ベ平連始末記 
      
(毎日新聞社『連合赤軍・”狼”たちの時代』 1999. 12に掲載.)            (写真も同書より)

 べ平連の発足は1965年4月ですが、私が事務局長としてかかわったのは65年の1I月。最初の事務局長の映画プロデューサー久保圭之介さんが映画の仕事に戻ることになったとき、僕の友人の武藤一羊が「知り合いに失業者がいる。女房が働いているから金払う必要がない」と言い、じゃあ、そいつを使おうとなったらしい。僕は前年に共産党を除名されていて、ありとあらゆる仕事がなくなって、全くの失業状態でした。

ベトナム和平協定成立の報を受けて会見するベ平連事務局長時代の吉川勇一氏(右)、中央が小田実氏、左が小中陽太郎氏……新大阪ホテル 1973/1/24

┃共産党除名者の遠慮┃

 実は、べ平連ができたとき、参加したいと思ったけど、共産党から除名されたばかりですからね、遠慮していた。当時は共産党を除名されると、生まれたときから悪魔だったということにされてしまう。ひどい扱いでした。そんなのがべ平連にいると、せっかくできたばかりの新しい団体に迷惑がかかると思い、それで僕は創立のときのデモに行ってないし、2度目のデモでもひっそりと後ろのほうにくっっいていたんだね。だから、事務局長をやれと言われたときは、ちょっと待てよ、俺でいいのかよと思い、それで小田実さん自身の意見を聴いてみようと、デモの後に初めて小田さんと喋ったんですね。私はこういう札付きの男なんで、共産党との関係がマズくなるがそれでいいのかと念を押したんですよ。そしたら、全然カマヘン、何の関係があるのよ、アンタ手伝ってくれるんやろ、いいやないか、でも金だけは払えへんでえー。俺、別に金ほしいわけじゃないよ。じゃ、いいじゃないすか。で、決まり。

 驚いたねー。こんな運動ってあるんだと。おっ、やってやろうじゃないかという気になったもの。普通は、そう、そういう立場なら遠慮してもらったほうがいいね、と言うでしょ。本当に新鮮な驚きでしたね。映画館で、いよいよ本番になると、幕がわ一っと横に広がって、デーンとワイドな画面になる。ガガガガガーッと広がる。あれなんですよ。共産党からべ平連へ変わったってことは。運動の中に、こんな世界もあったんだと思いましたね。

 べ平連の活動でいちばん印象に強いのは、やはり脱走兵援助でしょうかね。脱走兵を安全に匿い、国外に脱出させる、これは大変な仕事でしたが、スリルもありました。今から思ってもよくやれたと思います。反戦米兵を援助しようという話題は、1966年8月に東京で行われた「ベトナムに平和を!日米市民会議」のときに出ていたんですが、最初はあまり現実的には考えていなかった。

 ┃市民的不服従原理とイントレピッドの脱走兵┃

 実はこの日米会議の前の6月に、アメリカから2人の活動家、ハワード・ジン(当時ボストン大学教授)とラルフ・フェザーストン(主に黒人の学生の運動団体である学生非暴力行動調整委員会=SNCCの活動家)を招いて、北海道から沖縄まで全国14カ所、ものすごいハードスケジュールで、一日3回なんてこともありましたが、反戦講演旅行をしたんです。これはべ平連の組織を全国に広げるきっかけになると同時に、僕らにものすごく影響を与えた。

 それまで日本の運動になかっただけに、特に黒人の闘争の話から非暴力直接行動と不服従の理念が、新鮮な衝撃をもって受け入れられた。また8月の日米会議で小田さんが、国家が個人を被害者の立場に立たせ、それによりベトナム人民に対しては加害者にさせる、という有名な被害者=加害者の主張を述べました。さらに鶴見俊輔さんらがべ平連有志で「非暴力直接行動委員会」なるグループをつくり、北爆が行われたら直ちにアメリカ大使館に無届けだが行動を起こそうと、つまり市民的不服従の行動が提唱されたのです。これらが合わさり、以後のべ平連の思想と行動の基本路線が敷かれたと、僕は思ってます。

