行動を通して自己の変革へ
「福岡一〇の日デモの会」など

 倉田 令二朗      

 (『朝日ジャーナル』 1968年12月15日号)

 福岡では何をおいても、「一〇の日デモ」が舞台となる。九大反戦もべ平連も、一〇の日デモから生れた。以下の登場人物の市民運動への参加は例外なく、まず、一〇の日デモへの参加であった。時の推移とともに常連メンバーの顔ぶれも変ったが、三周年目のことし一〇月一〇日には、相も変らず「すべての人が立場をこえて人間共通の低みにおいて、つどい、歩き、語る一〇の日プリンシプル」が確認された。
一〇の日デモどころか、べ平連でさえ、メンバーの流動は、はげしい。たとえば十一月二十三日、天神町シット・インに参加したメンバーはやほり若い人が多かったには違いないけれども、まったくの新顔が、あちこちの大学や高校からきており、もうたがいに親しそうに語りあっていたという具合である。
 そして、十一月十四日、六月二日の九大構内米軍機墜落についで、またも福岡県三井郡小郡町に米軍機が墜落したとき、一〇の日デモからまた一つ、「板付基地撤去直接行動隊」なるものが生れた。ビラにいわく ――「三十数度も飛行機を落されて、馬鹿づらさげて、空を見上げるはど、博多っ子ほ腰抜けではありません。米軍機が日本の空を飛ばなくなる日まで、板付基地がなくなる日まで、とことんゲート前に坐りつづけましょう。わたくしたちは、毎週土曜午後三時から四時までの一時間、雨が降ろうが弾が降ろうが板付基地ゲート前に坐り、基地のなかをにらんでいます。あなたもいっしょに坐ってください」
 一九六八年の市民運動にとって、その受取り方のいかんをとわず、昨年の羽田以来の学生運動の市民へのインパクトをさけて通ることはできない。一〇・八山崎君追悼反戦反安保福岡大集会には、定員四〇〇人以下の市民会館小ホールには八〇〇人(その半数は社会人であり、そのはとんどはあの若い死に対するまじり気のない追悼のために)が集ったし、『べ平連通信ふくおか』によせられた多くの感想文がそのことを示している。
 私はといえば、羽田以来、とくに佐世保闘争において九大が三派系の拠点となって以来、一貫して彼らの行動をふくむ世界のスチューデント・パワーの現代における歴史的意味について根本的に考え直さねばならなかった。私の相対的に安定した国立大学教官の立場からくる社会や大学の機構についての人間的鈍感に関して、彼らの「否定する感受性」から学ばねばならなかった。その間に社会全体において「立場の論理」がいかに人の人としての目をくもらせているかについて、多くのことに気づかざるを得なかった。
 A氏(『べ平連通信ふくおか』編集責任者)は、ゲバ棒に関する有効性の戦術的問題を提起する。つまり広範な市民に支持されることなしにはその戦術的有効性は示されないだろう。それが有効となるような情勢分析が必要である。佐世保の成功を偶然でもあり、意外でもあるとする人が多いが、それほ佐世保市民なるものについて十分深い分析考察がなされていなかったからではないのか、という。
 B君(九大理学部学生、六・三〜四のハンスト男、学内にあっては現民青執行部に対する対案グループとして活躍、非マルクス主義者を自称)。ゲバ棒は戦術ではなく、自分の存在そのもの、自分の肉体の一部としての意味をもっていると考えている。言葉を封ぜられたものが行為をもって自分を表現する一つの言語である。ボクほゲバ棒を握ったことはないが、それとわれわれのハンストは基本的に同じだと思う。
 C氏(九大反戦の理論家)は、評論家風にいう。由比さんに典型的な、自己自身に向ける暴力――そのことによって他人に思想的に訴える――と、外の権力に対しての既成秩序を越えようとする暴力、市民運動はこの二つの暴力の間を理念的に行きつもどりつしてきたとはいえないか。
 D氏(労働者)はしずかにいう。われわれは経済闘争にしか目が向かず、権威に弱い組合の現状につねにいらだっている。だから「社会変革の実験場」としての学園闘争を見ると、それは感覚的に楽しいし、労働者として実践的にも参考になる。つまり新しい型の運動を作ろうとする人々にとって教えられるところが多いのだ。
 E氏はだが、羽田闘争の歴史的意義をだれよりも強調しつつも、政治的原則に照らして容赦しない。ゲバ棒戦術は、敵味方の力関係からものをみる政治的立場ではなく、物理的闘争観とでもいうべきものだ。佐世保の高揚は、戦術としてのゲバ棒の所産ではなく、また新宿の勝利ほゲバ棒から生れたものではなく、大都会の中で疎外された大衆の力によるものだ。非暴力直接行動による全人民に支持された全労働者階級のデモとゼネストこそが勝利を決める。
