名誉毀損裁判 控訴趣意書
平成14年(ネ)第3647号 謝罪文掲載等請求控訴事件
控 訴 人(原告) 上 杉 聰
被 控 訴 人(被告) 小 林 善 範
被 控 訴 人(被告) 株式会社 小 学 館
控 訴 理 由 書
平成14年7月 日
控訴人訴訟代理人弁護士 土 屋 公 献
同 高 谷 進
同 小 林 哲 也
同 小 林 理 英 子
同 五 三 智 仁
同(主任) 高 橋 謙 治
同 中 田 貴
東京高等裁判所第14民事部 御中
控訴人と被控訴人らとの間には、申立の趣旨記載の判決があり、控訴人の請求を棄却している。しかし、原判決は次の点で原判決の取消、変更の原因となるべき事情があるので、破棄を求める。
第1 「ドロボー」等の本件表現は、事実の摘示を含む表現である
1 原判決は、「著作権法違反(複製権侵害)に当たるか、同法32条の要件を満たす適法な引用に該当するかは、専門的判断を要する法律問題であって、著作権者と引用者との間で見解が対立することも十分想定され、終局的には裁判所の司法判断により決せられるべき事柄である」(原判決19頁)と判示し、「本件は意見ないし論評による名誉毀損というべき」(原判決20頁)と判断しているが、かかる判断は以下の判例法理に照らしても明白に誤りである。
著作権法違反(複製権侵害)行為の存否は、本件においては著作権法32条の規定する引用行為の存否の問題であり、これは引用の主従性の要件などを証拠に基づいて検討すれば客観的に確定できる事柄である。
よって、「ドロボー」か否か、すなわち複製権侵害行為か否かは、裁判所が証拠に基づいて決することが可能な事柄であって、複製権侵害行為と公表する行為は事実摘示である。以下詳述する。
2 最高裁判所平成6年(オ)第978号平成9年9月9日第三小法廷判決は、次のように判示している。
右のように、事実を摘示しての名誉毀損と意見ないし論評による名誉毀損とでは、不法行為責任の成否に関する要件が異なるため、問題とされている表現が、事実を摘示するものであるか、意見ないし論評の表明であるかを区別することが必要となる。ところで、ある記事の意味内容が他人の社会的評価を低下させるものであるかどうかは、当該記事についての一般の読者の普通の注意と読み方とを基準として判断すべきものであり(最高裁昭和29年(オ)第634号同31年7月20日第2小法廷判決・民集10巻8号1059頁参照)、そのことは、前記区別に当たっても妥当するものというべきである。すなわち、新聞記事中の名誉毀損の成否が問題となっている部分について、そこに用いられている語のみを通常の意味に従って理解した場合には、証拠等をもってその存否を決することが可能な他人に関する特定の事項を主張しているものと直ちに解せないときにも、当該部分の前後の文脈や、記事の公表当時に一般の読者が有していた知識ないし経験等を考慮し、右部分が、修辞上の誇張ないし強調を行うか、比喩的表現方法を用いるか、又は第三者からの伝聞内容の紹介や推論の形式を採用するなどによりつつ、間接的ないしえん曲に前記事項を主張するものと理解されるならば、同部分は、事実を摘示するものと見るのが相当である。また、右のような間接的な言及は欠けるにせよ、当該部分の前後の文脈等の事情を総合的に考慮すると、当該部分の叙述の前提として前記事項を黙示的に主張するものと理解されるならば、同部分は、やはり、事実を摘示するものと見るのが相当である。(下線は引用者による。以下同様。)
前記最高裁判決は、まず�,修海僕僂い蕕譴討い觚譴里澆鯆名錣琉嫐�に従って理解した場合に、証拠等をもってその存否を決することが可能な他人に関する特定の事項を主張していると解される場合には、事実摘示のあるものとした上で、�△修海僕僂い蕕譴討い觚譴里澆鯆名錣琉嫐�に従って理解した場合に事実摘示と直ちに解せないときにも、間接的ないしえん曲に前記事項を主張するものと理解されるならば、当該部分は、事実を摘示するものと見るのが相当であると判示しているのである。
つまり、証拠によって決することができるか否かがメルクマールであって、「法律問題」であるか否かはメルクマールではない。「著作権法違反(複製権侵害)行為か、同法32条の要件を満たす適法な引用に該当する適法な行為か」は、証拠によって決することができるのであって、著作権法違反(複製権侵害)行為という事柄の公表は明らかに事実摘示である。
本最高裁判決の主眼は、「事実摘示と論評の区別は、一般人の普通の注意と読み方を基準とする。したがって、事実摘示と直ちに解せないときにも、一般の読者が有していた知識ないし経験等を考慮して、事実摘示か否かを判断する。」という点にあり、事実摘示と論評の本質的な区別については原審の高裁判決を踏襲しているのである。
3 その前記最高裁判決の原審である東京高裁平成6年1月27日判決(判例時報1502号114頁)は次のように判示している。
事実言明は、そこで用いられている言葉を一般的に受容されている意味に従って理解するとき、ある特定の者についての現実の事実又は行為を叙述した表現であって、右事実又は行為の真偽が証拠により証明可能であるものをいい、他方、意見言明は、右以外の言明であって、多義的、不正確若しくは漠然としているため一般的に受容されている意味の中核を把握し難くその意味内容につき議論の余地のある言葉により表現されている言明、又はある特定の者の行為若しくは性質等についての評価若しくは論評を加えた言明をいうものと解するのが相当である。そして、意見言明のような形式をとっている場合であっても、当該記事におけるその前後の文脈又は右記事の平均的読者のおかれている社会的状況ないしは社会的文脈から、黙示的な事実言明と解されるものは、事実言明と認めるべきである。
すなわち、証拠により証明可能な事柄が事実であって、証明不可能な事柄が意見・論評であると、明快に判示している。
4 東京高裁平成6年2月8日判決(判例時報1493号84頁)も次のように判示している。
もとより、事実言明と意見言明とを截然と区別することが困難な場合のあることは否定できないところであるが、事実言明は、そこで用いられている言葉を一般的に受容されている意味に従って理解するとき、ある特定の者についての現実の事実又は行為を叙述した表現であって、右事実又は行為の真偽を証拠により客観的に証明することが可能であるものをいい、他方、意見言明は、右以外の言明であって、多義的、不正確若しくは漠然としているため一般的に受容されている意味の中核を把握し難くその意味内容につき議論の余地のある言葉により表現されている言明、又はある特定の者の行為若しくは性質等についての評価若しくは論評を加えた言明をいうものと解するのが相当である。そして、意見言明のような形式をとっている場合であっても、当該記事におけるその前後の文脈又は右記事の平均的読者のおかれている社会的状況ないしは社会的文脈から、黙示的な事実言明と解されるものは、事実言明と認めるべきである。
これも全く同旨であり、証拠により証明可能か否かで事実言明と意見言明を分別している。
5 研究社英和辞典に関する東京地方裁判所平成8年2月28日判決(判例時報1570号3頁。控訴審である東京高等裁判所平成8年10月2日判決も同旨(判例タイムズ923号156頁))も次のように判示している。
名誉の保護と表現の自由の保護との調整を図る見地からすれば、事実とそれを前提とする論評ないし意見(以下、第六別紙記載の表現行為をも含め、単に「論評」という。)とからなる表現行為により、その対象とされた者の社会的評価を低下させることがあっても、その表現行為が公共の利害に関する事項又は一般公衆の関心事に係り、その目的が専ら公益を図るものである場合には、当該前提事実につき主要な部分において真実であることの証明があるか、表現行為者において真実と信ずるにつき相当な理由があり、かつ、当該論評が人身攻撃に及ぶなど論評としての域を逸脱したものでなく、表現行為者が当該論評を主観的に正当と信じて行ったものである限り、論評が客観的に正当であるか否かにかかわらず、当該表現行為は、名誉毀損の不法行為を構成しないものというべきである。これを敷えんすると、ある者に関する虚偽の事実が摘示された場合に、受け手は事実の真偽に関する検証手段を持たないため、直ちにその者の名誉が侵害されがちであるのに対し、事実を摘示した表現行為者は当該事実の真偽を確認することが可能な場合が多いといえるから、当該事実が主要な部分において真実であるか真実と信ずるにつき相当な理由がない限り、当該表現行為は表現の自由の濫用に当たるといわざるを得ない。これに対し、論評は、表現行為者がその客観的正当性を証明することが必ずしも容易でなく、裁判所がこれを証拠によって決するよりは、当事者間の言論の応酬を踏まえて読者の判断にゆだねることとし、的外れな論評もその前提事実とは別にそれ自体として不法行為を構成することはないものと解するのが、表現の自由の保障に資するゆえんである。しかも、論評は、その前提事実からみて論評としては客観的に正当といえない場合には、前提事実から論評内容を合理的に推論できないためにかえって受け手が論評内容に疑問を持ち、人の名誉の侵害の程度が軽微にとどまることがあることも否定し難い。もっとも、論評が、人身攻撃に及ぶなど論評としての域を逸脱し、又は表現行為者が主観的に正当と信じて行ったものでない場合には、保護に値しないといわざるを得ないのであって、論評としての域を逸脱するか否かを判断するに当たっては、表現方法が執拗であるか、その内容がいたずらに極端な揶揄、愚弄、嘲笑、蔑視的な表現にわたっているかなど表現行為者側の事情のほか、当該論評対象の性格や置かれた立場など被論評者側の事情も考慮することを要するものというべきである。
すなわち、証拠によって決することができるかどうかの判断主体は、裁判所であって、一般の読者ではないことは示している。
また、同判決は次のように判示している。
「本書の指摘等が、事実と論評のいずれに係るものかによって、その適法要件が異なることは前示のとおりであるが、事実とは、客観的に真又は偽としての性格付けをして証拠により確定できる性質を有するものをいい、論評とは、これに当たらないものをいうと解すべきであり、この区別をするに当たっては、当該指摘等の文言、表現方法、表現全体の中で占める地位等に照らし、想定される読者の普通の注意と読み方とを基準として判断すべきであって、一見論評に区分される指摘等も、その文言、表現方法、表現全体の中で占める地位等に照らし、事実を暗示するものと解するのが相当である場合には、その暗示される事実について真実性、相当性が検討されるべきである。
すなわち、客観的に真偽を証拠により確定できるものが事実であり、論評とはこれに当たらないものをいうのである。
6 事実摘示と意見の区別について、上記判例はいずれも、裁判所が客観的に証拠に基づいて確定できるものは事実とし、これに当たらないものを意見とするという点でいずれも一貫している。
ところが、本件原判決は、複製権侵害か否かは専門的判断を要する法律問題であって、このような終局的に司法判断により決せられるべき事柄については意見であると判示し(原判決19、20頁)、これらの判例と異質な判断基準を用いている。。
しかし前記のとおり、複製権侵害行為か否かは、引用の判断基準である明瞭区別性、付従性などの要件を証拠に基づいて判断していくことで最終的に確定できる事柄であって、「事実」である。
7 この点、記者会見において著作権違反行為と公表した行為が名誉毀損に当たるとした、本件に類似した事案である東京高裁平成12年9月19日判決(判例時報1745号128頁)も、「右認定のとおり、控訴人らは、記者会見の席を設けて、戸村作品は控訴人金の作品を盗作したものであり、被控訴人らに責任があるなどの事実を告知し、」と判示しており(第三、二、2)、事実摘示のある場合と認定している。本件も全く同様の事案であり、本件が事実摘示のある場合であることは、かかる判例に照らしても明らかである。
