19. 和田春樹 『ベトナムを思う 』 (大泉市民の集い文集編集委員会『ベトナム戦争とわたしたち』20009月より)(2000/10/18 搭載)

 「ニュース」欄No.114でおしらせした元「大泉市民の集い」のメンバーの文集、『ベトナム戦争とわたしたち』の巻頭に掲載された和田春樹さんの文章を、和田さんのご了解を得て、全文転載します。これは、「ベ平連」運動に関する評価ではありませんが、ベ平連と密接に連携して活動していたグループの中心活動家による最新の文章ですので。

ベ ト ナ ム を 思 う

和田春樹

  三〇年ぶりの集い

 一九九八年七月四日東京の北西隅、練馬区大泉学園町の教会に一二〇人ほどが集まった。最年長は八八歳で、最も若い人々が二二歳という集団である。これは「ベトナム戦争に反対し、朝霞基地の撤去を求める大泉市民の集い」の創立三〇周年の記念の集まりであった。この市民運動体は三〇年前の一九六八年七月七日、この教会の改築される前の会堂で最初の集会をしたのである。
 三〇周年の会に出席した最年長は一九一〇年生まれの私の母和田幸子である。両親は静岡県の清水から東京に出てきて、大泉学園町に家を建て、結婚した私たちと一緒に暮らすようになった。一九六五年のことである。母は私の娘の手を引いて、デモにもよく参加した。その娘真保と教会の横田牧師の娘さんの由和さんがともに一九六六年生まれで、もっとも若い人たちである。真保は練馬区の区会議員をしており、由和さんは演劇と舞踊をしている。年齢では和田幸子の次にくるのは、萩原晋太郎さんで、静かだが、筋金入りの老アナーキストである。私と一緒に運動を起こし、以来変わらず一緒にやってきたアメリカ史家の清水知久氏は還暦とともに、日本女子大をやめてしまい、市井の隠者として自覚的に生きている。教会の牧師の横田勲氏もほぼ同じ年で、この年で牧師を引退して、大泉を去ることになっている。奥さんの幸子さんは由和さんと一緒に長野県に行き、新しい教会の牧師になるつもりである。三〇年前には大学院のセミナーを開いたばかりの助教授だった私はちょうど六〇歳で大学を停年退職したところであった。妻のあき子も六〇歳まであと三ヶ月になっていた。
 明治公園で私たちの旗のうしろについてきた会社員の佐伯昌平さんは、いまや五六歳になつて、この数年は恒例の新年会を自宅で主催して、われわれのつながりをささえてくれてきた。私の家の裏のお宅の娘さん、中山康子さんはわれわれの仲間ではもっとも遠く旅した人で、いまは戦争で苦しんだセルビアの子供たちを援助する活動をしている。写真大学の学生で、私たちの運動の専属のカメラマンであり、私たちのスピーカー製作など一切を取り仕切っていた技術者であった巨島聡君もながく沖縄、横田など基地の写真をとりつづけていたが、いまは結婚式の写頁を撮ることが多いという。この二人も五〇歳代である。メンバーの本体は、当時学生、予備校生、高校生であった人々で、現在四〇代の半ばから末の人々だ。日大芸術学部の学生だった中野康雄君はわたしたちの運動を撮った組写真を卒業制作にして、郷里の名古屋に帰り、お父さんの会社で働くようになった。いまはその会社の経営者であるが、仲間と熱心にボランティア活動をしている。加藤久美子さんは清水知久氏の学生だったが、彼女が運動の仲間であった学生と結婚するときは私たちが仲人をした。加藤さんは大宮市で市民運動を熱心にやっていて、市会議員も出した。予備校生で、私のビラを受け取って、運動に参加し、志望校も変えてしまった佐藤久君は私と一緒に米兵のアパートにも一緒に行った。彼は大学で、朝鮮語をやり、高崎宗司さんと共訳で、韓国作家黄ル暎のベトナム戦争小説『武器の影』を翻訳して、岩波書店から出した。ロシア語の本の輸入会社につとめている。同じ会社の同僚と結婚して、奥きんが会社員をやめて小学校の先生になるのを助けたという人である。その結婚も私たちが仲人をした。
