代表のぼやき

2008.08


建築の意味

  「見渡す限りの焼け野原の中に、亡くなった方の死骸が累々として埋まった市街地がある。そこに何を描くか。ぼくには、被爆し、戦後は原水爆禁止運動に身を投じた姉がいた。原爆で皮膚がはげ、赤マントを羽織っているかのごとく歩いている人がいた。皮膚が落ちた人が川にいた。そのような風景を忘れることはできない。設計の原点は、そういう言葉にできない理不尽さ、人間の犯した罪にどう応えるかです。しかし、答えをもっていない。つまらない造形では困る。問題は「建築はなぜ人間との関係をもつのか」です。それは、建築は人間の生存の拠点であるということです。拠点であるから、家を失うとみんな路頭に迷う。そこが復興しない限り、再生できない。建築が人間の生存を支えていることが、戦争で不幸にして露呈した。建築は尊いものだと自信をもつことができた。僕は、あの原爆センターの基本は、原爆でなくなった方の墓標だと思っています。全ての敷地が墓標なのです。中心にある池の北側に木が植えられています。碁盤目のように幾何学的に植栽されていますが、あれは、亡くなった方の墓標として植えたものです。そこへ中心のレリーフを置き、礼拝の場所をつくった。この土地が亡くなった方の墓標だということを忘れないようにという意味でつくったものです。」
私の恩師は建築家の大谷幸夫先生である。戦後の最初の仕事が、丹下健三のもとで行った平和記念公園と資料館の設計であった。その時の様子をうかがった。
今回、お話をうかがうまで、不覚にもお姉さまが被爆したことは知らなかった。お姉さまは副島まち子さん。その手記は『日本の原爆記録』(家永三郎ほか編、東京図書センター、1991)に「あの日から今もなお、母の広島原爆史」として収録されている。生々しい被爆当時の様子が克明に描き出され、大谷先生の言う原点が再確認される。
「その前に、広島の戦災復興計画の委託があり、その調査に僕も連れて行ってもらった。その時に広島という都市はどのようにできたのか。原爆でぐちゃぐちゃになっているから、その組み立てがわからないと何もできない。原爆で焼かれた町を、少ない資料を手がかりに、ここは酒屋があった場所だと確認しながら、広島という都市がどのような考え方で作られたかを考えていった。そして、東西南北の軸線によって組み立てられていることに気がついた。中国山脈が東西にはしり、北は日本海、南は瀬戸内海で、水と山に囲まれている。中国山脈に降った雨は川になり、それに沿って集落があった。そして、それらを東西に繋ぐ街道が出来ている。そういう自然がもっている物語を素直に読んだ。広島という土地が東西南北にドラマをもっている。その中心に原爆を落とされた。そこで、新たな中心をつくるときは、これまでの東西南北のドラマに何かを加えてつくろうとした。」
「資料館は高床式倉庫です。あのピロティは、ねずみ返しとか、そういう穀物の倉庫からきている。正倉院と同じように、重要なものを保管する倉庫です。原爆の資料を収蔵して、展示する。正面から入ると、陳列館はゲートです。ゲートであり、蔵である。だから、正倉院をてがかりにして、造形を考えれば良いと、我々の中では考えていた。」
この設計はコンペであった。丹下チームは、単に敷地の中にとどまらず、広島という都市のその後を決定づけるプランを描き、競技に残った。今は当たり前のように見える原爆ドームを焦点に据えた軸線はこうして生まれた。平和記念公園と資料館は、20世紀の建築および都市デザインの大きな成果に見える。世界遺産は原爆ドームに限定されるべきではなかったのである。

千葉まちづくりサポートセンター代表・福川 裕一

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