インドネシア「新秩序」下の人権抑圧


アムネスティ・インターナショナルのインドネシア/東ティモール報告書『インドネシア「新秩序」下の人権抑圧』(1994)を、アムネスティ日本支部東京事務所のご好意により、以下に転載させていただきます。
 同事務所の許可なく、再転載はしないでください。

           監獄人権センター事務局


☆☆ はじめに ☆☆

 今回は、アムネスティのインドネシア/東ティモール報告書『インドネシア「新秩 序」下の人権抑圧』をダウンロードしていただき、まことにありがとうございます。
 本報告書は国際事務局が英文で発行した「Indonesia and East Timor "Power and Impunity"(AI Index: ASA21/17/94)の翻訳です。常夏の美しい自然で知られるインド ネシアも、国内の人権状況という点では大きな問題を抱えています。先日のAPEC 会議に際して起こった東ティモール独立を求める各地の紛争なども記憶に新しいとこ ろでしょう。インドネシア政府は、自国の人権侵害に対する世界各地からの抗議に、 「アジアには独自の人権に対する考え方がある」という反論を繰り返し、人権状況の 改善に手が付いているとは言えない状況です。
 アムネスティの今回の報告書は、できるだけ多くの人々にインドネシアの人権状況 を理解してもらうために出版しているものです。英語原文も、インターネットを通じ て世界中に配布されています。この日本語版が、そうした理解の助けになることを願 っています。

★★★著作権および再配布について★★★

☆このファイルに書かれた文書の著作権は、アムネスティ日本支部に帰属します。
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  アムネスティ日本支部
郵便振替 東京2-133251

☆アムネスティは数々の報告書を出していますが、電子媒体での配布は今回が初の試み です。ご意見、ご感想を上記連絡先までお寄せください。今後の参考にさせていただき ます。

★★★ アムネスティについて ★★★
アムネスティとは、英語で「恩赦」という意味。1961年にロンドンで設立以来、世 界重の人権侵害に対して国境を超えて声を上げ続けている国際的な市民団体です。現在 約150ヵ国に110万人以上の会員がおり、国連など国際機関との協議資格も持って います。その情報の正確さには定評があり、毎年発行される年次報告書のほか、各国別 に発行される報告などは、世界の人権侵害を調べる場合には必ず参照される資料です。 アムネスティは、世界人権宣言の精神にのっとり、人権に対する関心を広く世界に呼び かけるとともに、次の4つの具体的な目的をもって活動しています。

1 暴力を用いていないのに、自分の信念や信仰、人種、言語、性などを理由として囚 われた人「良心の囚人」の即時無条件の釈放を求める。

2 すべての政治囚に対する公正で速やかな裁判その他の刑事手続きの保障を求める。

3 すべての拷問や死刑の廃止を求める。

4 政治的な背景を持った軍や警察などによる市民の殺害(超法規的処刑)や、軍や警 察などの手にかかって人々が闇から闇へと「失踪」させられることを阻止する。

アムネスティ日本支部の設立は1970年。現在は150あまりあるグループ、約九千 人の会員や賛同者がいます。お問い合わせは、上記の連絡先までお気軽にどうぞ。

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                                     以上
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はじめに【目次へ戻る】

インドネシアの「新秩序」政府は、一九六五年、軍事クーデターののちに権力の座について以後、驚くべき規模でおこなわれてきた人権侵害に対し責任をもっている。まず数十万人にのぼる民間人が殺されたが、手足を切り取られた人々の死体は時に人目につくところに腐るがままに放置された。また政治囚と刑事囚を問わず、囚人は日常的に拷問・虐待を受けて、中にはあまりにひどい扱いのため死亡したり、回復不能な傷を負わされた人もいる。さらに数千人が、平和的な政治的意見や宗教的見解を述べただけで、見せ物裁判によって投獄された。そして数十人の囚人が銃殺によって死刑に処せられた。その中には死刑判決後二○年以上たった人もいた。
インドネシアでは政治がより開放的になるきざしがあり、人権状況が改善されるという期待も高まっている。しかし重大な人権侵害は減っていない。アムネスティ・インターナショナルがこの報告で検証しようとするのは、なぜ人権侵害が続いているのか、なぜ真の意味での改善がなされるためには内外からの圧力が一致してインドネシア政府にかけられなければならないのかということである。
この報告では異なるカテゴリーの人権侵害-政治的殺害、拷問・虐待、政治的投獄、死刑-の歴史的パターンを記述するが、その際、とくに力点がおかれるのは一九八九年以降の時期である。というのも、その年、インドネシア政府は人権擁護へのコミットを公に宣言したからである。この報告は、侵害のターゲットになった人々をグループ別に記述し、それらの人権侵害に責任をもつ政府機関を記述する。最後に報告は、もしインドネシア政府と国際社会がそれらを実施することになれば、もっとも深刻な侵害を終わらせることに寄与するであろうリコメンデーション(提言)をおこなう。
東ティモールは、一九七五年にインドネシアに侵略され、今日にいたるまで国連決議に反して占領されている旧ポルトガル植民地であり、最悪の人権侵害がおきている。一九九一年一一月、首都ディリにあるサンタクルス墓地で、二七○人にもおよぶ平和的なデモ参加者がインドネシア軍の銃弾の犠牲者となる事件によって、問題の深刻さが多くの人に実感された。政治的な殺害は東ティモールではまったく新しいことではなく、それは二○年近くも続いたより広汎な人権侵害の一部にほかならない。
同様の人権侵害が、アチェやイリヤン・ジャヤで、平和的な、あるいは武装した、反対勢力に対する鎮圧作戦のあいだおこなわれていたことが記録に残っている。これらの地域では、東ティモールと同様、軍当局は国家の安全、秩序、安定といったものを維持するためとあれば事実上どんな手段でも採用することができる。
さらに、一般には安定し秩序が保たれているとされるジャワ、スマトラ、バリ、スラウェシ、カリマンタン、ヌサ・トゥンガラ地方、マルク地方、さらには首都ジャカルタにおいてすら、計画的な人権侵害はおきている。国全体を通じて、人権侵害は、政治的な反対者や「混乱」に対する政府の対応としておきているのであって、さらには経済政策の障害とおぼしきものを取り除く手段になってもいる。インドネシアではこうした対応のことを「セキュリティー・アプローチ」(治安第一主義)と言っている。
軍による人権侵害は、どこでそれがおきようと、はっきりとわかる共通性をもっている。それはインドネシアの政治制度のある基本的な特徴に由来する。軍、とりわけ軍情報機関と鎮圧部隊は、絶大な影響力をもっており、インドネシアの反乱鎮圧戦略は、意図的な場合とそうでない場合があるにせよ、必然的に人権侵害を伴わざるをえない。大統領と行政はほとんど絶対とも言える権力をもち、国内に恣意的な権力行使を効果的にチェックするすべはない。またイデオロギー的一体性が銃を背景に強制されている。法制度は行政と軍の権力を反映し、それを強化してすらいる。そして司法は独立してもいなければ、中立なものでもない。人権侵害の責任者はほとんどまったくと言えるほど裁判にかけられることはない。
これらが、インドネシアと東ティモールでの人権侵害のパターンの背後にある主な要因である。こうした人権侵害は、政府が時々主張しているような、個々ばらばらな事件でもなければ、ちゃんと規律を教えられていないひと握りの兵士たちのしわざでもない。それは、政府機関のネットワークと標準化された実行手続き、そして不満の表明や混乱の兆候に対する政府の反応をますます頑固なものにしているイデオロギー的前提とが、組みあわさって生み出したものなのである。
一九九一年、インドネシアは国連人権委員会のメンバー国となったが、以来、インドネシア政府の人権に対する態度はシニカル(懐疑的)なものである。確かに内外からの批判に応えるかたちで、政府は人権擁護に取り組んでいることを示すいくつかのことをやりはじめた。人権セミナーを誘致し、国家人権委員会を設置し、人権侵害に責任のあったごく少数の兵士を処罰した。しかし一方で、政府は人権活動家に対し「反逆者」「国家の敵」などとレッテルをはっている。結局、政府は人権侵害の根本的な原因には手をふれていない。そこにふれないかぎり、人権状況が真の意味で変わるなどということは、ほとんど期待できないのである。

「新秩序」における人権-概観【目次へ戻る】

インドネシアと東ティモールの人権問題の深刻さをもっとも劇的に示すものは、政治的殺害である。五○万人から一○○万人が殺された一九六五年のクーデター後の大虐殺は、その後の政治的反対者の扱い方の前例として確立した。東ティモールでは、人口の三分の一に及ぶ二○万人が、一九七五年のインドネシアによる侵略以後、飢餓や病気で死亡した。アチェでは、一九八九年から一九九三年にかけての鎮圧作戦中、二○○○人の民間人が殺された。そしてイリアン・ジャヤでは過去一五年間に数百人が超法規的に処刑された。 殺害は鎮圧作戦中でなくてもおきている。平和的なデモ参加者に兵士や警官が発砲し、数百人の死者を出すといった事件は、過去幾度がおきている。たとえば一九八四年九月、ジャカルタのタンジュン・プリオク地区(港湾地区)では、暴徒化した群衆をコントロールするためと称して、数十人の民間人が軍によって殺害された。一九八九年二月には、南スマトラ、ランプン州のある村に対し、軍は陸・空を組み合わせた攻撃を行い、少なくとも四○人、可能性としては一○○人ぐらいの民間人を殺害した。軍によればその村はイスラム教徒の反乱の一団をかくまっていたということである。一九九三年、軍はマドゥラ島の農民の平和的な抗議デモに発砲し、四人を死にいたらしめた。犠牲者は今でも増え続けている。
囚人の中にもまた、選び出され恣意的に殺害された人たちがいる。一九八三年から八五年のあいだに、政府の銃殺隊は、インドネシアの各都市で、推計で五○○○人の(政府の言う)犯罪者が処刑された。一九八九年、大統領は、殺害は犯罪をコントロールするための政府の政策であり「ショック療法」であると誇らしげに語っている。政府の「神秘的殺人」キャンペーン(そういう呼び名で知られている)は一九八六年には収束したものの、警察の方は、潜在的犯罪者たちの取り扱いに過剰ともいえる人員を動員しつづけ、一九九四年の初め、ジャカルタ警察庁は「浄化作戦」という犯罪分子一掃作戦に出た。それは一一月に開かれる予定のアジア・太平洋経済協力会議(APEC)のサミットに備えてのことである。
政治的被拘禁者、反乱活動地域の民間人、犯罪の容疑者などに対する拷問や虐待は日常茶飯となっている。その結果として死んだ人も数多くいる。拷問や虐待は政治的、軍事的情報を得るためであったり、自白を引き出すため、そしてテロによって個人やその社会全体をコントロールするためであったりする。
一九六五年以来、恣意的な逮捕や拘禁は、反対者を弾圧し、政治的・軍事的情報を収集し、「秩序」を維持するために政府がとってきた手段の非常に重要な部分をなした。一九六五年のクーデター後、インドネシア共産党(PKI)と関係していたとして拘禁された人の数は一○○万人以上におよぶ。そして数十万人が、時には一四年も、罪状が明かされることも裁判にかけられることもなく、拘留されたのである。近年では、恣意的に逮捕される可能性が一番高いのは、反乱活動が存在するとされる地域の住民、および反乱者と疑われた人たちである。東ティモールでは、当局は短期的拘禁・拷問・虐待をシステム化して用いている。また別な地域では、罪状も明かされず裁判にもかけられないまま長期に連絡不通状態におかれる犠牲者もいる。アチェでは、数百人、おそらく数千人が、一九八九年から九三年にかけて恣意的に拘禁され、中には二年におよぶ人もいた。そのうち裁判にかけられたのはたったの五○人にすぎない。平和的な抗議をする人、ストライキ参加者、農民、学生、人権活動家などもまた恣意的に逮捕されてきた。
インドネシアと東ティモールでは一九六五年以来、当局が言うところの政治的犯罪を理 由に、三○○○人以上の人々が裁判にかけられ、長期刑や死刑を言い渡されている。そ の中には一九六五年のクーデターに関与した、あるいは共産党員であったということが 罪とされる約一○○○人が含まれており、それから三○年たった今でも少なくともその うち二五人がまだ投獄されたままになっている。また五○○人になるイスラムの活動家、説教師、学者、数百人になる東ティモール、アチェ、イリアン・ジャヤの独立運動家た ち、そして数十人の大学生、農民、人権活動家もそこに含まれている。多くは暴力を使ったこともなければそれを唱道したこともない。今なお終身刑などの刑罰に服している政 治囚は約三五○人いる。
インドネシアと東ティモールにおける政治裁判は、公正な裁判たる基準をみたしておらず、インドネシア自身の刑事訴訟法にすら従っていない。反国家転覆法で訴追された人々についてはとりわけそうで、というのもその法は、刑事訴訟法によって保障された最低限の権利、侵害の予防をおこなわないことを許しているからである。この法は死刑などの厳しい刑罰を用意している。インドネシアと東ティモールにおけるすべての政治裁判は実際には見せ物裁判であって、その意図は、新秩序が「法の支配」を原則とする体制であるという主張を裏づけるためと、潜在的な政府反対者に警告するというところにある。数千人におよぶインドネシア人、東ティモール人被告の中で政治裁判で無罪となったのは、知られるところ、たったの一人しかいない。
政府は、とりわけその政治的反対者に対して死刑を利用してきた。一九八五年以降処刑された三○人のうち、二七人までが政治囚であり、その大半が二○年以上も投獄されていた人々であった。処刑の時期はこれらの処刑が政治的な考慮の結果であることを示している。政治囚の周期的な処刑は、国家反逆行為に「警戒」する必要があるという警告であると同時に、国家が究極の権力をもっているのだということの表明でもある。
特殊部隊(Kopassus)、機動隊、鎮圧部隊など、軍人および軍エリート部隊の隊員たちは、政治的反対者と目される人々に対するきわめて重大な侵害に責任をもっている。正規の警察については、鎮圧作戦および政治的容疑者の逮捕においては二次的な役割しかはたしておらず、それがおこなっている人権侵害は比較的少ない。しかし、警察官は刑事容疑者に対する拷問、時には死にいたしめるほどの虐待に主たる責任をもっている。深刻な人権侵害が政府が後押しする軍・警察の補助部隊、および刑務所警備員・所員によっておこなわれてきた。
インドネシアと東ティモールにおける人権侵害の犠牲者はすべての宗教的、民族的グループにおよんでおり、年齢、性、社会的地位にかかわらず存在する。しかし犠牲者の多数を占めているのは農民、都市スラムの住民、労働者といった貧しく持たざる者たちである。

国際社会の黙認【目次へ戻る】

国際社会は最近までインドネシアと東ティモールにおける計画的な人権侵害に対して沈黙をたもってきた。沈黙の理由は単純である。インドネシアの新秩序政府は、それが誕生したときから、西側にとって重要な友人であり同盟国であるからである。それはアジアの近隣諸国からも非同盟諸国からも批判をまぬがれてきた。
世界で四番目に大きな人口をもち、豊富な天然資源、大量の安価な労働力を提供するインドネシアは常に経済的権益の宝庫であった。一九六五年から六六年にかけてのインドネシア共産党の抹殺、果敢な民族主義者スカルノの放逐、そして反共軍事政権の樹立は、経済チャンスを劇的に拡大し、それと同様に重要なこととして、冷戦のさなか西側にかなりな政治的利益をもたらしたのであった。インドネシアは太平洋とインド洋を結ぶ重要なシーレーン上にあり、戦略的にも重要であった。今日でもそうである。米国とその他の多くの西側諸国は、一九六五年から冷戦期を通じ、インドネシアに莫大な経済的、軍事的、政治的支援を行った。そして計画的な人権侵害の明白な証拠を無視することを都合よしとしてきたわけである。
冷戦終結以後、反共主義という政治的スローガンは、「民主化」「良き統治」といったものへの関心におきかえられた。いくつかの西側政府は、インドネシアの人権状況、とりわけ東ティモールにおける人権状況への憂慮を声にし始めている。一九九一年一一月のサンタクルス虐殺には多くの政府が強い遺憾の意を表明したし、一九九三年五月の東ティモール抵抗運動の指導者シャナナ・グスマォンに対する判決のあとには、非難もおこなわれた。また一九九二年、九三年、九四年の一連の国連の決議と声明は、東チモールにおける人権状況についてインドネシアを公に批判した。
従来の慣行から大きく転換したこととして、いくつかの政府は人権への関心から具体的な措置をとった。たとえばサンタクルス虐殺ののち、オランダは経済援助を人権状況の改善と関係づけるという計画を発表した。カナダとデンマークは、すでに動きだしていた援助は別として、新規の開発援助を一時的に凍結した。一九九三年、ベルギーは二国間援助に人権尊重を条件とした。一九九三年半ば、イタリアは、人権への関心から、インドネシアへのすべての軍事的移転を停止した。
米国の議会および政府も意義ある措置をとった。一九九二年と九三年、議会はインドネシア軍に対する軍事教育・訓練の費用を、人権面での実質的な改善がなされることを条件に、カットした。一九九三年、議会は人権を理由にインドネシアへのジェット戦闘機の転売を許さなかった。政府の方もインドネシア政府に対し、労働権の実質的改善がなされなければ貿易上の特権を失うであろうと警告した。
しかしながら、インドネシアの人権状況に対する国際社会の反応は十分ではない。多くの政府は、インドネシアと東ティモールの人権に憂慮を表明する一方で、インドネシアに人権侵害に使われる可能性のある兵器を供給しつづけている。また人権侵害で名高いインドネシア軍の部隊に軍事訓練をおこなったり、あるいはそれと共同演習をおこなったりした政府もある。一九九三年英国政府はインドネシア政府への四○機のジェット戦闘機の売却を許可した。ドイツは三隻の潜水艦と三九隻の軍艦を売った。そのいくつかにはミサイル発射装置がついている。またスイス政府は銃火器および対空銃の部品の販売を許可した。そして一九九三年オーストラリア軍は鎮圧部隊として長年重大な人権侵害をおこなってきたインドネシア軍特殊部隊との共同演習・訓練を行った。一九九三年一○月、欧州委員会はインドネシアに対する禁輸の提案を拒否した。
いくつかの政府は経済援助を人権と関係づけているが、大半の援助供与国はインドネシアへの援助をむしろ増大させてきた。サンタクルス虐殺後の二年間、毎年集まってインドネシアへの二国間・多国間援助について合意する開発援助の連合(コンソーシアム)である「インドネシア協議グループ」(CGI)は援助総額をだんだんと大きくしてきた。人権への憂慮が貿易パターンに見るべきインパクトを与えたということもない。外国政府の支障なくやっていきたいという考え自体が、人権より経済的利益が優先だということの明確なシグナルとなっているのである。
外国政府はインドネシア政府に経済的、軍事的支援をおこなっているだけではなく、インドネシアでの弾圧を逃れてきた人々を拒否してもいる。フィンランド、スウェーデン、バチカン政府といったいくつかの欧州の政府は、インドネシアでのそれらの大使館(外交公館)に庇護をもとめてきた亡命希望者たちの取り扱いにおいて、国際法上の義務をおこたった。また日本、マレーシア、パプア・ニューギニアなどのいくつかのアジアの政府も、その大使館に入った亡命希望者たちに保護を与えることを拒否したり、重大な危険があるにもかかわらず、インドネシアに強制送還した。いくつかの政府は退去や引き渡しに際し、亡命希望者が訴追されないとインドネシア側当局が保証してくれたと言ってそうした措置を正当化した。しかし、亡命希望者の身の安全を保証するというインドネシアの公式の言明は、頻繁にやぶられた。
さらにより根本的な問題として、国際社会はほとんど東ティモールの人権問題ばかりに焦点をあてており、しかもその場合ですら、サンタクルス虐殺のようなもっとも劇的な類の事件にしか関心を示してこなかった。インドネシア軍がアチェ、イリアン・ジャヤ、ジャワ、そして首都のジャカルタなど、国全体で行っているひどい人権侵害は、事実上、注目されることがなかったのである。また東ティモール以外での人権侵害が国際社会の良心のとがめとなったことがわずかばかりあったとしても、それらは個々ばらばらの事件として扱われた。この報告は、人権侵害は東ティモールに限られたものではなく、殺害、拷問、政治的投獄はインドネシア各地から報告されており、個々ばらばらな事件などではまったくないということを示す。それらは、四半世紀にわたって明かされることのなかった計画的人権侵害のパターンの一部にほかならないのである。