 林昇氏(福岡べ平連代表、元高校教頭、六九歳。小生意気なヤングべ平連たちは最初ほ変ったじいさんで、そのいやしからざる人品によって、看板としてほもってこいだぐらいにひそかに考えていたらしい。やがてこの連中は、自分らの誤りを思い知らされることになる。先生はジグザグデモを含めすべての闘争の先頭に立ってきた。すべての企画方針にも直接責任をとった)は、一〇・八集会での中核派の代表の「われわれは、いまこの方法しかないと確信してゲバルトやっているが、独善的な考えはないし、セクト主義の押売りをする気も毛頭ない」という言葉を素直に受取り、心から喜んでいた。彼らの中に「ヤマトオノコの心意気」を感じた様子だった。
 私は旧三派、革マルの学生を、少なくとも公開的には非難しないことにしている。一つにはもっとも果敢に命をかけており、もっとも極端な弾圧と中傷のまっただ中にあるのだということからであり、二つには変革の主体としての学生の自己形成はまだその途上にあると考えるからである。
 つまり「三派革マル擁護に狂奔し、暴力を容認する一握りの分裂主義教官」となっているのである。
 反戦運動にとって、労働者のもつ被害者と加害者の二重性の問題は、われわれも参加した山田弾薬庫への弾薬輸送阻止闘争における問題点として、京都国際会議において九大反戦の村岡君によって提起された(『朝日ジャーナル』九月一日号)。
 弾薬輸送車の運転拒否を訴えたが、機関士は「反対なのだが、家族を食わせねばならぬから」といったことに関する深刻な問題である。
 六月十一日は約一〇時間ストップさせることができたが、七月二十二日引込線の横でデモ隊は数倍の機動隊によって完全に包囲され、まったく手も足も出ぬ状況の中で、弾薬輸送列車は通過し、逮捕状もなく、いかなる意味での現行犯でもない条件下で指導者が品物のように逮捕され、恐れを知らぬ若者たちもついには屈辱の涙に打伏したとき、闘争はこの段階では完全な敗北に終った。七〇年に向って労働者本隊が立上がることの期待を、われわれは燃えるように感じたものだった。
 その後門司港湾労働者は上からの弾薬荷揚げを数日間にわたって拒否したし、全国的な米タン輸送拒否の順法闘争にいくつかの曙光が見られた。九・二八ジェット燃料輸送阻止竹下駅前集会では、駅長がわれわれの代表の抗議をムゲに蹴っているそのときに、竹下駅の労働者が個人の資格で参加していた。「組合の上部機関の許可があればわれわれは輸送を拒否する」というものでほあったが、これもわれわれがじかに体験した曙光であった。組織の参加に先立って個人の参加があったわけである。
 労働者の個々の主体の問題について、べ平連の労働者の声を『べ平連通信』にかかれたD氏の説から見よう。
 自己の経済生活を成立させているものとしての生活者が、市民成立の基本的契機であり、したがって市民的存在は人間存在そのものといえる。したがって独占資本のにない手や高級官僚は市民ではない。
 市民とは、具体的には生活の組織性を求めて自ら闘いの行動をおこす生活者であり、その行動の体系として市民運動が存在する。そこでは個人の開かれた思想、開かれた行動がすべてに優先する。
 だが現実の組織はしばしばその逆になっており、組織拡大強化の立場そのものが優先する。本来それが敵対すべきであるはずの
権力支配――服従、共同体的全体性――黙従関係が生きている。現在労働運動の体制内化、官僚化、右傾化といわれるものは客観的には独占の支配形態そのものなのだが、主体的には、労働組合内部における前述の意味での「市民運動」の不在または弱さである。
 F氏(マスコミ労働者、読書会など地域活動にも力を入れている)はいう。
 日常生活の総体が市民生活なのだ。組合大会やデモのときだけ階級意識や政治意識を口にし、自己を対象化するが、買物をしたり、団地に住むとき無意識的な生活にもどる――たとえば町内会費を気軽に払うといった――これはニセモノだ。こうした使いわけのもとで組合の権威主義、幹部としての立場の論理――企業人としての、組織人としての、上級機関に対する下部としての――の中で、市民としての個が押しつぶされている。ぼくは何よりも組合の中での意識的な個の確立を重んじ、ついで地域社会を、そして街頭ほ最下位においている。こうした二四時間の生活の対自化としての大きな自己変革の課題を、私ほべ平連行動とべ平連討論 だ――この二つは車の両輪だが――で追求しようとしているのだ。
 だがなぜ組織の中の労働者が、これほどまでに執拗に日常性や個や自己変革の問題を提起せざるを得ないのか。その背景には、現代国家資本主義の大衆を統合する能力と生活のある局面での支配というよりも、むしろ全的に個人の日常生活を包摂する抑圧支配の形態が横たわっている。
