『脱ゴ−マニズム宣言』裁判 「判決評釈」批判・第二弾

文責/「楽しむ会」 三上秋津


【はじめに】

◆ 前拙稿に続き、第二弾をお届けします。

今回はいわゆる「専門家」の、ちゃんとした(?)論文に対する批判です。(前回書いた「目にしている」という批判評釈が、実はこの論文です。)

過日(8月初旬だったかな)、たまたま寄った書店で見つけ、立ち読みしたところ一読驚愕。その場で倒れ込み「医務室」に運ばれました(嘘)。

『判例著作権法』(村林隆一先生古稀記念論文集刊行会・編/東京布井出版/ 2001/7/17発行)という、ぶ厚い本の中の一章でした。著者は、森林 稔氏(もりばやしみのる、志學館大学法学部教授)です。タイトルは、「漫画を論評した書籍における漫画のコマの無断引用と改変の適法性」というものです。

批判の都合(もしくは礼儀)上、「引用」は詳細に行います。かなり長目の箇所もある。

その際著作権法上の引用は、(今回は)[ ]で示します。

では、始めましょう。

 

◆ 評釈に入り、「はじめに」として氏はこう言います。

 

[批評

一 はじめに

1 本件の原告は、現在最も活躍している著名な社会派漫画家の一人であるが、また歴史教育問題の評論家でもある]。

 

驚くではありませんか。

小林よしのりが「歴史教育問題の評論家」ですって!?。まともな知識人で、こんなことを「本気」で言う人が果たしているでしょうか?。冒頭のこの認識だけで、この「判決批評」がどういう類のものであるか、大体の想像位は出来るというものですね。

もっとも、森林氏が、小林よしのり(や、その一派)と「同じ類の歴史認識の持ち主かどうか」などは私の興味の範囲外です。あくまで「判決批評」です、問題にしたいのは。

 

氏の批評は「一審判決」に関してのみです。そして、「本来全証拠資料を見なければ判例批評をすることは出来ない」との断りを入れています。同意します。なのに、そのすぐ後で、

[原告の各請求をことごとくすべて棄却した本判決には、形式的には一応の法律理論が示されてはいるものの、実質的にはその理論の適用は最初からどこかに無理があり、結果として社会常識に反する結論に至ったのではないかとの疑問を感じざるを得ない]と言っています。

更に、[漫画の著作権の保護はこのように薄いものか、また著作権の保護とは一体何なのかという原点を考えさせられる判決である]とも言っている。

 

そういう見方もあるんですね。

自身の考えや信念と「判決」が異なる場合、その判決を批判することは自由だと思います。勿論、私だってそうすることでしょう。しかし、「理論適用に無理がある」「社会常識に反する」とまで言うのであれば、それなりの「論理」は示さなければならない筈です。何度読み返してみても、それが私には伝わってはきませんでした。

逆に、判決の意図を歪曲した、非常にご都合主義的な解釈が目立ち過ぎる印象なんですね。

やはり、批判するに足る「論文」だと考えます。

 

◆ 以下のような文章があります。これって、どうなんでしょう?。

 

[3 そもそも作家の作品にはその作家の精魂が込められているものである。本件の原告のような漫画作家でも例外ではない。そうでなければ、原告も現在のベストセラ−漫画作家としての地位を築いていないであろう。そこで、原告漫画の一カット、一コマにも漫画作家としての原告の優れた資質、才能と大変な努力によって獲得した力量が凝縮されている。他方、言論人が他人の言論を批判するのは自由であるが、そこには自ずから言論人としての節度を要し、法律的にも何らかの限界がある筈である。本判決の事実認定によると、被告書籍の表紙上部には、「これは、漫画家小林よしのりへの鎮魂の書である。」との記載があり、またその内容の冒頭が「はじめに―小林よしのりへのレクイエム」となっている(筆者注・三省堂発行の大辞林によると、「鎮魂」とは、「死者の魂をなぐさめ、しずめること。」であり、「レクイエム」とは、「カトリック教会で、死者のためのミサ。死者が天国へ迎えられるよう神に祈る。鎮魂曲。鎮魂ミサ曲。」の意味である。)ことを考えると、これは被告書籍の趣旨、性格を被告らが自ら表明したものであるから、被告書籍は現在生きている原告の言論への正当な批評の枠を越え、批判相手の言論を恐怖心に訴えてでも抹殺しようとする悪意に満ちた過激な言説の書とでも言うべきものである。ここでは原告は死者になぞらえられている。良識ある言論人はこのようなことはしないであろう。通常の作家であれば、生きている自分に対してこのように死者になぞらえた文言を表紙や序章部分に書かれた書籍が出ると恐怖を感じ、筆を折るか、少なくとも筆を曲げる可能性がある。被告書籍はこれを意図していると思われても仕方がない。そもそも、これが正当な批評の書と言えるのであろうか]。

