『週刊アンポ』第6号(1970年1月26日号)

ベトナムの韓国兵

亀山   旭

◆この事件はベトナム人が韓国をどう思っているかがよくわかる

 サイゴンの中心街の一角にBというバーがある。その薄よごれた店でみた体験から紹介しょう。

 私が最初にサイゴンに赴任した年の、雨期明けの近いころだったから、多分六六年の十月初旬だったと思う。雨期明けが間近いことを知らせる強い雨が降っていた。まだ宵のくちだったが、そこで若い韓国の兵隊と米兵との間で争いが起きた。まだ童顔の韓国兵はアオザイを着た小がらなホステスの肩を抱いてベトナムビールを飲んでいたが、カウンターに坐っていた米兵(前線帰りであろう。カウンターの上にライフルを置いていた)が彼女を強引に自分の隣りに坐らせてしまった。きまじめそうな韓国兵はかなり上手な英語でしきりに抗議していたが、そのうち振り向いた米兵にあっという間になぐり倒されてしまった。起き上った韓国兵をこんどは数人の米兵がなぐる、蹴るの暴行を加えて、店の外にほおり出してしまった。

 泥まみれになった韓国兵はそれでもまだ店に入ってきて、大声で叫び始めた。「私はなにも悪いことはしなかった。こんなひどいことがあるか。アメリカ兵の皆さん、あなた方は見ていただろう。どっちが悪いのか」――。その兵隊は口惜し泣きに泣きながらなおも訴え続けた。彼は、韓国兵はなにも好きこのんでベトナムにやってきたのではないと言った。米国の要求でベトナムに来て、旧式な兵器で、何分の一かの給与で戦わされている。米国のために血を流しているのにこの仕打ちはなにか――。

 米軍と韓国軍のMPがやって来た。そして彼は韓国のMPになだめられて店を出ていったのだが、私に不可解だったのは二十人ばかりいたベトナム人のホステスたちの態度であった。彼女たちの多くはデルタや中部から戦火を逃れてサイゴンに流れこんできた難民だったが、その多くがこの、“哀れな”韓国兵を嘲笑し、バトウしたのである。兵士の訴えに対し、彼女たちは口々にののしり、彼が出ていくと喚声を挙げたのだった。非は明らかに米兵にあり、たとえ彼の訴えを理解できなくても、韓国兵は同情されるべきだった。しかし私の横にいたホステスは「なにも韓国兵がベトナム人を殺しにベトナムにやって来る必要はない」と冷やかにいいのけた。

 この事件はベトナム人の韓国に対する感情を知るうえで象徴的な事件のように思われる。私は前後二回、二年半にわたるサイゴン特派員の経験を通じて、ベトナム人の対韓国感情が左右いずれの立ち場を取る人にもこのうえなく悪いことをはっきりと知った。解放戦線に近い人たちは当然だとしても、学生、仏教徒、ジャーナリストから反共の政治家、そしてバーのホステスにいたるまで韓国人をきらう。彼らがどんなに勇敢に戦い、学校を建て、道路を建設しても、ベトナム人に心から受け入れられることはほとんどない。私は一年余り、ソウル特派員をした経験から、韓国人特派員にも友人が多かった。それで私は支局に出入りするベトナム人に対して、なぜ韓国人の友人が多いか、そして韓国人一人々々には秀れた人たちも多く、韓国軍のベトナム派兵についても当時ほとんどすべてのジャーナリストが反対したのだと説明しなければならなかった。

◆韓国兵の闘いぶりは“少し殺しすぎた”

 ベトナム人は誇り高い民族である。彼らは韓国軍が米国の経済援助と引き換えにベトナムにやってきたのに、反共十字軍といった気負い立った“正義感”で戦い、行動していることに強い反発を感じるようである。そしてまた本質的には住民をまきこんだ政治闘争というベトナム戦争の特殊性のなかで、せん滅作戦を続けた韓国軍は住民の心に致命的な傷あとを残した。

 現在南ベトナムにいる韓国軍部隊は歩兵二個師団(猛虎、白馬)海兵一個旅団、補給一個旅団、それに工兵隊の計五万五千。猛虎師団の先遣部隊が初めて中部ベトナムのビンディン省クイニョンに上陸したのは六五年十月だった。当時ビンディン省から、その北のクアンガイ省の豊かな農村は解放戦線の支配下にあったが、猛虎師団は海岸線に沿った一号国道とクイニョンからプレークに至る十九号国道沿いに、激しいせん滅作戦を開始した。この作戦は数カ月続いたが、韓国軍の戦いぶりはせい惨をきわめたようである。私が初めてビンディン省の猛虎師団を訪れたのは六六年八月だったが、クイニョン周辺の村々はほとんどが破壊されつくし、人影はまったくなかった。サイゴンと異なり、中部ベトナムは乾期で、明るい太陽にさらされた無人の廃墟は、いまなお白昼夢のように私の記憶に残っている。

