これはかつて「週刊アンポ社」(ベ平連が作った有限会社)が発行していた『週刊アンポ』に掲載された支持者からの小説です。すべて、原稿料無料で『週刊アンポ』のために提供されたものです。

(『週刊アンポ』 12 1970420日号)

(注 以下の文中、ゴシック体の文字は、原本では傍点だった。) 

 

辻   邦 生

 あの時私にできたことは一体何だったろう。

 たしか四月終りの、妙に晴れわたった、暑くなりそうな感じの朝だった。人々はもう汗ばんで、ぎっしりつまり、動かずに、待ちつづけていた。胸のボタンをはずそうとしている男もいたし、ネクタイをゆるめている会社員もいた。だが、問題は何がおこったのか、誰にもわからないことだった。私は駅の改札口からプラットフォームまで渡っている長い陸橋のうえにいた。左右はタテ羽目の板壁になっていて、手をいっぱいのばした辺りに窓がついている。ガラス窓はあいていたが、狭い橋のうえはぎっしりの人で、まるで真夏のような暑さだった。右を見ても左を見ても通勤者の群だった。退職間近かの男もいれば、鼻のあたまに汗を光らせた若い娘もいた。しかし誰も何がおこったのか判らなかった。それに、どうやら改札口からは、後から後から、通勤者が入ってくるらしい。いまでは身動きできないどころか、胸のあたりが刻々に重苦しく圧迫されてくる。「いったい何がおこったのだろう。どうして先へ進まないんだろう」私は思わずそうつぶやいた。「だめだ、だめだ。押したって、だめだよ」「いったい、何してやがるんだ、前のほうじゃ……。俺たちぁ遅刻してしまうじゃねえか」「遅刻くらい、大したことぁ、ねえですよ。こちとらは、おまんま、食いあげだぁ……」怒りや焦燥が身体ごと伝わってきた。

 「ちきしょう、どうしやがったかな」

 「まあ、急いだって仕方ありません。戦争中のことを考えてごらんなさい。あの頃は」「あの頃は、ひどうござんしたね。私は千葉に買出しにいって……」

 「私のほうがひどかったかもしれませんなあ……私は上州で……」「ところでいったいどうしたのでしょうかね。誰か先のほうのことを報せてくれればいいのに。アナウンスくらいすればね……」

 私は窓の外を見た。ひばりが鳴いていた。私は四年ぶりで遠くから帰ってきたばかりだった。だから、いつも駅がこんな風なのか、時々こうなるのか、それとも今朝が特別なのか、さっぱりわからなかった。窓の外にひばりが鳴いているのに、どうして私たちがこんな狭い橋のうえに閉じこめられているのか、それがなんだか奇妙な感じだった。

 「苦しくありませんか」停年間近かの男が私に言った。「いや、苦しいですね。苦しいどころか、息をするのがやっとです。鳥にでもなって飛び出したい気持です」「鳥にですか」「ええ、あそこに鳴いているひばりみたいに」「ひばり?あ、なるほど、ひばりが鳴いていますな。今まで気がつかなかった」ネクタイをゆるめた会社員が言った。「あなたは余裕がありますな」「私は遠くから帰ってきたばかりなので、様子がわからないんです」「そりゃ、わかりませんよ。遠くから帰ってきたのではね。何から何まで様子が変りましたからな」停年間近かの男が言った。「遠くから帰ってくるのはいいことですよ」「様子がわからないことがですか」「いや、ここにいたって、様子などわかりませんよ」「ほんとに、どうしたんでしょう」「前のほうの人はわかりませんか」「どうやってわかるんです」「どうやってって、たとえば、順々に、前の人に、どうしたんだ、って訊いてみたらどうです。そして答をまた後に順送りにするんです」「いや、答がわかると、誰も後の人に話しませんよ」「話しますとも。話すのが人間の本性なんだから」「そうかな、でも前のほうの人も、わからないんじゃないのかな」「そうだよ。わからんことばかりだからね。黙って待つことですよ」「だが、私は遅刻してしまいますよ」「こちらはおまんまの食いあげだからね」労働者風の男が言った。「なにしてやがるんだ」怒りをふくんだ声が人波のあいだに聞えた。人々の顔がぐらぐら揺れ、力をいれなければ息ができないほど私の身体に圧迫がきた。「そんなに、どなるなよ。よけいに暑くならあ。みんなお互いさま我慢しているんだ」「ひとこと、アナウンスぐれえ、したっていいじゃねえか」「駅長は何をしているんだ」「文句を言ってやれよ」「どうやって言うんだ。それができるくれえなら、もう出口に行ってらあ」「そんなにツノを立てるものじゃない」「ツノだって立とうさ。こう待たされちゃ」「だいたい橋が狭すぎるんですよ」「通勤人がふえてますからね」「この町だけで戦後は二十倍にふくれあがったそうですよ」「地代もあがりましたね」「いや、凄いを通りこしてこわいようだね」「地主の誰々さんはずいぶん儲けたそうですね」「脱税であげられたんじゃないですか」「町会がからんでるつう話ですな」

 私は言った。「橋が狭すぎて、人間がふえて、誰か対策を講じてるんですか」

 「あんたは冷静ですな。私たちはそんなことをいつも話してるんですよ。でもすぐ世間話になっちゃって……」「非科学的なんですよ」「論理がないんですな」「この人は遠くから帰ってきたから、のん気なんですよ」「いや、無責任なのさ」誰かが私の背後で言った。気まずい沈黙がおりてきた。橋の通路は暑気と人いきれで、むんむんし、額に汗がにじみだした。私はあちこちで人々がひそひそ話すのを聞いた。それは声にならなかった。何か眼に見えない電気のようなものが私たちの間にみちてきた。それは何か実体のあるもののように、私たちの間を匐いまわった。私はそれに抵抗した。しかし、それは私の眼にじっと見入って言った。「この橋は実に古いんです。五十年以上もたっているんです。こんな大勢の人が、これほど長くのっていたら、こわれないはずはないじゃありませんか。いまにこわれますよ。いまに……」

 「ばかばかしい」私は首をふった。「きしんでいるでしよう?」その声は言った。私にとって、問題は、きしんでいる音を聞くことではなかった。その声の正体をとらえることだった。「何者だ? 誰がそんなことを言うのだ?」しかし声の正体は不明だった。私は必死でそれに抵抗した。「ほら、きしんでいるでしょう。橋の一番老朽した部分がこわれはじめている音ですよ」

 私たちは妙にしんとしていた。私のなかで、自分を支えていた何かが、音をたてて折れたような気がした。そのとき、突然、恐怖が私の首すじをつかんだ。それは電流のように人々の間に伝わった。若い女の鋭い悲鳴が聞えた。惨事がおこったのはその瞬間である……。

 崩れ落ちた橋のうえで、ひばりが鳴いていた。天に向ってひたすらに上りつづけながら、かげろうのような透明な囀りを響かせていた。

 そうだった。その時私にできたことは、一体何だったろう……。                   (おわり)

(挿絵写真は栗原達男)

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