 それで脱走兵援助ですが、67年の夏から秋、横須賀の基地近くの飲食街でチラシを米兵に撒きました。そこに脱走ということも考えてみろ、支援する用意がありとも書いた。でも本当に出てきたらどうするなんて、現実にはわかっていなくてね。ところが、空母「イントレピッド」から4人が逃げてきた。別に私たちのビラを読んだからでなく、全く彼らの問題として。それがいろんな人を経て、ベ平連に繋がった。脱走兵援助というのは、スパイ活動じゃないが、横の連絡はとらない。たとえば僕がAさん、Bさんに頼むが、AさんBさん同士はお互いを知らないし、僕はAさんが次に頼む人も知らない。全部、縦の連絡だけです。だからどういう人が、何人かかわったのか、実は誰も知らない。4人はバラバラに行動し、学生やヒッピーの諸君、そういう人たちの手を経て、最後は奇しくも一緒になり、ソ連を経由してスウェーデンに送り出された。そこには、当時の条件があったんでしょうね。情報を敵に売った人間はいなかった。警察に届けるとか、米軍に密告するとか、そういう人間はいない、そういう時代だったんですね。結局、氏名が公開された人だけで、18人の米兵を援助しました。

  65年9月から、毎月第4土曜日の午後、清水谷公園に集まって新橋の土橋へ行進するという定例デモを始め、73年10月まで97回続けました。もちろんそれ以外にも臨時のデモを随時やりましたが、69年以降になると、全共闘や反戦青年委員会、新左翼諸党派との共同行動をまとめあげることに、ずいぶん苦労しました。僕らは行動を制限することは一切しませんでした。それはその人の自由なんです。だから鉄パイプを持つべきではない、なんて言ったことはないんです。ただし、それは自分勝手とはちがう。自分が行動を選ぶとき、それが一緒にいる人たちにどういう影響を与えるか、それを個々人が配慮したうえで自分の行動を選ぶという自発的な自己抑制、自己相対化が大切なんで、それを組織的にどう処するかということを考えましたね。

 ┃「絶対」という言葉を使うな!┃

 それと一」部の新左翼党派間の内ゲバ問題ですね。これがいちばん苦労しました。しかし、べ平連は内ゲバを決して見て見ぬふりはしませんでした。やめさせたいと思った。実際、市民グループが対立する両派の竹竿の槍ぶすまの間に徒手空拳で「内ゲバ、やめろ」と割って入ったこともあります。なぜ内ゲバが起きるか、自分を相対化できないからでしょうね。そりゃ、誰だって、正しいと思って自分の方針や行動を選ぶ。だけど、そういう選択がもしかしたら間違っているかもしれないということは、どっか自分の中に保留しておかなくてはいけない。絶対に正しいなんてことはない。「絶対という言葉を使うな」というのは鶴見さんから教わったことです。

 内ゲバにもリンチにも共通しているのは、思想の違いや戦術の違いを肉体的な抹殺によって解決できるという信仰ですよ。鉄パイプで殴ったり、土の中に埋めたり、相手の肉体を抹殺することは、それは物理的に可能ですよ。しかしそれによって、思想的に勝利すると思い込むわけです。これはある意味でニヒリズムです。それは堕落の極致です。自分を相対化できない運動の行き着く先はそこへいく。