8 なお、原判決は、「一般読者の普通の注意と読み方を基準として判断すると、原告著作による被告小林の漫画の引用が複製権侵害であると裁判所で認定されたとの印象を与えるような記載はされておらず、本件表現は、いずれも著作権者の被告小林において上記引用は複製権侵害に当たるとの意見を主張しているとして読解されるものと解される。したがって、本件は意見ないし論評による名誉毀損というべき」(原判決20頁)と判示している。この点からすると、原判決は、一般人がどのように読解するかによって、事実摘示か否かを区別しているようである。
しかし、事実摘示か否かは、前記のとおり、裁判所が証拠によって確定できる事柄の公表か否かによって決まるのである。
前記最高裁判決も、「そこに用いられている語」からは一見事実摘示と読めないときにも「そこに用いられている語」を補充する要素として一般の読者が有していた知識等を考慮すると述べているのであって、「証拠等をもってその存否を決することができるか否か」の判断主体が裁判所であることは当然の前提としている。
原判決はこの点も誤認している。
第2 真実性・相当性の証明対象について
1 原判決は、「引用の事実関係においては争いがない」(原判決19頁)と判示し、漫画の転載行為のみを前提事実とし複製権侵害を意見として判示している。
しかし、このような構成は、前記最高裁判決や前記東京高裁平成12年9月19日判決などの多数の判例と明らかに異なっており、誤ったものである。以下詳述する。
2 前記最高裁判決は、「甲野は極悪人、死刑よ」等という見出し及び本文について、「上告人がこれらの犯罪を犯したと断定的に主張し、右事実を摘示するとともに同事実を前提にその行為の悪性を強調する意見ないし論評を公表した」と判示し、事実摘示及び同事実を前提とした論評のある場合と当てはめている。
そして前記最高裁判決は「本件見出し1及び本件記述は、上告人が前記殺人未遂事件等を犯したと断定的に主張するものと見るべきであるが、原判決は、本件記事が公表された時点までに上告人が右各事件に関与したとの嫌疑につき多数の報道がされてその存在が周知のものとなっていたとの事実を根拠に、右嫌疑に係る犯罪事実そのものの存在については被上告人においてこれを真実と信ずるにつき相当の理由があったか否かを特段問うことなく、その名誉毀損による不法行為責任の成立を否定したものであって、これを是認することができない。」と判示しており、名誉毀損の正当化要件として、犯罪事実そのものの存在について真実と信じたことについての相当性を要求している。
ところが原判決の論理に従えば、「甲野は極悪人、死刑よ」と表現しても、死刑か否かは「専門的判断を要する法律問題であって、終局的には裁判所の司法判断により決せられるべき事柄」(原判決19,20頁)であるから、前記最高裁判例の事案において、「死刑が裁判所で認定された」と記述されていない以上、意見ないし論評ということになる。
この点でも原判決の誤りは明らかである。
本件についていえば、「ドロボー」「無断で盗んで乱用」などの表現は、著作権法119条の犯罪事実の摘示を含むものであり、被控訴人小林は、当該犯罪事実について真実性又は相当性の要件を満たさなければならない。
3(1) また、著作権法違反の公表行為に関する本件に類似した事案である前記東京高裁平成12年9月19日判決(判例時報1745号128頁)は次のように判示している。
「本件第一著作物と戸村作品とは、一見してもいわゆるデッドコピーでないことは明白であり、直ちに著作権法上の「複製」や「翻案」に該当することにはならないのであるから、著作権法上の「複製」や「翻案」に該当するかどうか慎重に検討する必要があるのであり、控訴人らが、敢えて被控訴人らが著作権を侵害していると公に発表しようというのであれば、十分な裏付けを基に慎重のうえにも慎重になすべきことであったというべきである。
ところが、控訴人らは、本件第一著作物を含む控訴人金制作の「復活を待つ群れ」と題する一群の造形美術作品と本件舞台装置との比較で、基本的な構図、色彩等が共通しているところにのみ着目して、短絡的に、戸村作品が本件第一著作物を複製・本案したものに当たると即断し、右共通性が真に著作権法にいう「複製」や「本案」に当たるかどうかについての検討を一切せず、被控訴人戸村から、作者同士で話し合おうとの提案がされていたにもかかわらず、これを拒否し、一方的に、被控訴人らを糾弾すべく記者会見を催したのであるから、これが、不法行為の要件としての違法性のある行為を故意によって行った場合に該当することは明らかである。」
すなわち、両者の作品に共通部分があるなど基礎事実が存在していたとしても、それが著作権法にいう「複製」に当たるか否かについて十分検討せずに一方的に断定的に公表した場合には、免責されないのである。
(2) ところが、原判決の論理に従えば、やはり「著作権法違反が裁判所で認定された」と公表しない限り「専門的判断を要する法律問題であって、終局的には裁判所の司法判断により決せられるべき事柄」(原判決19,20頁)であるから、意見ないし論評ということになる。
この点でも原判決の誤りは明らかである。
(3) 本件についていえば、控訴人による被控訴人小林の漫画の無断転載という基礎事実が存在していたとしても、被控訴人らは、それが著作権法上の「複製権侵害」行為に該当すると公表する前に、著作権法上の「引用」行為に該当するか否かを慎重に検討する必要があったのであり、「十分な裏付けを基に慎重のうえにも慎重になすべきであった」にもかかわらず、何ら慎重な検討をせずに断定的に「ドロボー」などと犯罪事実を公表しているのであって、免責される余地はない。
(4) 特に控訴人は、控訴人著作のあとがき(甲1号証149頁)において漫画の引用を「専門家」に確認した上で行ったと記載しており、被控訴人小林も第55章の7,8コマ目でそれに触れている。一方自らはそうした「専門家」に確認することもせず、また控訴人にどのような「専門家」に確認したのか尋ねることもなく、一方的に控訴人を「ドロボー」と断定して公表している。
この「専門家」は、社団法人日本著作権協議会と出版者著作権協議会であり、出版関係者であれば誰でも知っている機関である。
被控訴人小林らは、控訴人がこのように専門家に確認した旨指摘していたにもかかわらず、こうした専門家の意見を尋ねる作業や控訴人に問い合わせる作業さえ怠っているのであって、何ら免責される余地はない。
(5) また被控訴人らは、この点について正当な言論であると主張する。
しかし、後記第5のとおり、被控訴人小林は、何ら論評することなく「ドロボー本」と何度も連呼して断定し、さらに泥棒の格好をした控訴人の肖像まで描いている。これは到底正当な言論とは言えない。
4 この東京高裁判決は、さらに次のように判示している。
「控訴人らは・・戸村作品が本件第一著作物とよく似ていることは、原判決も認めているとおりであるから、このような事実がある以上、「当該作品を制作した者などから事実を確認するなどして、真実著作権を侵害する行為があったか否かを十分に調査」する義務は緩やかに解されるべきである旨主張する。
しかしながら、控訴人らの主張によれば、結局、自己の作品と似ている作品については、相手方が何と弁解しようが、著作権を侵害しているものとしてよく、この点について十分に調査、検討すべき義務はないということになる。当裁判所は、このような結果となる見解を採用することができない。」
「真実と信じたことの相当性」の要件は、虚偽の事実を主張して他者の名誉を毀損していながらなおその表現を正当化する要件である。
したがって、著作権侵害行為があると虚偽の事実を主張する者は、正当化されるに値する十分な裏付け調査をすべきであって、「似ている」という基礎的な事実だけでなく著作権侵害行為に当たるか否かまで慎重に検討する義務がある。
よって、本件においても、「コマの転載」という基礎的な事実ではなく、「著作権違反行為」の存否が真実性の証明対象であるはずである。
かく解さなければ、およそ引用をされた場合には原著作者は相手方を公然と「ドロボー」呼ばわりできることとなり、著しく不当である。いやしくも他者を「ドロボー」と呼ぶためには、複製権侵害行為の事実について相当性を立証できるだけの十分な調査をなすべきであり、「コマの転載」さえあれば他者を公然と「ドロボー」呼ばわりできるという解釈は、およそ常識に反する。原判決の論理によれば、少しでも他者の文献を引用した者は「ドロボー」という呼称や泥棒の格好をした自己の似顔絵を甘受しなければならなくなるが、そのような結論の不当性は明白である。
5(1) 原判決は、「引用の事実関係においては争いがないときに、著作権法違反(複製権侵害)に当たるか、同法32条の要件を満たす適法な引用に該当するかは、専門的判断を要する法律問題であって、著作権者と引用者との間で見解が対立することも十分想定され、終局的には裁判所の司法判断により決せられるべき事柄である。」と判示する。
しかし、著作権法違反の行為かそれとも引用行為であって適法行為かは、事実認定の問題である。すなわち引用の要件事実、例えば明瞭区別性や附従性の有無という事実の存否をめぐる問題である。
したがって、本件は、引用の事実関係に争いがある場合であって、この点でも原判決は誤っている。
(2) また仮に「複製権侵害行為」が、事実摘示を含まないただの意見であるとすると、「証拠等をもってその存否を決することが可能な他人に関する特定の事項」ではないということであるから、複製権侵害行為の存否は証拠によって決することができないこととなる。これは著作権侵害をめぐる裁判の否定であって、明らかな誤りである。
(3) 原判決のように、著作物の複製の正当化事由である「引用」は事実問題ではなく法律問題という立場を採ると、正当防衛などの違法阻却事由も全て法律問題ということになろう。
すると、例えば、警官が職務上危険を感じて犯人を射殺した場合に、警官が人を殺したという事実だけに着目して、何ら調査もせずにその警官を「殺人者」「殺人警官」などと呼んでよいこととなる。
確かに、その警官に正当防衛が成立しない場合であればそのような表現をした者に責任はないであろう。しかし、正当防衛に該当する事実が存在する場合であれば、そのような表現をした者は、真実と信じたことにつき相当な理由がない限り、責任を取るべきである。
事実摘示をした者は、その表現が誤っていた場合には、相当性が認められない限り責任を負うべきであるというのが判例であり、社会常識でもある。
「ドロボー」と表現した者は、その者が「ドロボー」でないことが判明したときには、誤報について潔く非を認め謝罪広告を出すべきである。さもなくば「ドロボー」であると信じたことについての相当性を示すべきである。
したがって、真実性・相当性の証明対象は「ドロボー」すなわち複製権侵害行為という事実である。
第3 仮に、本件が事実摘示を含まない意見ないし論評による名誉毀損の場合であっても、論評の前提事実は著作権侵害行為の存否それ自体である
仮に、万一、本件表現が事実摘示を含まない意見ないし論評であったとしても、真実性の証明対象は複製権侵害行為という事実である。以下詳述する。
