以下、季刊「社会評論」秋号(123号)に掲載された『脱戦争論』の書評を転載します。転載を快諾された編集部と著者に感謝します。


読書ノート
上杉聰 編著『脱戦争論――小林よしのりとの裁判を経て
(東方出版刊・一五〇〇円+税)

小林よしのりのウソとスリカエ暴く

滝野川 邇(ルポライター・HOWS受講生)


 小林よしのりという卑怯者の漫画家がいる。現在、漫画『新ゴーマニズム宣言』(以下『ゴー宣』)で歴史改竄者たちの広告塔をやっている俗物だ。九八年には『新ゴーマニズム宣言スペシャル戦争論』(以下『戦争論』)が、マトモな読書習慣を持たない連中を国家主義に走らせ、現代日本の病理を裏書きした。その思想的腐臭にウンザリした、良識ある人も少なくないだろう。

 ここに取り上げる『脱戦争論』は、そんな小林の言説――デマと思考停止を根拠にする「大東亜戦争」賛美――の源泉となる怯懦を、サクッと的確に抉った快著である。日本史家の上杉聰を中心に、九人の論客が、小林のウソとスリカエを暴いて見せる。

 特に、冒頭で上杉が著す「『個』は国家を超える」は、小林の主張のすべてを一気に無力化する爆発力を持った一文だ。

 小林が『戦争論』で展開する浅薄な国家主義を要約すると、「戦後民主主義の影響で、日本人は『個』ばかりを重視し『公』を疎かにするようになった。これは人間として見苦しいものだ。だから『公』のために『個』を捨てよ! そして『公』とは『国家』である」となる。

 この小林の扇動に対し、上杉は冷静に、次のような趣旨の指摘をおこなう。

「普通、日本語では『公』に対比される語は『個』ではなく『私』である(公私混同とは言うが、公個混同とは言わない)。

 つまり小林は、私利私欲など悪い含みを持つ『私』を、個性・自立など良い含みを持つ『個』とすり替えることで、個人の意志の価値と可能性を貶める『ずらし』のトリックを使っているのだ」。

 単純だが、なかなか気がつかないインチキを、上杉は見事に見抜いている。そして喝破する。この「個私混同」のトリックを使う小林は、「国家の奴隷となる所へと若者を引っぱって行こうとしている」と。

 上杉はこのように、小林の一見威勢の良い口上が、実は事大主義者の安手品に過ぎないことを明らかにしてみせる。

 続く論客、一橋大学教授の吉田裕は、小林の「『公』は『国家』だ」なる言い草を、「日本語では郷土(country)も政府(state)も共に『クニ』と呼ぶことを利用し、郷土愛と国家システムへの服従を同一視する幼稚な国家論」だと一刀両断する。さらに、小林の戦争賛美を安っぽいイメージ操作であると一蹴し、南京大虐殺否定のウソと強弁を具体的に検証してゆく。そこに浮かび上がるのは、ロクな資料批判能力もなく、虚ろなマッチョ願望だけで歴史を語るしかない小林の哀れな姿だ。

 以下、こういった具合に、様々な視点を持つ論客たちが小林を斬ってゆく。小林のウソが簡単な調査で見抜けることを実証して見せ、「小林らは『自分で調べない読者なら騙せる』という考えの下に、全面的にトリックを使いまくっている」と、小林が内心自分の読者をバカにしていることを指摘する平林昌巳。小林が漫画表現の力を悪用する手口を、図像学的に分析する若桑みどり。かつて子ども向けマンガで独創的アイデアを発揮した小林が、右翼に与えられた資料に隷従するだけの宣伝マンに堕した過程を、嘆きをもって告発する添田善雄。小林の「国の為に命を投げ出すことは崇高な行為」なる主張が、脆い心の生む虚飾に過ぎないことを証明する宮崎哲弥。いずれもが、小林とその黒幕たちを痛撃している。

 さて、ここで『脱戦争論』の副題「小林よしのりとの裁判を経て」の意味を説明しておこう。

 『脱戦争論』編著者の上杉は、九七年に『脱ゴーマニズム宣言』という本を出した。これは、当時小林が『ゴー宣』で展開していた従軍慰安婦攻撃を完全論破した痛快な書だ。だが、その鋭い舌鋒に怯えた小林は、上杉が『ゴー宣』の「絵」を引用したことに言い掛かりをつけ、批判封じの著作権裁判を起こしたのだ。『脱戦争論』はその一審判決を受けて出版された、いわば『脱ゴーマニズム宣言』の続編である。

 だから『脱戦争論』に参加した論客には、裁判関係者・支援者もいる。弁護士の北村行夫と高橋謙治は法曹者の立場から、漫画批評における「絵」の引用の意義を説き、小林の訴訟がいかに漫画表現を侮辱したものかを浮き彫りにする。著作権に詳しいライターの松沢呉一は、小林の著作権理解のお粗末さを笑い飛ばし、裁判での小林側主張のマヌケさ加減を逐一明確にしてゆく。

 つまり『脱戦争論』は、政治的主張と表現者としての資格の両面から、小林を追い詰めてゆく構成になっているのだ。そして、その批判の的確さゆえに、批判書の範疇を超えた自律的価値を、『脱戦争論』は獲得している。小林よしのりという愚劣惰弱な俗物を反面教師にして、戦争認識の深みを探り、表現者としての矜持を考え、豊潤な思想を模索する足掛かりを提供しているのだ。一人でも多くの人にこの本が読まれ、現在の反動状況を克服する試みの一助となってくれることを切に願う。

 この拙文を締めくくるにあたり、書評子から読者諸兄にお願いがある。さきに触れた裁判は、現在最高裁で係争中である。そして小林は『ゴー宣』で裁判についてのデマを飛ばすなど、なりふり構わぬ手段に出ている。だから『脱戦争論』を読んでその意気に感じたなら、どんな形でもいい、上杉の抱えた裁判を支援してほしい。批評の自由を守るため、是非ともお願いする。