 

・・・・・・・・・・・・・。

本気で書いているのでしょうか・・・?。

 

先ず最初に(ホント、どうでもいいことですが)、そもそも「作家の作品に精魂が込められている」ことと、「ベストセラ−作家としての地位」には何等の因果関係もありません。駆け出しの新人漫画作家の作品にだって「精魂」は込められています。当然ですね。

そして、精魂が込められていればベストセラ−になるわけじゃない(笑)。それにですね、原告は現在「ベストセラ−漫画作家」としての地位は築いてはいません。『バガボンド』はどれだけ売れてると思ってんだ。まぁ、いいですけど。

 

森林氏は「レトリック」という概念が理解出来ないのでしょうか?。どこの世界に「鎮魂の書」という表記を読んでこんな解釈をする人がいますか。「解釈」の自由って言ったって限度がある。これでは、一方的に原告に荷担すべく「悪意に満ちた過激な解釈」を行っていると非難されても仕方がない。[良識ある言論人はこのようなことはしない]でしょう。

 

森林氏は恐らく、『ゴ−宣』など読んだことはないでしょう。(かなり高齢の方でもありますし。)小林よしのりが果たしてどういう漫画を描いている「ベストセラ−作家」なのか、一度自身の目で確かめてみては如何か?。

 

# ここまではいわば余興です。どうでもいい。

 以下、本論に入っていきましょう。

 

 

◆ [二 複製権の侵害について]

森林氏は、「パロディ事件判決」の示す判断基準に従った故に生じた論理的矛盾の内包を問題にします。そこで氏は、先ずこの判例の検討から入っていくのです。

 

[この最高裁判決は、原審の著作者人格権侵害否定の判断における前提判断を覆して、更に進んで、同一性保持権を侵害する改変を構成する場合について判示したものである。以上に見た本事件の訴訟の経緯から見ると、この判決の@の判示は、本件モンタ−ジュ写真事件である特殊の具体的事案の著作者人格権侵害の判断のため、原審の前提判断を排斥する判断手法としてなされただけのものであって、その射程は広くなく、@の判例理論(特に付従性)の理論は本件モンタ−ジュ写真事件には妥当するとしても、これを一般化して、他の著作権事件の場合の適法引用の基準とすることは出来ないであろう]。

 

そして、パロディ事件での「明瞭区別性」「付従性(主従関係)」の二要件は必要条件に過ぎず、十分条件と最高裁が見たとはとても看取出来ないと述べています。ここは議論を要する箇所であること、私も異論ありません。回り道のようですが、ちょっと検討しておきましょう。

「著作権法学会」(1999/12/4)のシンポジウムにおける、飯村敏明氏(東京地裁裁判官)の講演が非常に参考になると思いますので、そちらに準拠させて頂きます。

 

先ず、パロディ最高裁判決が示した判断基準は「2件」です。明瞭区別と主従関係。そして問題なのは、この基準が旧法下のどの要件についての判断基準なのか? という点です。即ち、「正当の範囲内において節録引用すること」の基準なのか、「節録引用」の基準なのかということです。

「判決理由」からは、そのどちらとも判然としない旨、飯村氏は述べています。そしてその理由として飯村氏は次の三点を指摘します。

 

[まず、第1に、なぜ「明瞭区別性」、「主従関係」の二つの基準が選択されたのか、合理的な根拠が必ずしも示されていない点があります。最高裁判例解説を読んでみても、最高裁判決は、当時の通説に沿ったものであって、まず異論はないだろう、というような説明をしているだけで、なぜ二つの基準が抽出されたかの理由は書いておりません。少なくとも、当時の通説に沿ったということだけは間違いないと思います。

第2に、最高裁判決の事案は、「引用」が直ちには抗弁になり得ない著作者人格権侵害の事案であって、著作権侵害の事案ではないということでございます。第3に、最高裁判決は、上記の基準を具体的な事案にあてはめたところ、結果として適法引用を否定したという点であります。仮に肯定したケ−スにおいては、それ以外の要件が存在するのかどうかが分かりますが、否定したケ−スにおいては、それ以外の要件が存在するかは分かりません。