 1972年の連赤のリンチ事件を聞いて、そりゃ、ショックでしたよ。基準が狂うとあそこまでいっちゃうのかと。私の場合、学生時代の体験がありますからね。それは大江健三郎の小説(『偽証の時』)にもなってますが、1952年末ころから53年にかけて、全学連に入ってきた学生をスパイだと監禁、査問する事件が起き、その学生が逃げて交番にかけこんだことから発覚、容疑者4人が逮捕・起訴され、5年近くの裁判の結果、無罪となるんですが、僕はその被告の1人でした。ただし当時すでに学生ではなく平和運動に活動の場を移していたのですが、その学生を知っていたことから査問の席に一回だけ同席してました。当時も感じていたし、いまもその学生は恐らくスパイではなかったと思っています。僕は無罪判決後、この事件をできる限り忘れようとしました。が、閉鎖的な革命志向集団の中での、この種の事件がもつ暗さ、出口のなさ、問題が未解決であることなど、忘れられるものではなかったし、忘れていいことでも決してないんです。

 それから1950年代、日本共産党でスパイ探しの、総点検運動が始まりました。誰かの下宿に行ったら探偵小説があった。アイヅは堕落していると、それで査問の対象になった。いまの共産党からは信じられないでしょうが、しかしこの総括はきちんとされてはいないですね。いったん基準が狂うと、そういうことが起こるんです。だから連赤の婚約指輪を持っているからブルジョワ的だなんて、笑えないですよ。根本の人間的なところが異常にはずれると、そういう極端な激しい論理というのは、かえってまかり通るんです。当時のマスコミも、たとえば永田洋子はバセドウ氏病だの、常態でないなど書き立て、常人の集団でないとした。つまり自分らと彼らの間を切った。俺らはあんなのと違うよと。そうすることで、自分は彼らを批判する立場に立っていると思い込める。しかしそうすると、自分の中にそういう可能性があることをも切ってしまう。それも非常にあぶない。

 実は事件報道の直後、ベ平連は岩国で全国懇談会を開いてまして、そのときも僕は同じことを話してます。しかし、ほかに「主権者たる人民がやる運動の戦術については、権力やその手先になっているマスコミにとやかく言わせない。それを選ぶ権利は、われわれの側にしかない。爆弾を投げる必要があるかないか、銃を持つ必要があるかないか、これを選ぶのはわれわれであって、権力の側が指定することじゃない」とも話しましたし、さらには党も軍も必要だなどとも言ってます。当時も真剣にそう考えていたわけではないんですが、連合赤軍のショックから若い連中を救い、どうしたらああいう道に行かせないかと考えて、余計なことをいったんですね。ただ、べ平連や市民運動がやってきたことさえ基本に取り込めないような党や軍では話にならない、そんな社会変革なんて、挫折するに違いないという気持ちでしたね。ベ平連には限界があるという批判は最初からありました。でも限界は当然でね。運動自体が「ベトナムに平和を」という目標に限定しているんですから。しかし新左翼党派などからは「労働者の階級意識を眠らせてプチブル市民運動の中に解消させる反動的組織」とか、「文化人のベトナム遊び」とか「大衆の良心に安い金で免罪符を売っている組織」とか、悪口をさんざん言われましたよ。あとベ平連トンネル説というのもありました。日和見の学生はベ平連にでも行って、少し鍛えられていらっしゃい。どうせアイツらの限界がわかって物足りなくなるから。トンネルを抜けたら向こうに新左翼の党派が待っている、というわけです。だから彼らは限界があったほうがありがたかったんじゃないかな。

打ち合わせする「神楽坂ベ平連」の内閣
後方左端が吉川氏、右隣で寝ている後ろが鶴見良行、前が武藤一羊、その右が小田実、手前左で寝ているのが小中陽太郎の各氏……1969年秋                  Photo福島菊次郎

