書評『元刑務官が語る刑務所』坂本敏夫著

三一書房(定価1800円)  事務局  永井 迅


CPRのメンバーでもある坂本さんが本を出された。密行主義が際立つ法務行政の実態の貴重な証言であり刊行が待たれていた。坂本さんのお話を聞かせてもらう機会は何度かあったのだが、もしかしたらオフレコのこともあるかもしれないと思うと、余所では話しずらかった。これで、安心して、少なくともこの本に書いてあることは出典も明記して紹介できるというものだ。

この本での重点は死刑と刑務官労働の実態に置かれている。そして、このふたつの主題が交差するところに問題は凝縮されて示される。「死刑囚の処遇の基本は『殺さず・狂わさず』である。死刑確定囚は、絞首刑以外には死ぬことが許されないのである。自殺防止のためテレビカメラの付いた特別な独房に拘禁する。……下手に刺激して騒がれようものなら、上司からこっぴどく叱りつけられる。死刑囚監房の担当刑務官は、毎日大変なストレスの中で勤務している。任期の限界はせいぜい二年である」(本書p40)
先日、福岡拘置所で死刑囚(上告中)の脱走未遂事件があり、それに協力したとされる看守が逮捕された。新聞報道によればその看守にも「職場全体に対する不満があった」とのことだが、まさに彼の「限界」だったのかもしれない。もとはといえば死刑が良くない。極刑を課せられた者がそれこそ「必死」の力で脱走を図るのはしかたがないじゃないか……とも言いたくなるのだが、拘禁を使命とする監獄当局にあっては、脱走はそのアイデンティティに関わる「言い訳無用の大失態」だ。この事件が契機になったと思われる死刑囚処遇の管理強化をすでに伝え聞くが、刑務官に対する締め付けは一層厳しくなっているだろう。囚人への管理強化は必然的に刑務官の管理強化をもたらすのだ。そして、それが、問題の解決にはほど遠い、むしろ、逆行する対策であることを、坂本さんの本は示唆する。
坂本さんは1970年頃と1980年代前半に二つの管理強化の波があったと分析している。前者は「日々過激になっていく、先の見えない公安事件対策のため、緊急・臨時的な措置」(p149)として、後者は「平均年齢が一気に十数再歳も若返る刑務官世代交代期」(p158)で「未熟な刑務官が起こす収容者との増収賄事件などの不祥事故が多発し、危機感を持った」(p156)対応として。今、第三次の波が高まっているのではないか。

 さて、この本では、刑務官が手をやく困った囚人の話も出てくる。刑務官が日々向き合う問題として、けっして面白おかしく描いているわけではないだけに、考えさせられた。「人権」を現場で具体的に保障することの大変さということについてだ。
「軍隊式の行進、無断離席、脇見、雑談の取り締まり」等を導入強化し、獄中体験者の間で今なお伝説的に語り継がれている小田勉氏についても、1963年「当時広島の町は、有名なヤクザ抗争、仁義なき闘いが繰り広げられていた。終戦直後に建てられた木造で、脆弱粗悪な拘置所は広島ヤクザに席巻されていたのである。夜、屋台のラーメン屋が拘置所の前を通ると看守がラーメンを買いに走った。被告のヤクザが注文したものだった。昼は舎房の廊下でたむろし、被告の部屋を決める配房もヤクザのいいなりだった」(p157)というような背景を読むと、小田氏が命を受け徹底した管理強化で立て直しを図ろうとしたことにも理由があったのだとわかる。少なくとも単に彼の加虐趣味が問題であったかのようにその個人を非難して足りる問題ではないだろう。小田氏はその時代の社会の要請に応えたことによって「部下の多くは信奉した。教祖的な存在にもなった」(p158)のである。
それは、私たちが社会から「困り者」=「犯罪者」を「監獄」に追放しておいて、次には外野から「被拘禁者の人権」を語ることの矛盾を直視させるものでもある。行政の現場にたずさわる人々は私たちの活動を「外で勝手なきれいごとを言っている」と苦々しく思っているかもしれない。しかし、外からだからこそ見えること、外からだからこそ言えることもある。私たちはそれを言うし、内部からしか見えないこと言えないことを坂本さんに続いて声をあげていただきたいとも思う。
この問題は難しいが、「監獄」もまた、私たちの社会の一部であること、そこで生活する獄中者、そこで働く刑務官たちもまた、私たちの隣人であることの理解から出発するしかないだろう。そのためにも本書を多くの方に薦めたい。