『脱ゴ−マニズム宣言』裁判 「判決評釈」批判

文責/「楽しむ会」・三上秋津

【はじめに】

◆ 昨年(2000/4/25)の控訴審判決から、早一年数カ月が経過いたしました。相変わらず最高裁は棚ざらしを続け、問い合わせに対しては、「審査中」という型通りの回答を返すのみなんだそうです。

ただひたすら待つしかありません。皆様、もうしばらくのご辛抱を。(さすがにそろそろでしょうから。)

この間(一審判決含め)、様々な「判決評釈」に接してきました。概ね「引用の妥当性」に関しては、ほぼ、判決を評価する評釈で占められたと言ってもよいと思います。

ただ、全てに目を通せる筈もなく、「批判」評釈もあることでしょう。(事実、そういったものも目にはしています。)

評価の別れる点は、やはり「同一性保持権」、特に「目隠し」ですかね。

先日(8/13)たまたまネットを回覧していた所、偶然ある評釈を目にしました。

http://www.edu.otaru-uc.ac.jp/~nagatuka/seminar/cases/go_sen_rep_masauji.html

恐らくは、学生のレポ−ト(ゼミ発表用?)だと思われます。ちょっと問題だらけなので、以下、多少の批判をさせて頂きます。(先に当該レポ−トをご一読の上お読み頂ければと思います。)

執筆者は、政氏美緒氏(名前の前の番号は学生番号なのかな?)。以下、単に「氏」と表記します。

引用は、>。

専門家達の「先行評釈」を引用しながら、それに若干の私見を加えていくという論法によって氏は自説を展開していきます。

ここでの「専門家の評釈」は、氏が引用する範囲においてしかこちらは理解出来ませんので、多少乱暴な批判になる面は先に許しを乞うておきます。

では、始めましょう。

 

◆ 先ず「適法な引用の要件について」として、氏はこう述べます。

 

>本件被告書籍においては、引用部分である原告漫画と、被告論説は十分に明瞭区別性があるといえるし、確か
>に被告書籍の該当ページを見ると、原告漫画の引用部分が相当のスペースをとっているという印象は否定し難
>いが、それだけをもって付従性がないとはいえないだろう。よって、従来の判例理論に従って、被告の行為を
>適法な引用とした本件判断は、妥当なものと言っていいと思われる。「本件のように、漫画という絵と文字が
>不可分一体となった著作物においては、文字部分だけを引用するのは不自然であるばかりか、それこそ同一性
>保持権の侵害になりかねず、判決が述べるように、『批評の対象を正確に示すには、文のみならず、絵につい
>ても引用する必要がある』とすべき」とする意見もある(三浦正広「判批」岡山商大法学論叢第8号105頁・200
>0年)。

ここでの三浦氏の意見ですが、漫画において「絵と文字が不可分一体」だからといって、文字部分だけの引用が「同一性保持権の侵害になりかねない」とまで言うのは、いくら何でもちょっと飛躍に過ぎるでしょう。そんなことは、あくまで引用者の主観の中に落ちることであり、判断は引用者に委ねられているわけです。 文字部分だけで足ると思えばネ−ムだけを引用すればいいし、絵だけで足ると思えばそうすればいい。両者必要だと思うのなら、コマごと引用すればよいではないですか。 それは、あくまで「主」の文章によって結果的に決することであって、「どういう態様で引用しようか?」が先にあるわけではない。そして主の文が、厳密に言えば「ネ−ム」のみを問題にしている時でも、“コマごと”の引用は出来るのです。 「不可分一体」とはそういう意味なわけで、「絵に触れていない以上ネ−ムしか引用出来ない」という原告の主張が、今裁判で完全に否定されたのです。氏もそこまでの踏み込みをもってレポ−トしてほしい。 続けて氏はこう書きます。

>ただ、原告の主張する「漫画による主張を批評する場合には、絵を引用することなく批評するという慣行があ
>る」というようなことは認められなかったとしても、「漫画は常に絵と文が不可分一体といえるかは問題」と
>いう意見もある(和田光史「判批」CIPICジャーナルvol.94・72頁・1999年)。それは、確かに一理ある指摘であ
>り、単なる文の形式だけでは伝わらない絵の影響が、批評・評論されてこそ、批評文と、絵と文を一体とした
>カットとの間に、主従関係が成立する(前掲・和田「判批」72頁)。このように考えれば、文について引用の必
>要性があれば、絵についても直ちに引用の必要性が認められるとする本判決の判断は問題があるといえる。