 加藤安政さんは早稲田の学生のときに加わったが、地元の旧家の人で、いまでは大泉で農業をしている。久しく連絡がなかったが、娘の選挙で関係がよみがえった人である。
 当時高校三年生で、高校のバリケードづくりに参加したあとで、わたしたちの運動に加わってきた田村晴久君は建築家になり、がんばっている。不景気で、少々ひまだからと言って、三〇周年記念事業の責任者をつとめてくれた。奥さんは在日朝鮮人である。田村君の高校の同級生だった平山君は区役所の職員になった。彼はわれわれのあいだでは、最初にベトナムに行って、ゴーバータン女史に会って帰った。運動が流れ解散になるころにやってきた一番最後の参加者である所沢の高校生の斉藤久夫君は電気製品の量販店につとめて、わたしたちの仲間に安く提供してくれたテレビや冷蔵庫は数知れない。彼の結婚も私たちが仲人をした。
 こういう人たちは三〇年間かわらず友人として、いろいろなことを一緒にやってきた。しかし、三〇年ぶりに会う人、久しぶりに会う人もいる。八田明夫さんは大泉駅前で私のビラをうけとり、寮に帰って、仲間と討論して、参加を申し込んできた学芸大大泉寮の寮生だった。彼はいまは鹿児島大学教育学部の教授で、この日のために上京してくれた。所沢の鈴木五十子さんは、学生運動をしているお嬢さんの気持ちを考えながら、熱心に大泉のデモに参加して下さった方だった。少しも昔と変わっておられなかった。田中美智子さんは大学時代に大泉に来て、卒業後はYWCAでアジアからの留学生と交渉をもっていた。私の親戚で、私の高校時代の教師でもあった和田正武、京子夫妻は、大泉市民の集いの芸術的なガリ版刷りのニュースの制作者である。京子さんがガリ版を切って、正武さんが印刷してくれた。その美しさは復刻版に十分うかがえる。正武さんは、退職して、いまは中国人留学生のための日本語学校の校長をしている。
 もちろん三〇周年の記念会にはゲストがいる。翌日ジャテックの書物の出版記念会があるということで、上京された鶴見俊輔さんにも、無理を言って出席していただいたが、その他にベ平連の吉川勇一、福富節男、高橋武智氏、三鷹ちょうちんデモの会の志賀寛子さん、朝霞で一緒にデモをした埼玉ベ平連の東一邦氏、ベトナム留学生支援の会の新石正弘さんらが来てくださった。しかし、これまたもっとも遠くから来てくれたのは、ベトナム留学生の組織、ベ平統のヴィン・シンさんと夫人の李広子さんである。ヴィン・シンさんは近代日本思想史を研究し、カナダのエドモントン大学の教授である。徳富蘇峰の研究は日本語に翻訳され、岩波書店から出版された。奥さんの李さんは韓国人である。二人は日本で結婚した。シンさんは京都の国際日本文化研究センターの客員研究員として、日本に来ておられたところを、この日のために上京して下さった。わたしたちは佐藤君がつくってくれた横幕の前で記念撮影をした。昔チェと一緒に写真をとった七人は一緒の並び方で、シンさんを中心に撮影した。三〇年前の写真と比べるとどうであろうか。年はとっているが、われわれの精神の輝きはなお保たれているだろうか。それにしても、ゲヴァラの名前をペンネームにした黒人兵ハワード・ジャクソンと白人兵ジミー・ハメットという二人のGI反戦新聞『キル・フォア・ピース』の編集者はいまはアメリカのどこで何をしているのか。私たちは知りえない。

