問題にすぎん」となるのか?
 たしかに、吉田証言の「呪縛」とでも呼ぶべきものーー当時「慰安婦」問題を考える者の多くが持った制約ーーがあった。私も含めてほとんどの人が、強制連行を吉田氏が書いた「人狩り」のイメージととらえた。それが「慰安婦」問題を狭く考える固定観念を作りあげていった。吉見氏は、それをいち早く打ち破って、ごくあたりまえの常識ーー「誘拐」も「広義の強制連行」ですよ、というところに、被害者の証言と国際法の理解に助けられ立ち戻ったのだ。だが、今冷静に考えてみれば、簡単な知識の範囲内のことでもある。学問の発展は常識に戻る、ということなのだ。  

吉田清治証言に呪縛され続ける人たち

 狭義の強制連行の有無だけを問題にし続ける小林氏も、「広い意味での」吉田証言の呪縛者といってよい。「人狩り」連行がなければ「慰安婦」問題はいっさい問題でなくなる、として、次のように、まるで自身たっぷりかのよに怒りを込めた表情で叫ぶのだから・・。


   ごーまん
   かまして <現在のところ絵を略す>
   よかですか?

   「従軍慰安婦論争」は      反日サヨクども
   もうすでに           偽善市民主義者どもは   
   終わっている!         己れの過ちと愚行を
                   反省し 謝罪せよ!
       <現在のところ絵を略す>
                   己れの罪を認めず
   これ以上 議論を        居直り通すのなら
   画策する行為は         戦争責任とやらで
   それは単なる          謝罪せよと
   詐術であるとしか        えらそうに主張
   いいようがない!        するんじゃない!

(『新ゴーマニズム宣言』第4巻160頁を引用)

 ここで、拙著に書いたことをもう一度繰り返そう。「誘拐」であれ「人狩り」(刑法では「略取」と呼ぶ)であれ、最終的に連行先に拘束されない限り、その犯罪は厳密な意味では成立しない。つまり、だまして連れていっても、暴力で連行しても、その先がいつでも逃げて帰れる所であれば、連行そのものは「悪い冗談」に終わる。
 しかし、「慰安婦」とされた人たちは、だまされて連行されても、その先の慰安所で閉じ込められた。だから「誘拐」や「人狩り」が犯罪として成立するのだ。海外に連行すれば、国境や海が被害者への拘束力を発揮するので、それも犯罪だ(刑法226条、国外移送罪)。慰安所が女性たちを拘束する場所でなければ、首に縄をつけて連行しても、それ以上大きな問題にはならない。だから強制連行の問題は、つまるところ、慰安所での強制・拘束から発生する問題なのだ。これを逆立ちさせて、「強制連行が慰安所の悲惨さを生み出した」と考えてはいけないのだ。
 1991年に被害者が名乗り出たことによって明白になってきたのは、この点だ。それまで、男性の目を通してしか知ることのなかった慰安所が,そこに女性が様々な経過をへて閉じ込められて性暴力を受ける場だったことが明らかになってきた。多くの女性がその苦痛にたえかねて逃亡や死を考え、アヘンを使わされる者さえあった。彼女たちは、軍人たちの暴力にうち震えながら、慰安所に拘束されて何年もすごし、そこで決定的な心身への被害を受けたのだ。
 さらに日本の敗戦によって解放ーー実質的には現地に放置ーーされ、帰国までの数々の困難、時には殺された場合もある。さらに帰国後には、自分の体験を周囲に伝えられないままに、日陰者として暮らすしかなかった永い、50年を超える苦難があった。現在名乗り出ている人で肉体的な障害を持たない人は稀だ。精神的な障害は今も深まっている。それらを抱えた上に、日本社会から投げ付けられる侮辱ーー小林マンガもその一つだ----がつづく。
 このように「慰安婦」とされた人々に加えられた被害の全体像が次第に明らかになることによって、吉田証言の位置もまたはっきりしてきた。吉田清治氏は、慰安所の中を覗いたことさえない人である。にもかかわらず、「人狩り」的強制連行のありさまを知ることによって、本人もまた私たちも、慰安所の内部を想像することができた。
 しかし、連行の問題は、被害者にとって、あくまで慰安所に入るまでの「入り口」に過ぎなかった。吉田証言は、「慰安婦」とされた人たちが受けた被害の全体像----つまり連行、慰安所に拘束されての性暴力、解放から帰国、戦後の苦難などーーの導入部分を明らかにしたものだ。肝心の慰安所の中や被害の全体像は、被害女性が名乗り出た今、当事者たちが語り、訴えるのを聞けばよい段階に到達したのだ。吉田証言は、歴史的な使命を果たし終えた、と言うべきなのだ。  

