台湾青年の強制送還

――反戦と変革に関する国際会議(1968年8月11〜13日、京都・国立国際会議場)での発言――

                           川 田  泰 代
                                                                                                                                                                                     ■
 司会者 川田泰代さんにご発言願います。
                                       一
 川田泰代 私は実はここ一年ばかり台湾青年の陳玉璽の問題をかかえておりました。それでこの三日間の会議を通じまして、台湾の問題には触れられませんでしたので、陳玉璽という学生についてお話ししたいと思います。

陳玉董事件

 ちょうど一年前の八月十七日に、かれがハワイの友人から紹介されて私のところへやって来ましたが、その青年が日本に来たときに、なぜかおびえているのです。それで、あなたは何がしたいのかと言いましたら、自分は台湾に帰れば十年くらいぶち込まれてしまうと、そういうことなんです。じや、あなたは何をしたのかと聞きましたらば、北爆反対のデモに出、その時に、ちょうど手を振り上げたのをテレビに写されて、それが仲間を扇動しているような形で台北でも放映されたと、台北の友だちから知らせがあった、そして「きみ、そんなことをしたら、大変に危険だからやめなさい」と言ってきた、というのです。
 かれはハワイ大学のイースト・ウエスト・センターで経済学を勉学中で、一年間助手を勤めておりました。非常に成績がいいので、ハーバードのサマースクールにも行ったし、ブラウン大学という経済学専門の学校でPHDをとるコースを申請しましたところが許可されて、アメリカ側は許可したんですが、一九六七年の七月に、台湾政府が即時帰国しろということを言ってきました。それで、かれは自分に何か嫌疑がかかったなということで、友人たちが日本へ行きなさい、日本へ行ってしばらくほとぼりがさめるまでそこにいなさい。もし、日本に長くいられないとすれば、中華人民共和国というところもあって、あなたは中国人であるから、一つの中国というものを認めるならば、そっちへ行く可能性を日本で待っていたらどうか、ということで来日したというわけなのです。
 私は、実はいつも新聞に飛び飛びに発表されているので、みなさんは私がなんでこんなことを言わなければならないかおわかりにならないと思いますので、きょうは覆面を脱ぎます。それはちょうど私がべ平連に訴えに来たときには、かれが死刑の求刑をされているものですから、それに対してみなさんのご助力を得て死刑にストップをかけたいと思ったんですけれども、この問題は毎日毎日動いております。そしてきのうの朝刊に、かれは軍事法廷でもって七年の減刑になったということですので、私が訴えようとしましたすべての文章は旧約聖書になってしまいました。
それでとりあえず命だけは助かるということになりましたから、私、夕べちょっとまた台湾の軍事問題の専門家に夜中に電話をかけて、私がほんとうのことを言ってもよいか、またほんとうのことを言っちゃうと台湾はかれにまた死刑の求刑をするかもしれない――台湾というのは非常に変動の激しいところですから、そういったことがないだろうかと尋ねましたら、判決がおりたばかりだから、もうそれより重くなることはないから、ということでしたので、日本の国内の問題として、強制送還の問題とか、いろんなものが関係してくるから、思う存分みなさんに訴えて、陳玉璽個人のことではなしに、こういう問題はこれからどんどんあると思いますから、みなさんと一緒に考えていただきたいと存じます。