結局、二つの判断基準が、「適法引用」のための必要条件にすぎないのか、十分条件なのかという点は、必ずしも明らかでないままに、現在まで至っています]。(採録は『著作権研究』第26号より、以下も同。多少の基礎知識が無い方には何を言っているのか理解しづらいと思いますが、このシンポジウムはいわゆる「専門家・実務家」対象である故、この程度の説明で十分会場は理解します。)

 

なるほど・・・。「知的財産権部」の裁判官自身にも解らないのか。こりゃド素人である私が悩んでも無理はないな。

要するに、[必要条件にすぎないのか、十分条件なのかという点は、必ずしも明らかで(は)ない]のであります。森林主張のように、「必要条件に過ぎず、十分条件と最高裁が見たとはとても看取出来ない」とも言い切れるわけではないのです。もっとも、森林氏のその主張自体は十分納得出来るものでありまして、私自身パロディ事件判決に関しては、「もっと丁寧に判示すればいいのになぁ・・・」と、かねがね思ってはきました。(裁判の「判決」って不親切な表現が多過ぎますものね。)そんな中、そういった不満を、(ある程度)解消してくれたのが「フジタ事件判決」だったのではないでしょうか。

 

ここでの結論から先に言えば、森林氏の前提、「パロディ判決の示す判断基準に従った」という点がおかしいのではないかと考えます。そうではなく、本件は、「フジタ事件判決」に従って為されたと考えるべきなのです。その方が全然自然ではないですか。(前者は旧法下の事件なのですから。)飯村氏は講演の「まとめ」としてこう述べています。[そこで、現行著作権法32条の要件を再吟味して、より実質的な判断、あるいは基準化の作業をしていくべきであろうと思われる。具体的には、「目的」、「効果」、「採録方法」、「利用の態様」等、そういう要素からチェックをしていくことが必要である]。

 

『脱ゴ−宣』裁判の一審判決は、まさにこういった要素から正当にチェックされています。(当然「そういった要素」に関する論争も、全弁論の中で双方戦わせています。)

そして、その基準判示は「フジタ事件判決」が先鞭をつけたものです。「パロディ事件」ではないのです。「フジタ事件」の示す判断基準に従ったのです。

 

◆ (判示略)[この判断には、とても賛同することはできない。この判決によると、@報道、批評、研究等の目的 A「明瞭区別性」 B「付従性(主従関係)」の三要件さえ揃えば、他人の著作物の全部でもこれを適法に引用でき、そして、これは著作物一般に及び引用著作物の著者が必要と考える範囲で行うことができるというのである。すなわち、@の著作目的があれば、ABの要件が引用の十分条件であるとするものである]。

 

他人の著作物の「全部」でも、これを「引用」することに何の問題がありましょう。(但し、その量に比例して当然「付従性」のハ−ドルは高くなります。主観的にも客観的にも。つまり、「主」の文章に相当の自信がなければならないということです。ですがそれは、勿論「主観的な自信」ということで結構です。)森林氏は、[@の著作目的があれば、ABの要件が引用の十分条件であるとするものである]と、何か「簡単」なことのように(だからこそ批判的に)述べていますが、侵害訴訟における「付従性」の判断は相当に厳しいものだと思います。だからこそ、逆説的に言うなら、「付従性さえ正当に備えていれば他人の著作物の全部でも適法に引用出来る」ということなのです。何故旧法下にはあった「節録引用」の文言が新法においては採用されなかったのか、採用されなかった事それ自体が不当なのか否か、そこら辺りへの言及が氏に無い以上、私にとっての説得力は皆無です。

 

森林氏は、「常識的に考えても、57カットもの大量の漫画のコマを引用者の必要と考える意のままに無制限に引用されてよい筈がない」、と述べ、[本判決の論理の問題点とこの法条の定める引用の適法要件を検討]していきます。そこで言うに、先ず「明瞭区別性」は「引用が成立するの為の当然の要素」と森林氏は表現します。続けて、

[引用箇所が完全に著作物の中に融合一体化する程に引用著作物が創作されていれば、それ自体、独自の完全な著作物であって、被引用著作物とは関係がないことになる。従って、「明瞭区別性」は「引用」の語の意味の内に含まれているものといってよい]。

 

ちょっと私には解りづらいですね。

これって、「引用」に敷衍して語るのに相当でしょうか?。どちらかと言えば、「変形・翻案」について該当するようなことではないのかなぁ・・・。「利用した原著作物が、完全に著作物の中に融合一体化する程に創作されていれば、それ自体、独自の完全な著作物であって、原著作物とは関係がないことになる」。要するに、パクリ(侵害)にはならないということですね。ここでの判例上のキ−ワ−ドは、「本質的特徴」です。まぁ余談ですけど。