吉田証言の評価をどうするか

吉田証言がすべて嘘というわけではない。私も直接に話を聞いたが、決定的な矛盾は見つからなかった。ただ、「慰安婦」問題がどういう問題かまだ一般的に知られていない時期、断片的な彼の体験を説明しても説得力や衝撃力に欠けると判断したのだろう、いくつかの体験を一つにまとめた、ということである。しかも同僚が経験した事件も自分の本の中に加えているよう思われる。
 こうして、吉田証言は嘘ではないが、時と場所を特定できない話なので歴史証言に採用できない、という判断に私が達したのが1993年のことだった(『私は「慰安婦」ではない』東方出版、207頁)。
 それまで、私が事務局長をつとめるアジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む会の集会に吉田氏を二度お招きしたことは、小林氏が「新ゴー宣」第55章に描いた通りである。
 一度目は、1986年のことで、すでに他の場所で何度か講演している吉田氏に私たちの集会へも来てもらった。同氏への批判は、その後運動の中に見られたが、私は決定的なものとは考えなかったため、そのまま私たちの本(『アジアの声』シリーズ、東方出版)にも彼の証言を採録した。
 二度目は1992年で、その頃になって秦氏たちが吉田批判を始めていることを知った私は、8月に開かれる集会で反論を述べるよう要請した。実は、その前から、反論を文書などにするよう彼に要請していたのだが、彼は「購読者の少ない産経新聞に載った話なんか、読んでる人はいませんよ」と答えて、反論を拒んでした。残念ながら8月の集会でもその態度を崩さず、こちらの要請に、ついに応じてくれなかった。
 証言は、反対尋問に耐えることができてはじめて証言として確実なものとなる。批判が寄せられたにもかかわらず反論しないのであれば、以後証言としては採用できない。私たちは毎年の集会での証言を本にまとめてきたが、そのため同年の集会だけは本にせず、年末に開かれた日本の戦後補償に関する国際公聴会を本にすることに代えた(したがって、この年吉田氏が私たちの集会に参加したことを小林氏は知り得ないはずだ。小林氏がそれを知ったのは、集会に紛れ込んでいた右翼からの情報以外考えられない。私たちは右翼の参加も拒まないが、その暗躍は知っていた。それがこんな所で使われようとは・・)。
 そしてその翌年、私は吉見氏とともに再度吉田氏と会い、最終的な決断をすることにした。もう一度、彼に反論するよう勧めたが拒絶された。仕方なく、彼の証言が信用できるか、その場でいろいろ質問することになった。その結果が、先のように、嘘とは言えないが歴史証言として採用できない、という結論だった。
 吉田氏が『私の戦争犯罪』(三一書房)を出した1983年は、まだ「慰安婦」問題が社会問題として大きく取り上げられていない状況だった。その当時にあっては、厳密な証言を残すことよりも、人々に訴える力をもつように事実をアレンジをしたとしても、あながち非難はできないかもしれない。だが、被害者が名乗り出て社会問題化し、賠償問題まで生起している今、証言は厳密さが要求される段階に入っている。そこで私は、今後彼の証言は、自己への批判に対する反論を含まない限り、もう新たに取り上げない、という決断を行なったのである。
 したがって、吉田証言を採録している本(『アジアの声』を含む)から彼の証言を削除することまでは必要ないが、今後吉田証言に「依存」して論を進める状態からは脱却してほしいと呼びかけてきた。『朝日新聞』はそれに応じてくれたし、市民運動も多くが受け入れてくれた。
 あとは、小林氏たち研究落第生たちが頭の転換を早く遂げて、被害者が名乗り出てからの研究上のパラダイムの転換に追いついてきてくれるのを待つだけだ。吉田証言という「慰安婦」問題の入り口にとどまっている限り、慰安所の内部で行われた性暴力、そして被害の実態などを本格的に調査したり研究することはできない。
 実際のところ現在の「慰安婦」問題の研究は、慰安所の内部の実態解明のみならず、彼女たちが戦後抱えることになったトラウマの被害まで広がっている(日本の戦争責任資料センター刊『季刊・戦争責任研究』を参照されたい)。「慰安婦」問題の入り口を少し眺めただけで「『慰安婦問題』はもう終わった」などと、引き返しているのが小林氏たちなのだ。歴史を正視するのは辛いことかもしれない。精神的体力が要求される。しかし、今進んでいる本質的な議論に耐えられる漫画を描く努力を、たとえ辛くても、小林氏がしないかぎり、「研究上の落第生」は、ついに「歴史上の落後者」になってしまうだろう!。

                      了

注:引用したマンガのコマから、現在のところ絵を省いている。これによって逆に絵の引用の必要性が感知されるのではないかと考えている。