 このときすでにサイゴンでは韓国軍の戦いぶりがベトナム人の間で評判になっていた。韓国軍は解放戦線支配下の村を攻撃するとき、住民もいっしょに殺すとか、娘たちはみんな暴行されたとか、韓国軍の待ちぶせ攻撃で無実の住民が多数殺されたという話しが、ささやかれていた。解放戦線の放送もまた韓国軍による虐殺事件、暴行事件などを連日報じていた。

 猛虎師団の司令部で私は率直にこの間題をぶつけてみたが、ある参謀は解放区の部落を攻撃する場合、敵の発砲があればその部落を潰滅させるのはゲリラ戦の基本だといった。またある大尉は平定状況を説明した際、待ちぶせ攻撃で住民を殺したことはある、しかしそれは水牛を引いた女、子供のあとに解放戦線のゲリラが続いている、かわいそうだが止むを得ないと主張した。猛虎師団は先遣隊が到着した十月かち七月までの間に三十キロ平方の地域を確保したが、この間二千六百人を殺し、六百人を捕虜にしたが、韓国軍の損害は百九十人に過ぎなかった。M広報参謀は「韓国軍の攻撃ほどこわいものはないと住民はい う。しかしこんどは韓国軍に防衛されればこれほど安心なことはないと思うだろう」といったが、これも、当初の韓国軍の戦いぶりを示していよう。また猛虎師団に続いてニャチャン地区に進攻した白馬師団は、カムラン、ニャチャン、ツイホア地区の作戦に従事し猛虎師団との戦功争いを開始したが、同師団を訪間した私に一将軍は「白馬師団は戦いの結果を捕獲した武器の数によって判断する。殺した数で戦果を競い合った猛虎師団は殺し過ぎた」といっていた。

◆殺しすぎたあとで宣撫工作にはげんでもそれは役にたたなかった

 戦闘が終わり農村を文配すると、韓国軍は住民工作に力を注ぐ。工兵隊が学校を建てたり、橋を作ったり、ときには寺院の改修工事を手伝うこともある。難民たちに残飯を分け与え、医療班は無料で手当てをする。映画会や敬老会を開いたり、また子供たちと戯れている韓国兵の姿も見ることができる。

 治安維持に当たる場合の韓国軍の規律は厳格である。あるとき猛虎師団の一兵士が、村の娘を強姦した。この兵士は軍法会議で死刑の求刑を受けた。死刑はあまりにもかわいそうではないかというわけで韓国のジャーナリズムが騒ぎ出し、結局は本国で刑を受けることになったが、戦闘後の韓国軍の規律は政府軍はもとより、米軍を含む各国部隊のなかでももっともきびしい。

ある韓国兵士がベトナム人の娘に子供を産ませたまま捨てて帰国した。これを知った韓国軍司令部は本国に連絡して再志願の形で再び彼をベトナムにもどし、結婚式を挙げさせた。

 韓国の兵士は月約六十ドル、士官は二百ドル程度の給与を米国から受けているが、ほとんどの兵士たちは故国の貧しい家族たちに仕送りしているので、遊ぶ金はない。サイゴンはともかく、クイニョン、ニャチャンなど彼らの駐留している都市でバーやキャバレーで遊んでいる韓国兵を見たことはなかった。韓国軍の広報参謀たちは同じアジア人であり、朝鮮戦争を経験している韓国軍はベトナム人を理解できるし、その苦しみにも共感を持っており、米軍と異なって民心をつかむことができると胸を張る。

 しかしこれだけ宣撫工作に力を入れ、厳格な規律を維持しても、彼らが農民たちの心をつかんだとは思われない。

 これも六七年夏のことだったが、カンボジア国境に近い中部高原で、防塁を守る韓国軍二個中隊が解放戦線の奇襲攻撃を受け、激しい戦闘を交えたことがあった。解放戦線部隊は鉄条網を突破してなだれこみ、肉弾戦となったが、韓国軍は解放戦線側に打撃を与えて、これを撃退した。この韓国軍部隊にサイゴン政府から勲章が授けられることになり、その生き残りの勇士たちが師団司令部にもどることになった。