 

確かに「明瞭区別」は当然の話であって、わざわざ「要件」と言う程の事でもないですよね。

飯村判事は先述のシンポで、この辺りこう述べています。[まず「明瞭区別性」ですが、これについては、いやしくも、何らかの目的で、他人の著作物を引用しようとする場合に、自己の著作物と他人の著作物とを区分できないような場合には、話しにならないわけで、このように考えますと、「明瞭区分性」の基準は、確かに当然の要件でありましょう。しかし、他人の著作物(引用された著作物)が自己の著作物の中に完全に融合されて、明瞭な区分すらできない場合には、他人の著作物を変容した度合が大きすぎて、複製権侵害ないし翻案権侵害にすら当たらない場合もあり得るでしょう。したがって、「明瞭区分性」の要件は、さほど重要な基準とはいえないように思われます]。

 

今述べた「パクリじゃないよ」ってことですね。事例としては・・・、何でしょう?。例えば音楽なら、ジャズなんかは代表的かな。即興の中で頻繁に取り上げられる他者の楽曲は、完全に自己の演奏の中に融合されているとも言えるし。(言えるのか?、よう解らん。)

 

森林氏、更に続けて。

[次にBの「付従性(主従関係)」であるが、これもAの「明瞭区別性」とは逆の立場で、また少し違った意味合で、「適法な引用」が成立するための最低限度の要素となる。すなわち、この主従関係が逆転していれば、「適法な引用」の限界を越えてしまい、単なる複製改ざんとなるが、「付従性(主従関係)」が存在すると「引用」にはなるものの、それだけで直ちに「適法な引用」になるわけではない。つまり、「付従性(主従関係)」は「引用」が適法になるための十分要件ではない]。

 

何かを述べているようで、実は何も述べてはいません。「つまり」以降で、何等かの論拠を示すべきだと思います。しかし氏の論法は、「つまり」以降が「結論」なんです。理由の開陳が無いのです。

前半部で私は「それなりの論理は示さなければならない筈」と述べましたが、こういった箇所にもそれは顕著なわけです。

 

◆ [そこで、著作権法三二条一項の法文の規定から、「適法な引用の要件」を考えると、次のようになるであろう。

@ 引用することが認められる著作物は、すでに公表されたものであること。A 報道、批評、研究その他の目的で新しい著作物を創作するために、他人の著作物から引 用する必要があること。B その引用は、公正な慣行に合致するものであること。C その引用は、引用の目的上、正当な範囲内で行われるものであること]。

 

これって一体何でしょうか?。殆ど「そのまんま32条」(笑)ではないですか。大体、「公正な慣行」だとか「正当な範囲内」だとか、人によってどうとでも解釈してしまうことが可能だからこそ、パロディ判示を経て、後の「フジタ事件」判決は大方において評価されたわけでしょう?。

その「内実」が、明瞭区別や付従性だったのではないですか。[何時までも、旧法下のこの最高裁判決を墨守するものではなかろう。発想を変えるべきではないか]と言った直後で提示した「適法引用要件」が、上記のようなものでは、いくら何でもちょっとお話になりません。特にAの「〜引用する必要があること」。これこそまさに「主従関係」の中での判断における「主要なもの」であるわけです。

 

続く以下の文章、目を疑います。

[以下、これ(三上注/上記要件)を前提として、本判決の判断の適否を検討する。先ず、本件のような漫画のカットの大量な引用の「公正な慣行」があるかは疑問である。恐らくないと思われるが、この点は被告らに主張、立証責任があるのに、主張も立証もしていない。原告は要件の一つとして一応の主張をし、争っている。本件はこの点ですでに勝負がついている筈である]。

 

驚きます。明らかに虚偽です。

大体上杉側が[主張も立証もしていない]のならば、本判決が以下のように言及することは有り得ないでしょう。

[さらに、証拠(甲九四、九五、一〇三ないし一〇五、一〇七、一〇九ないし一一二、乙七ないし一一、一三)によると、漫画の内容を批評する場合に、絵を引用することなく批評している例があることが認められるが、他方、絵を引用している例も多数存することが認められるのであるから、漫画によって示された主張を批評する場合に、絵を引用することなく批評するのが一般的であるとか、そのような慣行が成立していると認めることもできない]。

 

勿論上記判示部分は、[漫画のカットの大量な引用の「公正な慣行」があるか](森林)についての判示ではありません。

しかし、上記「証拠」の中には、『教科書が教えない小林よしのり』も入っていますし、『ドナルドダックを読む』も入っています。そして原告主張の一つは、「一人の著者の作品をこれだけ大量に採録したものは被告書籍以外には無い」というものでした。

