39 「ベトナム2002 栗原達男・吉川勇一が見た 聞いた 撮った!」 の中の「ベトナムで聞かされた三〇年前のデモの効果(『週刊 金曜日』2002年6月21日号)  (2002/06/22新規搭載)  

 『週刊 金曜日』2002年6月21日号には、「ベトナム2002 栗原達男・吉川勇一が見た 聞いた 撮った!」というタイトルで、写真家栗原達男さんの写真と文「『国道1号線』への旅」と、私の文とが載っています。ここでは、後者だけを転載します。栗原さんの写真と文は、「旧ベ平連のホームページ」の「ニュース」欄に全部掲載されていますので、そちらをご覧ください。

 

ベトナムで聞かされた三〇年前のデモの効果

吉 川 勇 一

よしかわ ゆういち・1931年生まれ。
「市民の意見30の会・東京」会員。元「ベ平連」事務局長

  ここのところ、デモに参加する機会がまた増えている。
 有事法制に反対する五月二四日の東京・明治公園集会とデモは約四万人の参加者があり、三方向に分かれたコースのうち、市民グループは国会を通って日比谷公園まで五キロメートルという最長コースだった。歳もとったし身障者にもなっているので、歩けるところまで歩ければ、と思って加わった私だったが、どうやら全部を歩きとおせた。
 PKO法にせよ、周辺事態法にせよ、ずいぶんデモもやったが、強引に国会を通過させられた。仲間のうちからもデモの効果への疑問が言われ、徒労感や挫折感も広がる。実際、デモの効果など、目に見える形でなかなか確かめられるものではない。
 しかし、ごくたまにではあるが、それが眼前に現れてくることがある。ただし、長い時間、時には数十年もたってからのことになるのだが……。
 あのベトナム戦争をやめさせる上で決定的な影響を持った事件の一つは、ダニエル・エルズバーグ博士による国防総省の「ベトナム秘密文書」の暴露だったが、当時、マクナマラ国防長官のもとで働いていたエルズバーグ博士にそれを決意させたものが、一九六七年一〇月二一日、国防省を取り巻いた非暴力デモだったことはあまり知られていない。
 彼はそのとき、国防省の建物の窓から外のデモを眺め、デモ隊が殴られ運ばれてゆくのを目にして、「この人たちは自分の良心に従って生きているのだ、彼らは自分の心と理性がある場所に自分の身体を置こうとしている。私だったどうなるのだろう?」と自問自答したのだという(
D・デリンジャー『「アメリカ」が知らないアメリカ』藤原書店、361ページ)。それが明らかにされるのは、ずっと後のことだ。
 私の体験を紹介しよう。
 九八年冬、喜納昌吉さんが主催する反戦運動の記者会見に出たときのことだ。アメリカからデニス・バンクスさんも参加していた。彼は、会員三〇万人、原住民への差別に強い抗議運動を続けている「AIM――アメリカ・インディアン運動」の設立者だ。
 日本人記者から、いつからこのような運動に関心を持つようになったのかと質問されたバンクスさんはこう答えた。
 「一九歳の時でした。駐留米軍の一兵士として立川基地に配属されていました。そのとき、砂川町の基地拡張反対運動が起こり、私のいたフェンスの目の前で、主婦や学生、労働者たちが機動隊と激突しました。殴られても蹴られてもひるまない主婦や学生、そして棍棒の下で頭を割られ、血を流しながら、なおも非暴力でお経を唱え続ける僧侶たち。
 それを目にして、自分はここでいったい何をやっているのだろうか、と考えさせられました。それがきっかけで、軍隊や戦争、そして政治や差別の問題に関心を持つようになったのです。私をこのような道に進ませる契機は砂川町での日本人の非暴力の闘いでした……」。
 記者会見には、婦人民主クラブの山口泰子さんもいたが、私も山口さんもそれを聞いて驚いた。二人とも、まさにそのフェンスの外で殴られていた中にいたのだったから。
 砂川町での激突は一九五六〜七年の秋だった。四〇年以上も前のデモの一つの結果が、こんな形で国境、人種、そして時代をこえて知らされたのだった。
 今年、私はベトナムを続けて二度訪問したが、その中で、もう一つ、そういう経験が加わった。
 栗原達男さんの文にもあるように、目的は、ホーチミン市の戦争証跡博物館に、ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)など、日本の反戦市民運動の資料を届けることだったが、その際、私たちは、元サイゴン市の北西にある南ベトナム解放民族戦線の根拠地、クチの地下壕も見学した。
 二度目の旅でそこへ向かうマイクロバスに、ホーチミン市ベトナム日本友好協会の書記長、グエン・コン・タンさんが同乗していた。みちみち、日本語を話す彼から戦争中のクチでの個人的体験を聞いた。長い地下壕生活でのさまざまな困難が語られたが、その中に、米軍による神経戦の話があった。
 米軍は、夜になると解放戦線側に向けてベトナム語の放送をスピーカーで流した。女性や幼い子どもの声で、夫や父親がいなくなったあとの家庭の寂しさや生活の苦しさなどを切々と訴え、早く帰ってほしいと呼びかけてきたのだった。
 毎晩それを聞かされると、さすがの闘士たちの心も動揺してきた。それを彼らはどう克服したか。タンさんは周囲にいる私たちにそう尋ねた。
 「皆さんの闘いなんですよ。放送で、アメリカをはじめ各国の人びとがいかに私たちの戦いを支援する運動を展開しているか、それを毎日聞き、仲間に流したのです。
 日本の人びとが、サイゴン政権軍に送られる戦車を何ヵ月にもわたって止めているというニュースも聞きました。離れている妻子への思いに、ときにたじろぐこともあった私たちを、そのニュースはどんなに勇気付けてくれたことか。絶対に勝てる、そう思えました。皆さんに本当に感謝します……。」

 七〇年代はじめ、米軍相模補給廠からの戦車搬出阻止に、日本の市民や労働者は全力を挙げた。ベ平連の若者たちは輸送車の下にもぐりこんで逮捕され、裁判はベトナム戦争が終わったあとまで続いて、有罪の判決が下った。機動隊の暴力で重傷を負った仲間も多数出た。その時相模原から送り出されたM48戦車の実物にも、今度あちこちの博物館で再会した。
 だが、この闘いの影響を、ベトナムの元解放戦士の口から、直接こういう形で聞けるとは、私たちは予想していなかった。
 バスの私のすぐ後ろには、山口幸夫さん(原子力資料情報室代表)、裕衣さん父子が坐っていた。
 山口さんは、当時、相模原「ただの市民が戦車を止める会」の中心的活動家だっただけに、感動もひとしおのように見受けられた。(裕衣さんは、その闘いの中で生まれた。名前の「裕衣」は中部ベトナムの激戦地、フエからとったものだという。この話は、どこでも、ベトナムの人びとから大拍手を浴びていた。)
 今年の夏、相模原の戦車輸送阻止闘争は
30周年を迎え、現地では集会も予定されているという。三〇年たって直接伝えられるデモの効果の話は、あらためて人びとに感銘を与えることだろう。
 明後日には、また、市民運動による有事法制反対のデモがあり、私はまた参加するつもりだ。(
530日)
(ベ平連のホームページ
 http://www.jca.apc.org/beheiren )