 彼らが帰って来る十九号国道には南ベトナム国旗と韓国旗を持った学童たちが並び、これも動員された住民たちが集まった。やがてトラックを連ねて兵士たちが現われた。アオザイを着た娘が、通過するトラックに花束を贈り、学童たちは旗を振って「ダイハン(大韓の意)ダイハン」と叫んだ。もどってきた若い小尉の破れた戦闘服に、親友らしい同じ小尉がかけ寄った。ことばも出ずにひしと抱き合った二人のほほを涙が流れている。九死に一生を得た戦友を迎える感激的な光景である。私自身、その、感動のなかに引きずりこまれようとしたが、そのとき農民たちの彼らを見る視線に気がついた。いわれるままに旗を振っている子供たちの、背後にある住民たちの目ほど冷い目を私は見たことがない。

◆韓国兵のまじめさが、救いようのない悲劇だった

 私は幾回となく、韓国の士官や兵士たちと話しをする機会を持ったが、彼らは共産主義と戦うために南ベトナムにやってきたのであり、それは、自由諸国の義務だと強調した。またある連隊長は「韓国が北朝鮮の侵略を受けたとき、自由諸国は国連の旗の下に援助してくれた。こんどはその恩返しだ」ともいった。しかし公式的な“反共”とか“自由”とか、“民主主義のために”とかといったうたいもん句はベトナムではいかに空虚に響くことか。南ベトナムの農民たちにとってなにが共産主義であり、なにが自由であるかはさして重大な問題ではない。彼らが心から求めていることは反共のために戦い抜くことではなく、家族がなにがしかの田畑を持って平和に過すことである。解放戦線の兵士たちには彼らの息子や娘たちもいる。

 また作戦のたびにニワトリや女の子を追いかけ廻し、水牛を盗んでいく政府軍の兵士たちと、きびしい軍規のなかで戦っている解放軍の兵士たちのいずれが支持を受けけているかは明らかである。それなのに、解放戦線の兵士たちを殺すことに血道をあげ、場合によっては住民をまきこむことも止むを得ないという韓国軍の行動がベトナム人の憎しみを受けても止むを得まい。ベトナムを訪れたある韓国の著名な言論人は「韓国軍がまじめに戦っているということは一つの救いだ」といったが、それはまさに逆であり、彼らが共産主義者だと称して、解放戦線の兵士やその家族たちをまじめに殺したことが、救いようのない悲劇であった。

 色の違う米軍に殺されるのと、同じアジア人でドルのためにやってきた韓国軍(彼らはそう信じている)に殺されるのを、ベトナム人は区別する。韓国軍はヘリや火器に依存する米軍を臆病だといい、政府軍はまったく戦意がないとけなす。そして猛虎師団のようにわずか十カ月の間に一万一千回の待ちぶせ攻撃をしたり洞くつのなかにも飛びこんで、そのなかにひそむベトナム人を短剣で刺し殺す。韓国の特派員たちは本国の新聞に対してこうした韓国軍を“神州鬼没”とたたえ、さすがの“ベトコン”も韓国軍だけには手が出ないと報じたのである。

 確かに政府軍の戦意は低い。サイゴン周辺の作戦に従事していた二十五師団のごときは、一年間に殺した“ベトコン”は百に満たなかった。しかし彼らは同じベトナム人どうしであり、殺し合いを避けることはそれなりに意味があろう。ベトナム人にとって韓国軍の気負い立った使命感やひとりよがりの正義感は、迷惑というより、むしろ憎しみの対象だったといえる。

 韓国軍の戦いぶりは悪意をもって南ベトナムに拡がった。私はサイゴンで一部のベトナム人に韓国軍の規律は厳格だと弁護したことがある。彼らはあなたは一部を見ただけに過ぎず、宣伝だと主張して止まなかった。あるベトナム人記者は私が韓国軍を訪問するといったら態度をかえて同行を断った。解放放送が韓国軍の残虐行為について述べると、ふだんは放送を信用しない反共の人たちすら、それを素直に信じるのだった。

◆金のもうけ方でまた韓国人はよく思われないことになる

 いま南ベトナムには韓国軍のほかに出かせぎに来ている民間人が一万五千から二万人いる。サイゴンの街頭では間断なく韓国人の姿を見ることができる。RMKなどの建設会社などに働く韓国人労務者も多い。高級クラブから売春バーにいたるまで韓国人の客でにぎわっている。またタンソンニェット空港内にあるゴフクラブの外国人メンバーの第一位は韓国人である。