 ┃神楽坂ベ平連の「内閣」┃

  ところで、全国各地にあったべ平連運動と区別した狭い意味での東京のべ平連は、69年8月から74年の解散まで、事務所が神楽坂駅前にあったことから「神楽坂べ平連」と呼ばれてました。この「神楽坂べ平連」は、毎週、火曜日の夜、世話人会とでもいうんでしょうか、話し合いを開いてました。これは誰が来てもいい、メンバーの資格はなし。始まるのが当初は6時でしたが、だんだん遅くなり、夜10時頃開始となり、終わるのが朝方の2時、3時まで。議題もいろいろ、あるときは宇宙論になり、哲学になり、農業の現状になり、数学の無限の定義とはになり、数学者がいたり、哲学者がいたり、話はとめどなく拡がって、ある種の知的サロンでもありました。しょっちゆうデモをどうするなんて話ばかりしていてもツマラナイですからね。30人のことも10人のこともあるが、毎週こんなことができるのは学者や学生や物書きや失業者とかで、メンバーもだいたい決まってきて、これを「内閣」と称していたんです。一貫してのメンバーは、小田実、栗原幸夫、小中陽太郎、鶴見良行、福富節男、古山洋三、武藤一羊、吉川といった顔ぶれでした。京都へ移った鶴見俊輔さんも時折顔を見せた。後半には当時学生や浪人生だった吉岡忍さん、山口文憲さんなども常連だった。この「内閣」は、小田さんが「天皇」で、小中さんが情報大臣で、デモの先頭でトラックを運転するのが運輸大臣で、私は官房長官かとおもえば「天皇」のおつきの宮内庁長官だったり。僕は「官僚」と言われてたんですが、ま、オウムの閣僚とは違いますよ。

 小田実さんは、クセを塊にしたような人だし、私を含めてみんなクセのある人間の集まりで、そりゃ、いろいろコマッタなと思うこともあれば愚痴も言い合いましたよ。だけど、これは面白い運動だから、大事にしようという気持ちはみんなにあったですね。だから除名などということはなく、裏切り者だ、出ていけというのもなかった。ただあぶない局面はいくつかありましたよ。たとえば小中陽太郎さんはいつもウソか本当かわからないような問題になる小説を書く人で、小田さんの女関係の小説を書いてみたり、物議を醸すわけ。で、あるとき、埼玉ベ平連だった小沢遼子さんが小中さんの小説を問題にして、こんな男は追放だとか言い出して「私、帰る。あんな裏切り者とは同席しない」と。そしたら小中さんは「いやいや、いてくださいよ、僕が帰りますよ」と帰りかけた。僕は絶対、帰っちゃいけないと。イヤなら、小沢が出ていけばいいんだと。ベ平連は、人がある小説を書いたから追放だ、なんてことは絶対させないと言ったんですね。で、結局小沢さんのほうが折れた。

 ┃追放も除名もない┃

  確かに小中さんは物議をよく醸したんだけど、それなりの役割も果たした。つまり、一種の解毒剤。だって、共産党の党員が宮本顕治をおちょくる暴露小説を書くわけない。そんなことしたら、えらい騒ぎになる。創価学会の会員が田大作の女関係を暴く小説を書くわけもない。そんなところがベ平連のベ平連らしい一面でした。眉をしかめることはあっても、追放なんてしない、は暗黙の了解でしたし、小田さんだって「小中けしからん」と言ったことない。「俺の不徳のいたすところだ、アハハハッ」って感じでね。

 やはり小田さんに関係あることで、あまり知られていないが、内部では大事件だったのが「冷え物」討論。1970年暮れのことですが、部落解放同盟とは違う「関西部落研」という組織が、小田さんが『文藝』に発表した「冷え物」が差別小説であると糾弾、ベ平連がそれを認めることと刊行中の『小田実全仕事』からこの小説を削除することを要求してきたのです。ベ平連はしっちゃかめっちゃかの騒ぎになりましたよ。この事件で1回だけべ平連ニュースが休刊になりました。

