22. 小田 実 小田実評論撰〈1〉60年代」 (筑摩書房 200010(2001/03/29搭載)

同書の「あとがき」の一部分

 (前略) ……しかし、私は、まだ自分がよって立つ基盤となる文章をまだ書いてはいなかった。私がそれを書いたのは、私にそう自分で確信がもてたのは、「六〇年代」も前半の終り、後半に入りかかったところで、一九六五年二月号の「展望」に発表した「『難死』の思想」を書いたときだ。この「『難死』の思想」について、のちに「べ平連」の運動の長年の仲間となる、しかし、まだそのときにはおたがいよく知らなかった鶴見俊輔氏が最近次のような適切な評言を彼に対するインタビューのなかでしていたので、少し引用しておきたい。「彼も(ということはへ鶴見氏同様にということだ)マルクス主義者でもないし、共産党員でもないんですよね。だいたい、イデオロギーを彼は持っていない。彼の底にあるのは、少年の難民だったという体験なんですよ。だから、『「難死」の思想』を書いた。あれはすばらしいもので、ほとんど前例がないと思います。それがべ平連の根底にもあったと思う。私は小田がああいう人だとは知らないで、運動に呼び込んじゃったんですよ。そうしたら、アラジンのランプみたいで、ワーツと巨人になっちゃったんだ。」(論座・一九九九年五月号)
 この彼の評言は大筋のところで当っている。「あれはすばらしいもので」うんぬんはともかく、「ほとんど前例がない」というのはまさにその通りだったにちがいない。とにかく間尺を外れていたのだ。そして、「それ(「『難死』の思想」)がべ乎遵の根底にもあったと思うという彼の認識も、こと私自身に関するかぎり、まったくまちがっていない。だからこそ、「アラジンのランプみたいで、ワーツと巨人になっちゃったんだ」かどうかは知らないが、いや、そんなことは決してなかったが、「べ乎連」がそれまでの平和運動と多くの点で根本的と言っていいほどのちがいをつくり出した運動になったのではないかと思う。「根本的と言っていいほどのちがい」のひとつが、「被害者=加害者」の認識、その認識に基づいた論理、倫理を運動の根にすえたことだった。私は、「『雑死』の思想」の自然な延長線上にあることのようにして「べ平連」の運動を鶴見氏らとともに始めた六五年の翌年、その認識、論理、倫理を「平和の倫理と論理」(展望・一九六六年八月号)のなかで書いたとき、私はたしかに「ほとんど前例がない」ことを書いていた。書きながらそう自分でも認識していた。そして、それは運動の本質、体質をまちがいなくそれまでの運動とはちがったものに「べ平連」の運動を変えた。
 その「被害者=加害者」認識、論理、倫理は「『難死』の思想」から切れたものではなかった。それは私にとって「べ平連」の運動がその自然な延長線上に立っていたのと同じように、同じそこからの自然な延長線上に立つ認識、論理、倫理だった。さらに言えば、運動のなかでやがて私たちが始めた、戦争を自分から拒否して私たちのもとにやって来たアメリカ軍の脱走兵を支援する運動も、そのなかで私が書いた「人間・ある個人的考察」などのいくつかの彼らにかかわっての考察の文章も、同じ自然な延長線上にあったことだ。

 自分でものを書いて、そうすることでそれぞれに原理をかたちづくる、その上でその自分でかたちづくつた原理に基づいて動く、行動するというやり方は、そのときから私が今日に至るまでやって来ていることだ。そして、原理は根もとで私の書きもの、生き方の根にある文学と結びついている。
 「べ平連」の場合、私が「『難死』の思想」の基本の原理に基づいて、「べ平連」の運動を始めたのは今書いた通りのことだが、運動の方法について、私は「べ平連」の運動を始める直前に、この本の〔V〕の「運動の展開のなかで」の章の冒頭に収めた「いま何をなすべきか」を書き(世界・一九六五年四月臨時増刊号)、ベトナム戦争は、「安保条約」によって結ばれた日米両国の問題である、日米両国の市民のあいだに反戦の共同行動を起こす必要があると説いた。のちに「べ平連」の運動のなかで、その主張はアメリカ脱走兵支援の運動となって具体的に実現されて行ったのだが、主張は、これもこの本の〔W〕の「文学論」の章のこれまた冒頭に収めた「外へひらく小説」(朝日新聞・1967・3・10)の自然な延長線上にある主張だった。
 ここで、ひと言、つけ加えて言っておくと、私には、他人に対して「言行一致」を求めるリゴリズムはない。ただ、私自身については、「言ったことはする」、そして、「言ったことはして来た」の衿持と自負はある。