お解りですよね?。語らずとも、裁判所は理解しているのです。

 

原告が[要件の一つとして一応の主張をし、争って]いたのは事実です。しかし被告側も、ちゃんと「抗弁」(主張・立証)しているのもまた事実です。その「結果」として、上の判示があるわけですよ。

[本件はこの点ですでに勝負がついている筈である]なんて、一体どこをどうしたら言えるのでしょう。「本来全証拠資料を見なければ判例批評をすることは出来ない」などと断りを入れる前に、最低限「判決文」位はちゃんと理解してほしいと思います。

 

付言すれば、やはり「公正な慣行」などという曖昧な文言はちょっと問題が多過ぎますよね。「著作物」の種類によって判断基準が大幅に揺れる可能性を残しますから。確かに「文章」程、漫画は複製された上での利用(引用)は多くはありません。しかしそれは、法の言う「公正な慣行」とは無関係である筈です。何故なら、更にこれを極限まで進めれば、本件での小林主張のような、「漫画業界の慣行」などという著しく著作権者側に片寄った主張の存在までを肯定しなければならなくなるからです。

「保護」と「公正な利用」、この二つの理念を真摯に振り返る時、小林主張のようなものこそが批判されるべきなのではないでしょうか。ましてや、判決批判の為に、「公正な慣行」の内実を歪めるべきではありません。

 

◆ [次の問題はCの要件である。この「正当な範囲内」の要件は重要である。Aで引用の目的として、「報道、批評、研究その他の」と例示的に列挙されているから、報道、批評、研究に限られないが、被告書籍の内容が批評であるとしても、正当なものであることが要求されよう]。

 

一体「正当なもの」とは何でしょうか?。「批評であるとしても、正当なもの」・・・。

森林氏はここでも、「生きている原告を死者になぞらえた、脅迫的ともいえる性格の被告書籍は正当な批評とは言い難い」と言います。どうやら「本気」だったみたいです。

要するに、「紳士的な口調」の論文、論敵にも一定の「敬意を払った」文章、そういうもの以外は「正当な批評とは認めない」ということなのでしょう。冗談ではありません。適・違法判断の基準に「文体」など入れられたらたまったものではありません。第一そんな基準を適用したら、真っ先に小林漫画自体が「正当な批評」の枠を外れます。

また、氏は、[「正当な範囲内」であるから、引用するために必要な最小限度の範囲内に限られる]とも言います。自身挙げたCの「正当な」という文言は、「内容としての正当性」と「範囲としての正当性(最小限度性)」を兼ねているわけです。こうなってくるともう、解釈は各人の「自由」です。要するに今までの、32条の「恣意的解釈性」を疑問無く踏襲し、森林氏自身の「解釈」を開陳しているに過ぎません。

 

私は、こういった「32条解釈のぶつかり合い」、その不毛さの払拭にこそ「フジタ事件判決」の意義・価値はあるのだろうと思っています。

 

◆ [引用は本来著作者の許諾がなければ、著作権侵害となるところを、法律の定める要件に適合すれば、例外的に著作者の許諾なく、その意思に反しても、これを行うことができるものであるから、その要件は厳格に解釈しなければならない筋合いである。本判決は前記のとおり、批評の目的があり、「明瞭区別性」「付従性(主従関係)」を充たしていれば、他人の著作物の全部でも適法に引用でき、また一般に引用著作物の著者が必要と考える範囲で行うことができる、というが、これでは「正当な範囲内」の要件を無視したものといわざるをえない。「正当な範囲内」は客観的に正当と認められる範囲内のことを言い、引用著作物の著作者が必要に応じて自由に決めるべき性質のものではない。「正当な範囲内」であるから、原則として一部の引用となる。引用の目的上必要として全部が引用できるのは、一部の引用では役に立たない場合の短歌、俳句、短い詩、一枚の絵画や写真位であろう]。

 

とどのつまり、結局こういった堂々巡り、千日手に落ち込むわけです。

 

[「明瞭区別性」「付従性(主従関係)」を充たして]いること、それこそが「正当な範囲内」の内実なのです。

他人の著作物の「全部でも引用して利用することが出来る」ほどの32条。だからこそ、「付従性」は重要なのであり、(侵害訴訟における)その判断は厳格なのです。

森林氏の使う「付従性(主従関係)」、ちょっと意味が軽過ぎやしないか?。

 