  起訴の理由

 かれの起訴された理由を、もしもご自分が台湾に生まれたらどんな目にあうだろうかという仮定のもとに考えていただきたいと思います。陳玉璽はアメリカに留学中、「中国画報」と「人民日報」と毛沢東の詩を常に読んでいた。それから日本へ来て、東京華僑総会の副会長のところに行って、大陸に行きたいということを訴えた。それでそのあとで、その副会長の紹介によって「大字報」という新聞で働いていた。それから昨年の十二月の二日以降一月の十七日までの間に、ペンネームで、「大字報」にアメリカと日本の経済は危機に瀕しているという論文と、もう一つは曲技団の革命的感情という二つの論文を書いた。それが原因で日本政府が中国の大使館に引き渡して、それで本国送還になった、とこれだけのことです。それで反乱条例第二条第一項の罪、反乱条例第十条後段とか、軍事侵犯法第一四五条第一項とか、三つも四つも付いているのです。それで台湾の六法全書というものを買って、一生懸命読んでみますと、死刑というのが二つ付いていて、家族も財産没収というようなことなんです。
 ですから、これに対して非常に不合理だと思いましたので、とりあえず日本の入管が強制送還させたという事実がありますのですから、それに対して抗議を申し込もう、それは六月二十四日のことですが、ところが六月二十一日にUPIから、陳玉璽はアメリカにおけるベトナム戦争反対のために、治安妨害罪に問われて軍事法廷にいる、それで死刑も求刑されているという外電が入ったものですから、日本としては政府が加担していることなので、われわれ民間人としても、黙っていては日本に人間がいないということになりますから、かれの身元引き受け人になっていただきました宮崎龍介さん――宮崎滔天の息子さんで、親子代々中国人の長いお友だちでいらっしゃいます――法政大学総長の中村哲さん、読売新聞の論説委員の高木健夫さん、法政大学の経営学の教授の松岡さん――陳君はこの先生について日本でしばらく勉強するという態勢を整えていたのです――それからブリティッシュ・コロンビア大学の加藤周一さん――加藤さんは陳君が日本から強制送還されて、そのままかれのところへも何の手紙もよこさない、そうして、やっとわかったのが四月の十二日ごろ。二ヵ月後に、陳君のおとうさんから――おとうさんのところへもなにも知らせがなかったんだけれども、気違いのようにさがしていたら、瞭君が軍事裁判所に、治安警備指令部の軍法所というところの留置所に抑留されているということがわか.ったというので、私や中村先生がアメリカにそういうことを知らせて、アメリカでもなにか陳君のために働いてほしいという電報を打ちました。それがアメリカのプロフェッサーからブリティッシュ・コロンビアのプロフェッサーのところへいって、加藤周一さんがブリティッシュ・コロンビアのプロフェッサーであったものですから、そこへ特別電報がきて、陳玉璽のことについてなにか働くようにと、それから東大の石田雄先生、このかたはハワイの東西文化センターで教鞭をとっていらっしゃいました、それから俳優座の中村さん、このかたも東西文化センターで演劇を勉強していた、そういうなにか陳君と一面識あるかただけ、とりあえず七人のかたが世話人になっていただきまして、記者会見をいたしました。そして四つの要求をわれわれは政府および国連と国際赤十字に向かって発送いたしました。
 それをちょっと読み上げてみたいと思います。

 一、陳君の事件につき、政府はその事実を調査し、同君の生命の安全と人権の保障につき万全の策を講ずること。
ニ、日本政府と中華民国政府との間に強制送還に関する密約があったとの疑惑が持たれている現在、中華民国政府に対しても陳君の裁判の事実関係を明らかにすることを希望し、本人の生命の安全はもとより、その人権が充分に保証されることを要請する。
三、政府は送遼に対し、本人の意志確認の公正な手続きを確立すること。
四、国会においてすみやかに政治的亡命に関する法律を成立させること。
               