==目 次==

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はじめに
「新秩序」における人権-概観
国際社会の黙認

抑圧の歴史
歴史的背景
一九六五年の一○月クーデター
「新秩序」
軍の権力
イデオロギー管理
市民的、政治的権利の制限
体制不満の声

武装抵抗運動と反乱鎮圧
東ティモール
アチェ
イリアン・ジャヤ
反対派による人権侵害

法と免責
独立性を欠いた司法
抑圧的な法律
反国家転覆法
敵意拡散条項
刑事訴訟法
人権侵害の免責
調査
懲罰
賠償と補償<

超法規的処刑
東ティモール
アチェ
イリアン・ジャヤ
平和的な抗議参加者
ニパー・ダム殺害事件
ハウル・コネン殺害事件
マルシナ殺害事件
犯罪容疑者

拘禁中の拷問、虐待、死亡
東ティモール
アチェ
イリアン・ジャヤ
平和的な抗議参加者
犯罪容疑者と囚人

政治的投獄と不公正な裁判
投獄のパターン
東ティモール
アチェ
イリアン・ジャヤ
ムスリム活動家
共産党囚
学生
農民と土地問題の活動家
労働者と組合活動家

死刑
無実の人を殺す
残虐な処遇
政治囚
犯罪容疑者

政府の人権イニシャティブ
人権論議をリードする
国連人権機構との協力
人権状況監視の制限
国家人権委員会
政府とアムネスティ・インターナショナル

結論と提言
インドネシア政府への提言
第一部 人権侵害の解決と賠償
第二部 人権侵害の予防
第三部 人権の伸長
国連加盟国への提言




1.抑圧の歴史【目次へ戻る】

計画的人権侵害は、インドネシアにおける政治権力の構造、とりわけ新秩序体制のもつ軍の伝統、政治制度、イデオロギー的傾向とわかちがたく結びついている。人権の視点から見た場合、政権の鍵となる特徴は、軍のもつ強力な政治力、行政権力の大統領とその側近への集中、厳格なイデオロギー的一体性の強要といったところにある。 大統領と行政の権力に対するチェックが存在しないため、抑圧手段は恣意的に使われている。さらに治安部隊が一般的に自由に暴力を使い、罰せられることなく人権侵害をおかすことができるため、恣意的弾圧は蔓延している。

歴史的背景

今日のインドネシアの領土は、三五○年にわたってオランダが植民地とした、本来は個々ばらばらな地域である。今世紀に入るころには、植民地はオランダ領東インドとして知られるようになり、それは広大な領土をもち、さまざまな文化、宗教、言語集団を内包していた。こうした多様性にもかかわらず、一九三○年代までに、インドネシアの独立運動は団結を達成し、オランダ支配にたちむかうようになっていた。民族主義勢力は一九四二年、日本がオランダ植民地体制をいとも簡単に崩壊させたということに、感化を受けた。

初代大統領スカルノは、日本降伏の直後の一九四五年八月一七日、インドネシアの独立を宣言した。しかし、インドネシアが独立を実際に手にしたのは、オランダの復帰に抵抗して戦った四年にわたる戦争ののち、一九四九年になってからであった。一九六○年代の初めまでに、軍はインドネシア政府の三つの重要な政治勢力の一つになっていた。あとの二つはスカルノ大統領自身と三○○万人党員をほこったインドネシア共産党であった。
独立して一五年の間(一九五○-六五)に、重要な政治的、人権上の遺産が残された。一九五○年に発布された憲法は、世界人権宣言に列記された市民的、政治的権利をあますところなく保障していた。しかし、軍の圧力の下、スカルノ大統領が大統領令によって憲法制定会議を解散し、一九四五年憲法への復帰をなしとげたとき、立憲主義の実験は不幸にも終止符を打たれたのだった。この一九四五年憲法、すなわち現行憲法は、基本的人権についてはあいまいな保障をおこなっているにすぎず、政治権力を行政府、とりわけ大統領に集中させているのが特徴である。

一九六五年の一○月クーデター

インドネシアの独立後の歴史の中でもっとも重要な政治的事件といえば、一九六五年の軍事クーデターである。一九六五年一○月一日、スカルノ大統領に忠誠を誓うひとにぎりの中級の陸軍将校が六人の将軍を誘拐し殺害したのである。将校たちは、これらの将軍が米国CIAの協力者であり大統領を裏切っていると疑っていた。インドネシア共産党についていえば、ごく一部の指導者は計画を知っていたかも知れないが、大半の共産党員とその支持者が計画を知らず、事件に何の役割もはたしていないことは歴史の証拠が示すところである。
しかし、スハルト少将(現大統領)率いる軍は、この未遂に終わったクーデター、とりわけ将軍たちの暗殺をインドネシア共産党の責任にして、それをカウンター・クーデターを成功に導くための口実とした。そしてそれが、今世紀最悪の虐殺の一つへのプレリュードとなったのである。それから一年もたたないうちに、五○万人から一○○万人が殺された。大量殺害は、政府や軍が常に主張してきたような、インドネシア共産党がしたとされる裏切りに対する自発的な反応では決してなかった。それは、インドネシア軍と軍が支援、ないしは黙認した民間自警団によって鼓舞され、組織され、実行されたのである。
インドネシアの現在の政権はこの一○月クーデターを機に権力の座についた政権である。すでに三○年近くたった今でも、このクーデターはインドネシアの政治生活、政府の人権政策と実施に影響を与えている。政府がつくりだした共産党の責任という神話は、激しい反共主義を支え、政治的反対者を弾圧することを正当化する役目をになっている。共産党の「裏切り」という考え方は、共産党とおぼしき人々を殺した者が、少なくとも権力者たちによって、国家的英雄として顕彰されることを意味する。公定の歴史によれば、罪なのは数十万人の民間人の殺害を命じた者たちではなく、犠牲者自身だということになっている。

「新秩序」

スハルト将軍は一九六五年のクーデター後、指導的政治家として浮上した。陸軍といろいろな反共政治集団の支援を受け、彼は事実上、国全体を掌握し、一九六八年三月には大統領に就任した。それ以来、一九九三年におこなわれた最も最近のものを含め、五期にわたって対抗馬のいない大統領選をくぐりぬけてきた。
大統領の権力は、行政機構の各所に配分された幅広い権限に現われている。大統領の側近たちは、閣僚であれ軍人であれ、事実上チェックされない権力をもっている。行政権は、村レベルまで広がる高度に中央集権的な巨大な官僚組織を通じて行使される。開発に民衆も参加していると政府は喧伝するが、国を動かしているのは行政の決定であり、その実行のチャネルとなっているのが、国家の官僚組織なのである。
さらに、大統領と行政の権力は他の政治組織を制限することによって強化されている。政府が支援する与党、ゴルカル(職能集団)以外には、ただ二つの政党しか存在を許されておらず、そのいずれも多数派となるチャンスはまったくない。五年おきにおこなわれる総選挙の前には、すべての候補者は軍の諜報機関の検査を受け、その上で大統領の承認を得なければならない。イデオロギー的に不健全とされる候補者たちは立候補できない。選挙期間以外の政党活動は法律で禁止されている。ゴルカルは軍、行政、公務員組織と正式な関係をもっており、すべての国家公務員はゴルカル支援を求められている。
主たる議会である国民協議会(MPR)は五年に一度開かれ、大統領を選出し、国策大綱を承認する。その一○○○人の議員のうち選挙で選ばれるのはたったの四○○人にすぎない。残りは大統領や軍の指名による。軍の指名議員と選挙で選ばれた議員は、いわゆる国会(DPR)にいる。これは形式的には立法機関であるが、その主な機能は行政が出してくる法律に「ゴム印」を押すことでしかない。州議会、県議会なども同様に権力がない。

軍の権力

一九六五年のクーデター以後、軍は支配的な政治勢力となった。国家の制度もイデオロギーも以来軍によってつくられてきたし、国家機関のリーダーシップは軍の将校たちによって占められてきた。新秩序政府は法の支配を基礎にした民主主義政体であると主張している。しかし多くの点でそれは権威主義的軍事政権である。そしてそのことは人権政策とその実施において、重大な帰結をもたらすことになる。
軍やその補助組織がインドネシア共産党を壊滅させたその方法は、一九六五年のクーデター以後、制度化され、そうした方法はその後続いた反乱鎮圧キャンペーンや「秩序」を回復するための数多くの作戦に利用された。国家の安全に対する脅威と思われるものに対する武力の使用と集中的監視は、「治安第一主義」と公式に呼ばれている。反体制グループはもちろん、政府部内の若干の人々ですら、最近このアプローチに疑問を呈するようになった。しかし、軍が自ら、国の政治生活をコントロールする手をゆるめ、それによって軍が権力の座にとどまっていられる抑圧的な手段を放棄する用意があるというきざしはほとんどない。
インドネシア軍は常に、対外的な脅威より国内からの脅威に対処するよう組織されてきた。村レベルまで貫徹する軍管区構造にしたがい、軍隊は国全体に配置されている。それぞれのレベルにおいて、軍は政治的、社会的、経済的、そして当然軍事的なことがらに幅広い権限をもっている。原則的には、軍は文民官僚組織の内部において動くことになっている。しかし実際には軍司令官のことばこそが法なのである。
軍の管区部隊のほかに、もっぱら反乱鎮圧作戦に従事するエリートの戦闘部隊と補助部隊がいるが、すべてが重大な人権侵害に責任をもっている。中でももっとも大きな権力をもつは特殊部隊であり、インドネシアの歴史の中でも最悪の人権侵害のいくつかに責任をもっている。反乱鎮圧部隊には、補助部隊の機動隊、陸軍戦略予備軍、そして警察の治安部隊も含まれる。
軍組織の中核部分には幅広い諜報ネットワークがあり、通常の指令系統を使った活動といくつかの独立した機関を通じての活動がある。その中でもっとも権力をもっているもののひとつが国家安定強化支援調整庁である。諜報部門は軍の内部で支配的地位を確立しており、それが通常の市民に対する国家の監視体制を高度に発達させる結果をうみ、人権侵害を助長している。

イデオロギー管理

目的を達成するために政府が利用したのは、あからさまな暴力だけではない。政府はまた厳しいイデオロギー管理も行ってきた。その管理システムの中心にあるものは、パンチャシラ(建国の五原則)という国家イデオロギーと一九四五年憲法、さらに国家の安定、安全、秩序といった主要な「国家の目標」である。これらの目標は国家の根本とされ、それらに対する脅威は、それがどんなものであっても、国家が暴力などの「断固たる措置」をとることを正当化する。公式には民主主義や開放政策などが唱えられてはいるが、これらの「国家の目標」を定義し解釈し、その脅威について判断するのは、行政・軍当局である。一九九四年二月に国家情報調整本部長官が述べたように、「国の政策の方向から逸脱しない限りにおいて、各地の人権団体も問題はない」ということなのである。(ジャカルタ・ポスト、一九九四年二月八日)
パンチャシラとは、唯一神への信仰、人道主義、国家統一、民主主義、社会的正義の五つである。パンチャシラの批判、ないしはそれからの逸脱は、法により罰せられる。一九八五年第八号法律によると、すべての大衆団体はパンチャシラを団体の唯一の綱領としなければならない。この法律が上程されたとき、宗教界や人権コミュニティから大きな抗議がまきおこった。抗議した人の中には逮捕されたり、反逆罪で長期刑を言い渡されたりした人もいる。
国家の安全、安定、秩序への執着、そして厳格なイデオロギー的一体性の強要は、基本的な市民的、政治的権利を制限し、あからさまな侵害を隠すためのみせかけの合法性を付与することになるため、人権侵害を助長している。東ティモール、アチェ、イリアン・ジャヤの独立運動家、土地の強制収用に抗議する農民、歴史の公定解釈に異議をとなえる作家、パンチャシラを批判するイスラム説教師、ストライキ権を行使する労働者、民主化を要求する活動家、政府の開発政策を批判する学生や弁護士、存在するだけで「混乱」をうみだすとされる都市のスクウォッターや行商人などはすべて、「反逆者」「共産主義者」「テロリスト」「裏切り者」といった非難をあびせられかねない人たちである。彼らは恣意的拘禁、拷問、投獄、あるいは死といった危険にさらされている。こうした状況では、相当に勇気ある人をのぞいて、ほとんどの人々はひるんでしまう。
新秩序がイデオロギー管理をどれほど重視しているかは、それに対するいかなる挑戦も、たとえそれが平和的であっても、暴力で対応していることから理解できるだろう。人権侵害はしばしばまったくもって平和的な抗議に対しておきている。東ティモールのサンタクルス虐殺は、デモ隊が反政府感情を表明していたという理由で、公式には正当化されている。一九九二年七月、管区司令官のマンティリ少将は報道陣に向かって次のように述べた。

「我々は何も後悔していない。起きたことはきわめて適切なことであった。..... 彼らは我々に反対し、デモをおこない、反政府的なことを叫んですらいた。私にとっては、それは反乱も同然だ。だから断固たる行動をとったのだ。..... 私は何もおかしいところはないと思う。」(エディトール誌、一九九二年七月四日)

一九九○年代の初めごろから開放がすすみ、それがインドネシアにおける政治の議論にやや従来とはちがった外観を与えてきた。しかしそれはイデオロギー管理の基本的なパターンを大きくかえることはなかった。政府高官たちは民主化や人権擁護を熱狂的に語ったりするが、同時にそうしたものが国家の安全や安定に対して内在的にもっている脅威について警告するのを忘れない。「西洋的な人権」や、自由民主主義、環境保護などを唱道する者は、反逆者よばわりされ、時には「第四世代の共産主義者」とまでレッテルをはられることもある。
一九九三年一二月、政治的開放をさらにすすめることが喧伝されてたった数か月後、大統領は、民主主義を求める平和的なデモの参加者たちを、変装した共産主義者と呼び、国民の警戒を呼びかけた。

「彼らがより大きな自由を求めるのは彼ら自身の利益のためであり、そのためにより大局的な利益を犠牲にするつもりなのである。それはパンチャシラに反する。..... これは我々に共産党に気をつけろと言う警告である。名前はちがっても同じ運動なのだ。我々は注意を怠ってはいけない。.....」(ジャカルタ・ポスト、一九九四年一二月一八日)

市民的、政治的権利の制限

政府による弾圧はまた、たとえば言論、集会、良心、運動の自由といった、多くの国際的に認められた市民的、政治的権利を厳しく制限していることも特徴的である。これらの制限は恐怖に満ちた社会的雰囲気をうみ出すのに一役かっており、その結果不満はおおやけにはめったに表明されない。またこれらの制限は、さらなる人権侵害を引き起こす温床にもなっている。
毎年、数十冊の書物が発禁となっている。理由は、政府やパンチャシラを批判しているとか、「マルクス主義」思想の要素を含んでいる、公共の秩序をみだす可能性があるといったものである。発禁の書物を所持している者は逮捕され、長期の実刑を受けた者もいる。現在禁止されている文学作品の中には、インドネシアの最も著名な作家の一人、プラムディア・アナンタ・トゥールがいる。彼は旧政治囚である。政治、宗教、法律、人権に関する本も禁止されたものがある。一九九二年に独立した組織であるインドネシア法律扶助協会が準備したアチェにおける政治裁判の報告書は、軍当局をネガティブに描いており不安定を引き起こすかもしれないという理由で禁止された。一九九四年には、スハルト大統領が一九六五年のクーデターの首謀者だと論じた本が禁止された。
政府はまた、演劇、詩の朗読、映画、講演、セミナー、平和的な政治集会といった公演や集会をも一時的に禁止することがある。一九九一年、中ジャワの軍司令官は、詩人エムハ・アイヌン・ナジブに対する言論封殺の命令を説明してこう言った。

「規則というものがあるんだ。表明された意見が政策の遂行をめぐって異なるものである限り、問題はない。しかしもしそれがパンチャシラに関することになったら、それは意見の相違といった問題ではすまされない。それには懲罰がある。....... 我々は開放を希望している。しかし開放といってもおのずと限界があるのだ。もしそれが我々の作ってきたシステムを越えて行くようであれば、許されない。」(クダウラタン・ラッヤット紙、一九九一年八月二九日)