1 前記最高裁判決によると、ある事実を基礎としての意見ないし論評による名誉毀損にあっては、「その行為が公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあった場合に、右意見ないし論評の前提としている事実が重要な部分について真実であることの証明があったときには、人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱したものでない限り、右行為は違法性を欠くものというべきである。そして、仮に右意見ないし論評の前提としている事実が真実であることの証明がないときにも、事実を摘示しての名誉毀損における場合と対比すると、行為者において右事実を真実と信ずるについて相当の理由があれば、その故意又は過失は否定されると解するのが相当である。」とされている。
すなわち、論評行為の公共性、公益目的、意見としての域を逸脱しないことのほかに、前提事実の主要部分の真実性の証明ないし相当性が要件となる。
2(1) 原判決は、意見の前提事実として次の事項を列挙している(原判決21頁)。
�機〜茲い里覆ち按鵑箸覆觧�実(原判決2、3頁)
�@ 控訴人が従軍慰安婦問題等の研究者であり、被控訴人小林が「新ゴーマニズム宣言」を執筆する漫画家であり、被控訴人会社がその出版社である事実など
�A 控訴人が「新ゴーマニズム宣言」のコマを引用して「脱ゴーマニズム宣言」(控訴人著作)を出版した事実など
�B 被控訴人小林が本件漫画を執筆した事実など
�C 別件裁判の経過について(なお、平成14年4月26日、上告棄却等の最高裁決定により、控訴人による複製権侵害の事実が全く存在しないことについて確定した。)
�供々義平佑犯鏐義平余�林は、従軍慰安婦問題について意見が対立していた。
�掘々義平佑�控訴人著作において被控訴人小林のコマを引用した。
控訴人は、控訴人著作において、被控訴人小林の「新ゴーマニズム宣言」を茶化して意見を述べている。
�検〔_茲鯢昭瓩靴榛酩覆砲�いては絵を引用していない例も多く、漫画のコマを転載する場合に被控訴人小林側に許可を求めた例がある。
�后〔_茲論�作に相当の労力を要する。絵は活字部分より人気等に大きな影響を与える。
原判決は、上記に続けて、「以上によれば、�仝狭霖�作における被告小林の絵の引用は複製権侵害である、��原告著作においては引用した被告小林の絵が価値の大部分を占め、原告の文章はほとんど価値がないと主張する被告小林の意見ないし論評について、その前提となる事実は、重要な部分においていずれも真実であると認めることができる」と判示している。
上記�気覆い鍬垢里Δ繊⊂綉��(�製権侵害に関する前提事実は、コマの引用という�靴了�実のみである。原判決は、これだけを前提事実として、複製権侵害を意見であると認定している。
(2) しかし、前提事実をこのように認定すると、原著作者は、コマを引用された場合には直ちに複製権侵害と公表してよいこととなるが、前記第2で詳述したとおり、そのような結論は著しく不当である。
引用の事実さえあれば他者を公然と「ドロボー」呼ばわりでき、泥棒の格好をした相手方の似顔絵を描くことができるという解釈は、およそ常識に反する。
現に名誉が毀損されている場合に、なお表現の自由を保護すべき場合とは、表現者が当該表現の適法性について充分な調査を行った場合ややむを得ない場合に限られるべきである。
また、前記第2で詳述したとおり、多数の判例にも反するものである。
したがってコマの転載の事実のみならず、コマの転載が違法であることについても相当の調査をなした場合に初めて「前提事実の相当性」の要件が充足されると解すべきである。
(3) なお�犬了�実が摘示された点は明らかに不当である。
乙イ2号証203頁でも、「著作権法32条1項は、公表された著作物は、著作権者の許諾を要することなく、引用して利用することができる旨、定めている」とされているとおり、引用に際して原著作者に許諾を求める必要は全くない。許諾がある転載は「著作権の制限」と無関係であり「著作権の制限」について定めた著作権法第5款の「引用」(同法32条)の問題とはならない。したがって、同法32条の引用の可否を論じる際に、許諾を得た転載が存在する事実は全く無関係である。仮に控訴人が許諾を求めたとしても被控訴人小林が許諾しないことは明らかであって、許諾が必要とすると著作権法に定める引用や表現の自由が空文化してしまう。
また、別件訴訟において提出したとおり、漫画を評釈した作品において絵を引用している例も多いのであり(甲39ないし41。また別件訴訟において多数の書証を提出している。甲4号証66頁参照。)、漫画評釈において絵を引用しない慣例があるわけではない(甲4号証66頁参照。)。これらの事実については別件訴訟で確定しているところであり、蒸し返すまでもないと思料するが、あらためて主張が必要ならばさらに補充する用意はある。
よって、上記�犬了�実摘示がいかなる結論を導くのか全く不明であって、上記�犬療�示は不当である。
第4 意見ないし論評の域を逸脱していないかについて
1 原判決は、「「右翼のデマゴーグ」など殊更相手方を揶揄し誹謗する印象を与える比喩的な表現もみられる」(原判決23頁)と判示している。
しかし、控訴人著作を注意深く読めばわかるとおり、これらは控訴人による被控訴人小林に対する正当な指摘、批判、意見・論評、忠告の一環として述べられたものであって、被控訴人小林個人を揶揄したり誹謗するものではない。むしろ控訴人が被控訴人小林を高く評価し、その立ち直りを期待して控訴人著作を書いているのである。この点は別紙「第3目録記載事項に関する説明」において詳述する。
(1) 2例のみ述べると、「右翼のデマゴーグ」という表現は、被控訴人小林が先に表現した「サヨクの亡霊・反日売国グループ」など(甲16)の表現に比べれば、遙かに穏当なものである。
「右翼」とは「保守派」(広辞苑)、左翼は急進派(広辞苑)・革新を意味する言葉であり、右翼、左翼という言葉は政治姿勢に対する純粋な評価の問題であって、それ自体は全く「誹謗」ではない。また右翼や左翼は相対的なものであり、被控訴人小林が控訴人のことを「サヨク」と呼ぶ以上、被控訴人小林は控訴人より右翼・保守派に位置するはずである。被控訴人小林が保守系団体に参加していたことは被控訴人小林も自認しており(甲46)、また世間一般からは被控訴人小林は「右翼」はおろか極右とも言われている(甲43,44)。
「デマゴーグ」という表現も煽動者という意味に過ぎず(なお広辞苑によると「扇動政治家」とある。)、被控訴人小林自身、「世論を作るためにいかにも倫理心情的なスキャンダリズムのニュアンスを前面に押し出して大衆を誘導し強力な世論を作り上げる」ことを行っていると自認しており(甲30)、まさに煽動者たることを自認しているのであって、何ら揶揄でも誹謗でもない。
また、被控訴人小林がその漫画において数々の虚偽、歪曲、隠蔽を描いているのは事実である。
その一部を例示すると、「『新ゴー宣』第37章・第42章でよしりんは、吉見氏の研究が狭義の強制連行説を作ったとしている」こと(甲1号証34頁参照)、原文に「ことさらに」とあるのを「嘘をついて」と改変して読者を騙そうとしたこと(同78頁参照)、西野瑠美子氏の発言を大きく歪曲した事実(同82,83頁参照)、梶村太一郎氏の発言をまったく逆の意味に歪曲した事実(同95頁参照)、「慰安婦」をソープ嬢と同じものと描いていること(同第12章)などがあるが、その他にも、控訴人著作において詳述されているとおり、被控訴人小林の漫画には、多数の虚偽、歪曲、隠蔽が描かれている。
これをもって「デマ」「デマゴーグ」と称することは、まさに正当な批判であり、何ら揶揄でも誹謗でもない。
他方、被控訴人小林が、控訴人著作より先に控訴人らを揶揄、中傷、侮辱した箇所は、非常に多数にのぼる。特に「反日売国グループ」なる表現は、控訴人らに対する著しい侮辱である。
こうした被控訴人小林の描写に比べれば「右翼のデマゴーグ」など極めて穏当な発言である。
(2) また「漫画としての精神の死」などの表現も、詳細は別紙において述べるが、権力に対する風刺という漫画家本来の精神と独創性が被控訴人小林から失われ、弱者つぶしの道具、特定勢力のプロパガンダの手段に堕しているという文脈で述べられており(甲1号証13,14頁、18ないし21頁など)、揶揄でもなければ誹謗でもない。純然たる論評である。
2 そして「右翼のデマゴーグ」などの表現は、犯罪者呼ばわりである「ドロボー」とは質的に全く異なるものである。
控訴人は、「サヨクの亡霊」と呼ばれたからといって、名誉毀損訴訟を起こすことはない。
しかし、控訴人は、「ドロボー」呼ばわりだけは容認できない。「ドロボー」呼ばわりの中には、「窃盗類似の複製権侵害行為を行った犯罪者である」という事実摘示があることは明らかである。控訴人には、裁判所において、事の真偽を明らかにし、誤った表現について謝罪広告を求める権利があるはずである。
3(1) 原判決は、控訴人が控訴人著作において被控訴人小林を批判したことを理由の一つとして、「ドロボー」発言は相当性を逸脱していないと認定している(原判決23,24頁)。
(2) しかし、第1に、先に控訴人らを誹謗したのは被控訴人小林である。控訴人らの心血を注いだ長年にわたる真摯な活動に対して、罵詈雑言で誹謗中傷したのは被控訴人小林の方である(甲16)。そして被控訴人小林は隔週で数十万部を売り上げるマスメディアにおいて定期連載を抱えており、強大な広報能力を有しているのであるから、控訴人が控訴人著作において多少辛辣な表現を行ったとしても、被控訴人小林は自らのメディアにおける冷静かつ正当な言論で対抗すればよい。
前記のとおり、「サヨクの亡霊」「反日売国グループ」などの被控訴人小林の表現の辛辣さに比較すれば、「右翼のデマゴーグ」「漫画家としての精神の死」などの控訴人の表現は十分穏当なものである。
しかし本件における「ドロボー」呼ばわりは、そうした論評の域を超えて、他者を犯罪者呼ばわりするものである。何ら複製権侵害行為を行っていない控訴人のことを「ドロボー」と呼び犯罪者扱いすることは、悪質な人身攻撃に他ならず、論評としての相当性を逸脱したものである。
従軍慰安婦論争などの議論の渦中にあっても、他者を「ドロボー」など犯罪者呼ばわりすることまで許容されるものではない。「ドロボー」などの犯罪者扱いの表現は、それまで展開されていた従軍慰安婦論争における表現とは明らかに異質な表現である。
被控訴人らは、控訴人が窃盗類似の複製権侵害を犯したと主張する以上、真に控訴人が著作権違反に該当するか否かについての慎重な調査とその裏付けを明らかにすべきであって、その相当性の証明がない以上、被控訴人らは免責されるべきでない。
(3) 第2に、控訴人が控訴人著作において述べたのは、主として被控訴人小林の従軍慰安婦論争における主張に対する反論である。その反論の過程で被控訴人小林の政治姿勢、漫画の描写の変遷などについても批判しているが、被控訴人小林個人の人格攻撃はしていない。
むしろ控訴人が「私の愛する漫画家小林よしのり」と冒頭で述べ(甲1号証1頁)、さらに「私は、よしりんの漫画が大好きだ」(同12頁)、「いずれ漫画の一時代を画した一人に数えられるのは間違いない(同13頁)などと述べていることから明らかなとおり、控訴人は、被控訴人小林の漫画を高く評価しているのである。
控訴人は、被控訴人小林の才能を高く評価しているからこそ、近時の右傾化を憂い悲しみ、「もいちど漫画家としての原点に戻りなはれ!」(同14頁)、「疲れを癒して、もいちど元気な姿で帰ってきなはれ!」(同21頁)と忠告し、被控訴人小林の「復活」を期待している(同100頁)。
このように、控訴人は控訴人著作において、被控訴人小林の論説に対する批判はしても、決して人格攻撃はしていない。
これに対して、被控訴人小林は、本件漫画において「ペテン本」「ぐだぐだ男」「この無神経」「狂ったのか?」「おまえの頭の中は笑えるけど同時に少しトリ肌立ったぜ」などの表現まで使って、控訴人の揶揄、誹謗、罵倒、人格攻撃に終始している。