氏は和田氏の意見を「一理ある指摘」と言い、「判決の判断は問題がある」と主張します。
そうでしょうか?。

和田氏の意見は、まさに原告である小林さんが「弁論」を通して散々主張してきた事と全く同旨です。そして、それが否定された意味が、漫画における絵と文の「不可分一体」性の真意です。ここが理解出来ないのならば、そもそもこの事件の全てが理解出来ていないのと一緒です。
「文章」の引用に置き換えてみれば、そんなことは自明の筈。ある文中の一語句のみを問題に批評したい時、少なくともその語句を含む“一文全て”を引用することに何の問題がありましょう?。他の語句に触れていないから「その他の部分の引用は出来ない」なんて、そんなことがあろう筈無いではありませんか。
「引用」において、絵(漫画)と文章(ネ−ムに非ず)に差異を求めた原告の主張と、結果的に全く同じ主張になってしまっていることに、氏は気付いていないようです。
そしてこういったこと(和田氏意見のような)は、全て「弁論」の中で、双方主張を尽くしています。
判決は、その「論争の結果」である点、留意して下さい。

「判決評釈」の問題点はこういう所にあります。判決だけでは決して事件を理解したことにはならず、双方の全弁論に目を通さなければ、本来は書けない類のものなんですね。判決文に現れてくるものは、論争中、主要なごく一部なのですから。
でも、これは仕方ない。これを言い出したら、誰も(私も)判決評釈は書けなくなりますからね。
続けて。


>例えば、「カット中で、文の挿し絵にしかすぎないような絵が描かれた場合なら、文だけを引用すれば事足り
>る」からである(前掲・和田「判批」72頁)。


これは「事足りる」例を勝手に挙げて、「だから問題がある」と述べる典型的な詭弁の手口です。(ごめんなさい、勿論そんな意図が無いことは解っています。)単なる「挿し絵」まで引用してもよいなどとは誰も述べてはいないわけで、明らかに雰囲気作りの為の「挿し絵」(新聞小説のような。普通、著作者は別でしょう)と、密接に、互いに互いを補完し合っている漫画の「ネ−ムと絵」を等位に語ることがそもそもの誤謬です。まして小林漫画(ゴ−宣)においておや。詳論は不要でしょう。

◆ 次に「観賞性」の問題について。氏はこう言います。

>個人的にも絵画の著作物というのは、質はどうあれ、ある程度の鑑賞性を有してしまうものであろうから、鑑
>賞性の有無は、引用の要件として必ず考慮すべきものだとは思えなかったので、注目したい点であった。鑑賞
>性の有無を要件とすることは、引用をしようとする側にとって、あまりにも酷だと考えるからである。ゆえに、
>本件控訴審判決が、鑑賞性の有無によって、適法な引用とはいえないとしなかったことは、意義のあることだ
>と思われた。

確かに「意義のあること」だと思います。

ただ問題なのは、やはり「観賞性」という言葉の“解釈”でして、何十コマもある漫画の「一コマ」にまで当てはめて、「観賞性有りとしてよいのかどうか」という事なのではないでしょうか?。
その点への氏の評価は語られてはいませんが、やはりそこら辺りまでの踏み込みは欲しい所です(贅沢なのか?)。
私は、判示には無理があると思います。と言うか、余分な一言だったでしょう。「観賞性の有無は主従関係に影響を与えない」(これは結果的に「フジタ事件」判決の否定です)という点が判旨なのですから、それだけで十分であり、採録原告カットに観賞性が有るのか無いのかなどは「余分な判示」ではないでしょうか。全て読み返したわけではないのですが、この点(採録原告カットの観賞性の有無)は、明確には、争点にはなっていなかったと記憶しています。(争点解釈の違いなのか?、裁判所と私との。)

◆ 次に「同一性保持権」の問題です。



>「これを次の私が書き入れた手書き文字のようにするとわかりやすい。」という被告書籍の本文を読まずに採
>録カットのみを見た場合には、原告カットのもとの内容であると誤認することもあるかもしれない(村井麻衣子
>「判批」北大法学論集第15巻1164頁・2000年)。よって、カット27も改変とした上で、著作権法20条2項4号に該
>当するか否かを検討したほうが、妥当であっただろう。