政府はすでに最低限の干渉しか必要とされないシステムをつくりあげているにもかかわらず、国内・外国メディアはともに制限を課されている。検閲は通常、情報省役人や軍の諜報機関からの警告の電話ないしは直接訪問といった形がとられる。その上、さらに限度を越えたメディアに対しては法的措置が選択的にとられる。二、三の出版物の出版許可を取り消したり、外国人記者のビザを認めなかったり、少数の記者や編集者を投獄することによって、当局は「自己検閲」がおこなわれるよう促してきた。メディアに対する規制は、軍が反乱鎮圧作戦を展開するとき、もっとも厳しいものとなる。しかし比較的安定した地域においてすら、記者は政府によって妨害を受けることがある。
新秩序体制は宗教の自由を保障すると強く明言している。しかし実際には法的にも実際面でも厳しい制限を課している。国家が認める宗教は五つだけで、それはイスラム、カトリック、プロテスタント、仏教、ヒンドゥ教である。そして国家は宗教的正統性の最終的な調停者、実施者としてふるまっている。政府は数百におよぶ宗教グループないしは宗派を禁止、解散させてきた。検察長官によると、そうした団体が一九四九年から一九九二年までの間に五一七団体ある(コンパス、一九九三年八月五日)。そして政府はそうしたグループ、宗派のメンバーを反逆罪や非合法組織への関与という罪で逮捕してきた。政府および軍当局は、国家の安全と公共の秩序を保つという大義名分のもとに、認可されている宗教団体の内政に直接的に、ときに武力でもって、介入してきたのである。
政府は長年にわたって出国の許されない人々の「ブラックリスト」を維持してきた。ブラックリストに載った多くは、非暴力の政治活動あるいは信条、政府非難などが理由である。ある大臣が一九九一年に説明したところによると、「ゥゥs禁止が課せられている者たちは、国内、外国の双方で、一九四五年憲法と国家イデオロギーのパンチャシラ、開発、政府の権威をおびやかす者たちである」(ジャカルタ・ポスト、一九九一年五月一七日)。さらに数百人のインドネシア人および外国人は、事実かそう思われているだけか、いずれにせよそうした政治的信条を理由に入国を許されていない。
「ブラックリスト」廃止の要求に答えて、政府は一九九二年初めに新しい入国管理法を成立させた。これによって、いくつかの細かな侵害防止措置がつけ加わったものの、現存の手続きは正式なものとなった。一九九四年の初め、政府は「ブラックリスト」から一万五○○○人を削除したと発表した。その中には、一○年以上もリストに載せられていた一一人の著名な反体制活動家がいた(レプブリカ、一九九四年一月三日)。これらは歓迎すべき措置であるが、「ブラックリスト」自体が廃止されたわけではない点に憂慮が残る。さらに重要なこととして、この新しい法律と政府のブラックリストの掲載者数の削減(今や二○○○人になっている)は、数万人にもおよぶ旧共産党囚には影響を与えなかった。彼らはまた別の規則によって釈放以来出国を許されていないのである。

体制不満の声

政府の弾圧はその反対者、対抗勢力を消滅させるにはいたっていない。政府やその政策に対する平和的な反対は、広汎な社会的、政治的グループにおよんでおり、たとえばイスラム活動家、退役将校、引退した政治家、知識人、学生、農民、労働組合活動家などである。
市民的、政治的権利が制限されているため、こうしたグループにとって、通常の政治的チャネルを通じての意見表明はむずかしいか、あるいは非生産的とならざるをえない。その結果、こうしたグループは意見をインフォーマル(非公式)なやり方、つまりデモ、山猫ストライキ、文学作品、芝居の上演、あるいは自立的な宗教団体をつくることなどによって表明している。彼らが体制順応を示さないことは、安定と秩序という大義名分のもとに、警察や軍が手荒な干渉をおこなう口実となっている。
インドネシアはその人口の八七%がイスラム教徒であり、世界最大のイスラム教徒国である。しかしそれほどの割合をもつ主要な宗教であるにもかかわらず、インドネシアにおけるイスラムは反政府活動のひとつの中心でありつづけている。独立後最初の一○年、さまざまなイスラム・グループがインドネシアという新生国家の世俗主義に対し、ときに暴力的な手段に訴えてまでも挑戦した。これらの闘争はその後、国家にとってイスラム教が脅威になりうるとの不安を残すことになった。
最近では、イスラムの側からの政治的な挑戦は、より平和的に表明されるようになってきた。一九八○年代のなかば、イスラム学者や活動家は政府の経済社会政策を表だって批判し、イスラムの教えを脇へのけてのイデオロギー的一体性の強要を問題にしていた。これに対し政府は数百人ものイスラム指導者を逮捕し、イスラムの政治的力を解体する目的の法律をつくることによって対抗した。しかしこの五年間に、政府の対応もかわってきた。大統領とその側近たちは、影響力のあるイスラム指導者やイスラム知識人たちにアプローチをかけている。しかしながら、イスラムがいくつかの政府の政策に対しては反対勢力の拠点となっている点はかわらない。
退役軍人、政治家、知識人、影響力のある宗教界の人物などの穏健な反対者も、重要な反対勢力である。「五○人請願グループ」は、この一○年の間でもっとも知られた反体制グループのひとつであるが、その名前は一九八○年、政府の憲法にそわない権威主義的指導スタイルに抗議する請願を国会に提出したところからきている。グループのメンバーはその後「ブラックリスト」に載せられることになった。一九九三年、彼らの「ブラックリスト」化の責任者であった元海軍提督は、「(彼らの声明は)援助をもらおうという我々の努力に水をさすことになっただろう。だから予防的措置として彼らを出国禁止にしたのだ」と述べた(ジャカルタ・ポスト、一九九三年七月一三日)。
学生や若者もインドネシア政治では重要な役割をはたしてきた。一九六五年のクーデターの直後の時期、彼らはインドネシア共産党の壊滅とスカルノ大統領の失墜とをみちびいた軍・民間連合の非常に重要な部分をしめていた。一九七○年代、学生たちは新秩序への反対者として役割を果たすようになり、一九七四年、そして七八年から七九年にかけて、一連の反政府デモでそれは頂点に達した。学生たちの力をおそれた政府は学生指導者を投獄し、学生の政治活動を制限する法律を制定した。
そのことによって一九八○年代の学生の政治活動は、事実上おさえこまれてしまった。しかし一九九○年代初期に開放ムードが広がってくると、学生や若者たちは再び政治で重要な役割をになうようになり、労働者、農民などと一緒になってデモやキャンペーンを展開した。学生たちは人権や民主化をもとめる幅の広いキャンペーンも支援した。これらの活動によって学生たちはますます新秩序と対立するようになり、その結果、数十人が投獄されたのである。
近年、不動産事業や開発プロジェクトのために土地を無理やり明け渡すよういわれて問題になったケースが数十地域ある。こうした地域の多くは、強制退去に反対するとか、彼らが占有していた土地の補償を求めるために組織化を行っている。そしてこうした抗議運動の大半は非暴力的である。しかし当局はさまざまな手段、たとえば恐喝、短期的拘束、投獄、虐待などによってそれを弾圧し、「第三者」が土地問題を国家反逆的な政治的目的のために利用していると非難している。
労働運動家たちもまた、労働争議がますます盛り上がってきているこの三年間、国家反逆的な政治的意図をもっていると非難されてきた。政府はストライキ権、労働組合の組織権、加入権に対し厳しい制限を課している。組合はひとつしか認められておらず、それは官製の「全インドネシア労働組合(SPSI)」である。政府は、恐喝や逮捕など、あらゆる手段を使って「インドネシア福祉労働組合(SBSI)」のような独立系労組のきりくずしをはかってきた。軍・警察の直接介入は日常茶飯であり、もっとも平和的な労働争議においてすらそうである。軍当局はときどき虐待、拷問(レイプも含む)、殺害などの手段を、労働者、労働組合活動家をだまらせるために使ってきた。ただこの場合、軍の介入は通常はそれほど暴力的なものではない。果敢に発言する労働者は軍司令部に呼ばれ、共産主義の共鳴者だろうと非難され、もし仕事を自分からやめなければ投獄か身体への暴力などの目にあうと脅される。
最近では、ストライキの要求は主に労働条件や賃金の改善などであるが、インドネシアの賃金は一日当り一ドル五○セントしかなく、アジアでも最低ランクに位置している。また結社の自由、労働問題における軍介入の停止、過去の労働者に対する人権侵害の適切な調査などをもとめたストライキもあった。こうした憂慮に呼応するかのように、一九九三年七月、米国通商代表部は、インドネシアからの米国への輸入品に対する関税待遇は、国際的に認められた労働権の保護において有意味な改善がみられなければ撤廃されるかもしれないと警告したのである。




2.武装抵抗運動と反乱鎮圧【目次へ戻る】

インドネシア政府は、東ティモール、アチェ、イリアン・ジャヤにおいて、独立を求めるグループの長期にわたる抵抗運動に直面しており、集中的な反乱鎮圧作戦によってそれに応えてきた。比較的平穏で政治的にも安定した状況ですらすでに日常化していた深刻な人権侵害は、そうした状況下において、ほとんど不可避となった。武装抵抗グループもまた深刻な人権侵害に責任をもっている。
アチェ、東ティモール、イリアン・ジャヤにおける反乱鎮圧キャンペーンには、恐るべき共通性がみられる。当局は通常の法的手続きを緩やかに運用、あるいはまったく無視し、人権はそれがもっともよく守られた時ですら限定的な保護しか受けていないのに、国家の安全、安定、統一といった緊急事態に従属するものとなった。治安部隊員、およびその後ろ楯を受けて行動している者たちは、人権侵害を罰を受けることなくまったく自由におこなえると思っている。こうした問題は、インドネシア軍の、とりわけそのエリート反乱鎮圧部隊のもつ特定の性格によって、さらに増幅されている。
国軍の軍管区構造は、集中的な住民管理、検問、夜間の外出禁止令、家宅襲撃、大規模逮捕などをおこなえるようにできている。そしてエリート部隊が動員されるとき、重大な人権侵害事件が劇的に増大する。なぜなら、そうした部隊が使っている方法、その伝統、任務などは、抵抗派を壊滅させるため、あらゆる可能な手段を使うことを必然としているからである。また、エリート部隊の到着が現地の政治権力のバランスに変化をもたらすことも原因となっている。エリート部隊は大統領と国軍総司令官の直接の命令によって配備される。こうした状況下では、軍の政治的権威はほとんど挑戦不可能なものとなり、「敵」を破壊するためであれば事実上どんな手段でもとることが可能になるのである。
インドネシアにおける反乱鎮圧戦略の中心的要素は、公式的に「総人民防衛・治安体制」と呼ばれるところの「軍・民間協力体制」である。通常の状態では、それは地域社会を監視し、政治的反対者を割り出す手段である。こうして民間人が軍と協力関係を強制的に結ばされることの危険性は、とくに住民の間で紛争がおきている状況では明白なものとなる。東ティモールやアチェでは、「足の塀」作戦として知られている作戦において、村人たちを軍隊の前に立たせてその地区の掃討を行い、反乱者をあぶりだし、応戦されないようにしている。
地域の自警集団や、民間人から構成されるが軍が指揮している夜のパトロール集団は、この作戦の要である。それらは通常、反乱地域と疑われている村々の青年たち二○人から三○人を集めて構成される。アチェの地域軍司令官のことばを借りれば、「青年は前線に立つ。彼らは誰が(反乱者であるか)一番知っている。その後、われわれが問題を処理する。」(コンパス、一九九一年七月一一日)
またこの作戦においては、軍が民間人にスパイ行為を促し、反乱者の疑いのある者を密告させたり、あるいは殺させたりすることもある。一九九○年一一月、アチェの新任軍司令官、H・R・プラモノ少将はこう述べている。

「私は人々に、テロリストを見つけたら殺せと言った。調べる必要などない。住民を犠牲にしてはいけないのだ。もし言うことを聞かないようだったら、その場で射殺するなり、切り殺してしまうのだ。地域の住民にはナタなどの刃物を持ち歩くよう言っている。テロリストを見つけたら、殺すんだ。」(テンポ誌、一九九○年一一月一七日)

東ティモール

ティモール島はオーストラリアの北約四○○キロメートルに浮かぶ島で、ジャカルタからだと一三○○キロメートルある。その東半分である東ティモールは、一九七五年までポルトガル植民地であった。一九七五年一一月、短い内戦のあと、東ティモール独立革命戦線(フレテリン)が東ティモールの独立を宣言した。そしてその翌月、内戦を終わらせるという口実で、インドネシア軍が侵略し、以来、今日まで占領を続けている。
インドネシアは一九七六年七月に東ティモールをその二七番目の州としたことを宣言したが、国連はその併合を認めていない。米国などいくつかの政府は、インドネシアの主張に事実上の承認を与えた。オーストラリア政府はインドネシアの東ティモールに対する主権を正式に認めた。しかし一九九四年のなかば現在、東ティモールの住民はいまだ自由にして公正な自決をはたすにはいたっていない。
大規模なインドネシアの軍事的プレゼンスおよび広汎な人権侵害にもかかわらず、インドネシアの支配に対する武装抵抗、および平和的な抵抗運動が、一九七五年以来今日まで続いている。抵抗運動は長い間フレテリンとその軍組織である東ティモール民族解放軍(ファリンティル)がその先頭に立ってきたが、一九八○年代の終わりに「東ティモール民族抵抗評議会(CNRM)」という統一組織がつくられ、フレテリンも東ティモール民主同盟(UDT)、その他の独立派集団もそれに統合された。東ティモールでは小さなゲリラ部隊が活動しているが、インドネシア支配に対する抵抗運動の大半は、農民や学生、若者、公務員などによる非暴力地下抵抗運動の形をとっている。
インドネシア政府は東ティモールから軍を撤退させるという計画を何度も発表した。 しかし、軍の出す公式の数字によれば、一九九四年初めの時点で、九大隊(約六○○ ○人)が東ティモールに配備されている。一九九三年末に一大隊が撤退したが、すぐ に他の部隊、つまり戦略予備軍から二○○人の戦闘部隊と機動隊の一部隊によって補 充された。
アチェ

アチェは、ジャカルタから一○○○マイル離れたスマトラ島の北端に位置し、人口は三四○万人である。東南アジアでもっとも古いイスラム王国があったところで、豊かな文化的遺産と外国勢力の支配に対する長い抵抗の伝統をもっている。まさにその伝統が「自由アチェ」(正式名称-アチェ・スマトラ民族解放戦線)という武装独立運動に引き継がれている。「自由アチェ」は一九七六年一二月四日、アチェの独立宣言を一方的におこなっている。最近住民が独立を支持するようになってきているのは、アチェにおける産業発展の利益配分が不公平であること、また住民からみて、中央政府や軍当局、経済移民などが現地の慣習や宗教を尊敬していないという不満が理由である。
一九八九年まで「自由アチェ」は、とくに北東部を中心とする住民の相当な部分の共感を集めていた。しかし一九九○年なかばに始まった反乱鎮圧作戦によって、現地で独立運動が動ける余地は少なくなり、その結果その軍事的地位は弱くなってしまった。一九九一年三月、政府・軍当局は「自由アチェ」は「壊滅した」と宣言し、その年の暮れまでには独立運動の主要な司令官たちの多くが殺されたり、捕えられたりした。しかしそれでも「自由アチェ」は軍や警察を標的にした散発的な攻撃を続けている。

イリアン・ジャヤ

インドネシアが一九四九年に独立を達成したとき、当時オランダ領ニューギニアと呼ばれていたイリアン・ジャヤはオランダの統治下に残されることになった。一九六三年五月一日、その事実上の統治権がインドネシアに委譲され、一九六九年インドネシア政府は当地の帰属を決定するための住民投票をおこなった。相当の反対が存在したにもかかわらず、投票ではインドネシアへの統合が多数を占めた。
インドネシアへの統合に対する反対は一九六三年から今日まで続いている。イリアン・ジャヤのメラネシア系住民とインドネシアの他の地域からやってきた移民たちの間にある、あるいはあるとみなされている、人種的、文化的違いも政治的緊張の重要な原因である。イリアン・ジャヤにインドネシア人を定着させる「トランスミグラシ」と呼ばれる移民政策は、現地住民を植民地支配し同化させる政策であると批判されてきた。また国営・民間企業による天然資源の収奪も、住民の伝統的な権利や環境の悪化などに対する憂慮の原因となっている。こうしたことでインドネシア支配への反対が激化している。
独立を主張するグループの中でもっとも知られているのが「自由パプア組織」(OPM)である。OPMの戦闘員は政府によれば数百人と見積もられているが、それに共鳴する人の数はこれよりはるかに大きい。OPMは武力闘争を唱えている。しかし多くの独立支持派の人々は、デモや独立旗掲揚式典、政治討論会、国連など国際機関へのアピールといった平和的な手段をもちいている。

反対派による人権侵害

インドネシアと東ティモールの三つの武装抵抗運動の側も、意図的・恣意的殺害、拷問、人質などの人権侵害をおかしてきたと報告されている。当該地域に入ることは厳しく規制されており、反対派の人権侵害についての情報はほとんど記録されていないため、この種の報告はその真偽を確認しがたい。しかし、アムネスティ・インターナショナルはそうした報告も真剣に取り扱われるべきだと考えている。
インドネシアの当局はフレテリン(東ティモール独立革命戦線)が密告者と疑がった者に対し拷問、処刑などの人権侵害をおこなったと非難してきた。当局はその真偽を適切に調べられるほどの詳細な情報を通常は提供しない。しかし、独立した情報筋を通して、アムネスティ・インターナショナルは反対派の人権侵害について詳しく記録された報告をいくつか入手している。一つはフレテリン自身によって公表されたもので、一九八三年にインドネシア軍に協力したと考えられる東ティモール人若干名を意図的に処刑したというものであった。反対派の人権侵害は最近でも続いているようであるが、規模は小さくなっている。
一九八九年から九○年にかけて、インドネシア軍の発表や現地での報道によると、「自由アチェ」は重大な人権侵害をおこした。当初、犠牲者は警察官や軍人であった。一九九○年四月までに「自由アチェ」が殺害した民間人は、密告者と疑われた一人だけであったと報告されている。しかし一九九○年なかば以降、民間人に対する攻撃が増え始めた。民間人の攻撃は、政府の報告によると、一九九○年五月に劇的に増え、六月にはさらにエスカレートし、その直後、政府は反乱鎮圧部隊の増員を発表した。主な犠牲者となったのは協力者と疑われた人たちや、東アチェ、北アチェにあるトランスミグラシ(移民)地区に住む非アチェ人たちであった。六月の終りまでに少なくとも三○人の民間人が殺され、「自由アチェ」によるものとされる脅迫と迫害によって数千人の移民が避難した。
イリアン・ジャヤでは、一九八八年三月、ジャヤプラ近くのトランスミグラシ地区が武装襲撃され少なくとも一三人の民間人が殺され一七人が負傷した事件があったが、これはOPMがおこなったと言われている。OPMは一九八九年一二月にもさらに二ヵ所のトランスミグラシ地区を攻撃しており、少なくとも三人の死者を出している。さらに一九九○年一一月、パプア・ニューギニア領のアマナブで、OPMゲリラは二人の外国人宣教師を含む六人を捕え、パプア・ニューギニアに「西パプア」独立国の承認を求めて二週間近くも人質としていた。
アムネスティ・インターナショナルはこうした人権侵害を非難し、三つの武装抵抗勢力の指導者たちに対し、そうした行動を停止し、国際人道法の原則にしたがうことを呼びかけるものである。しかし、武装抵抗勢力の行動は、それがいかに暴力的であったとしても、断じて政府軍による人権侵害を正当化する口実に利用されてはならない。政府というものは、人権を掲げ保護する比類なき責任を有している。もし政府が人権への尊重を示さなかったら、他の者もまた同様にそうしてもいいと思うであろう。