控訴人著作が本件漫画に比し穏当な表現に終始していることは一目瞭然であって、他方、本件漫画における「ドロボー」等の記載が、論評としての相当性を逸脱していることは明らかである。
(5) さらに「ドロボー」とカタカナで表記すれば比喩的表現となり、泥棒としての似顔絵を描いても「古典的でコミカルな表現」であって、人身攻撃にならないという判示(原判決23,24頁)に対しては非常識といわざるを得ない。
「気狂い」「人殺し」と表記すれば名誉毀損であり、「キチガイ」「ヒトゴロシ」と表記すれば比喩的表現になるのであろうか。包丁で人を刺した殺人者の格好をした他人の似顔絵を描いても「古典的でコミカルな表現」として許容されるのであろうか。このような論理と結論は後記第7で詳述するとおり言論のルールを破壊するものである。
コミカルな表現であれば、他者を犯罪者のように描いても許容されるという原判決の論理は、漫画という表現方法にのみ特権を与え、描かれる者の人権に全く配慮しないものであって著しく不当である。
第5 本件漫画が控訴人の名誉を毀損することについて
本件漫画が、控訴人の名誉を毀損するものである点については原判決も認めているところであるが(原判決16ないし18頁)、さらに本件漫画についてコマごとに詳述して、補足する。
1 65頁2コマ目、3コマ目
「うっかりするとわしの著作と間違いかねないようにつくられてるな」
「『小林よしのり』よりも目立たないように地味に書かれている著者名は『上杉聰』」
控訴人著作が被控訴人小林の著作と誤認するおそれがなく不正競争防止法違反とならないことは書籍の体裁から見て一見して明らかであり、かつ、別件裁判において認定されたとおり(甲4号証79ないし85頁参照)であるところ、被控訴人小林は、あたかも控訴人著作を被控訴人小林の著作と誤認する体裁のものであるかのごとく虚偽の事実を摘示している。
2 同4コマ目
「内容は一発で崩れるレベルの低い論だが、驚いたのはわしの絵を無断で盗んで乱用していること」
控訴人の引用行為は著作権法上認められた正当な引用行為であって、控訴人が絵を盗んだ事実は全くなく、乱用した事実も全くないにもかかわらず、控訴人著作の内容を誹謗中傷した上、「わしの絵を無断で盗んで乱用していること」と断定的に虚偽の事実を述べている。
3 同5コマ目
「めくるページめくるページに『ゴー宣』からの無断転載カットが満載!」
「何しろ引用カット数は全部で57点 73コマ」
「この本の14ページ分にものぼる!」
このコマは前のコマを受けており、控訴人が被控訴人小林の絵を盗んだ例を具体的に挙げているコマであるところ、被控訴人小林は、控訴人が全部で57点、73コマ、14ページ分にわたり絵を盗んだと虚偽の事実を述べている。
4 66頁1コマ目
「たった89ページのうち、14ページを引用カットで埋めてるのだから異常としか言いようがない」
別件訴訟判決(甲5号証43頁)にあるとおり、意見主張漫画である被控訴人小林の漫画を批判するためには引用するカット数が増えることは当然であり、異常なことでは全くないにもかかわらず、異常な行為であると主張し、絵を盗むという異常な行為を控訴人が犯したと虚偽の事実を摘示している。
「そのためこの本全体が『上杉聰・著 小林よしのり・挿絵』というような仕上がりになってしまっている!」
被控訴人小林が控訴人に協力して挿絵を描いているのではなく、控訴人が被控訴人小林のカットを引用して批判していることは、一読して明らかであるにもかかわらず、虚偽の事実を摘示している。
5 同3コマ目
「盗人猛々しいとはこういうやつのことだ」
控訴人を盗人扱いしている。ここでの「盗人猛々しい」とは単なる比喩ではなく、絵の盗用者という点で文字どおり「盗人」という意味で用いている。
「どんな専門家に確認したのか知らないが 『磯野家の謎』以降ブームになったいわゆる『謎本』も最近の『エヴァンゲリオン研究本』でも業界の慣例として認められている『部分的な引用』はあくまでもセリフなどの文章部分のみに限られている」
「漫画・アニメなどのビジュアル作品の内容を評する場合でもその作品の画面を著作権者に無断で転載してはならないというのは常識中の常識だ」
「どんな専門家に確認したのか知らないが」と述べており、控訴人の相談した専門家があてにならないことを示しつつ、全く虚偽の「文章部分以外は引用できないという業界の慣例」を作出して、虚偽の事実を主張している。さらに「常識中の常識だ」と断定的に述べており、およそ控訴人の引用行為が適法となる余地はないとの印象を与える断定的な記載をしている。
6 同4コマ目
「このペテン本でも絵の引用がどうしても必要なケースは1点もない/全てセリフ・文章の引用でこと足りるケースばかりなのにわざとわしの絵を1点でも多く使って売上を伸ばそうとしている!」
絵の引用が必要である点、セリフ・文章の引用では足りない点は別件訴訟で詳述したとおりであり、売上を伸ばすために引用した事実は全くない。「わざとわしの絵を1点でも多く使って売上を伸ばそうとしている!」との点は全くの誹謗中傷である。
7 同8コマ目
「またこのような絵は作家の著作物を勝手に改ざん・発表する悪質な行為であって著作権法上特に許されないものだ」
これらの絵はいずれも適法な修正であって、別件訴訟においてもその適法性が確定している。被控訴人小林は明白に虚偽の事実を摘示している。
8 同10コマ目
「この著作権侵害事件に関しては弁護士を立てて断固とした法的措置を取る!」
前記3コマ目で引用が認められないことは「業界の慣例」「常識中の常識」と断定的に述べ、さらにこのコマで著作権侵害事件があると断定して法的措置を取ると述べることは、全体として「控訴人による著作権侵害行為が存在することは明らかであって、これに対して法的措置をとってこれを懲罰する」という趣旨である。
決して「両論あり得るので裁判所の判断を仰ぐ」という記載の仕方ではない。控訴人の絵の転載行為が複製権侵害行為であることは「常識中の常識」と断定して、これへの損害賠償などの法的措置を取ると述べているのである。著作権侵害が存在することを断定的に述べており、虚偽の事実摘示である。
9 66頁上部欄外
「人の絵をこれもあれも全部引用だと使いまくって、ちゃっかり自分の本の挿絵にしてしまうのはドロボーだ!ドロボーは許さん!」
正当な引用行為をドロボー行為であると断定的に述べている。
10 67頁上部欄外
「たとえ絵の描き方が気にくわん、という批評だろうと、絵を勝手にドロボーしていいという理由にはならない。」
正当な引用行為をドロボー行為であると断定的に述べている。
「?秀実でも柳美里でも、絵を自分の文で説明して批判していた。それが物書きとしての最低の仁義だ。」
絵の引用をしないという「仁義」なるものなど全くないにもかかわらず、自分勝手な「仁義」を設定し、あたかも控訴人の引用行為が仁義を欠く行為であるかのごとく誹謗中傷している。
「さんざん紙面をわしの絵で埋めて、わしの本かと錯覚するような表紙にして、あんなぺらっぺらの本で1200円!?汚ない商売しとるよなー。わしの絵がなかったら商品として成り立たなかったはずだ!おまえの文は10円だ!わしの絵が1190円だ!」
控訴人が被控訴人小林の絵を盗んだことを前提として、控訴人著作の120分の119(99.17%)というほとんど全ての価値が、「盗用された被控訴人小林の絵」にあり、控訴人の文章など無価値であると口汚く罵り、誹謗中傷している。
この欄外部分全体として、絵の盗用という事実に加えて、「盗用された被控訴人小林の絵」の部分に控訴人著作の主たる価値があるとの虚偽の事実を述べている。控訴人の文こそが主であり、被控訴人小林の絵は従たる関係にある事実(甲5号証32ないし44頁参照)は別件訴訟において確定しているとおりである。これを隠蔽して、被控訴人小林は、控訴人があたかも売上を伸ばすという商売のために被控訴人小林の絵を無断転載したのであって控訴人著作においては被控訴人小林の絵が主であるとの虚偽の事実を述べている。
11 �。僑景韮殴灰淕棔き�同5コマ目、��69頁上部欄外、�ぃ沓永韮吋灰淕棔↓テ隠隠哀灰淕棔↓Γ沓科韮轡灰淕�
「なんとこの著作権侵害のドロボー本」(� �
「慰安婦問題に関する上杉ドロボー本」(�◆�
「ドロボー本を出すやつ」(��)
「このドロボー本のどこに「明快な論理」があるのか?」」(�ぁ�
「漫画家に追いつめられてドロボー本で逆襲しなきゃならん」(�ァ�
「天下の朝日がドロボー本を持ち上げて」(�ァ�
「上杉聰のわしの絵をドロボーしたこの本は、吉田証言から吉見理論へのすりかえ本にすぎない/きまじめなバカしかだませない」(�Α�
(1) 控訴人の引用行為は著作権法上認められた正当な行為であって、控訴人が絵を盗用した事実は全くないにもかかわらず、「著作権侵害のドロボー本」などと何度も執拗にかつ断定的に虚偽の事実を述べている。
これらの表現はいずれも「ドロボー本」などと連呼しているだけであって到底論評とは言えず、明らかに断定的な事実の摘示である。また、仮に万一論評としても、ここまで殊更に「ドロボー本」などと連呼する理由は全くない。明らかな誹謗中傷であって、論評の域を逸脱している。
(2) 8頁の本件漫画のうち、被控訴人小林が著作権侵害について話題にしているのは初めの2頁にすぎない。後の6頁においては、「ドロボー本」と連呼しているだけであって、何ら著作権侵害について話題としていない。
こうした構成からみても、被控訴人小林が、慰安婦問題についての議論を有利に行うために控訴人を貶めることを目的として、殊更に「ドロボー本」と連呼して控訴人の人格攻撃を行っていることは明らかである。
「この本のどこに明快な論理があるのか?」と述べるのと、「このドロボー本のどこに明快な論理があるのか?」と述べるのでは、後者の方が遙かに効果的である。泥棒の主張など全く信用できないと考えるのが一般であり、後者の表現の方が遙かに「この(ドロボー)本」の信憑性に傷を付けることができるからである。従軍慰安婦論争において、被控訴人小林は、控訴人著作に「ドロボー本」とレッテルを貼ることによって、他者の絵をドロボーするような控訴人の主張など信用できないと読者に訴えかけて、控訴人の言説に疑惑を抱かせ、反対に被控訴人小林の言説を読者に納得させようとしている。それ以外に執拗に「ドロボー本」と連呼する理由はない。
被控訴人小林が論争相手である控訴人を貶めるために「ドロボー本」と連呼していることは明白である。
(3) さらに、本件漫画72頁7コマ目では、泥棒の格好をした控訴人の肖像まで描いている。
比喩的な表現にせよ人を窃盗犯として描くことは、当該人物に対する疑惑を発生させるものであって、当該人物の社会的評価を大きく低下させるものである。文章による表現と異なり視覚的な表現は、より強烈に読者に印象づけられるものであって、視覚的表現による名誉毀損の場合は、より大きい被害を発生させるものである。例えば乙イ10号証の森元首相のイラストも、文字で説明すれば馬鹿馬鹿しいだけであるが、イラストという視覚的表現のため読者は森元首相の人格、性癖等に疑惑を持つようになり同人の社会的評価を大きく低下させるのである。全く同様に、泥棒の格好をした似顔絵を描かれることによって、読者は控訴人のことを「ドロボー」(窃盗犯類似の複製権侵害行為を行った悪者)であると印象づけられるのであってその社会的評価は大きく低下する。
12 以上より、本件漫画は全体として控訴人が「ドロボー」(窃盗犯類似の複製権侵害行為を行った悪者)であることについて読者に確信を抱かせるものであり、少なくとも控訴人が「ドロボー」であるかもしれないとの疑念を抱かせるものである。また控訴人が「業界の慣例」「常識中の常識」「物書きの仁義」を破ったとの印象を抱かせる。