まさに付従性判断の中で、「引用の目的」「両著作物それぞれの性質」「内容及び分量」「採録の方法・態様」「読者の一般的観念」等々(フジタ判決)が判断されるのであり、これだけのハ−ドルを前提した上で、「付従性」という言葉で象徴的に表現されているわけです。

ですから、[「付従性(主従関係)」を充たしていれば、他人の著作物の全部でも適法に引用でき]とは、結局は「言葉のル−プ」に過ぎないのです。勿論、氏は「全部引用否定」の立場での主張ですから、矛盾とまでは言えないのかもしれません。

それでは、次に、森林氏言う所の「正当な範囲」の検討に入りましょう。

 

氏は[「正当な範囲内」は客観的に正当と認められる範囲内のことを言い、引用著作物の著作者が必要に応じて自由に決めるべき性質のものではない]と主張します。これはちょっとひどいと思います。「客観的な正当な範囲」とは何でしょう?。私の「客観基準」と、森林氏のそれは同じでしょうか?。一審の裁判官と、上級審の裁判官の「客観基準」は同じでしょうか?。そうではない筈です。きっとそれは万人違う。しかりとすれば、やっぱり[引用著作物の著作者が必要に応じて自由に決めるべき性質のもの]なのではないでしょうか。「原則」は、こちらであるべきだと思います。その上で、『脱ゴ−宣』を見た森林氏が「これは私の考える正当な範囲ではない」と主張するのは自由であるし、小林が自作漫画でそう主張するのも自由でしょう。しかしそれをもって「原則」自体を逆にしてはいけない。

 

[「正当な範囲内」であるから、原則として一部の引用となる。引用の目的上必要として全部が引用できるのは、一部の引用では役に立たない場合の短歌、俳句、短い詩、一枚の絵画や写真位であろう]。

これもちょっと・・・、ですよね。

先ず、「正当な範囲内であるから原則として一部」という部分。前段と後段のつながりにおける「論理的根拠」は全く不明です。何故そうなるのか?。(あっ、誤解無きよう断っておきます。勿論私だって二百頁の本の「全文章」や百コマの漫画の「全カット」を引用するようなことなど、現実にはあるとは思っていませんよ。あくまでも「論理上」の議論です。念為)また[一部の引用では役に立たない]というのも、それは引用者各自の都合であって、決して一般化して述べられるようなことじゃない。大体、ちょっとそこいらにある「美術解説(批評)書」を繰ってみれば、[一枚の絵画]の引用でも、「部分」と表記して採録している引用などは五万とあるではないですか。こんな程度の根拠の提示で「正当な範囲内=原則一部」を導いてもらっては困るわけです。

 

◆ [殊に本件は、原告漫画の絵自体を批評の対象としているものではなく、絵と文章が有機的に一体となって表明されている原告の言論を批評するものであり、原告書籍は文章も通常の漫画に比べると非常に多いものである(原告漫画はストリ−(ママ)性があり、文章も多いから美術著作物であるが、言語著作物でもある二面性を持つ)から、言語による批評が行い易いものである。他方、被告書籍は言語著作物であって美術著作物ではない。また、いやしくも書籍を著作する程の文章力、表現力のある者であれば、原告の言論の批評は原則として文章で十分足りるものである。ただ、被告書籍の読者に原告の言論の内容を理解させるための一助として原告の絵の引用が必要であれば、原告の絵のうち特徴的なもの、代表的なもの数カット位を例示的に引用することは許されよう。しかし、この程度が限界である]。

 

あまりにバカバカしくて反論する気にもなりませんね。まさに小林が裁判を通じ、また、判決直後「103章」で開陳したバカ理屈と全く同じです。(森林氏のような人にこそ、ぜひ「裁判書面集」を読んでほしいと思います。一審の全弁論を通して読めば、「何故漫画は絵の引用が必要であるのか」が理解出来ることでしょう。)

 

それでも、簡単に逐一チェックしておきましょう。先ず、[絵と文章が有機的に一体となって表明されている]、からこそ、漫画においてはカットの引用が(も)必要なのです。

「楽しむ会」サイトの読者の皆様に向けて、こんなこと、改めて詳論する必要もないでしょう。

 

[また、いやしくも書籍を著作する程の文章力、表現力のある者であれば、原告の言論の批評は原則として文章で十分足りるものである]の部分。何を勘違いしているのでしょうか。そりゃ「足りる」場合だってあるんですよ、いくらでも。その著者が[文章で十分足りる]と思えばそうすればいいだけのことではないですか。そんな「小林批判」は山ほどあります。そして『脱ゴ−宣』の中にだって、それはある。

「カット引用」までが必要かどうか、それを決めるのはまさに著者であり、その選択こそが「表現」なのです。何故「どちらか」に統一しなければならないのか?。

 