 北沢方邦氏のいうように、そこでは意味するものとしての人間主体は失われ、すべては意味されたもの、とりわけ計量的にのみ意味されたものとして操作可能の対象になっているのだ。
 技術と卑俗な日常的イデオロギーとの癒着のもとで言語(平和、民主主義、秩序、公共、研究、学問、暴力、良識など)からは全体の中での本来の意味が盗みとられ、卑俗なシンボルと化して世界が帰納的に解釈され侮辱されるのだ。さらにピンチなことには、そこでは物欲や権力欲のための競争といった劣情が、自発性といったニセの外観をとるのだ。
 つまり労働者や学生の一定部分は、自らが豊かな、あるいは豊かになりつつある安定した中産階級の部分だという虚偽意識におおわれているのだ(こういった表現ほ、書物によるものではない。われわれのすべては、たびかさなるシット・インごとに「学生たちほ勉強しなさい」「いまは平和で豊かではないか」と説教する「虚偽意識」が洋服を着たような中年の紳士との街頭討論で、いやというほど肌に感じているのだ)。
 いうまでもなく、この社会的統合の幻想形態に対する世界的断絶こそがベトナム革命であるとするならば、反戦にかかわるものはまずもって自己の日常的虚偽意識を捨て、共犯者たる自己を意識することから自己変革の問題を提起することにもなるのだ。
 一〇・二一に先立って寄せられた手紙にほ、ほとんど行動に参加することによって「人間をとりもどす」「人間としての権利の行使」という意味のことが書かれてあった。「これまでの革命ほ所有の革命であった。われわれの革命ほ存在の革命なのだ」(ナンテールの落書)という言葉に、素直に共鳴できるような最近の思想状況だった。
 一〇月二一日夕刻、べ平連、九大反戦、医学部自治会の約五〇〇人がゲート前で今日のデモの総括集会をもっていた。むろんみんな素手であった。五時一五分前(届け出は五時半まで)、無抵抗の人々に機動隊が襲いかかったのだ。なぐる、けるの後にごぼう抜き。”青トンネル″(青制服の機動隊の縦列)の中のひきまわし。メガネが割れ、目から血が出る。顔をなぐられ、鼻血がとび散る。時計が抜かれる。ズボンがさかれる………。これが人間存在をとりもどそうとした人たちへの国家権力の返礼であった。
 この事件におびえてもうデモにほ出ないという人は一人も出なかった。虚偽意識はふっとび、ボロボロになってもわれわれは思想的には勝利した。
 ある日、数人が「自己変革」ということについてやや突込んで論じたことがある。ここには問題点だけを示そう。
 自己変革の意識とは反省的意識なのか、行動そのもののことではないのか。
 それは状況の認識の全体化によって達せられるのか、むしろ人間存在の真理そのものの洞察による単純性によって支えられるのか。
 そのとき九大のP先生がいった。
 思想、思想というのにほまったく反対。第一、私には思想などない。思想には一貫性、論理性がともなうが、それは私にとってつねに破綻してきた。マルクス、マルクーゼ、サルトル、フッサール(その日はこれらの名が出たのだが)など、ときには便利なものとして寄せ集め、組立てることはあるが、要するに一貫した思想など私にはないし、現実にあると思えない。あるものはまあカンといったものだ。そのカンがどこからくるかわかるほずもない。第一私は軽佻浮薄、野次馬として市民運動に参加しているのだ。
 さてズプズプの日常的虚偽意識の即自的肯定に甘んじる精神を鈍感というならば、これこそが体制を支えているものであり、いわゆる既成左翼ほ鈍感に基礎をおく卑俗な日常性に付随する劣情の組織化だといえよう。
 指導部は必ずしも鈍感ともいえぬという人もある。彼によれば気づいてほいるが意識的にとざされているというのである。
 つまり、組織拡大のためにはすでにある鈍感を、あるものとして容認し、おもねらなければならず、そのためにはまず自分自身をだますことが必要なのだ。自己変革は彼らには絶対にタブーなのである。前衛党″幹部に固有なことといえば、組織拡大を追求する上でのはなはだしい他に対するデマと中傷である。もちろん福岡べ平連は彼らによって「分裂・挑発集団」と規定されている。ビラがはがされるので同じ箇所に数十枚も準備しなくてほならぬのは迷惑な話ではある。これはいまにはじまったことではない。一〇の日デモ発足の当時から「一〇の日デモは反党修正主義者とトロツキストの癒着だ」とされた。
 ハワード・ジンとラルフ・フェザーストンの福岡講演会の際には一〇の日デモは九大教職員組合連合会と学友会に共催を要請したが、当時前衛党″の握っていた両組織はそれを拒否した上、「彼らはアメリカ国務省のスパイである」という重大なデマをとばしたが、その理由は「なぜなら、彼らは沖縄に渡航が許されているから」という白痴じみたものであった。