これにはさすがに驚きました。「本文を読まずにカットのみを見た場合」、って・・・。
こんなことまで言い出せば、そもそも「改変に当たらない」ものなど有り得ず、全て先ず「改変」とした上で、それが「やむを得ぬものか否か」という判断になります。しかしそれは、無理があり過ぎるのではないでしょうか?。

上杉氏は直接小林さんの著作物に手を加えたわけではなく(「目隠し」は加えた例ですね)、丸で囲み、余白のごく一部に指示線を付しただけなのですから。氏や村井氏の論でいけば、「傍点は筆者」や「ゴチック(強調)は筆者」も改変だし、縦書きを横書きに引用するのも改変に当たります。そんなバカなという話です。それに、「被告書籍の本文を読まずに採録カットのみを見た場合」なんて、普通想定しなくていい問題でしょう。(「読む」ことは当たり前の前提ではないですか!。)

また、改変認定の後「やむを得ぬかどうか」(2項4号)を検討せよということですが、先に「改変認定」がある中でそれを検討する場合、「やむを得なくはない」との判断は容易に出来るのです。
だって傍点を付さなくても、ゴチックにしなくても、その部分だけを抜き出して再度引用し、「こんなことを言っている」と強調すればいいのですから。つまり、明らかな改変(「目隠し」のような)と、カット27のような書き込み(著作物自体には手を加えていない事例)は等位に語られるべきではなく、改変基準は全く異なるということです。
この点は一、二審共に“揺れは無い”のですから、判決を批判するのであれば、もう少し「高度」な論理を構築しなければ、およそ誰をも納得させることは不可能でしょう。

# 「コマ割り」の件は省略。(取り立てて特に異論なし。)

次、「目隠し」の問題です。

この点については被告(上杉さんなんだ・・・、小林さんじゃなく)及び判決への批判が多い所であろう、と氏は言います。
そうなのか・・・、知らなかった。画期的な判決で、「賛意」が多いと思っていたのですが。

>しかし、本判決の基準を採用するとしても、同一性保持権が著作者人格権として重要な権利であることを考え
>ると、侵害の蓋然性が認められる特段の事情がない限り、単に侵害のおそれがあるだけでは「やむを得ない改
>変」と認め、同一性保持権の制限を許容するには不十分であろう。


氏は、龍平氏(や梶村氏)のあのカット程度ではまだ足りないと言うのでしょうか?。「特段の事情」があるとは言えないのでしょうか、あの程度の「醜さ」では。では、一体どこまで醜ければ目隠し(改変)は認められるのか?。その基準を、氏は、「言語化」出来るのか?。(それとも、どんなに醜くても、とにかく「目隠しはダメ」なんだという主張なのでしょうか?。)


勘違いしないでほしいのですね。

その基準は、「“引用者の”主観」なんです。決して「あなたの主観」ではない。そしてそれは、「龍平氏の主観」でもない。ここを理解することが一番重要なのに・・・。

どうも氏は、「肝心な点」は何一つ理解出来ていないような気がします。


>また、改変を加えることにより、本来引用した目的が失われることもある。本件でもカット4は、絵が第三者の
>顔を醜く描いたことを示すものとして引用されているのだが、改変によって、その絵が醜く描かれたものであ
>ることが判別できない場合には、適法な引用とはいえなくなる可能性がある。しかし、この点については、本
>判決は触れていない(前掲・和田「判批」75頁)。また、被告への批判としては、「目隠しの行為は『相手の表
>現をまず正確に引用してからでないと、批判を厳密に行えない』という被告の大前提と矛盾する、モデルの人
>格的利益の侵害を配慮するなら引用を控え、文章で補充すればよい」という見解もある(前掲・岡「判批」
>45頁)。これには、被告の自己矛盾の指摘については賛成するが、後半は引用を控えるという点について疑問が>残る。改変をせずに引用した上で、文章による説明を施せば問題ないのではなかろうか。