 一九六五年四月はじめ、たぶんそれまで一度しか会ったことがなかった鶴見氏が私のところに突然電話して来て、「ベトナム反戦運動をいっしょにやらないか」と言ったとき、私は即座に「やろう」と応じた。それはこれまで述べて来たもろもろの自然な延長線上に私が立ってしたことだ。
 いよいよ運動の手始めに集会とデモ行進をやろうと決めたとき、私は訴えかけのビラを自分で書いた。そのときからあまた私はビラを書いたが、これが手始めのビラだった。ビラを書くことも、私のものを書くことなかに入ることだが、私はそう自分の書きもの――「文」(ロゴス)をとらえているのだが、とにかくこれが第一号、以下がそのビラの文面だ。

   呼びかけ
 言いたいことは、ただ一つです――「ベトナムに平和を!」
  この声は、私たちのみでなく、世界のほとんどすべての人間、いや人類の声でしょう。
 アジアの地のこの一角、東京で、私たちは今この声をあげる。この声は小さいかも知れない。しかし、こだまはこだまをよんで、世界に、すみやかに、着実にひろがって行く。たとえばアメリカに、中国に、もちろんベトナムに。そしてその声は、私たちの政府を、動かすだろう。
  四月二十四日 午後二時。
  清水谷公園。
 私たちは集まり、集会をひらき、歩く。私たちは、ベトナムについて、おのおの言いたいことをもっている。それを声にだして言おう。思い思いのプラカードを立てて、それを全世界に示そう。二時から四時までの二時間、清水谷公園からアメリカ大使館まえをへて、土橋まで……日本の一角、ベトナムの所在するアジアの一角を、私たちは歩く。「私たち」というのは、つまり、この文章を読むあなたのことです。
 来て下さい。一人一人。ベトナムに心をはせる日本人の一人として、人類の一人として、声をあげて下さい。
 くり返して言います。


 四月二十四日 (土) 午後二時
  清水谷公園(赤坂見附下車)

   昭和四十年四月十五日

 うまい文章ではない。そして「昭和」の年号も平気で使っている。しかし、これが、私にとってのひとつの折り目であったことはたしかだ。私にとって、「何でも見てやろう」の旅がひとつの大きな折り目であったことはすでに述べた。その旅が最初の折り目であったとすれば、このビラを書き、自分のことば通りにデモ行進に出かけて行ったときが、次の折り目だった。この二つの折り目で、私の「六〇年代」は、私の生き方、書きものすべてにわたって、人生の折り目をかたちづくった。

 最後にひと言。
 この「六〇年代」から始まる私の評論その他、小説以外の書きものを順次「七〇年代」「八〇年代」「九〇年代」というぐあいに撰び集めて四冊の「評論撰」として世に出すことの意義についてだ。私にとって意義は二つある。この四十年間にひとりの日本の市民、また日本の作家が何をどのように考え、動き、書いて来たかを残すこと――それがひとつの意義だ。そして、もうひとつは、私が「六〇年代」から始まるこの四十年のあいだに考え、動き、論じたことの多くが四十年を過ぎた今も変らず問題として残っていることだ。読者よ、今あらためていっしょに考えてくれたまえ。私も新規まきなおしで今またあらためて考えたい。そのおたがいの考察、思考のための材料として、この四冊の「評論撰」はある。あって欲しい。……(後略)