代表のぼやき

2006.07


選択と集中  
「選択と集中」:「自己責任」や「結果平等より機会平等」などとともにあるべき社会のスローガンとして最近よく使われる言葉である。実は私も便利に使ってきた言葉のひとつだ。すべての仕事に同等の力を割いていたら、すべての仕事が中途半端になる。勢い、自分が大切だと思う仕事を選択し、そこに集中せざるを得ない。つまり、自分のやりたいことに勢力を注ぎ、他は適当にすませるためのへ理屈である。だから、ほかの言葉ほど反発を感じていなかったのだ。だが、やっぱり不用意に使わない方が良い言葉のリストに加えるべきだと思うようになった。
「選択と集中」のすさまじさを実感したのは、6月の末、ポーランドウーチで開かれた歴史的環境に関する会議で、東京都心の歴史的建物の保存について報告しようと準備をしていたときのことだ。東京・丸の内では、ともかく建物全体が遺されている建物は4棟しかない。東京駅(1915)、東京八重洲ビル(1928)、東京中央郵便局(1931)、明治生命館(1934)である。いわゆるファサード保存(われわれはカサブタ保存と呼んでいる)を行った銀行協会(1917)と工業倶楽部(1918)を加えても6棟。1971年、オイルショックの直後、保存がブーム化しかけた1974年5月に、『都市住宅』という雑誌が丸の内特集を組んでいるが、そこでは19棟の歴史的建物が記録されていた。丹下健三の都庁舎を加えれば20棟。チャンと遺っているのは1/5だ。そして遺された4棟についても、東京駅と重要文化財に指定された明治生命館を除いて風前の灯火だ。八重洲ビルを含む3棟2ブロックの再開発が決定済みである(この再開発では1969年に壊した三菱一号館(1894)が復元される!?)。中央郵便局も再開発計画が浮上、関係者による緊急シンポジウムが開催された。国家と資本は遺し資金を「集中」すべき建物の「選択」をとっくに終え、着々と「再開発」を進めているのである。リストに含まれる建物はほんの少数。身近な町並みをつくってきた「B級」は含まれない。たとえば、お茶の水・マロニエ通りの文化学院は含まれていない。そして多くの人々の願いもむなしく、千代田区景観条例・重要景観建造物である建物は取り壊された(正確には工事に支障のないワンスパンだけを遺し、その扱いは今後の協議にゆだねられる)。鳴り物入りの景観法とは何だったのか。これを欺瞞と言わずして何と言おう。
しかしこれは「選択と集中」の怖さのほんの一例だ。「できん者はできんままで結構。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養ってもらえばいいんです」。ゆとり教育をうたう学習指導要領の元になる答申を書いた教育課程審議会会長・三浦朱門氏の言葉である(斎藤貴男『分断される日本』角川書店、2006.6)。「ゆとり教育」が、実は「選択」されたエリートに教育資源を「集中」する「エリート教育」推進のための手段であったことが明らかとなる。「エリート教育とは言いにくい時代だから、回りくどく言っただけの話だ」。ジニ係数などの指標を使って、一見科学的に格差社会であるかないかの議論が行われている。しかし、これが目くらまかしであることは一目瞭然であろう。「優秀な頭脳があれば貧乏でもエリート教育が受けられる、それはそれでいいのでは」と思ったあなたは甘い。集中的な教育投資の恩恵を被るのはすでに恵まれた層なのである。圧倒的多数は「ゆとり教育」に分類される。でなければ、二世議員が跋扈する現在の政治状況を説明できないではないか。

千葉まちづくりサポートセンター代表・福川 裕一

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