3.法と免責【目次へ戻る】

インドネシアの政府・軍当局は、「新秩序」は単に政治権力にもとづいて存立しているのではなく、法の支配にもとづいていると主張する。これは部分的に正しいにすぎない。すべての法制度がそうであるように、インドネシアの法制度もまた、現在の政治権力の構造を反映し、それを支えているからである。インドネシアにおける軍と行政の支配は、それと関連する四つの法制度の側面、すなわち司法の独立性の欠如、抑圧的な法律と規則、法の恣意的運用、人権侵害の責任者の免責によくあらわれている。

独立性を欠いた司法

法律上、インドネシアの司法は行政から独立している。しかし現実はまったくちがっている。司法の独立が制限される例はとりわけ政治裁判において顕著で、そうした場合、絶対的な権限をもつのは軍であって、検察は政府の命令にしたがい、裁判官は政府、治安当局を困惑させるような裁定を避けるのである。
司法の独立の欠如は部分的には制度的な問題である。裁判所の行政事務は法務省がおこなっており、裁判官も裁判所職員も検察官も、給与、昇任などの利害に関して行政に依存している。行政や軍に刃向かう者は昇進の道を限定される可能性がある。
また司法の独立をおびやかす法律や規則もいくつか存在する。インドネシアではすべての公務員は唯一の公務員組織「インドネシア公務員隊」に加入しなければならず、裁判官も例外ではない。この組織は絶大な権限をもつ内務省の庇護のもとで活動している。大統領は、彼が追及すべきと思うケースを差し示すことで、司法の管轄事項に直接介入できる。最高裁は政府の出す布告や指示が基本法と合致しているかどうか裁定をくだすことができるが、完全な違憲立法審査権をもっているわけではない。
司法の独立の欠如は、単なる制度的、法的問題にとどまらない。インドネシアでは制度が自立・中立性を保証している場合ですら、とくに軍によってそれが日常的におびやかされている。法がどうできていようと、司法は体制の道具にほかならない。ほとんどすべての政治裁判と公判前の聞き取りがそれをよく示している。実際、人権侵害をおかした張本人が裁判にかけられるということはほとんどないのである。

抑圧的な法律

きわめて多くの抑圧的な法律と規則とが、政治的反対者(実際そうである場合もあるし当局がそうみなしているだけの場合もある)を投獄し、時には死にいたらしめ、潜在的な反対者に警告を与えるために使われてきた。その中には、さらなる人権侵害をむしろ鼓舞するような手続き条項もある。司法に関する新しい法律や刑事訴訟法に対し当局は無頓着でそれを遵守しない。
現行の刑法は植民地時代から引き継がれたものである。過去の遺産たる法制度を変える必要を認識していた政府は現在その修正に着手している。しかし今回の改正は膨大な抑圧的な法律にインパクトを与えることにはなりそうにない。現在審理中の改正刑法案は、ほとんどすべての国家治安法をほとんど修正しないまま統合したものになっている。いずれにせよ、最も抑圧的な法律の多くは大統領や大臣による布告、指示、決定などの中にあり、それらは刑法によって影響を受けることはない。

反国家転覆法

インドネシアにおける抑圧的な法律の基礎に「反国家転覆法」がある。これはもともと一九六三年に大統領令として発布され、以来数十万人ものいわゆる反政府派を裁判にもかけず拘禁することを正当化し、さらに千人以上を見せ物裁判にかけるために使われてきた。条文があいまいで大ざっぱなため、だれのどのような発言、行動であれ、公共の秩序を乱したとか、パンチャシラ(建国の五原則)や政府、政府機関、その政策を批判したというように解釈して訴追し有罪にすることが可能である。
反国家転覆法はまた、連絡不通の拘禁、拷問、「失踪」、超法規的処刑などの人権侵害を助長する。ひとたびこの法律が用いられれば、被拘禁者の権利を守るためにある刑事訴訟法の主要な条項は適用されないか、一般には無視される。この法律は他の法律に比べ、政治的犯罪に対し死刑を含むより厳しい罰をもってのぞんでいる。反逆行為を立証するための証拠基準もかなり甘く、実際、この法律が使われるのは一般に当局が適切な証拠を発見できないときなのである。この法は軍に例外的な権力を与え、被拘禁者の権利を著しく制限しているため、不可避的に深刻な人権侵害をひきおこすのである。
弁護士や議員、国連の拷問に関する特別報告者などの国際的な人権専門家たちは反国家転覆法の撤廃を繰り返し呼びかけてきた。この法律は違憲だと言う意見もあれば、現在の法律の原則、価値基準と矛盾しているという意見もある。ただそれが抑圧の道具になっているとする点ではすべての意見が一致している。
反国家転覆法は今なお広く使われており、政府も司法当局もその廃止には反対している。それどころか政府役人は法律の範囲を拡大しようと論じてさえきた。そうした議論自体、この法律に潜む危険性を明らかにしてくれる。一九九三年初め、廃止を求める声が上がったのに応え、検察総長は反逆罪廃止論者たちをこう非難した。

「反国家転覆法は人気がないと言う者たちは、自らが反逆行為をおこなう意図をもっている者たちである。」(レプブリカ紙、一九九三年二月五日)

反国家転覆法は細部を修正されて改正刑法に統合されることになるだろう。現実には何も変わらない。法律にさらなる正統性と永続性を与えるだけである。濫用を防ぐ方法はただ一つ、この法律をまるごとなくしてしまうことしかない。なぜならこの法律は単に濫用されるためにしか存在しないからである。

敵意拡散条項

政府役人に対する「敵意を広める」ことを禁じた一連の条項は改正刑法でも維持されることになっている。いわゆる敵意拡散条項は一九○○年代の初めにオランダ植民地当局によって導入され、独立後、植民地刑法とまるごと一緒にインドネシアの刑法に統合された。反国家転覆法には強い批判があるため、政府は近年、いわゆる政治的反対者を投獄、迫害するのにこの敵意拡散条項を使うようになった。
反体制派を弾圧するのに使われてきたのは刑法の一五四条、一五五条、一六○条である。一五四条では「政府に対する敵意、憎悪、侮辱といった感情を公に表現すること」は最高七年の刑に処せられる。一五五条はそうした感情や見解を公のメディアを通じて表現することを禁じ、違反した場合、最高四年半の刑が用意されている。一六○条は、政府の命令に対する不服従や違法行為を「扇動」した罪に最高六年の刑を定めている。一三四条は、通常敵意拡散条項の中に含まれない条項だが、「大統領侮辱」に最高六年の刑を定めている。これらの条項のもとで、数十人の平和的なデモ参加者が良心の囚人として投獄されている。

刑事訴訟法

インドネシアの人権問題の原因となっているのは抑圧的な法律だけではなく、しばしば法の恣意的な運用でもあって、したがって最善の法律が存在するときですらそういうことがおきるのである。被拘禁者や被告のための保護を規定している法律は運用規則によってしばしば骨抜きにされている。そうした規則がなかったとしても、一般市民の権利を保障した法律や国家権力を制限した法律は、政府役人や軍人によって頻繁に無視されている。このことは刑事訴訟法の運用の実態を見るときに明白なものとなる。
一九八一年に導入された現行の刑事訴訟法は、改正前のものに比べかなり改善されていると法律の専門家たちが賞賛するもので、とりわけ被拘禁者と被告の権利についてはそれは正しい。しかし実際には、訴訟法の重要な条項はしばしば無視され、あるいはその実施が阻止されてきた。たとえば、被拘禁者は弁護士を依頼する権利を与えられているが、多くの被拘禁者は尋問の際弁護士を同席させることを許されなかった。警察・軍当局は、被拘禁者の家族、弁護士との面会を許さず、彼らが法的援助をさしだそうとする努力を妨害した。
訴訟法の実効性を低めているものに、法務省が出している施行のガイドラインがある。たとえばあるガイドラインによると、被疑者が弁護士に接見できるのは勤務時間内に限られる。尋問はよく勤務時間外の夜間におこなわれているにもかかわらずである。訴訟法は取り調べ当局が被疑者尋問の意図を弁護士に通知することを義務づけていない。もちろん彼らはそうしないことの方を好むわけである。また、訴訟法では弁護士は刑務所にいる依頼人と自由に秘密の話をすることができなければならないとされているが、法務大臣によるガイドラインによれば、被拘禁者と弁護士とのやりとりには刑務所職員が同席すべきことになっている。
訴訟法にもりこまれた権利の保障は、それに違反したからといって実効的な罰則規定がない。訴訟法は被疑者ないしは証人から情報を引き出すために脅迫を用いることを禁じているが、当局が不適切なやり方で得た証拠や証言の法廷での使用を排除する明確な規則は存在しない。被告は法廷で自白や証言が脅迫によって引き出されたものだと訴えることはできるが、そうした訴えを証拠として受け入れるかどうかは裁判官の判断するところとなっている。通常裁判官はそうした訴えをしりぞけるか無視するかであり、時には被告を偽証罪で罰すると脅すことさえある。
さらに司法の独立が確保されていない状況では、裁判官は公判中に明らかになった訴訟手続き上の違反を追及しない傾向がある。一九八一年改正訴訟法で導入された公判に先立つヒアリング制度では、取り調べで拷問が使われたケースについて若干の事後修正権限を認めているのだが、裁判官は警察や他の国家機関に対立するような裁定を下すことに消極的である。
こうした問題は政治的被拘禁者についてはとりわけ深刻となる。そもそも反逆行為で起訴された被拘禁者については、訴訟法にあるいくつかの権利の保障は受けられない。訴訟法は公判前の拘禁を制限しており、六○日をこえる拘禁については司法の承認が必要と定めているが、反国家転覆法では一年の拘禁を許しており、さらに検察総長の権限で無期限の延長が可能である。これは事実上、政治的被疑者は地域の軍司令官の自由裁量で無限に留置しておくことができるということを意味している。訴訟法では、逮捕と取り調べをおこなうことができるのは警察のみとなっている。しかし政治的なケースの場合、軍がこうした権限をもっている。また反国家転覆法は治安部隊に非常に大きな捜索、押収の権限を与え、被拘禁者の弁護士や家族、医者へのアクセスをかなり厳しく制限している。たとえ法廷で被拘禁者が拷問や虐待の申し立てを正式におこなったとしても、司法の側は普段にもまして救済措置をとることに消極的になる傾向がみられる。

人権侵害の免責

法律では人権侵害をおこなった者を裁判にかけることができるとされる。そして人権侵害にあたる行為、またはそれを助長する行為は、民間法においても軍法においても罰することが可能である。しかし実際には、人権侵害が適切な調査を受けるということはほとんどなく、責任者が裁判にかけられることもほとんどない。事実上、治安部隊の隊員たちは悪いことをしても罰を受けなくてすんでいる。存在する人権侵害の犠牲者のための補償・賠償請求手続きはどれも実効性をもたない。
この免責という問題がもっともはっきり見えるのは、侵害の張本人が軍人で、犠牲者が反体制派とみなされている人の場合である。過去五年間、人権侵害で有罪とされた兵士はたったの二人しかいない。警察官、刑務所職員、警察の訓練を受けた治安要員なども、人権侵害に対して比較的免責されている。こうして人権侵害の悪循環が助長され、制度化されている。
一九九二年、メダンのタンジュン・グスタ児童刑務所で死亡した靴みがきの少年、ソフィアン・ルビス(一六才)の一件は、数ある事件のうち典型的なものである。刑務所職員によれば、ソフィアン・ルビス少年は急病にかかり病院に行く途中で死亡したとのことである。しかし、検死の結果、彼の死亡は「不自然」だと結論された。彼の死後まもなく、刑務所側は少年の父親に裁判に訴えないという念書に署名を求めるなど、法的措置にいたらないよう先手を打っている。父親はそれを拒否した。親戚や弁護士によれば、ソフィアン少年の遺体は明らかな拷問の痕跡を残していた。腹部、胸部、首にはひどいあざがあったし、歯も二本抜けていた。口、鼻、耳、性器からは血が出ていた。刑務所の隣接する房にいた囚人によると、ソフィアン少年が死んだ夜、彼の独房から叫び声が聞こえたという。法務省の調査は、ソフィアン・ルビスの死は拷問によるものではないと結論したが、医者や家族が詰め寄ったとき、法務省はその報告が「正確でなかった」ことを認めたのである。この事件に社会的な関心が注がれていたあいだ、政府は事件は完全に調査され責任者は法廷で裁かれるだろうと約束して
Bしかし、一九九四年なかばになっても、ソフィアン・ルビスの件で刑務所職員が訴追されたということはない。
人権侵害をおかした者を裁く国内のメカニズムが有効でないとすると、国際的な基準と賠償への方策の重要性ががぜん注目されることになる。しかし、インドネシア政府は、普遍的人権を尊重すると言いながら、「市民的、政治的権利に関する国際規約」や「拷問禁止条約」など重大な人権侵害を禁止する主たる人権条約のいずれにも加入していない。またインドネシア政府は一九九二年に国連がおこなったインドネシアと東ティモールの人権に関する提言の大半を実行していない。

調査

インドネシアで人権侵害が免責される主な理由の一つは、申し立てられた侵害の調査がほとんど常に治安当局自身、しかも通常、それに責任を有すると考えられるまさにその部隊の隊員によっておこなわれるということにある。調査が形式上法務省や任命された委員会など他の政府機関によってなされる場合ですら、軍による関与は決して完全に取り除かれることはなく、結果もそれほど違ったものにならない。
ほとんどの場合、軍・政府当局は人権侵害の申し立てに対し単にそれを否定するだけであり、したがっていかなる調査もおこなおうとしない。人権侵害の事実が反駁の余地のないものである場合、当局は国家の安全、安定、統一といった国益をもちだして侵害を正当化しようとする。そして調査の要求をはねのける。それはまたさらなる人権侵害を助長するような雰囲気をつくりだす。もし人権侵害事件が大きな社会不満、あるいは国際的監視の対象となった場合、軍・政府当局は一般に、内部での調査が過ちを発見したら侵害をおこした者たちに対し「適切な措置」がとられることを確約する。しかし最も深刻な人権侵害においてすら、当局は、調査は軍・警察によっておこなわれ、調査結果を公表する必要はないと主張するのである。
国の内外からの強い批判によって、軍・警察以外の政府機関によって調査がおこなわれた例もいくつかある。しかしそうした調査も、軍・警察がおこなった調査と多くの同じ欠陥をもっている。まず第一に、公的調査の独立性と中立性が欠如しており、報復の恐れなどから、証人たちは公に証言したがらない。第二に調査の性格や運営方法があいまいなためその結果の真偽を第三者がたしかめることができない。第三に、よく調べてみると、調査結果はまちがっており、治安部隊の関与を糊塗することをねらったものであることがしばしばである。第四に、深刻な人権侵害の公的調査は、ほとんど常に、反政府派が治安部隊を「挑発」したとすることで、政府の責任から関心をそらそうとする。そして第五に、そうした調査はその任務の範囲と枠組みが定められていて、人権侵害の根本的原因を議論することができないようになっている。
これらの欠陥の多くは、一九九一年一一月一二日のサンタクルス虐殺事件(五○頁参照)の政府調査のときに明確になった。内外からの批判の高まりの中で、政府は虐殺についての国家調査委員会を設置した。委員会の調査結果は一月後に発表された。この報告書を調べた結果、アムネスティ・インターナショナルは委員会の構成と調査方法は決定的な欠陥をもったものであり、その結果の多くは納得できないものだと結論した。委員会は国連の「超法規的、恣意的、即決処刑の効果的予防と調査のための原則」が求めている独立性、中立性、信頼性といった基準を満たしていない。委員会のメンバーは大量埋葬地を徹底的に調べ、遺体を完全に発掘し、検死をおこなう必要のある調査にもとめられる技術的専門性をもっていない。大半の委員は政府や軍と近い関係にあり、目撃者たちからの聞き取りも、そのほとんどが刑務所や軍病院でおこなわれたため、秘密にすることができなかった。その結果、ほとんどのティモール人はこわくて委員会に証言できなかったのである。
これらの問題点は委員会の調査結果にも反映しており、それは事件についての軍の説明に過度の信用をおく一方で、公式バージョンとくいちがう目撃証言などの証拠を無視ないしは曲解している。報告書は弔いの行進の参加者を虐殺を「挑発した」と非難しており、一方で警察や軍への批判を最小限におさえている。つまりこれは事実上、政治的不満の表明は平和的であっても、殺傷能力のある武器や不法な手段を民間人に対して使うことができると言っているようなものである。この調査がおこなわれて二年後、政府はいまだ殺された者たちの大半を身元確認できないままでいる。また政府は虐殺後「失踪」した二○○人以上の人々については何も説明していない。