さらに、控訴人の文章にはほとんど価値がなく、盗用した絵がその価値のほとんど全てであるとの印象を抱かせる。
加えて、控訴人が批評目的で引用した事実を無視し、控訴人が本の売上を伸ばすために絵を盗用したという印象を抱かせ、控訴人が本の売り上げや金のためなら法律も「仁義」も破る悪人であるという印象を抱かせる。
これらの表現は、控訴人の人格に対する社会的評価を大きく貶めるものであって、これらが名誉毀損となることは当然である。
13 被控訴人小林は、本件漫画において、その他にも「あきれたペテン本」(甲2号証65頁1コマ目)、「このぐだぐだ男」(同71頁5コマ目)、「この無神経」(同)、「狂ったのか?」(同71頁7コマ目)、「おまえの頭の中は笑えるけど同時に少しトリ肌立ったぜ」(同)、「インチキ記事をそのままたれ流してしゃべっている/これのどこが学者なのか?/単なるデマ屋じゃないか!」(同72頁2コマ目)などと控訴人を誹謗中傷しているが、こうした挑発的な言動を含むことからも本件漫画の前記「ドロボー」等の記載が正当な言論とは言えないことは明らかである。
第6 肖像権(人格権)侵害について
1 原判決は「肖像権が保障される根拠は、自己の容貌ないし姿態の撮影及び公表は個人の自律的判断に委ねられるべきで、何人もその意思に反して自己の容貌ないし姿態という情報を他人に取得され、公表される理由はないということにある。そうすると、肖像権を侵害する行為となるのは、写真撮影、ビデオ撮影等個人の容貌ないし姿態をありのまま記録する行為及びこれらの方法で記録された情報を公表する行為であると解すべきである。」と判示する(原判決24頁)。
確かに肖像権が保障される根拠は、「自己の容貌ないし姿態の撮影及び公表は個人の自律的判断に委ねられるべき」点にある。
では、なぜ「自己の容貌ないし姿態の撮影及び公表は個人の自律的判断に委ねられるべき」なのであろうか。
原判決はその点についての判断を欠落させているが、それは、「自己の容貌ないし姿態」は当該個人の人格の視覚的象徴であって、当該個人の人格に直結するからである。
個人の氏名も当該個人の人格の象徴としての機能を有するから、氏名権として、一定限度保護される(最高裁判所第三小法廷昭和63年2月16日判決判例時報1266号9頁)。
同様に「自己の容貌ないし姿態」は、当該個人の人格の視覚的象徴だからこそ、肖像権として保護されるのである。
当該個人の特徴を捉えて描かれた似顔絵は、表現者において当該個人を表すことを意図して描かれている。そして当該個人の特徴を捉えて描かれているため読者もその似顔絵が当該個人を指すことを容易に理解できる。すなわち、そのような似顔絵は、当該個人の人格を視覚的に象徴するものである。
したがって、当該個人の特徴を捉えて描かれた似顔絵は、当該個人の人格の視覚的象徴であるから、このような似顔絵の公表も肖像権侵害となると解すべきである。
2(1) 原判決は「何人もその意思に反して自己の容貌ないし姿態という情報を他人に取得され、公表される理由はないということにある。そうすると、肖像権を侵害する行為となるのは、写真撮影、ビデオ撮影等個人の容貌ないし姿態をありのまま記録する行為及びこれらの方法で記録された情報を公表する行為であると解すべきである。」と判示する。
しかし、ここには大きな論理飛躍がある。
「何人もその意思に反して自己の容貌ないし姿態という情報を他人に取得され、公表される理由はない」という前段から導かれるのは、「そうすると、肖像権を侵害する行為となるのは、自己の容貌ないし姿態という情報を取得され公表される行為全般であり、『写真撮影、ビデオ撮影等個人の容貌ないし姿態をありのまま記録する行為』に限られず、個人の容貌の特徴を捉えた似顔絵の公表行為も肖像権侵害行為となる」となるのが論理的帰結である。
「写真撮影、ビデオ撮影等個人の容貌ないし姿態をありのまま記録する行為」に限定する根拠は、前段からもどこからも、導かれることはないのである。
むしろ、「個人の特徴を捉えた似顔絵」も人格の視覚的象徴であり、「写真あるいは映像等の読者・視聴者の視覚に訴える方法による情報伝達」であって、かつ「その内容が人の肖像に関する情報を含む場合」(東京高裁平成5年11月24日判決判例時報1491号99頁)であるから、肖像権の保護を受けるというのが論理的帰結である。
(2) また原判決の「ありのままに記録する行為」という意味が厳密に「機械的」な記録という意味であれば、肖像画やその他一切の絵画は含まれないことになり、著しく不当な結論となる。
もっとも原判決は、肖像画は「写真と同程度に対象者の容貌ないし姿態を写実的に正確に描写する」として写真と同様の「機械的記録」と判断しているようである。
しかし肖像画は、機械による記録ではないから必ず主観が混入する。
肖像画が「作者の技術により主観的に特徴を捉えて描く似顔絵」の一種であることは常識である。肖像画の作成に当たって、作者の主観により対象の特徴を取捨選択してその特徴を捉えて描く一面と、対象を美化、理想化などデフォルメ・歪曲して描く一面とがあることは明らかである。
広辞苑でも、肖像画とは「ある人物の肖像(特定の人物の容貌・姿態などをうつしとった絵・写真)を描いた絵。」とされており、肖像画はまさに「作者の技術により主観的に特徴を捉えて描く似顔絵」(原判決24頁下から2行目)であって、肖像画と似顔絵とを区別することは本質的に不可能である(この点については原告準備書面(五)16,17頁において詳述したところである。)。
したがって、肖像画は機械的だが、似顔絵は機械的ではないとすることはできず、原判決の論理の破綻は明らかである。
(3) 他方「ありのままに記録する行為」の意味が「作者が似せて描く」という作者の主観に着目した意味であれば、本件似顔絵のように作者が特徴を捉えて描いた似顔絵はまさに「作者が似せて描」いたものであるから、肖像権の対象となるはずである。
(4) 結局、原判決のいう肖像権が保障される根拠とその結論との間には何らの論理的な説明もないのであり、根拠なく「写真撮影、ビデオ撮影等個人の容貌ないし姿態をありのまま記録する行為及びこれらの方法で記録された情報を公表する行為であると解すべきである。」としているが、論理飛躍、理由不備は明らかである。
(5) なお仮に原判決が、個人の容貌の特徴を捉えて正確に描いた場合には肖像権侵害となるが、特徴を捉えながらも一部を歪曲して描く場合には肖像権侵害とならないと判示したとすると、これも誤りである。
個人の特徴を捉えて当該個人の視覚的情報を公表しているにもかかわらず、なぜ一部を歪曲すれば肖像権侵害にならないのか、その理由は不明であるし、歪曲すれば個人の視覚的情報の歪曲となり、より悪質な肖像権侵害になると解するのが常識である。個人の容貌の特徴を捉えて描いている以上、その一部を歪曲する場合にはその悪性は大きいと考えるのが自然である。
前記のとおり、氏名権として、氏名を正確に呼称される権利や意図的に改変して呼称されない権利は存在するのであり(最高裁判所第三小法廷昭和63年2月16日判決判例時報1266号9頁)、肖像権として、自己の象徴である肖像を殊更に歪曲されない権利も当然認められるのであって、歪曲した場合には肖像権侵害とならないとの結論は明らかに誤りである。
3(1) また原判決は、「少なくとも本件のように似顔絵自体により特定の人物を指すと容易に判別できるときに当たらないとき」と認定している。
本件の控訴人の似顔絵は、控訴人自身や控訴人の肖像を知っている人間にとっては「似顔絵自体により特定の人物を指すと容易に判別できる」ものであり、原審裁判所が何をもって「似顔絵自体により特定の人物を指すと容易に判別できるときに当たらない」と判断したのか、全く不明である。
また実際に、従来控訴人本人を知らなかった本件漫画の読者が、本件漫画を読んだ後に控訴人本人と会った際、多数の人間の中から一目で控訴人本人を見分けることができたという事例がいくつもある。本件の似顔絵が、控訴人本人を特定できるほどの写実性を持った似顔絵であることはこのことからも明らかであって、控訴人本人と会ったことのある者にとっては、本件似顔絵は「似顔絵自体により特定の人物を指すと容易に判別できる」ものである。
原判決も判示するとおり、被控訴人小林は、控訴人の写真を参照しながら(原判決14頁参照)、控訴人の容貌の特徴を捉えて描いている(原判決25頁)。
何のために、被控訴人小林は、控訴人の写真を参照しながら似顔絵を描いたのか。それはまさに、控訴人の容貌の特徴を捉えることで、この似顔絵自体により「特定の人物を指すと容易に判別できる」ようにするためである。そうでなければ写真を参照する必要もないし、容貌の特徴を捉える必要もない。
プロの漫画家が、対象人物の写真まで参照しながら、その人物の特徴を捉えて描いた場合には、よほどの事情がない限り「似顔絵自体により特定の人物を指すと容易に判別できる」似顔絵になるはずである。
にもかかわらず原判決は、全く正反対の結論を何らの根拠も示すことなく判示しているのであり、明白に誤りである。
目鼻口、髪型、眼鏡、髭その他の特徴を捉えずに一般的な人物像で描いたり、目鼻口などを省略して抽象的に描くのであればともかく、対象の容貌の特徴を捉えるということは当該個人の視覚的象徴を作出する行為であり、そのような似顔絵は肖像権の保護の対象となると解すべきである。
(2) 原判決が、控訴人自身の真の容貌が一般大衆に広く知られていないと判断し、一般大衆が「似顔絵自体により特定の人物を指すと容易に判別できるときに当たらない」という趣旨を判示したものならば、さらに誤りである。
控訴人のようにその写真肖像が一般大衆に対してあまり知られていない人物の似顔絵は、いくら描いても「似顔絵自体により特定の人物を指すと容易に判別できるときに当たらない」ことになってしまい、肖像が一般大衆に知られていない人間の肖像は描き放題ということになってしまう。
そのような解釈は、肖像権の趣旨に反し、またその存在意義を無にするものであって採り得ない。
4(1) 写真という手段から肖像が保護され、肖像画という手段からも肖像が保護されることを原判決は認めている(原判決24頁)。
また法廷画のように自己の記憶のみを頼りとした描写手段からも肖像は保護される(大阪地方裁判所平成14年2月19日判決。甲37)。
そして被控訴人小林は、本件似顔絵を控訴人の写真を基にして控訴人の特徴を捉えて本件似顔絵を描いたことを自認している(原判決14頁参照)。
(2) 写真、肖像画、法廷画及び本件似顔絵は、いずれも個人の特徴を捉えて特定の人格を視覚的に表現するものであって、当該人格の視覚的象徴である点で同一である。
であるならば、全てに肖像権の保護が及ぶと考えるのが道理であって、本件似顔絵だけが肖像権の保護が及ばないという理由は全くない。
前記高裁判決(東京高裁平成5年11月24日判決判例時報1491号99頁)も、「写真あるいは映像等の読者・視聴者の視覚に訴える方法による情報伝達」であって、かつ「その内容が人の肖像に関する情報を含む場合」に肖像権の保護がある旨判示している。この定義からしても特徴を捉えた似顔絵の場合も、肖像権の保護があると解するのが当然である。
(3) 肖像画も似顔絵も、絵である以上、描写者の主観的、技術的作用が介在する。まして、肖像画と特徴を捉えた似顔絵とは、個人の容貌に関する視覚的情報を盛り込んだという点で全く同一であるし、前記のとおり本質的に両者を区別することは不可能である。
原判決は、前者は保護するが、後者は保護に値しないという結論のみを示しているが、そのような区別は著しく不当である。
