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相模川倶楽部では通信を発行しています。
寄稿された記事から抜粋です。
 皆さんもどうぞお便り下さい。

 私と川との最初の出会いは柏尾川である。柏尾川は戸塚区北部を源流として片瀬海岸に流れ出る都市河川である。小学校卒業まではJR大船駅から歩いて十分ほどの現フラワーセンターへの途中へ住んでいた。家のそばを流れていたのが柏尾川である。

 当時(昭和13年頃)の柏尾川にはシジミ、カニ、カラスガイ、エビ、ウナギ、フナなど多彩な生き物が棲息していた。しかし「清流」ではなかった。「水清ければ魚すまず」の諺のように。当時は下水道も完備してなかったため、生活排水が流入していたと思う。あちこちに原っぱがあって、そこが格好の遊び場であったし、家の数も少なかった。それで流入汚水も川の水を汚すほどではなかったのであろう。それでも「川へ入るな」と母親から言い聞かせられていて、入ればお灸をすえられたものだ。

 川の氾濫も二度ほど経験した。床下ですんだものの衛生上よくない結果が住民を苦しめた。だから川の思い出は決してよいものではなかった。
 敗色濃厚の昭和19年、学童疎開が盛んになってきたのにあわせて、郷里の今の居住地、荻野(厚木市)に落ち着いたのである。当時は荻野村で全くの僻地であった。

 荻野川と村人との関係は密接で、川は野菜や洗濯物を洗う場所であり、ご婦人方の社交場でもあった。川の水はきれいで浅い所では砂や砂利をざるですくっては、シジミを拾いあげることができた。

 夏になると、川へ行けばホタルの乱舞が見られた。文部省唱歌に“蛍”があるが、その1番の歌い出しは「蛍のやどは川ばた楊」である。この“楊”はネコヤナギのことで荻野川の川ばたにも、ごく普通に見られた。因に“柳”はシダレヤナギのことで、日本にはもともとなく中国の原産で、日本で見られるものはすべて植栽したものである。東京行進曲に「昔恋しい銀座の柳」とあるのも“柳”で“楊”ではない。川ばたにはその他オニグルミ、ササ、タケなどが連なって繁茂し、天然の堤防として機能していたのである。

 清い川の荻野川も川底が浅いこと、堤防が低いことなどの理由で、大雨が降ると氾濫して我が家で耕作していた水田へ土砂が流入したことを一度経験した。この土砂を除去することはたいへん重労働であった。

 昭和30年頃からは高度経済成長の波にのって河川改修が始まって、荻野川も川底を下げたり、両岸をコンクリートでかためたり、急なカーブはこれを真直にしたりして大改造がなされた。昔懐かしい蛇籠は消滅し、生き物たちのすみかは失われた。しかし思わぬプレゼントもあった。それは真直にしたために残された川の跡が河跡湖となり、コサギやアオサギなどがすみつき、広町公園として整備され荻野地区住民の憩いの場所となっているからである。

 このうような河川改修等の結果、川ばた楊などがなくなり、蛍のやども八戸田へと追いやられた。数こそ少ないものの今でも八戸田へ行けば、蛍狩りを楽しむことは可能である。

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