何をか言わんや。

「『原判決取消の理由書』に徹底的に反論する」の中で、当会横山がこの辺りに関し徹底的に詳述しているので、ぜひご一読願いたいと思います。

取り合えずここでの結論部分が以下。

>以上により、私見としては、裁判所は学説よりも社会的妥当性を重視して、判断をすべきであると考えるとこ
>ろ、本件控訴審判決は、原告・被告両者の思想的要部をなしている点の改変において、侵害を認めず、コマ割
>りのわずかな改変によって差止めを認めているという、きわめて妥当性を欠くものといえる。それならば、原
>告の請求を全て棄却した原審判決のほうが妥当であると思われるので、本件控訴審判決には反対である。

支離滅裂です。一体これは何でしょうか。

双方の「思想的要部」での侵害を認めていないから妥当性を欠くですって!?。それに、何故それが「それならば」でつながって、「原審判決の方が妥当」になるのか?。

正直頭を抱えざるを得ません。こんなレポ−トを、堂々ネット上で発表されては困るわけです。

「思想的要部」だろうが「些末的な部分」だろうが、被告としては全てに渡って徹底的に「抗弁」しているのです。「侵害を認めなかった」のは、「侵害ではない」ことを上杉側が完全に論証・立証したからに他なりません。「思想的要部」だろうがどうだろうが、そんなことは全く関係無いではないですか。

ついでに。

氏の引用によれば、岡氏(「パロディ事件」のアマノ側代理人でしたね)はこう言っているそうです。

>「『目隠し』の手法には、視覚的著作物を視覚的手法で批判し、揶揄するという積極面があることを指摘し、
>被告が『登場人物の肖像権・名誉権』を根拠とする弁明ではなく、『目隠し』の自由を高らかに掲げ、原告が
>それに正面から反論していれば、本件は、『視覚的批評の自由』をめぐる、きわめて現代的な紛争となってい
>たはず」


岡氏の「興味観点」など、上杉氏には何の関係もありません。別に「目隠し」は、「視覚的著作物を視覚的手法で批判」しようとしたものでもなければ、「揶揄」する目的でもない。

純粋に、「登場人物の肖像権・名誉権」を守らんが為の一方法ではありませんか。(その意図はちゃんと本文で触れているというのに・・・。)それを、「登場人物の肖像権・名誉権を根拠とする弁明ではなく」、って何ですか!(「弁明」である筈が無かろう)。「目隠しの自由を高らかに掲げ」、って何ですか。



バカも休み休み言ってほしいものです。岡氏言う所の「視覚的批評の自由」など、この裁判には何の関係もないことです。

# 「不正競争」は略します。

◆ 次に、この「レポ−ト」を批判しておこうと思った直接の動機となる部分であります。「評釈について」として、氏は、こう述べています。


>次に、同一性保持権についてだが、原告カットに目隠しを加えた点については、やはり著作権法20条2項4号に
>いう「やむを得ない改変」には当たらないと考える。理由は、先述した通りであるが、他にも代替可能性があ
>ることや被告の引用に対する無責任さという点も、「やむを得ない改変」とはいいたくない原因である。上記
>の通り、このような改変を認めるにはいくつかの弊害があり、モデルとなった人についても肖像権・名誉権侵
>害を訴えるなら、原告の側にするものと思われる。従って、被告は引用を正確に行うことをまず第一に考える
>べきであって、モデルとなった人の人格権を優先する必要はないと思われる。

先ず、「代替可能性」。


それは無いのです。それは氏が(これは氏だけではないのですが)、後から見てああだこうだ言っているだけであり、「代替可能性」を持って言えば、ほぼ全ての「改変」はやむを得ないものでは無くなるのです。これは断言出来ますが、どんなケ−スでも(全ての「同一性保持権」が争われた裁判という意味です)、何等かの理由を見つけて「代替可能性有り」と言及することは、実は可能(かつ簡単)なんですね。「極論」が許されるなら、上杉氏には「引用しない」という選択(代替)もあるわけです。



何故これが極論なのか?。

それは、「このような場合、原著作物に相当な改変を施すことを許容しなければ、当該著作物を引用する際に、引用者において右第三者の人格的利益を侵害するという危険を強いることとなり、さもなければ、当該著作物の引用を断念せざるをえない」からです(一審判決)。
それは、「著作物の適正な利用の確保を目的とする著作権法二〇条二項の趣旨に」(同)反するし、その趣旨に「鑑みると、右のような場合に相当な方法で改変をすることは、著作権法二〇条二項四号にいう『やむを得ないと認められる改変』に当たると解するのが相当」(同)だからです。