5(1) 原判決は、「似顔絵は、写真及びビデオ録画のように被写体を機械的に記録するものや、肖像画のように対象の容貌ないし姿態を写実的に描くものと異なり、作者の主観的、技術的作用により表現されるという側面を有しており、容貌ないし姿態の情報をそのまま記録、公表するものと比べて権利侵害の程度は低いということができる。特に、漫画においては絵が作者の意見・思想を表現する重要な手段であり、せりふなどの活字部分と相まって一つの表現手段として社会的に広く認知され、尊重に値するということができるから、似顔絵に描かれた個人の人格的利益の侵害による不法行為の成否の判断においては、作者の表現の自由を過度に制約することがないよう考慮する必要がある。似顔絵を描かれることについても肖像権と同様の保護を受けるとすると、特定の人物の似顔絵を表現することは原則として違法となりかねず、ひいては漫画による表現の範囲を過度に狭めるおそれがある」(原判決25,26頁)と判示する。
(2) この点については、前述のように、第1に、肖像権の趣旨に鑑み、似顔絵と写真、肖像画等と区別する理由はないし、第2に、似顔絵と肖像画の区別は原理的に不可能である。
(3) そして、第3に、原判決は、描かれる者の人権を無視している。
この点、パロディ事件最高裁判決(最高裁判所昭和55年3月28日判決)を想起すべきである。
パロディ事件最高裁判決は、著作物の改変は著作者人格権を侵害することから、他者の著作者人格権を侵害する形式のパロディは認めないと判示した。
全く同様に、本件においても、他者の肖像権を侵害する形式の漫画は認められてはならない。漫画の表現の自由も、他者の人権を尊重したうえでなされなければならないことは当然である。
(4) 自己の分身ともいうべき自己の似顔絵が、醜く描かれたり、論争相手に自由自在に操られることによる苦痛を想像すべきである。肖像権という権利は自己の人格の視覚的象徴を保護する権利であり、肖像権侵害の最たるものは、このような他者による歪曲やコントロールにあるのである。
例えば、作者の近影等の紹介のために公開されている写真肖像を1枚だけそのままの形で無断使用する場合は、肖像権侵害の程度は比較的小さい。しかし、写真肖像に落書き、歪曲やコラージュ(例えば異性の身体や犬や猿の写真と合成される場合など)をして公開された場合には、より肖像権侵害の程度は大きい。これらの場合読者は当該人物を異性であるとか犬とか猿と誤解することはあり得ない。しかし、当該人物の精神的苦痛は絶大なものである。
このように肖像権は、自己の象徴の無断公開・改変という耐え難い苦痛から個人を保護するための権利であって、まず当該個人の精神的苦痛を考慮すべきである。読者の受け取り方や社会的評価の低下は副次的な判断要素にすぎない。
この点も氏名権や著作者人格権と同様である。著作物を無断でより良く改良し読者から好評を得て原著作者の社会的評価が上がったとしても、無断改変は著作者人格権を侵害する。肖像権の場合も同様に無断改変自体が人格侵害行為であって、読者がどのように受け取るかは副次的な問題にすぎないのである。
(5) 漫画という手法を用いて、悪意を込めて歪曲された場合や、玩具のように自在に操られ、あまつさえ泥棒の格好までさせられた場合にも、肖像権侵害の程度は大きい。歪曲された場合には醜悪なイメージが流布されることとなるし、自在に操られる場合には、例えば「控訴人が鼻歌交じりで何も考えずに文章を書いているイメージ」を流布されることとなる。これらによる控訴人の精神的苦痛は絶大なものである。
このような絶大な被害を無視して、漫画の表現の自由のみを強調することは著しく不当である。
確かに、漫画表現は、社会的に広く認知され、尊重に値する。したがって、他者の人権を侵害しない範囲では自由に広く描かれてよい。しかし、漫画といえども他者の名誉権や肖像権を侵害してはならないことは当然である。
(6) この点被控訴人小林らは、漫画の中で特定の人物について触れるときは似顔絵を描かざるを得ないと主張する(原判決14頁)。
しかし、漫画表現上、その「人物の特徴を捉えた似顔絵」を描かなくとも、人物の特徴を捉えていない似顔絵を描くことで、その目的は表現できる。後述するとおり、本件漫画において、控訴人の特徴を捉えた似顔絵を描かなければならないコマは一コマもない。
また現に被控訴人小林は、本件漫画の後に、控訴人の特徴を捉えていない抽象化した控訴人の似顔絵を描いている(甲8号証60頁、67頁)。はじめからこのように控訴人の特徴を捉えることなく描くことは可能かつ容易であるにもかかわらず、被控訴人小林は本件漫画で殊更に控訴人の特徴を捉えて描いているのであり、これは控訴人の肖像権を侵害するものである。
特徴を捉えない抽象的、一般的な似顔絵に揶揄中傷にあたらない常識的な動作をつけて描くことで、漫画の表現の自由と描かれる者の人権とは両立するのであり、人権相互の衝突は、この点において調整されるべきである。
6(1) 原判決は、写真ではなく手で描けば被控訴人小林の技術によって得られたもので他のキャラクターと同じであって肖像権の侵害とならないと判示する(25頁)。この点については原告準備書面(五)17頁以下参照で反論したとおりであるが、さらに付加して述べる。
(2) 例えば、漫画のキャラクター(例えばドラえもん)を第三者が勝手に漫画に描いてこれを自由に操った場合、これが同一性保持権を侵害することは争いない。著作権法は、同一性保持権(20条)を定めており、著作物の歪曲、改変を禁じている。著作物は著作者の人格の発現であるからこのような保護を受けられるのである。
よって、第三者が「ドラえもんの写真を撮って貼り付けたのではない。自分の手でドラえもんを描いたのだから自分の絵(創作物)である。」と主張しても通用しない。
では、実在の人物を第三者が勝手に漫画に描いてこれを自由に操った場合に、第三者が「写真を撮ったのではない。自分の手で実在の人物を描いたのだから自分の絵(創作物)である。」と主張したら通用するのであろうか。
原判決はこれを認める。
しかし、漫画のキャラクターは駄目だが、実在の人物であれば勝手に漫画に描いてこれを自由に操ってよいとなれば、実在の人間の肖像に関する権利より、キャラクターに関する著作者人格権の方が保護が厚いことになってしまい、およそ常識に反する。
(4) 漫画のキャラクターは、漫画家が時間と能力をかけて創作したものであり、その創造性は貴重である。だからこそ同一性の保持が保護されるのである。
他方実在の人物は何十年もかけて、文字どおり人生をかけて人格を形成している。その職業、社会的地位、名声などは数十年間の時間と努力の末に得たものである。そうした唯一無二の存在である当該人物を視覚的に象徴する肖像であるからこそ、肖像が保護されるのである。
であれば、漫画のキャラクターの同一性保持権が、絵による侵害から保護されるのに、実在の人物の肖像が、絵による侵害から保護されないと解すべき理由は全くない。
また、第三者が、漫画のキャラクターを模写して第三者の漫画において自由に動かすことは許されないが、実在の人物であれば模写して第三者の漫画において自由に動かすことができると解すべき理由は全くない。
(5) 控訴人は、数十年かけて真面目な研究者としての地位を築き上げ、心血を注いで著作を著してきたのであり、後述するように、その著作を鼻歌交じりでお気楽に文章を書いているように描かれたり、だだっ子のように描かれたり、泥棒として描かれなければならない理由はない。
「自らが創作したことで自己の人格が多少反映されている創造物を変形されない権利」と「自らの人格そのものである視覚的な象徴を変形されない権利」とでは、より人格そのものに近い後者の方をより保護すべきであることは当然である。「ドラえもんが泥棒した絵」を描かれるのと「ドラえもんの作者自身が泥棒した絵」を描かれるのでは、後者の方がより直接的に人格を攻撃していることは明らかであろう。
(6) また氏名権について、前記のとおり最高裁判所は正確に呼称される人格的利益を認め、害意をもった意図的な改変を禁じている(最高裁判所第三小法廷昭和63年2月16日判決。判例時報1266号9頁)。氏名は人格を象徴するものであって、その取り扱いに際しては個人の尊厳を侵さぬように丁重に扱う必要があるからであり、それ故に害意をもって故意にこれを歪曲するなどの揶揄は禁じられているのである。したがって、揶揄するために他者の呼称を殊更不正確に呼ぶことは許されない。
全く同様に、控訴人の肖像を用いて、故意に、実際に行っていない動作をつけて描くことは、故意に肖像を歪曲、改変する行為であって許されない。
(8) 実在の人物を批評する際に、当該人物の特徴を捉えた似顔絵を描く必要はない。特定のためなら文字と抽象的一般的な人物像で特定すれば足りる。
また比喩のためであっても、このように控訴人の肖像権を侵害する形式での描き方は認められない。比喩は他者の人権を侵害しない形式で行うべきである。
写真であれ似顔絵であれ、他者の肖像を扱う際には、他者の人格的な尊厳を侵害しないように丁重に扱うべきである。肖像を歪曲したり、他者の肖像を操り人形のように自由に操ることは、個人の尊厳を侵害するものであって、原則として許されてはならない。
もちろん、特徴を捉えた似顔絵を掲載しても実際に行った行為を描く場合は、自由に操ることにはならず個人の尊厳を侵すことにならないから、写真掲載が認められるのと同様の要件の下に許容される。また描かれる対象が政治家や高級官僚のように民主主義の根幹を支える高度に公的な人物である場合には、特徴を捉えた似顔絵を掲載し実際に行っていない行為を描いたとしても、健全な民主政治を支える批判活動の一環として、一定限度許容される場合があろう。この点で、民主的価値を有する表現の自由と肖像権、人格権の衝突は調整されるのである。
しかし、その他の一般人については、当該人格の象徴である肖像を他者が自由に操ることは許されない。
(9) 肖像権侵害の判断枠組については、原告準備書面(四)で述べたとおり、前記高裁判決(東京高裁平成5年11月24日判決判例時報1491号99頁)の枠組を踏襲すべきであり、本件において、公益性、公共目的、相当性は認められないことも既述のとおりである。
7 原判決は、一定の場合に人格権侵害となることを認めた上で、人格権侵害の判断基準として、「全体の文脈を踏まえて、表現の目的、表現の方法、表現の内容、当該似顔絵から一般読者が受ける印象、当該個人の社会的地位、作者と当該個人との関係等の諸事情を総合考慮して判断すべき」と判示する(原判決26頁)。
しかし、肖像権(ないし肖像に関する人格権)の保護法益は、プライバシーのような秘匿された個人情報でも名誉のような社会的評価でもない。肖像が人格そのものを体現していることから、人格の象徴である肖像自体を保護するものである。この点で氏名権や著作者人格権と非常に類似した人権である。
社会的評価の問題ではないから読者にどのような印象を与えるかどうかは直接的には問題とはならない。
よって、人格権侵害の成否について、「当該似顔絵から一般読者が受ける印象」を判断要素に加えている原判決は妥当でない。「読者の印象」は人格権侵害の成否の問題ではなく違法性の大きさの問題である。読者が悪印象を持つような描き方ならば違法性はより大きくなるが、読者が好印象を持つ公表方法や描き方であっても違法性が少なくなるわけではない。
また「当該個人の社会的地位」が、国会議員、大臣など民主政治の根幹を支える地位という意味であればともかく、控訴人のような全くの一私人の社会的地位を云々している点で著しく妥当でない。
さらに、「作者と当該個人との関係」が人格権侵害とどう結びつくのか全く不可解である。原判決の論理では、論争相手であれば相手の人格権を侵害してよいということとなり、著しく不当である。