  
大泉市民の集いのはじまり

  練馬区大泉学園町の北端からその北につづく埼玉県朝霞市につながる地域は、現在公園となっており、また中学校、養護施設、高等学校などが並んでいる。三〇年前は、ここから朝霞市にかけては、一大米軍朝霞基地、キャンプ・ドレークであった。東京都の部分は米軍のゴルフ場、その先に米軍の放送局があり、川越街道を越えた朝霞市の部分のノース・キャンプには、二〇〇〇ベッドの米野戦病院が存在していた。横田基地に運ばれたベトナム傷病兵はヘリコプターで日に幾度もこの病院に送られて行くが、そのヘリコプターはまさに大泉学園町の上空を通っていくのだった。
 一九六六年に大泉学園町に住むようになった私は、やがてヘリコプターの爆音を毎日聞くようになった。ベトナム戦争は大きな出来事になっていた。しかし、私は仕事におわれていた。沈黙の日々がつづき、次第に耐えられなくなった。
 一九六八年五月、私はついに朝霞基地とベトナム戦争に関する私の意見をビラにして、まわりの人々に訴えることを決意した。「大泉学園地区に住む市民のみなさんに訴える」と題したビラは大学構内の印刷所で刷ってもらい、勤め帰りに駅前ですこしづつ配った。
 「大泉学園駅のまえから北へ向かってバスのはしるこの桜並木のつきあたりに何があるのか、みなさんはもう知っている。大泉学園町の北の空を低くせわしげに行き来するヘリコプターが何をはこぶものであるかを、みなさんはそのことももう知っている。」
 「みなさんはこのことを我慢できるか。アメリカの汚い戦争の基地が隣り町にあり、ベトナムの戦場より汚い戦争の戦士たちを後送するのに私たちの町の空が使われているのを、みなさんは我慢できるのか。」
 アメリカは「自由」、「民主主義」のための戦争だというが、「国中の無頼漢と五〇万人の外国兵によって、月平均数百万発の爆弾によって押し付けられる」のは、自由でも、民主主義でもない。アメリカヘの屈服である。しかし、ベトナム人は決して屈服せず、アメリカは勝利できない。この戦争は結局は終わるだろう。「だが、そのときは、アメリカは人類の名で裁かれ、厳しく罰されるに違いがない。もしもアメリカが裁かれ、罰されることもなく、この戦争が終わるなら、世界のどこかで第2のベトナムがつくられることはまぬがれない。」「悲しいことに、…アメリカが裁きの庭に引き出されるとき、その隣りの席に並んで立つのは、わが日本だということである。」
 「もはや沈黙するのもまた苦痛である」と私はビラの最後に書いた。このビラを受け取った人が反応して、一九六八年七月七日には「ベトナム戦争に反対し、朝霞基地の撤去を求める大泉市民の集い」の創立集会となったのである。大泉教会のことは、大学の研究室で、ベトナムに医薬品を送る運動のビラを見せられ、その事務局が大泉教会にあることを知り、すぐにお願いに行って、創立の会をやらせていただいたのである。
 それから私たちは野戦病院の撤去をもとめる署名運動をやり、二月からは定例デモをはじめ、翌六九年六月から、毎日曜日、野戦病院に入院しているベトナム傷病兵に反戦を訴える反戦放送を開始した。一〇月、サイゴン政権の帰国命令を拒否した三人のベトナム留学生を支援する運動に加わった。ほぼ同時に朝霞基地の中の兵士二人、ジョンソンとハメットと連絡が生まれ、彼らのつくる反戦GI新聞「キル・フォア・ピース」を私たちが印刷して、配布しはじめた。ハメットが帰国した後、一九七〇年には別の兵士ジム・ウィリアムスが来て、彼の新聞も出し始めたが、一時基地を飛び出してきた彼を仲間でかくまったこともあった。
 一九七○年一二月、朝霞の野戦病院は閉鎖となった。それからは、私たちは、戦争のつづくサイゴンに進出して合弁企業をつくる家電三社を批判する運動をはじめた。「ハイエナ企業」というのは、わたしたちの造語である。とくにソニーの白黒テレビがスマート爆弾に利用されたということもあって、私たちはソニーを主たる対象にして、大崎工場でビラまきをしたり、銀座のソニー・ビルの前で数年間クリスマスのビラまきをした。
 一九七二年には相模原兵器廠からの修理済み戦車の搬出、ベトナム輸送に反対する運動に参加したのも印象深い。
 そうして、一九七三年のパリ和平協定の締結をみ、一九七五年四月のサイゴン陥落をもみたのである。大泉市民の集いは、解散の会も行わず、さながらデモをした人がそのまま流れ解散するように、活動を終えたのである。

