代表のぼやき

2006.10


美しい国  
 「美しい国創り内閣」だそうだ。私たちも「美しい都市」の実現を主張してきた。しかし言うまでもなく、安倍政権の「美しい国創り」と私たちのめざす「美しい都市」は正反対を向いている。

 安倍の政権構想には「歴史遺産や景観、伝統文化等を大切にする」とか「美しい国土の総合的な再生プラン策定」が盛り込まれているが、著書『美しい国へ』には、国土、都市、町並み、環境など目に見える美しさへの言及はほとんどない。組閣後の首相としての最初の記者会見でも冒頭発言では美しさには直接触れず、質疑応答の中で「美しい自然や日本の文化、歴史、伝統を大切にする国だ。しっかりと環境を守っていく」と述べるにとどまった。もちろん「美しい国」が目に見える美しさだけを言っているのではないことはわかっている。応答は、「環境を守る」と述べてすぐに「そういった要素の中から培われた家族の価値観を再認識していく必要がある。自由な社会を基盤にして、しっかりと自立した凛とした国を目指していかなければならない。そのためにも教育改革は必要だ」と続く。

 美しい国とはどういう国なのか。明確に描き出されていないが、主張は次のように要約できよう:「美しい自然に恵まれた、長い歴史と独自の文化をもつ日本には、日本固有の家族の価値観などがあり、そのことを再認識する必要がある、そうすれば国民一人ひとりが、日本人であることに自信と誇りをもって努力し未来を切り拓くことができるようになる。」なるほど。ということは、逆に、そのような再認識をすることこそが「美しい国創り」にほかならない。そして本当に言いたいことは、そのような再認識を妨げる思想や考え方があり、それを正していくことこそ「美しい国創り」の条件だということであろう。障害となる思想や考え方が政権構想で「戦後レジーム」と呼んだものにほかならない。こうして「戦後レジーム」の象徴とも言える教育基本法そして憲法の改正が前面に押し出される(ここになぜ、美しい国を壊してきた公共事業が含まれないのだろうか)。そして補佐官を含む安倍政権の中枢に国家観を同じくする保守主義者たちがズラリと並べられた。 
 それにしても、壊してしまった具体的な「美しい国」をどのように再生するか、逼迫する環境問題へどう対応するかについてはおどろくほど関心が薄い。教育基本法や憲法を改正しても、美しい都市や農村が自動的にできるわけではない。「美しい国」 が単なるイメージならばともかく、観光立国も政策課題のひとつだというならば、何よりも都市と農村が美しくならなければ「美しい国」は覚束ない。しかしそのための政策が、従来型の規制緩和、都市再生、公共事業だとすれば、今までと何も変わらない。「美しい国創り」とは単に、国家主義イデオロギーの構築にすぎなくなる。特に、規制緩和は何とかしなければならないではないか しかし、この点では安倍政権は小泉改革路線を継承するのである。ここに大きな矛盾がある。つまり、安倍政権は、個人主義・市場原理主義である米国型保守主義の小泉改革路線と国家・伝統重視の保守主義という矛盾した思想を抱え込んでいる。これでは、実際に美しい国をつくることはできない。目に見える美しい都市や農村ができなければ、本当の意味で彼らの狙いとする家族の価値観が培われることもないだろう。

 私たちは、都市が美しくなければいきいきとした市民社会が成立しないと考える。逆に、自律的な市民の自治がなければ、美しい都市はできないと考える。両者は相互規定的だ。わが国に、自律的な市民が十分に育っていないとすれば、その責任は教育基本法や憲法にあるのではなく、その理念の実現にたえずストップをかけ妨害してきた旧来の保守主義=官治主義にある。しかし官僚支配の打破を標榜する新しい保守主義もまた、社会的ダーウイニズムがその属性であるから自律的な市民を創りだすことはない。総理はあまり関心がなさそうだが、そのスローガンから都市再生や景観、そして環境に今後も何がしかの予算が割かれるであろう。私たちは、それらを利用してしっかりと市民のパワーを蓄え、国家主義に備えなければならない。なお言えば、環境問題は一般に思われているよりも待ったなしの状況に来ている。環境問題へ市民が協働的に取り組むことこそが、社会的共通資本や公共財についての人々の規範意識をつくることにつながる。少し長期的に見れば、国家の解体、地域の自立がトレンドである。偏狭なナショナリズムは不要である。
                                     以上

 

千葉まちづくりサポートセンター代表・福川 裕一

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