8(1) 原判決は、人格権侵害の当てはめにおいて次の点を指摘している(原判決28頁)。
�機)楫鑢_茲蝋義平佑慮�解を批判する目的を有する。
�供々義平佑了�顔絵に動作をつけた部分も、比喩的表現と容易に理解できる表現である。
�掘々義平佑蓮∪鏝綵萢�問題等で意見表明し、被控訴人小林の意見を厳しく批判しており、被控訴人小林から再批判を受けることは想定されていた。
�検々義平佑癲�控訴人著作において被控訴人小林の顔写真や似顔絵を無断で掲載している。
(2) そしてこれらに続けて「これらの諸事情を総合考慮すると、本件漫画における原告の似顔絵の掲載は、原告著作に対抗して被告小林の意見及び反論を表現する手段としての意味合いを持っており、いずれも社会通念に照らし相当性を逸脱しているとは認められ」ないと判示している(原判決29頁)。
しかし、上記�気覆い鍬犬了�実を前提としても、被控訴人小林が控訴人の特徴を捉えた似顔絵を描いてよいということにはならない。ここにも大きな論理の飛躍がある。被控訴人小林が控訴人著作に反論するのはまさに自由である。しかし、控訴人の特徴を捉えた似顔絵を描くことは肖像権(ないし人格権)を侵害するから許されないのである。何故に、上記�気覆い鍬犬了�実から、被控訴人小林が単に反論の漫画を描くだけでなく、控訴人の特徴を捉えた似顔絵を描くことまでが肯定されるのか、何の根拠も示されていない。
(3) �気砲弔い独刃世垢襪函�控訴人の見解を批判する目的があろうとなかろうと肖像権、人格権を侵害してよい理由とはならない。むしろ一般には批判目的だからこそ肖像権、人格権侵害の危険が大きいはずである。
(4) �兇砲弔い討蓮�比喩的表現であっても肖像権、人格権を侵害してよい理由とはならない。著作者人格権に関して前記パロディ事件最高裁判決は、比喩のためでも著作者人格権を侵害してはならないとしたが、全く同様である。
(5) �靴砲弔い討蓮△海譴鮴�認するならば、漫画家を批判する者は肖像権・人格権侵害を甘受しなければならないこととなろう。その結果、漫画家を批判する表現の自由が十分には認められないこととなり、表現の自由が萎縮することとなろう。そのような解釈を採り得ないことは明らかである。再批判を受けることを想定することと肖像権、人格権侵害の存否とは別の次元の問題である。論理による批判に対しては論理によって再批判すべきであり、被控訴人小林は、控訴人の特徴を捉えた肖像を描いたり、「ドロボー」と連呼するような卑劣な人格攻撃をせずに、正々堂々と、一般的、抽象的な人物像を描くなどして、正面から論理を展開した漫画を描くことで反論すべきである。
(6) �犬砲弔い討蓮�被控訴人小林が自らを美化して描いているとの点を読者に明らかにするために、被控訴人小林自身が公開している写真と被控訴人小林自身が描いた自画像を並べて掲載したにすぎない(甲1号証31頁)。さらに念のため、写真の目の部分には目隠しを入れている。
控訴人は、被控訴人小林が事実を歪曲して描いているという論旨の中でその一例証としてこれらを掲載しているのであって、掲載の強度の必要性がある。これに対して、本件漫画は何ら控訴人の容貌と無関係であり、控訴人の容貌を掲載する必然性がない。
また、控訴人が、被控訴人小林の似顔絵を用いて、あたかも自己のキャラクターのように自在に操っていたというのであればともかく、単に肖像を載せたにすぎない。控訴人の肖像・容貌を玩具のように扱っている本件漫画の悪質性とは比較にならない。
本件は、控訴人がこれらの肖像を掲載したことに対抗して被控訴人小林が控訴人の写真を1枚だけ無断転載したという事案ではない。被控訴人小林は、控訴人の顔の特徴を捉えつつ醜く歪曲した似顔絵を多数掲載し、不名誉かつ控訴人の望まない動作をつけ、さらには泥棒の格好までさせているのである。被控訴人小林は自己の顔を控訴人著作に掲載されたことを動機として本件漫画を描いているのではない。
以上の点から、�犬了�実は、本件漫画の肖像権侵害、人格権侵害の存否を検討するに際しては全く無関係な事実である。
9(1) 本件漫画において、控訴人の特徴を捉えた似顔絵を描く必要性は全くない。
被控訴人らは、控訴人であることを特定するために似顔絵を描く必要があると主張するが、描かれた人物像が控訴人であることは文字によって特定されており、殊更に控訴人の特徴を捉えた似顔絵を描いて控訴人の視覚的情報を公開する理由は全くない。
実際にも被控訴人小林は、控訴人の特徴を捉えずに控訴人を特定する似顔絵を描いており(甲8号証60頁3コマ目など)、被控訴人小林の主張が成り立たないことは明らかである。
したがって、原判決第1目録番号1、4、5,6,10、11,12,13,16,19、20はいずれも必要性・公益性・相当性なく、控訴人の特徴を捉えた似顔絵を描いており、控訴人の肖像権を侵害している。
(2) 番号6,11,12,13,16,19,20は、控訴人の特徴を捉えた似顔絵を描き、さらに、実際には行っていない動作をつけて描いている。
番号14,17は他のコマと相まって控訴人の視覚的象徴を作出しており、やはり実際には行っていない動作をつけて描いている。
そして、これらの一連の似顔絵は、いずれも控訴人を揶揄、中傷するために、控訴人の特徴を捉えたり、実際に行っていない動作をつけて描かれているのであって、番号6,11,12,13,14,16,17,19,20はいずれも肖像権(ないし人格権)を侵害する。
10 個別のコマの肖像権(人格権侵害)侵害について
(1)番号1について
「上杉聰」と記載されており、控訴人の特徴を捉えた似顔絵を載せなくとも描かれた人物が控訴人であることは明らかであるから、控訴人の特徴を捉えた似顔絵を載せる必要性はない。
従って、肖像権を侵害する。
(2)番号4について
前のコマで「上杉聰」と記載されており、文脈上、控訴人の特徴を捉えた似顔絵を載せなくとも描かれた人物が控訴人であることは明らかであるから、控訴人の特徴を捉えた似顔絵を載せる必要性はない。
従って、肖像権を侵害する。
(3)番号5について
「上杉」と記載されており、控訴人の特徴を捉えた似顔絵を載せなくとも描かれた人物が控訴人であることは明らかであるから、控訴人の特徴を捉えた似顔絵を載せる必要性はない。
従って、肖像権を侵害する。
(4)番号6について
控訴人の特徴を捉えた似顔絵を載せて、控訴人が、焦りながら(人物像の周囲にたくさんの汗が描かれており、また顔の上半分以上に多数の縦線が引かれているが、これらは当該人物が焦っていることを示している。)、何枚も下手な似顔絵を描いているカットを描いている。
「上杉は」と記載されており、控訴人の特徴を捉えた似顔絵を載せなくとも描かれた人物が控訴人であることは明らかであるから、控訴人の特徴を捉えた似顔絵を載せる必要性はない。
従って、肖像権を侵害する。
しかも、被控訴人小林は控訴人が実際に行っていない行為を描いている。被控訴人小林は、前記の焦った様子に加えて、暗いトーンで背景を塗りさらにうねった曲線を何本も控訴人を示す人物像の周囲に描くことで、控訴人が悪戦苦闘している場面を強調して描いている。
被控訴人小林は、こうした特殊な描き方をすることで、「控訴人にはどうせ絵は描けないだろう」と揶揄しているのである。
比喩であるとしても、このような形で、控訴人の特徴を捉えた似顔絵をつけた控訴人の人物像を描くことは、控訴人に対する侮蔑的なニュアンスを有するものであって、違法性の程度を高めるものである。
(5)番号10について
「上杉」と記載されており、控訴人の特徴を捉えた似顔絵を載せなくとも描かれた人物が控訴人であることは明らかであるから、控訴人の特徴を捉えた似顔絵を載せる必要性はない。
従って、肖像権を侵害する。
(6)番号11について
�)椶鯏蠅下里討觜義平佑粒─↓�闇の中に立つ控訴人の影とつかまれた吉田氏の影のみを描いた絵、��スポットライトを浴びて吉田氏を片手で持ち上げる控訴人の絵が描かれている。
「上杉聰」と記載されており、控訴人の特徴を捉えた似顔絵を載せなくとも描かれた人物が控訴人であることは明らかであるから、控訴人の特徴を捉えた似顔絵を載せる必要性はない。
従って、肖像権を侵害する。
しかも、被控訴人小林は控訴人が実際に行っていない行為を描いている。
特にスポットライトを浴びた控訴人の絵は、2頭身程度のでっぷりした体格の控訴人が、弱々しく両手両足を揃えた吉田氏の首をつかんで片手で高々と持ち上げた絵である。被控訴人小林が通常の体型で描かれているのに控訴人をこのように2頭身で描くことは、控訴人を揶揄するものである。
この上記�◆↓�が連続して描かれているのは、控訴人が黒幕として吉田氏というか弱い老人を操ってきたということの暗喩である。
しかし、実際には全くそのような事実はなく、被控訴人小林は虚偽のイメージを流布している。
被控訴人小林は「上杉は吉田証言は発表以来10年近く何の意味も持たなかったかのように堂々と書いているが・・」と�,砲�いて描いている。
しかし、控訴人は、控訴人著作においてそのような表現を一切しておらず、全くの虚偽である。控訴人は、被害者の生の声を聞くことが可能になった1991年以降急速に研究が深化して吉田証言は現在となっては証拠としての価値は低いと述べているのであって(甲1号証33ないし36頁など参照)、「発表以来10年近く何の意味も持たなかったかのように堂々と書いている」との点は全くの虚偽である。
「発表以来10年近く何の意味も持たなかったかのように堂々と書いている」という虚偽の事実を前提とすると、その裏で「10年間吉田証言を事実として持ち上げたこと」が控訴人のペテン性を裏付ける証拠となるが、実際には、「当初吉田証言を採用していたがその後直接の被害者たちが名乗り出たため彼女らの証言を採用することにした」というだけであって、何らおかしなことではない。これらの状況については甲1号証33ないし36頁や135頁以下に詳述されている(特に138ないし140頁参照)。
したがって、被控訴人小林は、上記のとおり虚偽の事実を摘示し、さらに控訴人の特徴を捉えた控訴人の似顔絵を使用して、控訴人が黒幕であるかのような虚偽のイメージを流布しているのであって、違法性の程度は大きい。
なお、70頁4,5コマ目でも、「『表現上の一切の責任』は事務局にある」と記載した一部のみを使用して、吉田証言自体について「一切の責任を持つ」と控訴人が言ったかのように描いている。そして6コマ目で「さあ、責任者・上杉は吉田清治のウソを流布した責任をどうとったのか?」とあたかも控訴人が吉田証言の内容について一切の責任を取ると明言したかのように問題をすり替えている。言うまでもなく「表現上の一切の責任」とは、誤植、テープの反訳の誤りなどのことであり、内容についての責任ではない。被控訴人小林はこのようにすり替えや誤導を行って控訴人を揶揄、誹謗している。
(7)番号12について
被控訴人小林は、控訴人を3人登場させ、いずれも両手を上げて言い張っている様子を描くことで、何度も何度も言い張っている様子を描いている。そのうち控訴人の特徴を捉えた似顔絵には顔の上半分に縦の線を何本も描き入れているが、これによって焦りながら経緯を隠蔽していることが表現されている。
前のコマで「上杉」と記載されており、控訴人の特徴を捉えた似顔絵を載せなくとも描かれた人物が控訴人であることは明らかであるから、控訴人の特徴を捉えた似顔絵を載せる必要性はない。
従って、肖像権を侵害する。
控訴人は、控訴人著作において、研究者たちは当初は吉田氏の回想録などを研究対象としていたが、被害者たちの証言が得られるようになってからは被害者の証言が研究の対象となっているという趣旨を述べており(甲1号証33ないし36頁、138ないし140頁参照)、経緯を隠蔽している事実はない。
