バリアー・フリーとユニバーサル・デザインの違い 〜排除することとつつみこみあうこと〜          2002.6


先日(5/28,29)、日本学術会議主催の「設計工学シンポジウムー21世紀のデザイン・ビジョン」が行われた。「デザイン方法論の展望」に始まり、モノの生産現場から環境アセスメントに至るまで、幅広い領域にわたっての発表・討論があった。小生も「コラボレーションデザインー市民・専門家・行政の創造的対話のプロセス」についてプレゼンテーションを行った。

早稲田大学の門内輝行教授は、デザイン方法の新しい時代の転換の象徴的表現として「つくることから育てることへ」を強調され、「まち育て」の視点と軌を一つにしており、深く共感するものがあった。加えて、この日心ゆさぶられる発表にふれたのは、一級建築士事務所・アクセスプロジェクトの川内美彦氏の「ユニバーサル・デザインのこれまでとこれから」であった。

書物を通して存じあげていたが、車いすとともにある川内さんのファースト・インプレッションはきわめてさわやかであった。つつましやかなお人柄に触れるとともに、いただいた名刺のたて方向の端には、9cmのミリ単位の目盛が表現されており、そこには誰もがなめらかに自由に移動できるまち・関係を育もうヨの志がにじみでていると思った。

日本学術会議の講堂はスリバチ状で階段が多い。彼は発表に際して最後尾から一段一段と介助されながらおりていかれた。開口一番、「車椅子で大変ですネ、とよくいわれますが、そうではありません。大なり小なり、誰もが何らかのハンディをもっているとしたら、車椅子人間だから大変と特別視するものの見方は問い直さなければならない・・・」という意味のことをいわれた。

加えて、スライド映写で公共交通空間における数々の実態を示し、次々とバリアー・フリーの本質的問題点を浮き彫りにされた。第1に、「車いす専用」という手段によって、車いすは使わないけれど階段の昇降に困難がある人を排除してしまう。第2に、「障害者専用」というやり方は他の人と異なる手段を用いるので、障害を不必要に強調することにつながる。第3に「障害者専用」という手段では、特別な専用通路を作ったり、特別な専用待合室を設けることにより、障害者の姿を隠ぺいしたり隔離したりする。第4に、「障害者専用」の手段の「介助依存システム」は、障害のある人を無能力扱いしてしまう恐れがある。

こうした諸現象は「あの人たち」と「私たち」の差別を助長する。そうなるのは「専用」という考え方が、根本的に他者の利用・かかわりを排除する、exclusiveな性格を内在させることにあるのだと、ぼくは川内さんの話に触発されて思った。お互いに尊重しあう、関係づくりのためには、exclusiveではなく、むしろ、inclusive、即ち、おたがいにつつみこみあうという視点が大切なのだと思う。

「バリアー・フリー」は「あの人」と「この人」の間にイクスクルーシブな排除しあう関係をもたらすのに対して、相互にインクルーシブにつつみこみあい、誰にとっても居心地よく利用できる状況づくりが「ユニバーサル・デザイン」なのだ。

バリアー・フリーは、「障害者専用」(そうでない人の排除、イクスクルーシブな関係が同時的にもたらされる)の手法によって「いかにつくるか」(how to achieve)を追求する特徴がある。一方、ユニバーサル・デザインは、「あの人」も「この人」もともに使いやすい、ともにつつみこみあうインクルーシブな関係づくりを目指して「何をつくるか」(what to achieve)に特徴がある。

このシンポジウムの最後に、「デザイン・ビジョン提言」がなされたが、そのひとつに「ポスト工業化社会では、デザイン概念の質的転換を図るべきである、そこではいかにつくるかということよりも、何をつくるかが問われる。」がかかげられた。このことは、バリアー・フリーよりもユニバーサル・デザインが問われるという川内氏の発話内容と響きあっていた。

バリアー・フリーの「手法」はつくることに重点があり、ともすれば技術的、制度的アプローチにおちいりがちでヒトをモノ扱いする問題が露呈される。しかし、ユニバーサル・デザインの「態度」は、むしろ問題解決に向けて、多種多様な主体がコラボレーションの関係を育み、「あの人」も「この人」も育ちあう、人間も環境も進化するという「まち育て」のプロセスに重点があり、ヒトありき、クラシありき、イノチありきの発想をふくらませる。

川内さんからたくさんのことを触発された。そのうち千葉でのまち育ての現場で川内さんとごいっしょしてみたいと思いつつ帰路を急いだ。



延藤安弘


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