  
ベトナムを遠く離れているうちに

 実際、一九七五年のベトナムの勝利ののちに、私たちのベトナムヘの関心は急速に低下していった。一つには日本人が長い間放置してきた韓国情勢が急迫し、私たちの関心を強くひきつけたという事情がある。しかし、それだけではなく、勝利後のベトナム政府の閉鎖的な態度が私たちに失望をあたえたということがある。つまり、勝利はいかにも英明なベトナム労働党の指導によるものだとして、共産党系のつながりだけが信用されていったからであった。もしもあの時に、戦争中よりも戦後復興はもっと大変だ、どうか助けてほしい、ベトナムに来て復興をたすけてくれというアピールがべトナムから出たら、世界の反戦運動参加者の中から多くの人々がヴォランティヤーとしてベトナムヘ向かっただろう。そうすれば、ベトナムから脱出する難民の流れははるかに減速しただろう。さらに決定的であったのは、カンボジア戦争である。かくも長い戦争に耐え抜いて勝利したべトナムがカンボジアに侵攻したということが大きな幻滅をもたらしたのである。
 その結果、戦争が終わる日、アメリカの戦争犯罪はかならず裁かれなければならない、というのが私の最初のビラの結諭だったのだが、アメリカは責任を回避し、居直ることになった。そうなったについては、ベトナム戦争に反対してきた者たちの失望と分裂にも責任がある。それにしても、アメリカはあまりに尊大であった。
 アメリカと北ベトナムは一九六八年五月からパリで和平会談を開始し、南ベトナム解放戦線、サイゴン政府もくわえて、一九七三年一月二一二日、和平協定に調印したのである。この会談において、ニクソン大統領の代表はベトナム戦争が終結すればアメリカは復興援助三二億五〇〇〇万ドル、商品援助一五億ドル、計四七億五〇〇〇万ドルを与えると表明していた。一九七五年のベトナム解放後、カーター政権はベトナムヘ大統領使節団を派遣し、国交正常化の早期実現で合意した。一九七七年五月三日からはじまった第一回の米越交渉では、ベトナム側はニクソンの約束した四七億五〇〇〇万ドルの援功を確認せよと迫った。アメリカ側はべトナムの国連加盟に反対しないと述べただけであった。五月四日ファン・ヒエン外務次官は記者会見を行い、アメリカはベトナムの復興に協力する責任と義務がある、アメリカはベトナム敵視政策をやめ、経済制裁措置を解除すべきであるとする立場を明らかにした。
 これに対して、共和党のアシュブルック議員は、フアン・ヒエン発言を利用して、下院の外交委員会で審議中の対外援助法案に対する修正案を提出した。その内容は、アメリカ政府がいかなる形であれ、ベトナムに対して支払いをおこなってはならないとするものであった。この修正案が五月四日可決された。
 ベトナム政府は、これに対抗して、五月一九日、一九七三年二月一日付けのニクソン秘密書簡を公表した。カーター大統領はベトナムが南ベトナムに侵攻した以上、ニクソンの約束は無効となったと反論した。
 六月二日からの第二回交渉で、ベトナム側は死亡米兵二〇名のリストを渡したが、アメリカは経済援助を表明しなかった。一二月一九日第三次交渉が行われた。ベトナムは復興援助を国交正常化の前提にしないと譲歩したが、アメリカは国交正常化後の援助額を明示することがなかった。結局交渉は決裂にひとしかった。
 七八年二月国務省のベトナム交渉の資料をベトナム側の国連大使がさぐっていたとし、アメリカは同大使の国外退去を求めた。これによって、米越関係は緊張した。七八年アメリカは中国との国交正常化の方向に向かい、ベトナムは六月コメコン加入の方向に踏みだした。七八年一一月三日、モスクワでソ越友好協力条約が調印された。そして、一二月一六日、米中国交回復が発表された。一二月二四日、ベトナム軍一五万がカンボジアに進攻した。年が明けて、一九七九年二月一七日、中国軍二〇万がベトナムを攻撃した。
 こうして、アメリカはベトナム戦争の結果として生じた義務を無視することに成功した。その無視はながくつづいた。カンボジアの内戦は一九九一年の和平協定により、ようやく終わった。ベトナムでは一九八六年に労働党第六回大会で「ドイモイ」政策が採用されていた。アメリカは、九一年以後ベトナムに対する経済制裁をすこしづつ緩めはじめた。
 一九九一年アメリカはクウェートに進攻したイラク軍に対する「砂漢の嵐」作戦を成功裡におこない、湾岸戦争の勝利者となった。ブッシュ大統領は、この勝利によって、アメリカはベトナム戦争の汚辱を洗い流したと演説した。
