代表のぼやき

2009.12


事業仕分けに思う

 事業仕分けが終わった。スパコンの「世界一を目指す理由は何か。二位ではだめなのか」には、ノーベル賞学者たちが勢揃いして、事業仕分けの不見識を批判した。その様子は繰り返し報道されたが、同じノーベル賞学者たちが、鳩山首相に「教官に配られる研究費を学長、学部長がピンハネし、研究者のところには1/10くらいしか来ない」と、予算配分のシステムに言及していたことはあまり報道されていない。スパコン予算への批判も、スパコンの開発の是非そのものよりも、スパコンを開発する体制、開発への哲学が問われたのではなかったのか。短時間での仕分けが批判されたが、意外に深く凝縮された議論になっていたのかもしれない。ともあれ、仕分けが、国会審議でもわからない予算編成のカラクリを白日のもとにさらした効果は大きい。
私も、自分の関係する領域がとても気になった。中心市街地活性化の予算に関わる「中小商業活力向上事業」と「戦略的中心市街地等活性化事業」である。そこで、経済産業省のホームページに意見を書き込むことにした。以下は、その意見である:

1)地方都市の中心市街地活性化はこれからの日本に不可欠の事業である
都市はコンパクトで中心があるべきというテーゼは、雪かき費用を考えるとわかりやすい。しかし、単に雪かき費用や商店街衰退の問題からくるのではない。都市には、市民が誇りに思い、集まることのできる中心が不可欠である。都市生活をエンジョイするためだけでなく、市民が自治体を営むために、言い換えれば民主主義が草の根から成立するために不可欠である。もともと都市に中心があるということは、都市のもっとも重要な構造上の特徴である。それぞれの都市が魅力的な中心を誇り、外からの人を魅きつけてきた。対して、今日のわが国の地方都市の中心部は、必ずしも魅力的であるとはいえない。しかし、昔から魅力を欠いていたのではない。たとえば、高松市の中心市街地で、現在再開発に取り組んでいる丸亀町商店街は、400年間にわたり高松市の中心街であった。ところが、郊外に大型店が出店したことにより、投資が減少、魅力を失っていった。一方、郊外では空家の増加が目立ちつつある。今や、中心市街地も郊外も両方が衰退しはじめた(四国新聞連載「まちのかたち」から)。栄えているのは、駐車場に囲まれた疑似都市・ショッピングセンターの中だけ。あるべき公共空間の衰退・解体は、民主主義社会の存亡に係る。

2)支援は合理的に行うべき
中心市街地活性化への支援は、投資として行われるべきである。言い換えれば、税収としてのリターンが期待できない事業は支援すべきでない。支援にあたっては事業の見通しを的確に判断する必要がある。右上がり時代に計画した都市再開発事業をゾンビのように蘇らせることは避けなければならない。「冷静な頭」と「熱い心」でその都市にふさわしい中心市街地像が描き出されるべきである。

3)国による支援が不可欠
地方が自主財源を使える地方分権は重要だが、全日本的な重要課題については戦略的に国が重点的に予算を配分する措置は今後も必要である。特に、環境、農業、都市開発の三分野は、補助金の交付金化で自治体の自主財源を増やしたとしても、予算は不足するであろう。問題は、そのような予算がやがてあっちもこっちもというバラマキに堕してしまうことである。それがバラマキにならないようにすることこそ、本来の政治の課題と言えよう。
正論でしょう。でもどの事業も同じような主張をしているのだろうな。だとすると2)を強調したい。2)によれば、投下した補助金は税収で回収される(利便性とか安全性の向上とか、曖昧な基準でお金に換算して費用対効果を計算する必要はない)。でも、予算の箇所付けにおいて適切な仕分けが出来るのだろうか。すぐ思い浮かぶのが乱立した飛行場だ。飛行場も需要予測を根拠に建設されてきた。もちろん、建設を前提に甘い予測が行われたのである。このことは、わが国では、甘い予測を指摘して、事業を止めるとか変更するチェックがきわめて困難なことを示している。背景にあるのは、あいつにやらせるなら、俺にもやらせろという横並び意識か。はたまた、事後の運営より、ともかく工事で稼ごうという土建国家体質か。このような場合、政治は、少なくとも今まではバラマキに加担してきた。新しい政治は、この問題を超えることができるのだろうか。


千葉まちづくりサポートセンター代表・福川 裕一

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