懲罰

拷問、殺人、誘拐はインドネシアの法律においても刑事犯罪である。それらはまた軍事刑法や種々の大臣令においても禁止されている。軍法には治安部隊員による権力の濫用を防ぎ、部下のおこなった犯罪行為の責任を指揮官がとることを定めた条項などがある。こうした法律や条項によって、人権侵害に責任のある者やその指揮官を訴追することができるのだが、そうした措置には政治的、法的障害もあって、人権侵害の実行者はほとんど罰せられないでいる。
人権侵害をおかして一番訴追されそうにないのは、軍人とエリート反乱鎮圧部隊の隊員たちである。警察官はなんとか訴追され有罪とされることもあるが、一般に軽い判決を受ける。囚人を拷問で死にいたらしめて有罪となった者で三年以上の判決を受けた者はほとんどいない。二、三ヵ月程度の判決が標準であろう。警察の補助員や刑務所警備員だった場合、それより罪は重くなる。この免責の階級性は、いろいろな職種や所属部隊がもつ政治権力の格差を反映している。またそれは、警察補助員や刑務所警備員は公の監視が可能な民間の法廷で裁かれ、一方軍人や警察官は非公開の軍法会議で裁かれるという事実にも反映している。
治安部隊員が深刻な人権侵害に責任ありと判明した数少ない場合において、また措置を求める政治的圧力に政府が抗しきれなくなったときなど、彼らが「懲罰を受けた」ことがあった。懲戒措置としては降級、配転、免職、追加軍事練習などがある。社会的に大きくとりざたされた最近の二、三のケースでこうした懲罰が適用されている。これらの措置は、それがそれまでほとんど前例のないものだったという意味では、ひとつの改善と見ることもできるかも知れない。人権侵害をおこなった者に罰を与える努力がなされているからである。しかし、このような懲戒措置はそれだけでは十分とは言えない。もしそれが人権侵害をおこなった者をより厳しい罰から免れさせるために使われているとしたら、実際しばしばそうであるようなのだが、実際には免責問題をむしろ深刻なものにしていることになるからである。
確かに禁固刑といった厳しい懲罰を受けた軍人、警官はほとんどいない。実際、ほとんどの場合、裁判にまでもいたらない。十分な証拠がある場合においてすらそうである。政治的反対者を罰するのにかたむけるエネルギーときわめて対照的に、政府には人権侵害をおこなった者を罰する熱心さは見られない。
ここでもまた、サンタクルス事件に対する政府の対応がいい例を提供してくれる。一九九二年の初め、軍当局は「軍名誉委員会」を設置し、軍の責任を調査するという任務をそれに与えた。委員会から出された提言にしたがい、一九九二年六月、一○名の治安部隊員が規律違反で裁かれ、若干名の高級将校が更迭された。これは前例のないことであった。しかし、二七○人にものぼる人々の殺害と虐殺中・後に拷問がなされたという相当の証拠があったにもかかわらず、誰一人として殺人で起訴されず、せいぜい傷害でたった一人の警官が起訴されただけであった。一○名は八ヵ月から一八ヵ月の判決を受けた。これとは対照的に、平和的なデモを組織したとされるティモール人たちは、反逆行為などの政治的罪によって裁判にかけられ、最高終身刑に処せられたのである。
インドネシアの軍事裁判制度からして、人権侵害罪があまり訴追されず判決も軽いというのは驚くにはあたらない。ケースを裁判にかけるかどうかは軍将校が決定し、罪状は軍事裁判所で述べられる。多くの軍事裁判制度がそうであるように、インドネシアの場合も任務にしたがって行動したと主張する治安部隊員を保護するという評判が高い。軍事裁判の内容は公にされず、したがって司法の独立を守る基本的な安全装置がはずされてしまっている。そして、被告に有罪が言い渡されたとしても、軍事裁判所の判決はめったに公表されず、抑止効果を低めている。

賠償と補償

犠牲者ないしはその家族に対する賠償と補償の現行の手続きは実効性もなく適用もしにくい。人権侵害の申し立てをおこなおうとする市民は、彼がまさに責任をもっていると思うその当局にそれをもっていかなければならないため、まったくやる気をなくしてしまう。大半の市民、とりわけ経済的弱者や政治的に弱い立場の者にとって、これは越えがたい障壁である。申し立てをおこなった者は、訴えている相手からの脅迫や物理的暴力を受ける可能性もある。家族がこの段階をのりこえて行こうという覚悟と資金的なめどがない限り、より徹底した調査や法的手続きの道はひらけない。
事実上申し立てをおこなえる唯一の制度的メカニズムは、公判前ヒアリング制度である。これは一九八一年に改正された刑事訴訟法によって導入された。理論上、このヒアリング制度は被拘禁者が逮捕と尋問手続きの合法性をめぐって反論する機会とされる。しかし逮捕した当局の違法性がこの制度によって導かれたことがほとんどまったくないため、最も経験ある弁護士たちですらこれを時間の無駄とみなしている状態である。さらに、たとえ裁判所が治安部隊員の違法行為を認めたとしても、その認定自体は、不法に逮捕されたり虐待を受けたはずの被告の裁判の結果にほとんど影響をおよぼしたことがない。
こうした場合とりうる唯一の別な方法は、犠牲者ないしは家族が治安部隊員や刑務所職員を相手どって損害賠償をもとめる民事訴訟をおこすことである。これは費用と時間のかかる面倒なプロセスであり、原告は脅迫やいじめを受けたり、治安部隊の名声を傷つけたとして逆に訴えられる危険性に直面することになる。そして、万が一裁判に勝ったとしても補償金を受け取るまでにさらに何年も待つことがある。
こうした手続き的な欠陥が明白となった例にレマンのケースがある。彼はジャカルタのチピナン刑務所で軽度の窃盗罪で六ヵ月の刑に服していたが、一九八六年刑務所職員による殴打で死亡した。レマンの遺族は告訴と損害賠償をもとめる民事訴訟の両方にとりかかった。一九八七年八月、裁判所は二人の警備員をレマンを死にいたらしめたとして有罪としたが、判決はたったの二ヵ月であった。一九九○年一二月、この件が裁判に付されて四年以上たって、最高裁判所はレマンの遺族の言い分を聞き、彼らに一○○万ルピア(約五万円)の損害賠償金の支払いを命じた。しかし一九九四年なかば現在、遺族はまだその賠償金を受け取っていない。




4.超法規的処刑【目次へ戻る】

政治的「安定」と「秩序」を維持するための政府のシステムの中で、恣意的処刑は重要な要素をなす。超法規的処刑は、とりわけ反乱鎮圧作戦中に一般的となるものの、平和的な抗議、「非正統」的な宗教共同体の設立、刑事犯罪行為など国家の安全をおびやかすと思われるその他の脅威に対する政府の対応の中心的な部分をなしている。
インドネシアと東ティモールにおける超法規的処刑のタイプには三種類を見い出すことができる。その第一は、政治囚を拘禁中にひそかに殺害してしまうというもので、これは時々彼らが「失踪」したあとにおきる。第二は、群衆や宗教共同体に対処するときに過剰な武力を意図的に使用してその結果死者を出すというものである。第三は、身元不明の政府系殺人部隊が相手を狙い撃ちしておこなう「神秘的殺人」である。
細かな殺人テクニックは状況に応じて若干の違いが見られる。「失踪」後の拘禁中の意図的殺人は軍が反乱鎮圧作戦を展開しているときにおこる傾向がある。群衆に対する過剰な武力による殺人は、反乱地域外でより頻繁におきている。「神秘的殺人」のテクニックは、反乱派と疑われた者や犯罪容疑者の両方に対してほとんど同じ頻度で用いられてきた。インドネシアと東ティモールにおける超法規的処刑のもっとも顕著な特徴は、政治的文脈は異なってもそのテクニックに幅広い同一性が見てとれるということである。これはつまり、不法な殺人が政府の政策の中心的部分であることを物語っている。
また不法な殺人の訴えに対して政府がとる対応も、同様に毎回同じである。政府は典型的には、超法規的処刑の報告を単に否定し、二、三の例外を除いて、徹底的で中立的な調査をおこなうこともなく、犯罪の実行者を訴追することもない。

東ティモール

一九九一年一一月一二日、インドネシア軍がディリのサンタクルス墓地にいた平和的な行進に向かって発砲したときとその直後に、二七○人にものぼる民間人が殺された。その大半は逃走中に撃たれたが、殴られたり刺されたりした者もいた。事件後の数週間で、目撃者など数十人がさらに殺されたという報告もある。その中には軍病院にいて傷が回復しつつあった者も含まれている。
犠牲となったのは、一九九一年一○月二八日にインドネシアの治安部隊に殺されたとされるセバスティアォン・ゴメスの追悼ミサのあと墓地までの行進に参加した約二○○○人の中にいた人たちであった。発砲は群衆が墓地に到着して五分から一○分後におきた。それまでは横断幕がいくつか広げられ、人々はお互いおしゃべりをし、何人かが「東ティモール万歳!」といった独立支持のスローガンを叫んでいた。そのとき、武装した兵士の大部隊が到着した。徒歩の者もいれば車両で運ばれた者もいた。
兵士たちが接近するにしたがって緊張が高まった。人々は恐怖心から解散しはじめた。目撃者たちによると、徒歩の兵士たちが墓地の入口まで行進してきて約一二人の横隊を組み、群衆に向けて発砲した。警告はなかった。死者の多くが背中を撃たれた。
墓地の塀にはさまれた大勢の群衆にとって、逃げるのは難しく、しかも発砲は逃げようとする群衆に向かって続いた。ある目撃者は、発砲が始まって数分後には、地上に約一○○体の死体が横たわっていたと言っている。
墓地の中に避難した目撃者たちは、兵士たちが負傷した人々を警棒や銃の台尻で殴っているのを見たと言っている。墓地に隠れていたところを兵士に見つかったある外国人は次のように言っている。

「チャペルにはおびただしい血を流している人が少なくとも一○人、死者が数人いました。私がそこを出て墓地の入り口まで行く途中ずっと、兵士たちが私にナイフを見せびらかし、ナイフを私の顔に向かって突き出したりしました。私は蹴ったり殴ったりされ、また彼らは何かを叫びながら私の頭に銃を突きつけたりしました。」

死者の一人にディリのポルトガル系学校で教えていたドミンゴス・セグアルドがいる。抵抗運動の地下活動家であった彼は、その日の抗議行動の組織者の一人であり、それ以前、数週間にわたって身をかくしていた。ドミンゴス・セグアルドが手伝ったあるジャーナリストは、彼のことを「きわめて柔和な男で、非暴力的手段によって変化をもたらそうとしていた」と回想している。
虐殺のあと、死体は軍のトラックに積みこまれ、何の印もない墓地に埋められたり海に捨てられてたりした。少なくとも九一人の負傷者が軍病院に運びこまれ、推定三○○人がローラー作戦で逮捕された。病院にいた人々の中には虐待された人がおり、意図的に「始末された」人もいるという信頼性の高い情報もある。軍当局は家族や国連の拷問に関する特別報告者、赤十字国際委員会の代表が刑務所と病院に収容された人々を訪問することを妨げた。
一一月一五日にさらに六○人から八○人が殺され、その死体がディリ郊外の大きな印のない埋葬地に埋められたという未確認情報がある。これらの情報によると、犠牲者はディリのいろいろな刑務所から軍のトラックで郊外のある地点へ連れて行かれた。トラックに乗せられる前に、囚人たちは裸にされ、目を覆われ、手を背中にまわしてきつく縛られたと報告されている。そして掘られたばかりの穴の淵まで連れて行かれて、自動銃で射殺されたという。
内外の抗議の嵐の中で、インドネシアの政府・軍当局はサンタクルス墓地での人命の損失を遺憾とする表明をおこない、すみやかな調査を約束した(四一頁参照)。しかし、当初より、当局は治安部隊の行動を正当化し、虐殺の責任を弔の行進の参加者自身におしつけようと試みた。軍当局は、「暴徒が兵士に荒々しく襲いかかった」ため兵士たちは発砲せざるをえなかったと主張した。しかしこの主張は、行進は平和的であり、兵士たちは挑発もなかったのに警告もせず発砲したという目撃証言、ビデオ映像などその他の証拠と一致しない。
もっと好戦的な立場をとった軍人たちもいた。虐殺の翌日、国軍総司令官(現副大統領)トリ・ストリスノ大将は、行進の参加者は政府を中傷するスローガンを書いた横断幕を広げたり、「多くの受け入れがたいこと」を叫んだりしたことで「無秩序を広めた」と述べた。彼によれば、それへの対応として兵士たちは空中に発砲したが、「彼らはその過ったおこないをさらに続けた。そして最後には、彼らは撃たれねばならなかった。これらのまちがった育ち方をした人間は撃たねばならない。我々は彼らを撃つつもりだ。」

アチェ

一九八九年から九三年にかけて、アチェ州およびその周辺でインドネシア軍兵士によって殺された民間人の数は、子どもも老人も入れて、約二○○○人にもなる。ある場合は公開処刑で殺され、またある場合は密かに殺されその痛めつけられた死体が人目のつくところに置き去りにされたりした。数十体の死体が大量埋葬地に捨てられた。殺害の時期、方法、テクニック、地域の軍将校たちがおこなった発表などからして、超法規的処刑は反乱鎮圧戦略に組み込まれた意図的手段である可能性がきわめて高い。一九九四年なかば現在、当局はこれまでの殺害について一度も調査もおこなっておらず、一人の治安部隊員も懲罰を受けていない。
政府軍による即決処刑、恣意的処刑は、最初の「自由アチェ」による襲撃があった直後、一九八九年には報告されるようになり、その後一九九○年の前半を通じて断続的に報告が続いた。しかし大々的な超法規的処刑は一九九○年七月に始まったと考えられ、それは大統領が約六○○○人の反乱鎮圧部隊の動員を命令した直後のことであった。またそれは、数百人の民間人が殺害された「神秘的殺人」が出始めたときでもあった。
アチェの「神秘的殺人」には次のような一般的特徴があった。犠牲者の死体は通常、おそらく反乱派への参加やその支援に対する警告として、公の場所に放置された。大半の犠牲者は殺されたとき明らかに囚人であった。彼らの両方の親指は、時に足であることもあるが、ある特殊な結び方で一緒にしばられていた。大半が至近距離で撃たれ、弾丸は死体の中に発見されなかった。また大半が鈍器で殴られたか拷問された痕跡をもち、しばしば顔が識別不能なほどであった。大半の遺体は家族や知人にも引き取られることがなかった。それは軍から報復されるという恐怖と、死体がふつう出身地からかなり遠く離れた地点に投棄されたという理由による。
犠牲者の一人に、トゥンク・アフマッド・ルタンという「自由アチェ」の支持者と疑われた人がいる。彼は一九九○年に軍による拘禁中、拷問され殺された。目撃証言によると、第一一一大隊の兵士たちが彼をプルラックのイディ・チュットで逮捕し、そこから近いトゥアラン・チュットの彼らの駐屯地に尋問のため連行した。その三日後、彼の痛めつけられた死体は彼の自宅近くの堀に捨てられた。住民がそれを発見したとき、彼は後ろ手に縛られており、頭はつぶされ、体には拷問のあとがあった。彼の家族は軍の報復を恐れるあまり、遺体をもって帰ろうとしなかった。他の村人が遺体を取りに行ったとき、前に立ちはだかった兵士がこう言った。「きさまら、こいつを埋葬しようなんて、何を考えてるんだ。こいつが反逆者だというのを知らないのか。」
超法規的処刑の犠牲者の大半は反乱地域と疑われている一帯に住む村人たちである。殺害の一つの目的はおそらく地域住民をテロで襲い、反乱派とおぼしき者たちのあぶり出しに協力させるためである。しかし、兵士の死亡に対する報復、軍の命令に迅速に従わなかったことへの報復として殺された村人たちもいる。兵士たちは反乱の容疑者を見つけることができなかった場合、しばしばその友人や家族に報復をおこなうのである。
「自由アチェ」のメンバーと疑われた男性を夫にもつ女性、ジャミラ・アクバカル(二四才)は、一九九一年三月、軍による拘禁中射殺された。彼女は、兵士たちが彼女の夫である漁師のモハマッド・ヤシン・ビン・パワン・ピアを捜しに家にきた一九八九年六月なかばから、軍と相対するようになった。兵士たちは彼女に銃口を向け、彼女の夫は「自由アチェ」のメンバーだと認めるよう強要した。彼女が夫は海に行っており、数日もどってこないと言うと、兵士たちは「嘘をつけ!」と叫んだ。一人の兵士は彼女に服を脱ぐよう命じ、彼のライフルで彼女の体をつっついた。数日後、ヤシンは帰宅し、家が焼け落ちているのを発見し、ジャミナは別の村へ行って親戚と暮らし始めたと知った。彼女はそこに六ヵ月間ほどいたが、兵士がそこにもやってきて「自由アチェ」と関係のある者をかくまってはならないと警告し、容疑者として彼女を名指しで呼んだ。一九九○年の初め、彼女は別の村に逃げ、そこに一年ほどいた。しかし一九九一年三月二四日ごろ、ヤシンが彼女を訪ねてきた直後、彼女は兵士に逮捕された。二日後、彼女の死体が一五キロメートルほど離れたある村の道端で発見された
Bその頭はうちくだかれ、胸は撃たれていた。
アチェにおける不法な殺害のすべての犠牲者が公の場所に放置されたわけではない。大量埋葬地に捨てられた場合も多く、いくつかの埋葬地には数百にのぼる死体が埋められていると言われる。ある報告によると、一九九○年九月一二日、ブキット・パンリマのビルウンとタケンゴンの間の道路上で、五六人の被拘禁者の一団がインドネシア軍によって即決処刑された。目撃者たちによれば、被拘禁者たちは、彼らを運んでいた軍のトラックを降りるよう命じられ、渓谷の淵に立たされ、撃たれたと言っている。また別な報告によれば、一九九○年のなかば、アルエ・ミラ村の近くで二○○体もの死体が埋められていた大量埋葬地が見つかった。管区司令官は死体の数には異論を唱えたが、その大量埋葬地の存在そのものは否定しなかった。一九九○年一一月、彼はある記者にこう語っている。

「その埋葬地は確かに存在する。しかし二○○個の死体があったとは思わない。手や頭などすべてが混ざり合っていて、数えるのは難しい。」(テンポ誌、一九九○年一○月二○日)