 一九九五年春、ケネディの国防長官であったマクナマラが回想を書き、出版した。彼はベトナム戦争を「失敗」、「誤り」であったとし、早期に撤退すべきであったと主張した。この本をめぐってアメリカの中では、大きな議論がおこった。『ニューヨーク・タイムス』は、戦争は「マクナマラの戦争」だったのではないか、彼が過ちを犯した結果、「三〇〇万人のベトナム人が死んだ。五万八〇〇〇人のアメリカ人が遺体袋に入れられて国に帰らねばならなかった」、マクナマラはと言えば、世界銀行につとめ、金持ちの保養地で休暇をすごしている、お詫びや涙をながしても、無数の死者たちから奪ったものは埋め合わせられない、と激しく批判した。
 マクナマラは、ベトナムにおける「愚行」について、目標は正しく、判断と手段が誤っていたと考えている。彼は、「最後にわれわれは、ベトナムで勤務し、ついに帰還しなかったアメリカ人たちの運命に向き合わねばなりません。アメリカのベトナム介入という愚行は、この人たちの努力と死を無意味にしてしまうのでしょうか」と問うている。マクナマラの回答はこうだ。
 「この人たちは…決定を下したわけではありません。彼らは、奉仕してほしいという国の呼びかけに答えました。国のために危険に立ち向かいました。そして、自分の国とその理想のために命を捧げたのです。ベトナムでのアメリカの努力が愚かであったからといって、この人たちが払った犠牲の高貴さが減少するものではありません。そのことは、すべての人がいつまでも認めるでしょう。この人たちの犠牲から学び、それによってこの犠牲の意味を確認し、名誉を称えようではありませんか。」
 一九九四年にいたりアメリカはベトナムに対する経済制裁を全面解除した。そして一九九五年七月一一日、クリントン大統領はベトナムとの国交正常化を発表した。しかし、いかなる謝罪も反省も表明されず、償いもなされなかった。
 日本は一九四五年から20年たった一九六五年、反省も謝罪もない日韓条約を結んだ。アメリカも一九七五年から20年たった一九九五年に、反省も謝罪もない国交樹立をベトナムとの間に行った。日本はそれでも有償無償あわせて五億ドルを出しているが、アメリカはいかなる支払いもおこなっていない。
 日本は一九四五年から二七年たった一九七二年、日中共同声明を出し、その中で戦争を通じて、中国国民に大きな損害を与えたことを反省すると表明した。二〇〇○年はベトナム戦争が終わって二五年目である。あと二年のうちにアメリカがベトナム人に謝罪しないと、アメリカは日本の過ちから何も学ばなかったことになる。
 もっともベトナム戦争が終わって、アジアの人々はようやく平和をとりもどして、昔の日本の戦争の古い勘定を思い出すことになった。一九八二年、韓国と中国で、日本の歴史教科書における歪曲が問題になったのは、この事情と関係している。そのときから日本の首相は過去の反省の弁をつみかさねることになった。そして、実に戦争がおわって五〇年たった一九九五年村山総理は、「植民地支配と侵略によって、とりわけアジア諸国の人々に多大の損害と苦痛を与え」たことを反省し、お詫びすると表明した。もとより不充分だと批判がある。しかし、日本とおなじように二七年で最初の謝罪をしえなければ、五〇年かかってもアメリカは謝罪できないかも知れない。本年一二月東京で戦争における「性奴隷制」問題を戦争犯罪として裁く民衆法廷が、ベトナム戦争のさいのラッセル法廷にならうとして、行われる。日本の「慰安婦」制が裁かれることにはなんの異論もない。しかし、二〇世紀をこの東アジアにおいて女性の苦しみからふりかえるとき、戦争犯罪の被害者になったもう一つのグループの女性たちのことを忘れるべきではない。それはアメリカの枯葉剤散布により、奇形児を生むことになった母親たちである。ベトナムにもっとも多く、韓国にもアメリカにもいるのである。アメリカはこの責任をいまだ認めていない。
 侵略の罪は許されてはならない。もしもそれが許されるならそれは繰り返されるということだ。日本にも、アメリカにも、罪は繰り返させてはならない。わたしたちがベトナムを遠く離れているうちに、不正義が横行している。それを見過ごさないのは、ベトナム戦争に反対したわれわれの責任だと思う。
(一九三八年生、静岡県清水市出身)