つまり、引用しないという選択(代替)など、引用者は勘案しなくてもよいのです。(勿論したっていいんですよ。)

「引用する、しない」や「代替方法」は、まさに著者の「表現の自由」の問題であり、その選択の「結果」である当該著作物(『脱ゴ−宣』)を後から見て、「こうすればよい、ああすることも出来た筈」などと言うのは、まさに為にする議論であり、何等意味を為さないということです。

問題はそういう事ではなく、現に為されている「目隠し」自体が「やむを得ないのか否か」であって、その「否」は、決して、「目隠しを付けないことも出来た」なんていうものでは無い筈です。
(だって、そんなことは自明ですもん。「付けないことも出来た」なんていうのは。)

そうではなく、「付けたことによる小林氏の被侵害」と、「付けなかったことによる龍平氏の被侵害」との衝突において、そのどちらの「法益」を守ることが引用者にとって「やむを得ないのか?」という点にある。ここが理解出来ていない人が、実際あまりにも多過ぎます(専門家含め)。そして、まさに裁判所は、一・二審共に「小林氏の被侵害はやむを得ない」と判断したのであり、結果として、「描かれた側」の法益と、その選択者である「引用者」の判断を守ったのです。

それが「二〇条二項四号」の、裁判所の「一解釈」です。判決が画期的である所以です。

「後段」。

まさに私の「怒り」の核心部分です。

氏の主張は、まさに小林さんが主張してきた事と全く同じです。「モデルとなった人(龍平氏)が仮に肖像権・名誉権侵害を問題とするなら、それは小林を訴える筈なのだから、上杉は、安心して改変せずに引用するべき(引用出来た筈)」というものと、です。

なおかつ氏の意見は、当の小林さんよりも更にひどい。「モデルとなった人の人格権を優先する必要はない」とまで言い切ります。


正直、たまりません。ここまでひどい主張に出会ったのは初めてです。氏は、少しでも「描かれた側の人格」に思いを馳せたことがあるのでしょうか?。もし醜く描かれたモデルが自分でも、全く同じ主張をするのでしょうか?。(そうであるなら、整合性に一定敬意は払いましょう。)この辺りも、前述の横山原稿で詳述されていますから、一度そちらも読んでみてほしい。


私なりに一点だけ。

この「目隠し」は、文章で言えば「伏せ字」に該当する改変であること、氏は理解しているのでしょうか?。「引用を正確に行うことをまず第一に考えろ」と氏は言いますが、決して、「正確」イコ−ル、「全てそのまま」ではないのです。例えば、論敵の「差別性」を糾弾する目的の論評で、論敵の書いた明らかな「差別文章」を引用する必要がある場合、それでも「正確に全てそのまま」引用せよと氏は主張しますか?。

読者の一般的観念に照らして論敵の「差別性」がある程度感得されんことを目的とするなら、特に問題性(差別性)の強い、文中の何語かを「伏せ字」にすることに一体何の問題があるのでしょう?。

「目隠し」も同じことです。小林画の「醜さ」が読者にある程度伝われば、それで著者の意図は十分に達せられています。

(蛇足ですが、この辺りは今争われている「名誉毀損」裁判とも密接に関連しています。)



【終わりに】

大体こんな所です。

心底、本当に「人格権を優先する必要はないと思われる」という一文には驚愕しました。こういう感性で「著作権法」を勉強されるのも、何か恐いものがあります。「法」は、決して「字面だけの解釈」の世界ではありません。その運用は、我々「人間」の為にある。

確かに「同一性保持権」は、著作者の「人格権」である旨定義されてはいます。しかし、その人格は、あくまでも「“著作物”に仮体」されてのものです。(「著作者人格権」の重要性を否定する意図は一切ありません。誤解無きよう。)対して「似顔絵を描かれた側」は、まさに本人の「肖像・名誉・氏名」といった、まさに真の意味での「人格」なんです。
「著作者人格権」と「人格権」が衝突するのなら、先ず「人格権」を優先するという感性でいたいものです。執筆者の政氏美緒氏には、この点、苦言を呈しておきます。

# 偉そうな「一方的批判」では不公平ですから、アップ次第、先方に伝えるべく努力します。(大体放っといても伝わるものだから、いいかなぁ、別に。)


出来ましたら、反論なりして頂ければと思います。


それでは、また。(2001/8/15)