政府・軍当局は、恣意的殺害の責任を公には否定しながらも、反乱鎮圧作戦で超法規的処刑を使うことを免責し、あるいは推奨さえする発言を公におこなってきた。一九九○年五月、トリ・ストリスノ大将はアチェにおけるいくつかの「偶然の」民間人の死に対する軍の責任をみとめたが、一方で「民間人側に犠牲者が出たとしても、それは避けられないことだった」と言ってそれを正当化しようとした(ジャカルタ・ポスト、一九九○年五月八日)。その六ヵ月後、死体を人目のつくところに置くということにコメントして、アチェのある軍将校は言った。「ああ、それが起きていることだ。しかし反乱派はテロリスト的戦略を使っており、だから我々は反テロリスト的戦略を使わざるをえないのだ」(ロイター、一九九○年一一月二五日)。「神秘的殺人」は「ショック療法」かと聞かれて、管区司令官H・R・プラモノ少将はこう答えた。

「戦略としてはそのとおりだ。しかし我々の目標は悪いことではない。我々が彼らを殺すのは、彼らが自由アチェのメンバーであるときだけだ。」(ロイター、同上)

アチェにおける殺人の規模は一九九一年末から減った。「自由アチェ」の現場司令官たちの逮捕、死、逃走などによって、超法規的処刑を継続する軍事的または政治的理由づけがなくなってしまったからである。しかしインドネシア軍の反乱鎮圧戦略に根本的な変更はなく、ゲリラの拠点区域における民間人殺害は依然としてその中心的な部分であった。もし「自由アチェ」が活動を活発化させていたら、政治的殺害もおそらくほとんどただちに復活していただろう。そして重要なこととして、こうした過去の殺人の犠牲者についてはいまだ説明がなされておらず、調査もされていない。また殺人は公式に非難されたこともない。

イリアン・ジャヤ

数百人のイリアン・ジャヤの独立支持者および支持していると疑われた人々が、当地において反乱鎮圧作戦をおこなっているインドネシア軍によって殺されている。犠牲者の多くは戦闘中殺されたOPM(自由パプア組織)の戦闘員であるが、軍による拘禁中に意図的に殺されたOPMの戦闘員、民間人もいる。
一九九○年、治安部隊は彼らがOPMのメンバーであると疑ったある男性を撃ち、その首をはねたとの報告がある。目撃者たちによると、ソレマン・ダウンディは一九九○年五月ナプダリ村の当局に投降してしばらくしたのち、兵士たちによって撃たれた。そして兵士たちはその首を斬り、ワルドの地方軍司令部にそれをもっていって、路線上に並んだ一○以上の村々でさらし首にした。報告によれば、ソレイマン・ダウディの首は第一七三軍分区と第一七○八軍小分区の将校たちにも見せられた。その後首はワルドの牧師に手渡され、埋葬された。ソレマン・ダウンディは一九八九年一二月、ソペンでの独立派の旗掲揚式典に関係し、その後地下に潜行していたようである。
独立したオブザーバーによるイリアン・ジャヤへのアクセスは制限されているが、アムネスティ・インターナショナルは最近でもこうした殺害がおこなわれていることを示す信頼できる報告をずっと受けており、そうした殺害の多くはインドネシアとパプア・ニューギニア国境沿いでおきている。一九九三年、パプア・ニューギニア領内約一二キロメートルにあるヤプシー村で、インドネシア軍兵士によって一三人が殺され、八人が負傷したと報告される。殺されたとされる人の名前は、アドルフ・タブロップ、ベティメウス・タブロップ、ダリアナ・ホーンガップ、ディマン・カカディ、ヤヌアリウス・ホーンガップ、ユヌス・タブロップ、マティナ・タブロップ、マヤナ・ホーンガップ、オベット・タブロップ、オクボム・ホーンガップ、フィリプス・ホーンガップ、ピウス・カランビン、スサナ・バウィである。目撃者によると、兵士たちは村を取り囲み発砲した。その襲撃で重傷をおった一人ナオック・ナプロは首を銃剣で刺されたと言われている。また同じくロベルト・タブロは二本の手の指を撃たれたという。二人の場合、降伏し手を上げたあとで、こうした傷を負わされたと言われている。

平和的な抗議参加者

ジャワ、スマトラ、首都ジャカルタなど、比較的政治的に安定している地域においても、政府軍は数百人にのぼる民間人を殺害してきた。たとえば一九九三年中には、自分たちの土地からの強制退去に平和的に抗議した村人四人、政府の権威に挑戦したと考えられていいる宗教共同体のメンバー四人、平和的な労働争議に関係した労働者一人が殺された。 平和的なデモ参加者の殺害や弱小な社会集団への攻撃には、治安部隊の行動、態度にある共通点がみられる。まずあからさまな暴力が使われる前に、政治的反対者に対して容赦のない政治的弾圧が伝統としておこなわれる。また殺害を当局が正当化するのに、犠牲者たちが政府軍を挑発したと非難するというパターンが見られる。そして完全で公平な調査をおこない、人権侵害をおこなった者を裁判にかけるということがまずない。

ニパー・ダム殺害事件

一九九三年九月二五日、マドゥラ島のニパー・ダム建設予定地で、平和的なデモをおこなっていた約五○○人に対し治安部隊が発砲し、四人が死亡、三人が負傷した。デモはダム建設に反対するもので、ダムが建設されるとそれらの住民の土地は沈み、四つの村が水没することになっていた。殺されたのは、ムティラという五一才になる三人の子どもの母親、ニンディン・ビン・ムサという一四才の男子生徒、サムキ・P・スプリアディという二八才の男性、そして負傷によって五日後に死亡したムハマッドという男性である。 独立した情報源によると、村人たち(女性と子どもも多くいた)は、プロジェクトへの反対を表明しようと、少なくとも二○人の警官と軍人に付き添われた政府の調査官の一団に近よったときに発砲がなされた。発砲はバニュアテス分軍支部(Koramil)の司令官の命令によって始まったと伝えられる。インドネシア法律扶助協会の事実調査団によれば、デモ参加者は武器をまったくもっていなかったし、攻撃的または脅威となるようなふるまいもしていなかった。調査団は、デモは平和的であり、治安部隊は挑発もないのに警告なしで発砲したと結論づけた。
この殺害事件の前日、政府のダム調査団は、警察官と軍人につきそわれて現場の調査をしに現地を訪れていた。現地住民は、住民と政府との間には何の合意もなされていないとして、調査団に抗議した。現地を去るとき、ある治安部隊員が次のように言って村人たちを脅したと伝えられる。「われわれが明日仕事を始めるとき、だれも家から出てはならない。さもないと、撃たれるだろう!」プロジェクトの責任者であるサンパン県長も、それまでに同様の脅迫をおこない、さらに抵抗する人々を共産主義者だと非難した。一九九三年八月一一日、村人たちの会見で彼はこう言った。「このダム建設に反対する者はだれであろうと逮捕する。私は治安をあずかっているんだ。私には軍隊がついている。ただ命令しさえすればすむんだ。」(エディトル誌、一九九三年一○月二○日)
地域の宗教指導者や共同体の指導者たちの抗議によって、一○月、フェイサル・タンジュン国軍総司令官は、事件に関する内部調査が指示されており、有罪と判明した者は罰せられると発表した。その後まもなく、警察官二名と軍将校二名が更迭された。しかし一九九四年なかば現在、治安部隊員のだれ一人として人権関連の罪で起訴されたり、殺害事件との関連で罰せられた者はいない。政府も軍当局も、独立した調査は必要ないと主張している。宗教指導者、共同体の指導者、人権団体などの要求にもかかわらず、政府は包括的な責任を有する退役将校の役人二人に対して何の措置もとっていない。

ハウル・コネン殺害事件

「ハウル・コネン」とは西ジャワの孤立した小さな宗教集団である。一九九三年七月二九日、西ジャワ州マジャレンカ県のシナルガリ村で、ハウル・コネンの集会場所を軍が攻撃し、一二才の少年を含む四人のメンバーを射殺した。ジャエヌディンとアフマッドの二人はその場で殺され、集団のリーダーであるブドゥル・マナンもワフユディンという男性はその後病院でなくなった。アブドゥル・マナンは胃に至近距離から五発撃ちこまれていた。その襲撃で少なくとも他に一○人が負傷したが、そのうち四人が子どもで、六人が重傷を負った。負傷した人もいれて一九人が逮捕され、その裁判は一九九三年一○月に始まった。
報道によると、六月二八日、八人の警察官と三人の機動隊員が、土地をめぐる係争で村長をなぐったとされる三人の宗派信徒を逮捕しに宗派の本拠地に行った。争いがおき、その間一人の男が撃たれ、地域の警察長が刺されて殺された。翌朝、一○○人以上の警察官と第三二一大隊の兵士、機動隊の合同部隊が村に到着した。警察は、アブドゥル・マナンたちが射殺されたのは、彼と彼の一八人の支持者が逮捕に抵抗したからだと主張した。しかし、目撃者たちは、軍は挑発行為がなかったにもかかわらず襲撃したのであって、まず小さな屋敷に手りゅう弾を投げ催涙ガスを発射し、燃えさかる屋敷から人が逃げてくるところに発砲したと言っている。
また目撃者たちによれば、治安部隊は負傷者を約三時間も地域の精米所の庭におきっぱなしにし、病院に運ぶのを遅らせた。医療関係者によると、警察当局は彼らがアブドゥル・マナンら九人の手当をしようとするのを邪魔した。また軍・警察当局は犠牲者たちを家族や人権弁護士に会わせず、独立した組織が調査を行うのを妨害した。
政府役人は、ハウル・コネンは安全と安定を脅かした集団であり、そのメンバーは国政・地方選挙への参加を拒否し、公的な住民カードを持ち歩くのを拒否し、公立学校に子どもを行かせるのを拒否したと主張して、襲撃を正当化しようとした。しかし、この襲撃事件を独自に調査したインドネシア国内の人権団体は、治安部隊が過剰な武力をもちいて意図的に非武装の民間人を殺害したと結論した。宗教指導者や共同体の指導者、地方議会議員たちも、そうした方法が小さな非武装の宗教共同体に対して使われたことを批判した。政府と軍は「断固たる措置」の採用を、法と秩序の維持のために必要であったとして擁護した。
市民からの圧力に応えて警察の調査が始まったが、政府は公の独立した調査がおこなわれることを拒否した。一九九四年なかば現在、治安部隊のだれ一人としてこの殺害事件に関連して起訴された者はおらず、また起訴されるであろうきざしもまったくない。 しかし一方、一九九三年末までに、少なくとも八人のハウル・コネンのメンバーがさまざまな容疑によって裁判にかけられ、四ヵ月から一年の刑を言い渡された。その中には襲撃の最中、投降せよという警察の命令にそむいたとされる三人の若い女性も含まれている。裁判官は、証拠の要領をのべた中で、三人の女性は投降せず「一緒に集まって、警察官と宗徒たちの衝突がおきるまで祈っていた」と述べた。(ジャカルタ・ポスト、一九九三年一一月二三日)

マルシナ殺害事件

マルシナは二五才の工場労働者だったが、一九九三年五月の初めごろ、東ジャワで「失踪」し、拷問され、レイプされ、殺された。それは彼女が労働活動家だったからである。彼女の「失踪」と死をとりまく状況、そしてその後の政府の調査の状況からして、彼女の殺害は軍当局の認知と黙認のもとに計画され、実行された可能性が高い。
マルシナの死体が発見されたのは、五月八日、東ジャワのポロンにある彼女の自宅から約二○○キロメートル離れた畑のふちにある小屋の中であった。彼女の死体は血まみれになっており、打撲傷におおわれ、彼女の首には絞められたあとが残っていた。検死からは、彼女を攻撃した者たちが彼女の膣に鈍器を差し込み、それが激しい出血をもたらしたことが明らかになった。
殺されるまでの数日間、マルシナは時計工場のストライキに活発にかかわっていた。軍小分区(Kodim)、分軍支部(Koramil)の司令官たちなど軍当局は、争議に直接介入し、労働者たちをストライキでどういう役割を果たしたか尋問していた。五月五日、一三人の労働者が軍に呼び出され、辞職するか「非合法の会合」をひらいたり他人を「扇動」してストライキに参加させたという罪で起訴されるか、どちらか選ぶように言った。尋問の間中、幾人かの労働者はなぐられ、一人は殺すと脅されたりした。その夕方、マルシナは地域の軍司令部に同僚たちのことをたずねに行った。そしてその三日後、彼女の死体が発見されるまで、彼女は「失踪」してしまったのである。 労働活動家や人権団体の圧力によって、警察は調査を開始した。しかしそれはただちに軍諜報当局が担当することになった。当初より軍諜報当局は、マルシナの死亡が労働問題と関係しているということを否定し、軍が関与していたという証拠をたいしたものではないように扱おうとした。しかし一九九三年一一月、九人の会社員と分軍支部司令官が、殺人容疑で起訴された。その逮捕、取り調べ、裁判手続きなどが国際法ならびにインドネシア自身の刑事訴訟法に違反するきわめて異常なものであったことから、裁判はこの殺害事件に対する軍の責任をぼかす意図があったのではないかと考えられる。 被告のうち一人の女性を含む数人は、軍の諜報将校によって一○月初めに誘拐され、三週間もの間連絡不通の状態におかれ、強制的に殺人を自白させられた。中には拷問を受けた者もいた。裁判中九人の民間人被告は、自白は圧力と拷問のもとで引き出されたものであると述べ、全員自白を取り下げた。三月には、国家人権委員会が被告のうち何人かは拷問を受け、被告全員の基本的権利が軍によって侵害されたことを確認した。それでも裁判はおこなわれ、一九九四年五月現在、被告のうち四人の有罪が確定し、そのうち三人が一二年の刑を言い渡されている。逮捕されたただ一人の軍人であった分軍支部司令官は、犯罪を報告することを怠った規律違反に問われただけであった。
一九九四年三月、法律扶助協会は、他のNGOとともに独自の調査を数か月間にわたっておこなったのち、マルシナが軍小分区司令部で殺された可能性がきわめて高く、殺害の最終的な責任は軍当局のかなり高いレベルにあると結論するにいたった。国家人権委員会ですら、殺害には「他の当事者」がいたのではないかと示唆した。しかし、法律扶助協会も人権委員会も人権侵害をおこなった容疑者に対して刑事訴追をおこなう権限はなく、容疑者たちは法律の手の届かないところにとどまったままである。

犯罪容疑者

治安部隊、ないしは政府の命令で行動している殺人部隊によって意図的に殺された犯罪者と犯罪の容疑者は数千人にものぼる。こうした暗殺作戦がピークに達したのは一九八○年代のなかばであるが、最近でも規模は小さくなっているものの依然として続いている。批判に対して、当局は犯罪撲滅のためには必要であるとして、そうした行動を擁護してきた。一九九四年初め、特殊部隊司令官は次のように言っている。「どっちがより大切か。犯罪者の人権を守ることか、それとも善良な者たちの人権を守ることか。」
一九八三年から八六年にかけて、政府の殺人部隊はインドネシアの各都市で推計五○○○人の犯罪者とおぼしき人を即決処刑した。これらは「神秘的殺人」と呼ばれ、何のマークも入っていない車にのった私服の一団によって実行された。当局は、これらの殺人の責任をまったく否定し、ギャングの抗争に原因があるとした。しかし一九八九年、スハルト大統領はその回想録の中で、「神秘的殺人」は治安部隊員によって実行され、ある種の公の「ショック療法」を通じて「犯罪分子」を一掃する政府の意図的な政策のあらわれだったことを明らかにした。

「抵抗した者は、好むと好まざるとにかかわらず、撃たねばならなかった。死体は[人目につくところに]ショック療法として置き去りにされたりもした。これは、一般の人々に犯罪に取り組む力をもった者がまだいるのだということを理解してもらうのが目的だった。」(スハルト『私の思想、ことば、行動』、チトラ・ラントロ・グン・プルサダ社、ジャカルタ、三六四頁)

「神秘的殺人」は一九八六年にはほぼ終わりを告げることになったが、発想そのものはその後も残った。犯罪増加のきざしがあった場合、警察・軍当局は依然として即決的措置に訴えている。ジャカルタでは、一九八九年に警察署長が打ち出した「見たら撃つ」の方式によってこの四年間で少なくとも二○○人の死者が出ている。犠牲者の多くは警察による拘禁中に疑わしい状況で死んでいる。ほとんどの場合、警察当局は犠牲者が逃亡しようとしたときに射殺されたと主張したが、殺害の状況はそうした主張に重大な疑問をなげかけるものである。
一九九三年五月二四日、窃盗容疑者のハルトノは警察署の留置所から逃亡しようとしたとして射殺された。彼は撃たれたとき手錠をはめた状態にあった。当局筋によれば、警察はハルトノを西ジャカルタへ連れていき、彼の犯罪集団のある一人の仲間の隠れ家を見つけようとしていた。警察のスポークスマンは、彼らが隠れ家に向かって歩いていたらハルトノが突然、「逃げようとし、手錠をはずそうとした。警察官たちによれば、彼は手錠を破壊した」と述べた(ジャカルタ・ポスト、一九九三年四月二五日)。関係した警察官たちは、ハルトノが三回の警察官の警告を無視したため「彼を撃たざるをえなくなった」と主張した。一九九四年なかばの時点で、これ以上の調査がなされてはいないようであり、裁判にかけられた警察官もいない。
犯罪容疑者の即決処刑はジャカルタ以外でも一般的におこなわれている。一九九三年 六月一六日、北スマトラのパンカランブランダンの刑務所の留置所で、シャムスル・ バフリは殴られ何度も撃たれたのち死亡した。警察によれば、シャムスル・バフリは 二度足を撃たれたが、それは彼が逮捕に抵抗し、警察官をナタで脅したからであった 。警察は彼は病院へ行く途中で出血多量のため死亡したと主張した。しかし家族は、 シャムスル・バフリの胸には数発の弾丸があったし、死ぬ前に殴られた形跡があった と言っている。目撃者たちは、彼がナタで警察とやりあったことを否定しており、彼 は足を撃たれたあと墓地に連れて行かれたと言っている。地域住民は、その直後に墓 地で八回弾丸が発射される音を聞いたと証言している。警察の調査は、シャムスル・ バフリはひどく殴られ、遺体には数発の弾丸があったことを確認した。家族と隣人た ちはパンカランブランダン警察署長に申し立てを行い、署長は「有罪と判断された警 察官は法にしたがった措置を受けるだろう」と約束した(テンポ誌、一九九三年七月 三日)。北スマトラ州警察長は七月、警察官が尋問を受けていると述べているが、一 九九四年なかば現在、だれ一人として起訴されたらしい兆候は見当たらない。
近年になって即決処刑の割合は増えてきている。法律扶助協会によると、ジャカルタ首都特別区では一九九二年から一九九四年初めまでの時期に、一三四人の犯罪容疑者が撃たれて殺された。一九九四年四月、当局は「アジア太平洋経済協力会議(APEC)サミット」に向けて「一掃作戦」という名の新しい犯罪撲滅運動をおこなうため、一万六七○○人の警察官と兵士が動員されたと発表した。四月末までに、約七○○人の容疑者が拘禁され、三人が射殺された。射殺されたうちの一人は手錠をかけられたままの状態であった。犯罪撲滅キャンペーンは、警察・軍当局のハイレベルなところから熱烈な支持を受けた。一九九四年四月、ジャカルタの警察署長、ヒンダルト少将は次のように言った。