 僕は野間宏さんのところや、最後は京都の部落解放同盟の書記長の家:1まで相談に行った。野間さんも真剣に応対したくれたし、小田さん自身も悩みに悩んで。でも、この「冷え物」に対する小田さんの対応の仕方は、実に見事だった。小田さんは、自分の小説を抹殺することを断固拒否する。その代わり、自分の小説と同じ分量のぺージを関西部落研に与え、どこがいけないのか、全面的に批判するように提案し、それを合わせて一冊にして出そうじゃないかと言ったんです。しかし、彼らは結局、逃げてしまう。書けないんです。そこで部落解放同盟員で新日本文学のメンバーである土方鉄さんに、その小説の批評を依頼したんです。土方さんは、小田がどう思おうと、これは差別小説と言わざるをえないという評論を書きました。これと合わせた一冊として、この「冷え物」は出たんです。こうすると、原典の小説はどんなで、どこが差別小説と言われたのか、それをどう思ったらいいのか、あとの人びとがたどれるんです。土下座して謝って、ただ消してしまうのでは、一体、どこが問題だったのか、わからないですよね。それにしても、大変な騒ぎでした。若者は部落研などの批判に同調する、僕みたいな事務局は、中国の文革でいえば劉少奇、保守派「官僚」だから、「造反有理」で打倒するんだと。まあ私はもともと「官僚」と呼ばれていましたがね。

 1969年には、反戦万博、いわゆる「反博」という連続3日のお祭り的催しをやりましたが、そのときも、日大全共闘から事務局ヘの批判が起きました。要は打ち上げ花火的な派手な大運動をめざして個々の人間の思いを大事にしないベ平連、こうなったのは小田と吉川らの責任だという批判です。当日、羽仁五郎さんの講演なども用意していたのに、羽仁さんの講演なんてどうでもいいと、羽仁さんは脇に座ってて、舞台の正面に小田さんと僕だけ立たされれて反日以上、大衆団交でした。でも2人とも全然認めない、という立場をといました。数を頼んで、わーわーいえば謝るなんていうクセはつくらないほうがいいという思いもありましたよ。当時はもう日大全共闘も下り坂で、自分の大学の経営者を相手に批判すればいいのに、人の団体へ来て騒ぐなんて衰退の始まりでしたし、彼らのアセリの表現でもあったんでしょうね。

 パリの和平協定締結をもって、べ平連は74年に解散しました。解散すべきではないという意見もたくさんありました。「べ平連を解体する裏切り者吉川川」なんて法政大学べ平連のビラは今でもとってあります。ただ「内閣」のメンバーは、全員一致で解散でした。べ平連は多いときは全国に350ほどありましたが、それらは独自のグループで、そこに義務関係はなく、ただ年に1回全国懇談会をもつだけで、東京が解散でも他は自由です。京都べ平連はそれより前に解散してますし、福岡べ平連は、「解散はべ平連に似合わない、似合うのは、野たれ死にだ」という意見でした。

 もっとも、解散後も、南ベトナムの政治犯を釈放せよという運動をやる人もいたし、小田さんが言いだして、しばらく毎月定例で経団連ビルにデモをかける運動もしました。こういうのはいっぱいありました。

 当時の若い連中に会うと、ベ平連の精神をいまの生活の中でどう生かしているかなんてみんな延々語るんですね。そういう意味でも、べ平連はその後のいろんな運動にも、考え方にも影響を与える種を蒔いたと思います。僕自身もべ平連にかかわったことは、まず第一にとても面白かったですしねー。なかったら僕の人生、どうだったでしょうかねー。

   『いい人はガンになる』の出版記念会で挨拶する吉川氏 ……東京1999/3月  

  よしかわ・ゆういち 1931年東京生まれ。52年、日本 共産党入党、東大学生自治会中央委員会議長に。52 年、講和・安保両条約反対の全学ストライキを指導したということで、退学処分。64年、原水禁世界大会での 共産党の方針に反対し、平和委員会常任理事を罷免・除名、65年4月、日本共産党除名。同年12月にベ平連 事務局長に。71年頃から代々木ゼミナール講師(英語)、98年12月まで在職。88年、小田実らと「市民の意見30の会」結成、世話人として現在に至る。著書に   『市民運動の宿題』『いい人はガンになる』、編著書 に『反核の論理』など。

 なお、この文献については、談話室30に、東一邦さんからの「批判」が掲載されている。 参照してください。