森林氏に「嫌み」を返せば、[いやしくも書籍を著作する程の文章力、表現力のある者であれば]、漫画のカットを採録した所で、それが主従関係足り得る(つまり適法引用足り得る)「主」の文は容易に執筆出来ると思いますよ。それが出来ないような「文筆業者」は、黙って今までの「慣行」に従っていればよい。

それに文句をつける人は、誰もいないでしょう。

 

森林氏は、[被告書籍の読者に原告の言論の内容を理解させるための一助として原告の絵の引用が必要であれば、原告の絵のうち特徴的なもの、代表的なもの数カット位を例示的に引用することは許され]るのだと言います。「特徴的/代表的」なものであれば「何でもいい」という状況なら、その場合は、ちゃんと「カット転載の許諾」を得ては如何でしょうか?。氏は「主従関係(付従性)」の概念が本当に解っているのか。[この程度が限界]という問題なのではありません。

あくまで「主の文章」によって決まるのです、適法引用かどうかは。

 

◆ [三 同一性保持権の侵害について]

森林氏は言います。

[漫画に実在の人物が描かれる場合は、その人物の容姿の特徴が強調されるものである。これは美醜とは必ずしも直接の関係はないが、漫画として「美」の点はやや減殺されることが多い。漫画のこの性質は人物を出来るだけ写実的でありながらも、やや美しく描く肖像画と本質的に異なる点である。さらに、人物の漫画絵自体その著作者の主張の表現であり、画風でもある]。

 

これは「一般論」でしょう。小林漫画に当てはまることじゃぁ、ない。『ゴ−宣』を知悉している人であれば、「美醜と関係無い」だとか、「“やや”減殺される」だとか、ちゃんちゃらおかしいと言った所ではないでしょうか。[主張の表現であり、画風]であれば、それは公表した途端、逆の主張からの批評・批判は甘受してしかるべきです。そして公表した「著作物としての表現・画風」は、「引用」された上で批評・批判されることもこれまた当たり前の話なのです。氏は上記引用部を前提として、論をこう展開します。

 

(対比表を見る限り)[カット4の人物が殊更判決のいうように、「醜く描写されているもの」とは、漫画の特質からして、にわかに断定し難いのである。すなわち、漫画の表現の「美醜」の評価の点は、主観も加わり、相対的で曖昧であるのに、本判決は「醜い」とし、「名誉感情を侵害するおそれが高い。」と断定した。(ここに原告の画風に対する軽侮の念がなければ幸いである。)このような断定的判断が許されてよいかは、大きな問題であり、にわかに賛同できない]。

 

矛盾に気付いていません。

[主観も加わり、相対的で曖昧である]のであれば、森林氏もまた「醜くはない」と断定することは出来なくなります。つまり、そっくり以下のように書くことも可能だということです。

「カット4の人物が殊更森林氏の言うように、『醜く描写されてはいない』とは、小林漫画の特質からして、にわかに断定し難いのである。すなわち、漫画の表現の「美醜」の評価の点は、主観も加わり、相対的で曖昧であるのに、森林氏は裁判所の主観に対して『このような断定的判断が許されてよいかは、大きな問題であり、にわかに賛同できない』と断じた。(ここに小林氏を全面敗訴にした裁判所に対する軽侮の念がなければ幸いである。)」

 

結構上手いでしょ?(笑)。

 

◆ [仮に、「名誉感情を侵害するおそれが高い。」としても、同一性保持権の主体として法で明確に保護されている著作者である原告がこの改変によって受ける精神的苦痛を無視してよい筈はない。少なくとも彼此の比較衡量は必要であろう。また「引用者において、右第三者の人格的利益を侵害するという危険」を感じたとすれば、無理に引用しなくとも、さらに原告の有する同一性保持権を侵害する危険を侵さなくとも、被告書籍は言語著作物であるから言語で幾らでも批評すればよいのである。本判決のこの点の判断は、「やむを得ないと認められる改変」の要件の拡大解釈に外ならない]。

 

この辺りは前拙稿で語り尽くした感もあります。ですから、簡単に一言。

 

森林氏が[要件の拡大解釈]だとお思いなら、それが「2項4号」の一つの新解釈だと考えればよいでしょう。

パロディ事件判示に関して、[何時までも、旧法下のこの最高裁判決を墨守するものではなかろう。発想を変えるべきではないか]と言ったあなたです。ここも柔軟に「発想を変えるべき」ではないでしょうか。この判示を支持した所で、決して[同一性保持権の主体として法で明確に保護されている著作者]の権利を無視することにはなりません。だって、「表現の自由」を有するあらゆる著作者も、他者の「名誉感情を侵害しない範囲」でのみその「自由」を享受出来るのですから。[第三者の人格的利益を侵害するという危険]までは、その自由の中には含まれないのですから。