 したがって彼らほおおよそ次のように特徴づけられるであろぅ。それほ存在において鈍感を前提にしており、政策において愚民化であり、機能において体制強化であり、そのうえ方法においてしばしば卑劣である。
 一〇月二一日昼前、美しい青空の下、けがらわしい板付基地ゲート前の橋の上で、われわれ八〇人ばかりが坐っていた。朝八時半に竹下駅前で集会をもって――ジェット燃料車ほともかくその日は動かなかった――ここまで来たのだった。いろんな人がいろんな意見を演説調ではなく語りかけていた。
 P先生が登場し、型通り並みいる警官や私服にあてこすりをいったあと、めずらしくはじめて憲法をおそわった自分の少年時代のことにふれ、私にとって理念があるとすれば、それは憲法感覚しかない(「オヤ、先生は大江健三郎と同世代でありしか」とのささやき)、その内容ほ反戦と人権意識だ。だが現在憲法を擁護するにはそれを越える理念が必要だといわれた。ではその理念とは何か。
 B君の友人H君ほ「共同の幻想性としての国家を支えている法を私ほ否定する」という。だが他の友人T君はいう。
「ブルジョア法のいくつかの理念は、もちろん歴史的にはプルジョア階級の利益を全人民的利益の形で表現するものとして登場してきたし、現実にそのように機能している。だが同時に平等、自由、人権はその歴史的過程そのものの中でまさにそれを通じて開示されてきた人間存在の真理(理想ではなく事実それ以外にありえないこと)の表現でもある。ぼくがデモやシット・インをする場合も学内問題に取組む場合も、一つの共通の理念を基礎にしている。それほ復権の思想だ。自分自身が捨ててきたもの――それが支配を許している――の復権なのだ。権利を行使しないものはそれを手放すものだ」
 私ほこれに賛成だ。私ほチェコの変革を、まさにこの、たとえば言論の自由といった人間存在の一つの真理(全部ではないまでも)が、社会主義と歴史上最初に結びつけようとしたことを、直接にかつ無条件的に評価したいのだ。それが十分社会主義的民主主義の展望をふくむまでに成熟していず、ブルジョア的理念を出ていないという詮議だては、この出発点の確認に比べては「次の問題」にすぎないと思う。
 チェコといえば、『べ平連通信』の編集後記にポコッと次の言葉が載った。「チェコの事件まで、べ平連を正しく評価出来なかったことを自己批判しておこう」
 最後に憲法に関して二つの重要な事件にわれわれはみな出会った。一つは前にのべた一〇・二一夕刻の残虐事件、いま一つは次にのべる裁判の問題だが、二つとも、もしわれわれがこのような状態を放置しておくならば、安保や反戦だけでなく、人々の日常的な基本的人権いっさいを消滅させ、結局ファシズムに道をひらくだろう。そして反戦、反安保闘争への弾圧はまさしくかかるものとして全般的抑圧の性格をもつものなのである。
 山田弾薬庫・板付闘争に関する第一回公判予定の一〇月八日、福岡地裁において、おおよそ次のことがおこった。
 小川重夫裁判長は、まず四被告の傍聴者の入廷を挑発的に妨害させ、結局入廷した傍聴者に対し、威嚇恫喝をくりかえしたうえ、たった一回の「でほ諸君にあいさつをしよう」という言葉で退去命令を発し、その直後に機動隊を導入して実力的に全傍聴人を排除し、この間被告人の一人を意味不明の理由で拘引した。
 傍聴券を持ち、静かに入廷していた傍聴人の一人が逮捕され不当に拘留されたが、その間警察、検察、裁判官ほニセの診断書による傷害事件のでっち上げを図った(かすり傷ひとつない機動隊員と、ニセ診断書を書いた医師の名はわかっている)。傍聴人排除の後にも、裁判長は裁判公開の原則を破って開廷しようとするなど、不当な言動に終始した。
 数年前から空文化していたが、なお形式的幻影をとどめていた「公正なる裁判」は、いまやあとかたもなくなったといわざるを得ない。
 われわれは山田・板付闘争の正当性を人間の名においても憲法の名においても確認し、逮捕、起訴そのものを警察権力の不当弾圧として糾弾するが、いまここに司法権力の赤裸々な国家権力としての弾圧機能をも糾弾せねばならない。
 ここでは被告人なるものほこれから審議される一個の人間ではなく、国家権力の敵として弾劾されるもの、機動隊によって人権、言論を封殺さるべき、みせしめされるものとして扱われる。起訴理由の公務執行の「公務」の法的根拠は安保なのであるから、この裁判ほまさしく「安保裁判」なのである。
                       (朝日ジャーナル 68・12・15)

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