 この四つの理由のいくつかがべ平連のやっていらっしやるスロ−ガンと重なるものですから、私は勇気を持ってここで訴えさせていただくわけです。

 私たちの支援の運動と一つの事件

 それで、せめて終身刑ならばいい、死刑でなければいいと、死刑というものは――死刑廃止が理想なんですから、それも普通の民間人が死刑になるということに対しては、われわれは断固抗議しなければならないということで蒋総統とか、張群さんとかに電報を打ちまして、それで六月二十一日から今日までほとんど一日おきぐらいにAP、UPとか、そういうニュースが入ってくるたんびに、追っかけ追っかけ、その対策を立てたわけです。そのために、われわれは大衆に訴えることができなかったのです。それでまず六月二十四日以前には私は一番陳君と長く付き合っていた関係で、はんとうに孤立しながら、どこへ訴えに行っていいか大変にまよってしまいました。それで国会の法務委員会に訴えるということが一番いいと思い、猪俣浩三先生にお願いして、四月十九日と二十六日と、さらに八月五日と三回、非常にしつこく政府の責任を追及したわけです。そうすると、中川入管局長は官僚らしく、ぬらりくらりやって、非常に誠意がないんですけれども、それでも言わないより言ったほうがいいと思って、しつこく、食い下がりました。
 陳君の問題と、三月二十七日に起こりました柳文卿という人の事件とはあまりにもよく似た事件なのです。拳制送還されるのを拒否して、かれの十人の友人たちが羽田空港になだれ込んできて、かれを奪還しようと思ったけれども、三十人の法務省の保護官というのに押えられて、とうとう連れ去ってしまった事件がありました。この事件は大変マスコミに訴えられたものです。その後柳文卿さんは逮捕されないで、自宅で禁固というようなことになっております。
 それで、この非常に類似した事件の裏には去年京都市出身の田中伊三次氏が法務大臣のときに、中川入管局長と、佐藤総理が台湾に行かれたあとに、台湾に行きまして、それで国家安全局というところと密約を結んだと言われているのです。大村収容所に二百人の麻薬密貿易の違反者が収容されている、それを代々の日本の内閣総理大臣が、岸さんもそうだし、池田さんの時も、引き取ってもらいたいとこちらから要求するのに、台湾政府は拒み続けていたわけです。そうして、先ほどの軍隊の脱走走兵引き渡しのような影の条約が結ばれたわけです。
 私のところにいた陳玉璽はあとからわかったことですが、麻薬密貿易の犯人三十人に一人政治犯を引き渡すという裏契約によって連れ去られたわけです。そのあとが柳文卿さんです。それで台湾で毛匪とか、共匪というのが一番罪が重くて、それで独立青年連盟の人たちも何でも、政府批判の人たちほ共匪という共産党匪賊に属するわけです。それを二本立てでもって間引いたわけです。そういうことが発覚しました。それで入管局長ほ在日の台湾の陳大使との間に覚え書をとりかわしているのです。その覚え書は転向すれば勘弁してやる、命だけは助けてやるというような覚え書なのです。私どもは、別に私がそそのかしたわけではないけれども、転向しなくても日本の法律になんら触れてないんですから、かれは無罪であるという主張をしたかったわけですが、われわれのカがまだ足りなくて、やっと七年の刑というところになりました。ただ額面どおり七年といいますけれども、結局、徳川時代みたいに、おとうさんが罪を犯すと、その家族まで一網打尽にあげられてしまって、台湾の中の政治犯というのは、いま台北近郊に一万人ぐらい入っているわけで、そういう人たちは普通の犯罪者でなくて、みんな政治犯で、全部やみからやみに葬られて、ここのところ、マスコミの大きな.騒ぎになったのが二十年間に五つぐらいの事件です。ですから陳君の事件は、マスコミを騒がせた柳文卿さんの次の事件なんです。
 それで私はあまりにたくさんの材料があって、どういうふうに結んでいいかわかりませんけれども、入管局長はこの間、八月五日に法務委員会で猪俣さんが二時間ほど食い下がられたときに、陳君は自分の費用で帰ったんで、一度台湾に帰ったならば、また法政大学に入りたいという申請をすれば、いつでも入れてあげるというふうなことを言って逃げておりました。それで猪俣さんが、あなたは死刑になるということをご存じですかと言ったら、そんなこと知らない、法務大臣は生命の危険のあるところに送り返さないと言っている。しかし実際には生命の危険のあるところに帰したではないかというようなことを言うのです。それであの手この手でたくさんの抗議をしたものですから、あるいは私がべ平連に来て何でもかんでもぶちまけるかもしれないから、結局その前に減刑しちゃったほうがいいと思ったんですね。べ平連は人権問題のメンソレタームみたいな特効薬になっているんでしょう。きのうの朝、何かしゃべられる前に死刑というと大変なととだからと思って減刑してくれたのかもしれません。

  政治亡命とわれわれ

 ですから、私は陳君のことに関するかぎり、陳君が非常にあこがれていた「毛沢東語録」の効力より、小田実さんの語錬のほうがききめがあったと思うんです(拍手)。そぅいう名誉あるべ平連の名において、われわれは、日本政府は公式にはかれを政治犯で送りましたと言えないという矛盾を突きまして、日本人民の手にかれを取りり戻したいと思うのです。第二、第三の陳玉璽が出ないように、われわれはほんとうに真剣になって、政治犯の亡命のことを考えたいと思います。
 それでいろいろな提案がありますけれども、きのうからがらりと状態が変わったために、私どもがここに提起していたものが全部古くなってしまったために、台湾の法律というものは死刑が突然に七年になったりして、一生懸命値切れば値切ってくれるんだということに自信がつきましたから、この大会の名において、どうか陳玉璽がもし日本へ来たいと言えば、再入国を認めるという許可をみんなの名前において要求していただきたいと思います。それを獄中の陳玉璽が知ったとき、ほんとうに、日本の植民地政策で非常に苦しめた台湾人との問題がまだ解決していないものですから、私たちは、そういう日本人としての連帯感を多くの台湾人に伝えることができると思うのです(拍手)。

(小田実・鶴見俊輔編『反戦と変革』1968年、学藝書房より)

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