こんなこと当たり前の話ではないですか。

 

近年の「人権意識」の高まりの中、「著作権法」だけはその流れから無縁でいられる筈もなく、2項4号もまた「時代」と共に解釈は変動します。[原告がこの改変によって受ける精神的苦痛]も、「(悪意を伴って)描かれた側の精神的苦痛」の前には「絶対権」では有り得ないこと、それを示した点でこの判決は画期的でした。

 

◆ [また、本判決は、「なお、カット53について、原カット(ニ)の下から五分の三程度の部分が採録されている点は、原告著作物の一部を引用したに過ぎず、『改変』に当たるものではない。」と述べるが、これは一部の引用ではなく、絵の一部の切除であって、改変そのものである]。

 

本当に森林氏に聞いてみたい。

この論でいけば、「絵」部分を読者に示さず「ネ−ム」だけを引用するのは、[絵の一部の切除]にはならないのか?。

先述した、「美術解説(批評)書」で多用されているような「部分」引用は、本当に[改変そのものである]のか?。

 

指摘されている原カットの「切除」部分に「絵」は含まれてはいません。そして、切除部分は「読者の文章」です。(これが本当に読者からの手紙だとしてね。)何が言いたいのかと言うとですね、要するに、切除部分に「原告・小林よしのりの著作物は存在していない」ということです。

[絵の一部の切除であって、改変そのものである]との森林氏のこの言は、「コマ」という単位で「原告の著作物」を認識していることの証左です。つまり、そこから「ネ−ム」だけを抜くのは[改変そのもの]と言うことも十分に可能なんです。(氏の論理で言えば、ですよ。)

 

こういった「ご都合主義的解釈」はちょっと頂けません。「適法引用」を否定する論ではコマ内を「絵」と「文章」に分離しておきながら、しかし、「同一性保持権侵害」を肯定する論ではコマ内の文章部分のみの切除も[絵の一部の切除]と表現し、コマ全体を「絵」と観念しています。これでは批判される方はたまりません。

先ずそちらの「整合性」を、「お願いですからどちらかに統一しておいて下さい」としか言い様が無いではありませんか。

 

◆ えーっと・・・。

あと残りは、「書き込み/コマ移動」と「不正競争」なんですけど・・・、もういいですよね。

 

ただ「不正競争」の項で、氏は面白い(?)提起をしています。「同一性保持権」の保護対象には「題号」も入るのだから、[「脱ゴ−マニズム宣言」の題号は、「ゴ−マニズム宣言」の題号の改変にならないのか、この機会に一つの疑問を提起しておきたい]と言うのです。

 

なりません。

だって、そんな主旨ではありませんもん。同一性保持権での「題号」保護は。

 

 

【終わりに】

 

まぁ、こんな所でしょうか。

お読み頂いてお解りのように、「法学部教授」と言ったって中にはこんな程度の人もいるということです。「肩書き」に萎縮する必要などありません。第一藤岡信勝(やその一派)も、渡部昇一も、肩書きは「大学教授」(笑)ですものね。

 

前稿アップ後、某掲示板で(Yahoo!って書きゃいいじゃん)、「アレルギ−的に反対意見を攻撃している」などというトンチンカンな非難がありました。「反対意見」なんてこれまでに腐るほど目にしていますよ。だからって、あまりにも「下らない」ものにまで一々反論しているほど物好きじゃぁない。前回の「学生(?)レポ−ト」は、一応ゼミで「著作権法を専門に学んでいるであろう」人の意見であった故(それも本当に偶然見つけたからに過ぎない)、今回は、それこそ「法学部教授」という肩書きで、大部な「専門家論文集」に発表されたものである故。

(今回の反論は元々「発表予定」のうちだったのですが、まぁ先に軽い方からということで、こういう執筆順序になったわけです。)

 

「批判」にどれを選ぶかも、まさに「表現」のうちでしょう。そしてそれを「公表」した以上、引用されて徹底的に「反批判」されることも私は受忍します。そこから「論争」が始まり、一定の見解に到達出来れば、こんな有意義なことはないではありませんか。

 

むしろいつも待っているんだがなぁ・・・。(「楽しむ会」宛お送り下さるか、もしくは「掲載サイト」をお知らせ下さい。)

 

以上。

では、また。(2001/9/16)