Mr R

東京拘置所エジプト人被収容者に対する
暴行虐待国家賠償請求訴訟

東京高裁が画期的決定
丸山敦朗(東京弁護士会)


 エジプト人R氏の国家賠償請求訴訟については、すでに本通信Vol.8で訴訟の経過をご報告しました。R氏は、検察官の誘導により虚偽の自白をさせられ1993年6月から1995年5月まで無実の罪で東京拘置所に収容されていましたが、そのとき、スペシャルルームと呼ばれる極めて不衛生な独房に収容され、大勢の看守から陰湿な暴行を受け保護房に収容されるなどの不当な扱いを受けたため、1994年11月に国家賠償請求を起こしたものです。
 右訴訟は東京地裁民事28部に係属しましたが、同部はスペシャルルームの存在や暴行の事実の解明に極めて消極的で、原告のR氏側がスペシャルルームの衛生状態の検証や同氏の診療記録などの提出命令を求めたのに対して、昨年12月どちらも却下する決定を出しました。当然ながら原告側はその取消しを求めて直ちに抗告したのですが、これに対して東京高裁14民事部が今年3月26日に示した判断は、原告側の抗告の大部分を退けたものの、診療記録の提出についてだけは抗告を認め原審を取消すというものでした。
 もともと拘置所や刑務所の医務室の診療記録は、被収容者が医師の診察を受けた時に作成されるものですから、虐待・暴行によって負傷した被収容者が医師の治療を受ければ、必ずどのような症状であったかが記載されます。本件のような訴訟では、暴行の事実を証言してくれるような目撃者を得ることは大変困難ですから、負傷状況が直接記載されている診療記録は極めて貴重な証拠となります。それが、法廷に提出されるかどうかは訴訟の行方を左右するほどの重要な意味を持つわけです。そのため、これまでの同種の訴訟では、原告側がその提出を強く求めるのに対して、被告の国としては頑なにその提出を拒むのが通例となっていました。
 ところで、診療記録のような文書の形を持った証拠については、それが任意に提出されない場合には、裁判所から提出を命じてもらう文書提出命令という制度があります(民事訴訟法312条)。真相解明を求める原告側としては、国が任意に提出をしないときには、この文書提出命令の申立をして状況を打開しようとするわけです。しかし、文書提出命令を出すには一定の要件を満たす必要があり、これを満たさなければ容易に命令は出してもらえません。そこで当然、国としてはこの要件を満たすことないよう細心の注意を払って訴訟に臨みますし、いろいろ理屈を付けては要件を満たしていないと言って提出命令を回避しようとしますから、実際に提出命令が出されるケースというのはあまり多くありません。本件の訴訟で地裁民事28部が提出命令の申立を却下した背景には、以上のような事情があるのです。  しかし、それにしても地裁民事28部が出した却下決定は極めて理不尽な内容のものでした。
 まず第1に、本件の訴訟で国は診療記録の提出を全面的には拒否せず、拘置所の拘禁業務に支障のない範囲で提出に応じるという態度を示しました。ところが、実際に国から提出された診療記録というのは大半が黒く塗りつぶされて判読不能にされたもので、ほとんど提出する意味がないのではと思われるような代物でした。国の言い分によれば本件の訴訟に関係のない部分と拘禁業務に支障がある部分を抹消し、その残りの部分を提出したのだということのようです。しかし、提出された記録では、実際に診療を担当した医師の名前記入欄がすべて抹消されているなど、暴行の証明に結びつく可能性のある事実の記載について極めて恣意的な抹消が施されているといわざるを得ない状態でした。常識的に考えれば、このような抹消が施されている文書におよそ証拠としての価値など認めることなどできません。
 ところが、あろうことか地裁民事28部は、このような惨澹たる内容の診療記録の提出を是認する態度を取り、抹消されていない部分の記載から一定の事実を読み取れるから、改めて全部の提出を命令する必要はないという判断をしたのです。何の納得いく根拠も示されず、一方的に真っ黒に塗りつぶされた文書を見て、一体誰がこれで十分だなどと判断するでしょうか。およそ、通常の感覚に基づいた判断だとは思えません。高裁14民事部はこの点を厳しく指摘し、地裁民事28部の決定を取り消したのです。高裁14民事部のこのような判断は極めて常識的なもので、国の姿勢に対する警告の意味を持つものといえます。
 また第2に、高裁14民事部の決定は民訴法312条3号にいう「法律関係文書」の意味について新しい判断を示した点でも画期的な意味を持ちます。つまり、ある文書が文書提出命令の対象となるには、それが同条1号から3号までに掲げられた一定の文書に該当するといえることが必要なのですが、この高裁決定で初めて拘置所や刑務所内の診療記録が同条3号の文書に該当すると判断されたのです。これまで、本件のような訴訟で診療記録の提出命令を申立られるのは、同条1号の「引用文書」にあたる場合、すなわちその文書が裁判における主張の中で引用された場合に限られていました。ですから、国が巧みに診療記録の引用を回避すれば、提出命令はなかなか難しいというのが実情だったのです。それが、この高裁決定によれば、主張に引用されなくても同条3号の文書として提出命令を申立られることになったわけですから、拘置所や刑務所で暴行を受けた被収容者が本件のような訴訟を提起する場合に、非常に心強い武器を与えてくれたといってよいでしょう。
 ちなみに、現在、民訴法の改正作業が進んでいますが、文書提出命令に関する規定については、裁判所が提出を命令できる範囲を限定しようとする動きが表面化し、大きな問題となっています。HIV訴訟や原発もんじゅ事故などで行政の情報隠しが明らかになり、情報公開制度の整備が急務となっているときに、これに逆行するような民訴法改悪の動きは断じて許すことはできません。この動きを阻止できなければ、以上の高裁決定で文書提出命令を使いやすくなるどころか、提出命令制度自体が意味を失ってしまう恐れがあるのです。