「ジャカルタから犯罪者を一掃しなければならない。彼らを教育するなどというやり方は、凶悪犯罪を減らすのにはもはや何の効果もない。手荒な法をおしつける以外に選択の余地はないのだ。」(インターナショナル・ヘラルド・トリビューン、一九九四年五月三日)




5.拘禁中の拷問、虐待、死亡【目次へ戻る】

拷問と虐待は、インドネシアの刑法、刑事訴訟法、種々の大臣令によって禁じられて いる。当局によれば、それはまた国軍の軍人宣誓によっても禁じられている。しかし 、こうした法律や規則は拷問と虐待とを予防することはできず、賠償を可能にする道 を現実に示すこともなかった。またそれらは、人権侵害をおこなった者をすみやかに 裁判にかけることについても効果的だったとはいえない。
インドネシアと東ティモールにおいては、拷問と虐待はあたりまえのこととなってお り、死亡や重傷にいたらしめることも珍しくない。犠牲者が政治的容疑者、犯罪容疑 者である場合には、標準化された一群の拷問と虐待の方法があるようである。拷問は 政府の公然たる政策であるとは言い切れないが、拷問の使用は治安部隊の内部におい て制度化されてきたと言える。
一九八○年代の初め、東ティモール駐留兵士向けに出されたある軍のマニュアルが、 少なくとも反乱鎮圧作戦に関して、こうした見方を裏づけている。そのマニュアルに は次のような箇所がある。

「暴力をつかった尋問は、調べられている者が真実を言うのが困難な状況以外、おこ なわないことが望ましい。しかし、もし暴力の使用が必要な場合、地域住民がそれを 目撃しないようにしなければならない。それは住民の敵意をあおらないためである。 また拷問(電気ショックを与える、裸にするなど)を写真にとってはならない。」( このいわゆる「拷問マニュアル」は一九八二年東ティモールのウィラダルマ軍分区司 令部によって作成された。)

反乱鎮圧作戦で逮捕された人々は、東ティモールであれインドネシアであれ、とりわ け拷問される可能性が高い。しかし彼らだけではない。強制退去に抵抗する貧しい人 々、ストライキをおこなう労働者、デモをする学生、ジャーナリストたちもまた虐待 を受けており、時には拘禁中に拷問を受けることもある。とりわけ軍人によって拘禁 された場合、その可能性が高くなる。犯罪容疑者、囚人、とりわけ彼らが貧しい社会 的弱者の場合、しばしば虐待、拷問を受け、その結果、死亡したり重傷を負ったりす ることもある。
最近の拷問の犠牲者の証言は、拷問テクニックが標準化されていることを示している 。政治的理由による被拘禁者の大半は、次にあげる方法のいくつか、あるいはすべて を経験している。頭部、向こうずね、胴体などをげんこつ、木の棒、鉄棒、瓶、石、 電気ケーブルなどでたたく、火のついたたばこで焼く、殺すと脅す、処刑のまね、銃 で撃って負傷させる、臭い水に長時間浸す、逆さづりにする、隔離し睡眠、食事をと らせない、性器を切り取る、性的ないたずらをする、レイプ。
反乱鎮圧作戦において拷問がおこなわれる目的は、軍事的、政治的情報をえるためで あったり、政治裁判で使う自白を引き出すためであったり、また地域住民をこわがら せるためであったりする。中には、一般兵士の規律のなさが原因で拷問、虐待がおこ なわれたという場合もあるかも知れない、しかし拷問は主には情報を手にいれ、恐怖 心を植えつけるために使われているようである。
反乱派と疑われた人の家族や友人も、情報を引き出すため、容疑者の居場所をさがす のに協力させるため、あるいは容疑者に圧力をかけて投降させるため、拷問、虐待を 受けてきた。治安部隊はまた反乱派に同情的だと考えられる地域に住む民間人を虐待 し、拷問してきた。それは脅迫、殴打、夜間の家宅捜索、放火、強制的パトロール、 時にはレイプといった形をとった。

東ティモール

一九七五年の侵略以来、東ティモールの独立支持者、ないしは支持者と疑われた人た ちは、インドネシア軍兵士によって日常的に虐待され、拷問されてきた。拷問がおこ なわれやすいのは、拘禁が恣意的である上に拘禁したことが秘密にされる、数多くの 秘密の拘禁センターが存在する、東ティモールでは軍はすべての反対派をたたきつぶ す事実上の独立した特権をもっているといった状況があるからである。東ティモール カトリック教会の指導者ベロ司教は、一九九三年四月あるジャーナリストに対して、 政治囚はここでは「まるで二足す二は四(あたりまえ)のように」拷問されていると 語っている。
国連の拷問に関する特別報告者は、一九九二年一月に提出した報告書において、東テ ィモールでは拷問はふつうにおこなわれているとし、それを予防するために一一項目 の具体的な提言をおこなった。一九九二年と九三年には、国連人権委員会はインドネ シア政府にその提言を実施するよう促した。政府はそうすると約束したものの、一九 九四年なかば現在、たったひとつ、国家人権委員会の設立のみを実施したにすぎない 。
上記の国連による提言から八ヵ月たった一九九二年九月に逮捕された東ティモール人 青年は、拘禁中の彼の取り扱いについて次のように言っている。

「私は地下組織のリーダーだと非難されました。私がそれを否定すると、おぞましい 拷問をまた始めました。電気ショック、クラブでの殴打など。そしてその間とがった 石の上にひざまづかされたのです。たばこの火や電気アイロンをおしつけられました 。今日、その拷問によってできた傷が私の体のあちこちに残っています。」
「尋問の間、私の仲間の一人が中に入れられ、拷問されました。彼をその後初めて見 たとき、それが彼だとはまったくわからないほど、彼はちがって見えました。」

拷問によって入院、死亡することも時々あった。一九九二年一二月、バウカウ県での 軍事作戦中に逮捕された二○人の学生たちのうちの二人が、拷問の結果死亡したと伝 えられている。そのうちの一人、アデリノ・ゴメス・フォンセスカは、尋問のあとあ る部屋へ戻された。そこには別な学生が一人いた。アデリノはひどく殴られており、 出血していて、彼の目ははれあがって開けられないほどであった。彼は胸に激しい痛 みをもっており、呼吸も困難であった。彼は一二月二六日の早朝、死亡した。
東ティモールで拷問や虐待を受けるのは、政治的反対者と疑われた人々だけではない 。政治的反対者、およびその容疑者の家族(少女や老人も含む)もまた拷問と虐待を 受けてきた。レイプもおこなわれている。目的は、家族の居場所や活動内容について 情報をえるためであったり、逃亡者に投降を強いるためであったりする。
バウカウである女性とその家族が、兵士によって数日におよぶ拷問を受けたことがあ った。兵士たちは彼女の息子が独立派のメンバーであると疑っており、それを捜して いた。女性は一九九二年九月八日に逮捕され、尋問された。息子の居場所を知らない と言うと、彼女は裸にされ、殴る蹴るの暴行を受け、電気ショックをかけられた。逮 捕から三日後、彼女の甥の一人と義理の妹が尋問に呼び出され、拷問された。一九才 の甥は殴る蹴るの暴行を受け、電気ショックをかけられた。また裸にされ、火のつい たたばこを性器におしつけられ、陰毛に火がつけられた。義理の妹も殴られ蹴られ、 裸にされて電気ショックなどの拷問を受け、さらに拘禁されていた五日間兵士たちに よって繰り返し性的なはずかしめを受けた。
インドネシア政府当局は東ティモールでのこうした虐待や拷問の申し立てをずっと否 定し、こうしたことを報告する者たちの政治的動機を問題にしてきた。当局は時々拷 問の訴えに調査を約束したりしたが、実際にはほとんど実施したことがない。

アチェ

一九八九年なかば以降、アチェでは拷問が日常的に使用されており、若干のケースに ついては死亡させるにいたっている。拷問や虐待は事実上すべての軍の指揮系統のレ ベル、そして数十個の治安部隊の施設でおこなわれているとの報告がある。アチェで 逮捕された反乱派容疑者はまた、となりの北スマトラ州の軍・警察施設で拷問されて もいる。
スランビ・インドネシア紙の記者であり国立イスラム大学の講師もつとめているアド ナン・ブランシャは、一九九○年八月に逮捕され、裁判にかけられるまでのほぼ八ヵ 月間、連絡不通の状態におかれていた。彼が「自由アチェ」と関係しているという自 白は拷問で引き出されたという証拠があったにもかかわらず、一九九一年五月、彼は 反逆罪で有罪となり八年の刑を言い渡された。そして彼がアチェ高等裁判所に控訴す ると、一九九一年七月、彼の刑期は九年に引きのばされた。彼は法廷陳述の中で、バ ンダ・アチェのランピヌンにある軍分区司令部(○一二)の兵士たちによって拘禁中 受けた扱いを次のように描いている。

「下着だけにさせられ、手を後ろ手にくくられました。そして胸や手を蹴ったり殴っ たりされ、床に倒れました。無理やり意識をもどされ、全身を蹴ったり殴ったりされ ました。そしてまた倒れ、今度は息をするのも苦しいほどでした。これが一時間ほど 続きました。そして私は別の部屋に連れていかれ、木片でたたかれ、殴る蹴るの暴行 をまた受けました。」

「すねがとくに狙われました。また背中にもまだ傷が残っています。髪の毛と鼻はた ばこの火で焼かれました。足、性器、耳には気絶するまで電気ショックが与えられま した。それから足を延ばしてすわらされ、両膝の上に横に木の棒がおかれました。も う一本の木の棒がその上に交差するようにおかれ、一方の端が尻の下に入れられまし た。この木が車をジャッキで上げるように上げ下げされるのです。膝が今にも割れそ うに感じられました。」

「その位置で、私に対するすべての容疑を認めるよう命令されました。そうした方が いいと私は思いました。それで上げ下げが終わりました。私はそれでも目隠しをされ たままで電気ショック用のワイヤーはまだ両足の親指にくくりつけられたままでした 。もし彼らが気にくわないことを言おうものなら、電気を流すにちがいない。私が尋 問調書に署名するまで、ずっとこんな感じでした。」

一九九二年八月二一日付の国連の拷問に関する特別報告者の質問に答えて、政府はア ドナン・ブランシャが逮捕され裁判にかけられたことを認めたが、彼が拷問されたと いう「いかなる兆候もない」と述べた。(国連の拷問に関する特別報告者の報告書: E/CN.4/1993/26, p. 62, para 273)

反乱派の容疑をかけられた者の家族もアチェでは拷問や虐待を受けてきた。ナスルン ・マジッドは一九九○年六月、四○人ほどの兵士がプルラックのアルエ・ニリにある 彼の家族の家に来たとき逮捕された。兵士たちは彼の兄で「自由アチェ」の活動家の 疑いをかけられたラザリ・アブドゥル・ハミッドを捜しに来たのであった。ナスルン ・マジッドはロクスマウェの軍分区司令部に一一日間拘束された。家族によると、彼 は尋問中すねや頭を棍棒で殴られた。彼は兄を当局に引き渡す手伝いをするという条 件で釈放された。ラザリの妻も彼の居場所についての情報を提供するよう圧力をかけ られた。一九九○年の終わりごろ、兵士たちはアルエ・ニリにある彼女の家に行き夫 の居場所をつかもうとした。彼女が知らないと言うと、一人の兵士が彼女の生まれた ばかりの赤ん坊をつかんで逆さにしてこう言ったという。「おまえの夫がつかまらな いなら、赤ん坊を代わりにもらっていくぞ。」兵士は赤ん坊を連れては行かなかった が、それから六ヵ月間、兵士たちは少なくとも週に一回その家にやってきた。一九九 一年三月、その一家の一七人はマレーシアに亡命を求めた。現在彼らはマレーシアで 不法入国者として拘禁されている。

イリアン・ジャヤ

一九九○年七月、メルキアヌス・サロサという「自由パプア組織(OPM)」の指導 者と疑われていた人物がパプア・ニューギニアからインドネシアに強制送還された。 到着と同時に彼は逮捕され、連絡不通の軍の留置所に入れられた。一九九一年三月、 彼は反逆罪で終身刑を言い渡された。彼の逮捕の数か月後、彼が拷問されたという報 告があらわれた。一つの報告によると、彼は手足の爪をはぎとられ、数本の歯を折ら れ、顔にひどい打撲傷を残しているという。同じ刑務所にいたある政治囚(のちに釈 放された)は、サロサが彼の独房から手を血だらけにして連れ去られていくところを 見たと言っている。それから約一年後、メルキアヌス・サロサは彼が拘置されていた 治安の固い刑務所の外で死んでいるのが発見された。軍当局は、彼は逃亡し、風雨日 光などに当たりすぎて死亡したと主張した。しかし手に入る証拠からすると、彼は軍 による拘禁中に意図的に殺された可能性がある。


平和的な抗議参加者

虐待は平和的な政治的抗議や「公共の秩序」を脅かすとみなされたものに対して政府 が示す対応の特質となっており、原則としては憲法で保障された表現や集会の自由と いった権利を現実に行使したことへの懲罰としてなされている。犠牲者はデモ参加者 、ストライキをする労働者、人権活動家、大学生、さらには退去を強制された人々な どである。貧困層の人々も、いわゆる「一掃」作戦や「秩序」作戦をおこなっている 治安担当官によって虐待されてきた。デモや治安部隊の活動を取材するジャーナリス トやカメラマンも虐待の対象となってきた。
こうした人々の虐待には殴打、足蹴り、脅迫などがつきものである。デモ参加者や政 治的反対者と疑われた人が尋問のため拘禁された場合、電気ショックやレイプといっ た激しい拷問もまれではない。
一九九三年一月二五日と二六日、東ジャワのスラバヤで軍の諜報機関によって尋問を 受けていた少なくとも一七人の学生(一人は女性)が拷問、ないしは虐待を受けた。 学生たちはベラングンの農民たちを支援する平和的な抗議行動に参加していた。農民 たちの土地は軍の訓練施設のために明け渡しを強制されていたのである。学生たちは 裸にされ、金属棒で打たれ、顔や腹部を殴られた。少なくとも一一人が電気ショック で拷問された。
一九九三年一月には、同じく東ジャワのスラバヤで、三人の若い工場労働者が軍分区 司令部に三日間連絡不通状態で拘禁されたとき、拷問ないしは虐待を受けた。三人の うち一人はイマム・バスキという男性、二人は「ダス」「メップ」としか知られてい ない女性であった。イマム・バスキは顔がひどく腫れ上がるまで殴られ、「ダス」は レイプされた。三人の労働者はビクトリー・ロング・エイジ社の工場で長くつづいて いた労働問題のことで活動していたが、一九九二年一二月、軍兵士によって誘拐され 、バスカラ・ジャヤ軍分区司令部(○八四)に連れて行かれた。二人の女性は(男性 と)別の部屋に連れて行かれたが、バスキが殴られているときの叫び声を聞くことが できたと言っている。翌朝、二人の兵士が彼女たちの部屋に入ってきて「ダス」をレ イプした。彼女はまた別な兵士によって二度さらにレイプされた。その兵士は「行っ て(司令官に)訴えるがいいさ。どうせ何もしないだろう。これはおれたちの権利だ からな!」と自慢気に言ったという。
三人は、今回の取り扱いについて訴えないという念書に署名し、今後労働問題に首を つっこまないと約束してのち初めて釈放された。