にもかかわらず、事実を隠蔽し、虚偽の事実を言い張っているかのようなイメージを流布している点で、違法性の程度は大きい。
(8)番号13について
控訴人が吉田氏をゴミを投げ捨てるかのように「ポイ」(当該コマに手書き文字で書かれている。)と投げ捨てている絵である。吉田氏は不自然な態勢で投げ飛ばされたように描かれており、被控訴人小林は、吉田氏の哀れさと、か弱い老人を無慈悲に投げ捨てる控訴人の冷酷さを強調して描いている。
「上杉聰」と記載されており、控訴人の特徴を捉えた似顔絵を載せなくとも描かれた人物が控訴人であることは明らかであるから、控訴人の特徴を捉えた似顔絵を載せる必要性はない。
従って、肖像権を侵害する。
前記のとおり、吉田証言は実際の被害者が多数名乗り出るまでは重要な証言であったが、彼女らが名乗り出た後は、吉田氏の証言より信憑性の高い彼女らの証言の方を研究対象とすることは当然である。
吉田氏の著作の絵を描いてこれを捨てるように描くのではなく、吉田氏という人間そのものを「ポイ捨て」したかのように描くことは、控訴人が冷酷な人間であるということを暗喩している。ある証言を採用しないことと冷酷さとは本来無関係であるが、この絵では控訴人の冷酷さが強調されており、比喩としても不当であって、違法性の程度は大きい。
(9)番号14について
朝日新聞のマークを付けた人物像が吉田氏を蹴り飛ばすのを見て、控訴人がクラッカーを鳴らして喝采して喜んでいる絵である。
「この人」とあり、それまでのコマにおいて「上杉聰」とあることから、クラッカーを鳴らしている人物像が控訴人であることは明らかである。
このコマ自体には控訴人の特徴を捉えた似顔絵を描かれていないが、他のコマと相まって控訴人の実際には行っていない動作を描くものである。
全てのコマをこのように描くのであれば別論、一部のコマだけをこのように描いたとしても読者は他のコマで描かれた控訴人の特徴を捉えた似顔絵を補って読むことから控訴人の人格の視覚的な象徴である点に変わりはない。
したがって、肖像権を侵害する。
前記のとおり、か弱い老人が蹴り飛ばされているのを見て喝采して喜ぶ控訴人の絵を描くことは控訴人が冷酷な人物であることを暗喩しており、違法性の程度は大きい。
(9)番号16について
控訴人が、涙を流して泣きながら「ね!ね!慰安婦って性奴隷でしょ?」と述べている場面を描いている。
「こうまでぐだぐだ言って」という文字の効果、控訴人が泣きながら述べていること、控訴人がやはり2頭身程度と幼児体型で描かれていること及びその口調が幼児の口調であることから、控訴人の言説が幼稚であって、幼児の戯れ言であるかのように描かれている。
文脈から、控訴人の特徴を捉えた似顔絵を載せなくとも描かれた人物が控訴人であることは明らかであるから、控訴人の特徴を捉えた似顔絵を載せる必要性はない。
従って、肖像権を侵害する。
この絵は、控訴人の主張が幼稚であり戯言であることの暗喩であるが、暗喩であっても、相手方の肖像を用いて、泣いているように描いたり幼児のように描くことは、相手方を侮辱するものであって許されない。
控訴人は、歴史の研究者であり慰安婦論争をめぐる冷静な議論を展開する学者である。学者にとって、このようにだだっ子の口調で泣きながら自説を展開する絵を描かれることは耐え難い屈辱である。このような侮辱まで甘受しなければならない理由はない。また、幼児のように描かれることは大学講師でもある控訴人の社会的評価を傷つけるものである。
この絵は、控訴人の社会的評価をも大きく傷つけるものであって、違法性の程度は大きい。
なおこの点被控訴人小林は、「涙ぐましい努力」をして従軍慰安婦を論じている状態を描いたと主張する。しかし、この絵は、単にだだっ子のような口調で泣いて言い訳をしている絵であり、「涙ぐましい努力」を描いたものではない。
(10)番号17について
控訴人が鼻歌を歌いながらお気軽に何も考えずに文章を書いている場面を描いた絵である。
「このぐだぐだ男」とあり、人物像が控訴人であることは明らかである。斜め後ろから描かれた似顔絵であり、他のコマと相まって控訴人の実際には行っていない動作を描くものである。
読者は他のコマで描かれた控訴人の特徴を捉えた似顔絵を補って読むことから控訴人の人格の視覚的な象徴である点に変わりはない。
したがって、肖像権を侵害する。
控訴人は、膨大な時間を費やして、推敲に推敲を重ねて控訴人著作を著しているにもかかわらず、前記のとおりあたかも何も考えないで書いているかのように描かれている。読者がこの絵を見れば控訴人がこのように何も考えずに書いていると思いこんでしまうものであり、この絵は比喩として書かれたものではない。
この絵は、控訴人の社会的評価をも低下させるものであって、違法性の程度は大きい。
(11)番号19について
控訴人が、ビルの物陰から飛び出してきて、通行者に手招きして何かを勧誘している絵である。控訴人がキャッチセールスや風俗営業の呼び込みのようにビルの物陰から飛び出してきて勧誘をしているような絵を描くことで、控訴人の言説がいかがわしく信憑性のないものであることを暗喩している。
文脈から、控訴人の特徴を捉えた似顔絵を載せなくとも描かれた人物が控訴人であることは明らかであるから、控訴人の特徴を捉えた似顔絵を載せる必要性はない。
従って、肖像権を侵害する。
この点被控訴人小林は、� 崟照�幹二が50万円以下の講演会はやらない」�◆屮丱奪�に宗教団体がついている」という控訴人の発言の根拠を「サヨク・スキャンダル雑誌のインチキ記事」であると断定して、本来公に推奨したり依拠していることを公言できない記事の記載内容をそのまま主張している旨批判していることを理解すると主張する。
しかし�,砲弔い討蓮�甲1号証107頁にあるとおり、講演料名目で数十万円単位の運動の援助がなされているという事実を述べる文脈で述べているのである。西尾氏ら著名な保守系の評論家が一般に何十万円の講演料を受領していることは事実であり、そのことは被控訴人小林自身も当然の前提としている(甲47)。「サヨク・スキャンダル雑誌のインチキ記事をたれながしている」との事実摘示は全く虚偽である。
�△砲弔い討蓮�甲1号証109頁で述べたとおり、また別紙で詳述するように、歴史教科書改訂運動を行う集団を政治家や宗教団体が支えているというのは事実である。「日本を守る国民会議」(甲1号証106頁参照)の後継団体である「日本会議」の大阪支部の顧問、代表委員、運営委員、事務局などは、多数の宗教団体関係者によって占められており、藤岡氏もここで講演している。
また藤岡氏がテレビ出演の翌日に新興宗教団体の集会で講演している点(甲1号証111頁)は実際の参加者から聴取した事実であって、「サヨク・スキャンダル雑誌のインチキ記事をたれながしている」との被控訴人小林の事実摘示は全く虚偽である。
控訴人の論説が真実であるにもかかわらず、控訴人の言説がいかがわしく信憑性のないものであることを暗喩しているのであり、その違法性の程度は大きい。
(12)番号20について
泥棒の格好をした控訴人が、控訴人に手を差しのばしている吉田氏を蹴り飛ばして、吉見氏を押し出している絵である。泥棒の格好は控訴人が複製権侵害行為を行ったことを暗喩し、蹴り飛ばしている行為は、控訴人の冷酷さを暗喩している。
控訴人は全く複製権侵害行為を行っていないにもかかわらず、虚偽の事実を摘示している。
また前記13,14のとおり、助けを求めているか弱い老人を無情、冷酷に蹴り飛ばしているかのように描くことで、控訴人の冷酷さを暗喩している。
「上杉聰」と記載されており、控訴人の特徴を捉えた似顔絵を載せなくとも描かれた人物が控訴人であることは明らかであるから、控訴人の特徴を捉えた似顔絵を載せる必要性はない。
従って、肖像権を侵害する。
しかも、被控訴人小林は控訴人が実際に行っていない行為を描いている。
控訴人が複製権侵害行為を行ったことの比喩であるとしても、控訴人が複製権侵害行為を行っていないことは裁判上も確定しており、虚偽の事実の摘示である。
ドロボー、複製権違反行為を行った者として虚偽の事実を摘示することは、それ自体名誉毀損となるものである。
また、前記のとおり、吉田氏の著作の絵を描いてこれを捨てるように描くのではなく、吉田氏という人間そのものを蹴り飛ばしたかのように描くことで控訴人の冷酷さが強調されており、比喩としても不当である。
よって、違法性の程度は大きい。
第7 被控訴人小林の漫画による言論のルールの無視、人格攻撃について
1 漫画であろうと、文章であろうと、論争に際して相手の人格を攻撃したり相手の人権を侵害してはならない。このことは、言論のルールとして守られなければならない。
論争中であっても、論争相手のプライバシーを暴きたてたり、相手の名誉を毀損したり、相手の肖像権を侵害してはならないことは当然である。
したがって、論争相手であるが故にプライバシー権侵害、名誉毀損、肖像権侵害が成立しないという判断は不当である。むしろ論争相手からこれらの権利が守られなければ言論のルールは崩壊し、言論の自由も有名無実のものとなろう。
民主主義を支える言論の自由を保護するためには、言論のルールとして、これらの権利は絶対に守られるべきである。さもなければ言論行為が萎縮していくことは火を見るより明らかである。
2 本件漫画は、一方的かつ確信犯的に言論のルールを踏みにじり、明らかに控訴人の名誉を毀損し、その肖像権を侵害しているものであって、その違法性は明らかである。
近時、被控訴人小林の漫画に対する論評が、保守派に属する西尾幹二氏や石井英夫氏によって、出されている。
控訴人と両名とはその政治的立場を全く異にし交流はないが、被控訴人小林が言論のルールを破って人格攻撃しているという両名の論評は、控訴人の論評と共通するものであって、被控訴人小林に描かれた者誰しもが感じる事実である。
西尾氏は、甲43,46などで文字どおり「猿」や「犬」として描かれており、これにより激しく侮辱され人格攻撃をされている。
このように、被控訴人小林による言論のルールを無視した名誉毀損と肖像権侵害は常軌を逸しており、多数の被害者が出ているのが現状である。しかも被控訴人小林は、本件訴訟の係属中にこれらを描いており、確信的にこのような表現を継続して行っているのであってその悪質性は甚だしい。
3 「彼に意見を言いたくてもへたなことを言ってマンガで醜く描かれ、復讐されるのが嫌で、むしろ遠慮し、逆に彼に気に入られようと意識している人さえ周辺にいます」、「面白がって読んでいる読者のまったく気がつかない気苦労が、彼の周辺にいる人々の肩にかかっているのです」(甲44)、「小林よしのりさんにはだれも反論したがらない。口ぎたないののしりや、えげつないイラストで人格攻撃されるのは耐えられないからだという。」(甲45)というのが現在の実態であり、既に被控訴人小林の激しい人格攻撃のために、言論の自由が侵されつつある状況にある。
論争相手の似顔絵を使用して、相手を窃盗犯、犬、猿のように描くことが許されてはならない。そのような行為は人格攻撃そのものである。
4 原判決の論理と結論によれば、論争中であれば、比喩であれば、また漫画であれば、相手をどのように描いても構わないことになろう。しかしそれは言論のルールを崩壊させるものであって到底採り得ない結論である。
第8 事案の概要(原判決4頁)について
なお付言すると、原判決以後別件訴訟の最高裁決定が出され、被控訴人小林の付帯上告受理申立てが失効した結果、控訴人が、被控訴人小林の複製権を全く侵害していないことが裁判上確定した(甲42)。
よって、原判決の前提となる事実(4)(原判決4頁)は「控訴人が、被控訴人小林の複製権を全く侵害していないことが裁判上確定している。」旨変更されなければならない。
以 上