 六五、六年ごろ、まだ少なかった韓国人はバーやレストランでよく日本語を使つていた。日本人ならテロに狙われることもなく、また韓国人よりはベトナム人の受けがいいと考えたからであろう。しかしいまはそんな“卑くつ”韓国人はいない。韓国レストランは増え、そこで韓国ビールが飲める。韓国から輸出された商品もいたるところでお目にかかる。韓国にとって初めての海外進山である。

 しかしこれもまたベトナム人の反感を招いている。タイやシンガポールなど東南アジアでは“醜い日本人”の存在が問題となっているが、ベトナムでは韓国人が“攻撃目標”とされている。

 サイゴンでは一昨年のテト攻勢以降非常時ということでダンスを禁止されているが、韓国人専用の秘密クラブではダンスをすることができる。相手のホステスはすべてベトナム人であり、ネオンもなにもない入り口は同じくベトナム人の警官が警備している。このクラブの上はトルコぶろで、マッサージ・ガールはそのまま売春婦にもなる。このようないかがわしい職種で金もうけに狂奔する韓国人も多く、また韓国軍の兵士たちと異なり、女性関係のいざこざも多いようである。

 このような事態を憂えている韓国人もいる。サイゴン視察に来たある新聞の論説委員は、真剣にベトナム戦後の韓国と南ベトナムの友好が可能だろうかと心配していた。またある韓国人記者は韓国高官のレセプションの席上、毎日何百というベトナム人が死んでいるなかで金もうけに躍起となっている者がいる、だれのための戦争なのかと演説して、本国送還になった。サイゴン特派員のなかでもなにを母国に伝えるべきかについてまじめに考えた人たちもいたが、彼らの書いた原稿の多くは使用されなかったようである。

◆ベトナム派兵で韓国が失ったものは大きすぎはしないか

 韓国の南ベトナム派兵が決定された六四年末、私は特派員としてソウルにいた。厳重な報道管制のなかで、私が打った電報はスクープとなったが、このニュースを確認したときの韓国人記者たちの表情を忘れることはできない。ある政治部記者は「こんなバカなことが……」といって頭を抱えた。某編集局長は私の幾つかの質問に答えず、天井を仰いでただ一言、『韓国という風船はいったいどこに飛んで行くのかなあ……」といった。

 それから数日後、韓国政府はとりあえず支援部隊二千人の派兵を発表しだが、韓国の有力紙はこぞってこれに反対した。朝鮮日報は「ベトナム派兵と韓国」という連載記事を掲げ「これまで朝鮮民族は中国、日本などの長い侵略に苦しめられてきた。しかしいまだかつて他国を侵略したことはなかった」と報じ、「この派兵で北朝鮮を刺激し、ベトナムで朝鮮民族が再び戦う恐れがあるのではないか」と結んだ。

 その恐れはなかったが、これをきっかけに北朝鮮と韓国の緊張は激化し三十八度線の危機は一段と高まったのである。数週間後、ソウル運動場で先遣の支援部隊二千人の壮行会が華やかに開かれ、十月には猛虎師団が出発した。このあと韓国は変わっていく。聖戦、非常時という名の下に言論統制がしかれ、韓国の新聞は、派遣軍と兵士たちの武勇伝で埋まるようになる。南ベトナムの韓国軍を批判したり、ベトナム戦争に反対する者は非国民とされた。日韓条約反対闘争が激しかった六四年、韓国では統一論議がさかんだった。日本との政治、経済関係を強めるよりは、統一を現実的問題として考えようではないかという意見は政府与党にすらあった。しかし統一論議もタブーとなった。

 いま韓国はベトナム特需による一時的な活況を示している。国民所得も上り、ソウルはビルラッシュといわれる。確かにベトナム派兵は米国の経済援助を増やし、六四年にはわずかに総額一億ドルに過ぎなかった輸出を数倍に増やした。

 しかし、派兵によって失われたものがいかに大きいか。今年から来年にかけてベトナム戦争の政治解決が可能になろう。それはおそらく朴政権にとってきわめて不面目な形での解決であろう。いかなる形での解決が行なわれるにせよ、韓国人は南ベトナムから立ち去らざるを得なくなろう。たとえ民間人であっても。

 韓国はベトナム人の心を失った。他国へ軍隊を派遣し、他民族を殺したことの代償は、日本人が三十六年の朝鮮支配の民族的責任から逃れることができないように、韓国人自らが支払わなければなるまい。

談話室にもどる        placardhome1.gif (1513 バイト)