犯罪容疑者と囚人

犯罪容疑者はインドネシアと東ティモールの全体を通じて警察と刑務所職員によって 拷問、虐待されている。通常伝えられている方法は、棍棒、金属棒、電気ケーブル、 げんこつなどで殴るというものである。性的ないたずらやレイプも報告されている。 警察官や刑務所職員は時として軽蔑の印として、または精神的ストレスを与えるため に懲罰を科すことがある。たとえば囚人に排泄物や尿を無理やり食飲させたり、頭髪 を刈り上げ色を染めたり、軍事訓練のまねをさせたりするのである。一九九三年五月 に報告された例では、不法な性的関係をもったと疑われた男女が地域の警察署に連れ て行かれ、殴られ、尋問室の床の上でその「罪」を二度再現させられた。(スアラ・ ムルデカ紙、一九九三年五月一六日)
毎年、相当な数の囚人が警察、刑務所での拘禁中に虐待や拷問によって死亡したのが 報告されている。過去五年間、アムネスティ・インターナショナルは犯罪容疑者の拘 禁中の疑わしい死亡例を一○○件以上記録している。しかし、当局が通常こうした死 亡事件を隠し、独立した調査の機会が非常に限られているということを考えると、実 際の数字はもっとはるかに多いかも知れない。
一九九三年一月、西ジャワのインドラマユの警察はある建設労働者を拷問によって死 にいたらしめ、彼の妻を入院させ、彼らの九才になる息子を無理やり両親の拷問に立 ち合わせた。すべて財布が盗まれた事件に関係していた。九才になるジュニョントは 一九九三年一月一六日、財布を盗んだ疑いで拘禁された。警察署で彼は両足を殴打さ れ、たばこの火をおしつけられた。少年はその財布を盗み、それを両親に渡したと警 察に自供した。
その翌日、彼の母親のダスメンと父親のスダルモノが拘禁された。ダスメンは繰り返 し殴る蹴るの暴行を受けたが、財布のことは知らないと言った。すると尋問担当官は 彼女の足をしばって天井から逆さづりにし、質問を続けながら彼女の髪の毛をひっぱ った。警察はそこにジュニョントを引き入れ、母親を殴るよう強制した。彼女は意識 を失ったが、財布のことは依然として否定していた。そして病院に運びこまれ、三日 間昏睡状態のままであった。スダルモノは翌日拷問された。それを見るように強制さ れたジュニョントは、父親は倒れるまで繰り返し殴る蹴るの暴行を受けたと言ってい る。スダルモノは病院に運ばれたが、到着時にはすでに死んでいた。
地域住民の声によって警察は責任者を裁判にかけると約束した。五人の警察官が拘禁 され尋問のため軍警察に移送されたと公には発表された。しかしその発表後、何も聞 かれない。一九九四年なかば現在、容疑者が起訴されたかどうかわかっていない。 拷問と虐待は、囚人にしおきをしたり、個人的なうらみをはらすためにしばしばおこ なわれている。一九九二年一一月、北スマトラのデリ・トゥア出身のバスの車掌、ア ントニー・ギンティンは、警察官たちによって、警察の宿舎からものを盗んだと疑わ れて誘拐され、殴られ、たばこの火をおしつけられ、足に何発もの銃弾を撃ちこまれ た。彼自身の説明によると、警察官は逮捕状もなく彼を逮捕し、彼の手をしばってト ラックに無理やり乗せたという。
途中、警察官たちはアントニー・ギンティンを尋問し、彼が自白を拒否すると、何度 となく止まっては彼を殴り、ピストルで脅し、目にとうがらしをこすりつけ、たばこ の火をおしつけた。あるとき止まって、三人の警察官は彼をひざまづかせ、彼の顔に 尿をかけた。郊外のココア・プランテーションに到着すると、アントニー・ギンティ ンはトラックから降りるよう命令され、木にくくりつけられた。その後の尋問の中で 、一人の警察官は両膝など彼の体の各所を木の棒でひどくたたいた。もう一人の警察 官は、彼の足に一二発、弾丸を撃ちこんだ。他の警官たちは彼の指をハンマーでうち 、スクリュードライバーで血が出るまで彼の頭を突き刺した。アントニー・ギンティ ンは気絶し、目がさめたときは病院にいた。
二ヵ月の入院で傷が回復すると、アントニー・ギンティンは窃盗容疑で警察に再び拘 禁された。拷問を恐れた彼は自白し、のちに五ヵ月の刑を言い渡された。一九九三年 八月に釈放されると、彼は彼の受けた処遇について正式に抗議の申し立てをおこなっ た。一一月、デリ・トゥア警察署長は記者たちに対し、警察がアントニー・ギンティ ンを虐待したことを認め、内部調査がおこなわれたと述べた。彼は「もし私の部下が 有罪だとしたら、私の上司が彼らの措置を決める」と述べた。しかし一九九四年なか ば現在、七人の警察官のうち一人として裁判にかけられたり、懲罰を受けたりしたも のはいない。
拷問の実行容疑者が裁判にかけられても、無罪になったり、きわめて軽い判決であっ たりすることがしばしばである。一九九二年一二月、中ジャワのスラゲン刑務所の囚 人であったジャトミコは刑務所警備員によって殴られ死亡した。当局はこの事件に関 していくつかの相互に矛盾するような説明をおこなった。刑務所所長は、ジャトミコ はころんで頭を打って死んだと主張した。ある刑務所職員はジャトミコの家族に死亡 原因は胃の病気だと言い、別の職員は刑務所職員のための使い走りをしていたところ を車にはねられたのだと言った。刑務所と法務省の役人がおこなった最終的な説明で は、ジャトミコは警備員とのけんかによってできた怪我がもとで死んだということに なっている。しかし、警察の調査は、事件には少なくとも一二人の刑務所職員がかか わっていた可能性があることを示唆しているし、一方検死の結果、ジャトミコは繰り 返し頭を殴られ、首の骨が折れていたことが判明している。
一九九三年三月、四人の刑務所警備員がスラゲン地方裁判所に起訴された。裁判中検 察は、被告たちがジャトミコを交代で殴ったり蹴ったりし、一人は折り畳み式の金属 製の椅子で彼の頭を繰り返したたき、その結果彼が倒れて死亡したという証拠を示し た。被告たちはこれらの罪を認めたが、それでも正当防衛のためにやったと主張した 。彼らは傷害致死の罪で起訴され、その場合、最高刑は一二年であった。一九九三年 一一月、四人の被告は全員無罪放免となった。判決を聞いた農業労働者、ジャトミコ の父親は叫んだ。「不当な裁判だ!やつらは人一人を殺したんだよ。どうして無罪放 免なんだね!」




6.政治的投獄と不公正な裁判【目次へ戻る】

「新秩序」政府はその政治的反対者の投獄を習慣としてきた。一九六六年以来、推計 で三○○○人の囚人が政治的な理由で投獄され、その大半が不公正な裁判によって有 罪を言い渡されている。さらに数十万人におよぶ人々が容疑もなく裁判にもかけられ ないまま最高一四年間、拘禁された。その中には拘禁中「失踪」した人もいる。

投獄のパターン

インドネシアと東ティモールの全体を通じて、現在約三五○人の政治囚が獄につなが れている。その多くは暴力を使用したこともなければ、それを唱道したこともない良 心の囚人である。その中には東ティモールやアチェ、イリアン・ジャヤの独立を主張 した人たち、ムスリム活動家、旧共産党員、学生、農民、労働者、人権活動家などが いる。彼らはたとえば、禁じられた本を所持していたとか、選挙制度を批判した、立 ち退きに平和的に抵抗した、人権侵害についての情報を広めた、平和的な旗の掲揚式 典をおこなった、イスラム教徒同士の緊密な結びつきを唱道した、パンチャシラ(建 国の五原則)を批判した、平和的なデモを組織したなどの罪で投獄された。
インドネシアと東ティモールにおける政治裁判は通常、国際的な公正さの基準をみた していない。それらは事実上見せ物裁判であって、次のような一般的特徴をもってい る。

●ひとたび起訴されたら、有罪が仮定されており、有罪判決はあらかじめ決まってい る。
●被告は通常彼らの選ぶ弁護士への連絡をとることができない。また被告の弁護士た ちはしばしば裁判が始まるまで裁判の文書を見ることが許されない。
●政治的ケースの場合、しばしば経験の浅い、裁判所が任命した弁護士によって取り 扱われ、彼らは適切な弁護を提供できない。
●被告は、しばしば確証のない自白や脅迫によって引き出された証言をもとに、有罪 となっている。
●裁判はインドネシア語でおこなわれるが、それは常に被告に理解できる言語とはか ぎらず、有能な通訳も常に用意されるとはかぎらない。
●被告はしばしば、検察側証人をクロス・チェックする権利を否定されている。一方 、被告側証人はよく証言を許されない。
●裁判にいたるまでの過程での虐待、拷問など違反行為の証拠を、裁判所は通常無視 する。
●被告側弁護士、検察官、裁判官は軍と政府当局による有罪判決を出すようにとの圧 力を受ける。

容疑はしばしばあいまいだし、有罪とする証拠はあきらかに弱い、さらに判決はきわ めてドラコニアン的(過酷)であるなど、政治的裁判は明白に抑止力として意図され ている。またそれらはインドネシアが法の支配によっているという幻想をいだかせる ことも意図している。法の支配どころか、政治的裁判が示すものは司法制度の恣意性 であり、それがいかに権力をもつもの、とりわけ軍の影響を受けやすいかを示してい る。このことを端的に述べてくれたのがアチェのある軍司令官で、彼は一九九一年に インドネシア法律扶助協会の弁護士たちに「刑事訴訟法なんか食ってしまえばいいん だ。そんなものはここじゃあ適用されないんだ」と言った。
政治的理由による被拘禁者の取り扱いは、一般的に判決が出て刑務所に移送されての ち、少しましになる。しかしそれでも、とりわけ僻地の刑務所とか、治安の固い刑務 所など、弁護士、医者、家族などとの連絡が非常に制限された刑務所については深刻 な問題が残る。そうした刑務所にいる政治囚の拘禁中の負傷、死亡事件があとをたた ないからである。政治囚の手紙、彼らへの手紙はしばしば検閲され、渡されなかった りする。インドネシアの刑務所には汚職が蔓延し、収入や日用品の独自調達源をもた ない囚人は非常な困難に会うことになる。
減刑制度の恩恵を受ける囚人もいる。毎年の独立記念日には、品行のよかった囚人す べてに対し四ヵ月までの減刑措置がとられる。最近改正された規則によって、大半の 囚人は刑期を三分の二おえたところで条件付釈放となるが、別な規則があるために早 期釈放ができない囚人もいる。たとえば、一九八七年の大統領令によれば、終身刑の 囚人は大統領の恩赦を通じてでなければ減刑措置が受けられないし、死刑から終身刑 に減刑された囚人はさらなる減刑措置を受けることができない。
政治囚が条件付釈放となるのはまれである。また条件のいくつかは、思想、表現、意 見の自由を保障した国際的な人権基準に抵触する。囚人たちは、政治的に更正したこ とを示さなければならない。ほとんどの囚人は刑務所内で政治的「再教育」を受け、 釈放前にパンチャシラ(建国の五原則)と国家に忠誠を誓うことが求められる。旧政 治囚は釈放後もまた厳しい制約を課されている。裁判にかけられなかったものも含め 、多くの旧政治囚は軍および警察当局に何年もの間定期的に報告に行かなければなら ない。彼らの選挙権、移動する権利、働く権利なども制限されている。時にこうした 制限は彼らの家族にまで及ぶこともある。
恣意的に拘禁された囚人の数は数千人にもなり、中には容疑もなく裁判にもかけられ ず一四年間も拘禁されつづけた人もいる。反乱鎮圧作戦のときには、連絡不通の状態 におく恣意的な拘禁が、反乱派とおぼしきものを脅迫したり、あるいは政治的な情報 を集めるために日常的におこなわれる。また同じことが、ストライキ、平和的な集会 、デモ、展示会などを解散させるのにおこなわれている。こうした対応は各方面から 批判を受けたため、最近では対応の仕方に変化が見られる。恣意的拘禁は短期になる 傾向がみられ、容疑者は尋問され、しばしば脅迫されたり虐待されたりするが、法の 定める拘禁時間の二四時間を守って釈放されている。これによって当局は平和的な抗 議をやめさせることができ、指導者と思われるものを脅迫し、それでもなお「法にし たがって」行動していると主張することができるのである。大規模な恣意的拘禁でも 、「国家の安全」のためとして正当化されている。
恣意的に拘禁され、軍がそれを明らかにしない場合、多くは「失踪」したことになり 、拷問されたり超法規的に処刑される可能性が高くなる。この問題はアチェと東ティ モールでとりわけ深刻であるが、「失踪」を生み出す条件は、当局が「国家の安全」 という大義をもちだしうるところにはいずこにも存在すると言える。そうした状況下 では、被拘禁者の権利を保障した法律は無視されるか、例外的な別の法律によってと ってかわられるのである。被拘禁者が「特殊部隊」という反乱鎮圧部隊に拘束されて いる場合、危険性はきわめて高くなる。あるアチェ人は次のように言った。「軍に連 れていかれたら、生きて帰れる確率は五分五分だ。特殊部隊に連れていかれたら、あ きらめろ。」

東ティモール

一九七五年の侵略以来、数千人の東ティモール人が容疑もなく裁判にもかけられず拘 禁された。そのうち数百人はその後「失踪」した。その他、一九八○年代なかばに始 まった見せ物裁判で、数百人がインドネシアの支配に抵抗したという罪で有罪となっ た。国連は東ティモールにおけるインドネシアの主権を認めていないのであるから、 インドネシアの裁判所がインドネシアへの抵抗を理由に東ティモール人を裁く権限を もっているかどうか、疑問となるところである。一九九四年なかば現在、約二○人の 東ティモール人が反逆罪、政府への「敵意表現」、その他の政治的罪によって数年か ら終身刑にいたる刑を受け、服役している。その大半は一九九一年一一月のサンタク ルス墓地にいたる行進を組織したという罪、また同月後半、ジャカルタで虐殺に抗議 して平和的な抗議行動をおこした罪による者たちである。その多くは連絡不通の状態 におかれ、尋問中、拷問を受けた。裁判中の検察官や裁判官のコメントからすると、 彼らが罰せられたのは主に国際社会に対する政府のメンツを汚したということのよう である。
一九九二年に裁判にかけられた者たちのうち、フランシスコ・ミランダ・ブランコは 一五年、グレゴリオ・ダ・クニャ・サルダニャは終身刑を言い渡された。二人ともサ ンタクルス墓地への行進を組織したとして反逆罪で有罪となっている。グレゴリオ・ ダ・クニャ・サルダニャは、彼とほかの被拘禁者は「実際の事実ではなく、取り調べ 官の意に沿うような説明をしなければならなかった」と述べている。フェルナンド・ アラウジョとジョアォン・フレイタス・ダ・カマラもまた反逆罪で有罪となった。二 人はジャカルタでの抗議デモを組織したとして、それぞれ九年と一○年の判決を受け ている。裁判官は判決文において、フェルナンド・アラウジョが有罪なのは、赤十字 国際委員会やアムネスティ・インターナショナルに人権侵害についての情報を送るな どして「国際社会に対し、インドネシア政府の名誉を傷つけ、民族を侮辱した」から であると述べた。
東ティモールにおける政治的見せ物裁判の最たる例は、東ティモール抵抗運動のリーダー、シャナナ・グスマォンの裁判であり、彼は一九九三年五月二一日に反乱と武器 の不法所持で終身刑を言い渡された。東ティモールの人権状況に対する強い国際的批 判を意識してか、政府はシャナナ・グスマォンの裁判をオープンで公正なものだと見 せようとする異例の方策をとった。選ばれた外国人記者、外交官、いくつかの国際的 な人権団体が裁判の傍聴を許された。さらに国際的な世論をなだめようとして、一九 九三年八月、大統領はシャナナ・グスマォンの刑を二○年に減刑した。しかし裁判が 始まるはるか前から、シャナナ・グスマォンが公正な裁判を受けられるという可能性 は低かった。
シャナナ・グスマォンは一九九二年一一月二○日に捕えられ、赤十字国際委員会が彼 への面会を許されるまで一七日間、軍によって秘密に拘禁された。尋問中、法律が保 証しているにもかかわらず、弁護士を呼ぶことも許されず、自分で弁護士を選ぶこと も許されなかった。法律扶助協会の弁護士たちは、彼の家族によって弁護を委任され たにもかかわらず、彼を訪れることを許されなかった。被告弁護士が任命されたのは 、一九九三年一月二六日、裁判が始まるたったの六日前であった。
裁判は国際的な基準からみても国内的基準からみても公正さを欠いていた。検察側証 人の多くはすでに政治囚であり、したがって軍当局からの不当な圧力を受けやすい立 場にあった。当局からの報復を恐れて、被告のための弁護に立とうという人はほとん どいなかった。シャナナ・グスマォンも証人の多くも法廷言語であるインドネシア語 がうまくなく、提供された通訳も不完全、不正確なものであった。また非常に重要な こととして、裁判官がシャナナ・グスマォンにその二九頁におよぶ法廷陳述のうちた ったの二頁しか読むことを許さなかったということがある。理由は「関係ない」から だと裁判官は言った。
裁判にかけられた人々のほかに、一九九一年末から少なくとも四○○人の東ティモー ル人が容疑も示されず裁判にもかけられないまま、数日から数か月間、拘禁された。 多くが家族、弁護士、赤十字国際委員会への連絡を許されず、虐待や拷問を受けたも のもいた。約七○人の東ティモール人が一九九一年一一月のジャカルタでの抗議行動 ののち逮捕され、四六人が容疑を示されないまま二ヵ月間拘禁された。釈放の条件と して、全員が、彼らがもっていた平和的な政治的信条を批判し、未来に「罪」をおか したら法による刑罰を受ける用意があると述べる供述書に署名させれらた。一九九二 年二月のアモス・ワコ国連特使による訪問の直前、治安部隊は数十人の東ティモール 人青年を拘禁し、彼らを訪問が終わるまでの間、「ガイダンス・コース(指導課程) 」に送りこんだ。シャナナ・グスマォンの逮捕は、さらなる一連の逮捕の引き金とな った。彼の家族を含む七○人以上が拘禁された。大半は連絡不通の状態におかれ、拷 問されたものもいた。さらに一九九三年九月、米国議会下院外交委員会スタッフの一 団が訪問する前にも拘禁作戦がおこなわれた。短期の恣意的拘禁は今でも続いている 。 

アチェ

一九九一年以来、「自由アチェ」との関係を疑われて刑を言い渡されたものは少なく とも五○人おり、刑期は三年から終身刑にまでおよんでいる。全員が反国家転覆法の もとで不公正な裁判によって有罪判決を受けた。そして少なくとも二四人が、暴力を 使用したこともなければ唱道したこともない、良心の囚人だと思われる。また一九八 九年から一九九四年までの間に数千人が恣意的に拘禁され、多くが「失踪」したと考 えられている。
大学講師、公務員、教師など「自由アチェ」の指導部と疑われた人々の裁判は一九九 一年三月に始まった。検察はこのグループのメンバーは「武装していなかった」こと を認めながら、彼らが「自由アチェ」の「テロ行為を計画したブレーン」であったと の容疑をかけた。このグループのいずれのメンバーも暴力を唱道したとか暴力行為を 計画したという証拠はほとんどかまったくない
裁判はアチェにおける政府の人権侵害に国際的批判があることに対し、政府は法の支 配を尊重しているということを示すという意味ももっていた。しかし、「自由アチェ 」裁判のほとんどすべての過程で、被告たちは、インドネシアの法律、ならびに国際 法において保障された最低限度の権利すら認められないような扱いを受けた。大半は 容疑も明らかにされないまま、最高七ヵ月も連絡不通の状態におかれた。裁判が始ま るまで家族の面会はほとんど許されなかったし、多くの家族が逮捕の理由や居場所を 公式には通知されなかった。
取り調べの段階ではさらに深刻な異常事態が発生した。多くの被告の自白、検察側証 人の証言などが圧力のもと、時には拷問によって、引き出されたのである。一九九一 年六月、アムネスティ・インターナショナルは、一九九○年後半以来、「自由アチェ 」参加の容疑で拘禁されていたある男性から手紙を受け取った。その手紙は軍による 逮捕、拘禁中の取り扱い、裁判などについて次のように書いている。

「(逮捕から)一五日間、軍諜報機関による尋問の間、私はもっともひどい拷問を受 けました。殴られ、たばこの火をおしつけられ、ムチで打たれ、電気ショックをかけ られ、鼻から水を入れられ、尿を無理やり飲まされ、罵言雑言をあびせかけられまし た。尋問は私の知らないこと、見てもいないようなことを自白させるためで