反博

    ――反戦運動の試行錯誤          (『現代の眼』 6910月号より)

                  針生一郎

 

 ハンパク、つまり、「反戦のための万国博」の計画を、わたしが最初にきいたのは、ことしの二月ごろだったと思う。もともと、反戦運動を文化創造の一環としてとらえ、フォーク・ソング、詩、演劇、絵画、映画などをふくむ、「反戦フェスティヴァル」を何度かもよおしてきた南大阪ベ平通の若者たちが、七〇年に大阪でおこなわれる万国博にたいして、反戦の立場からの真の文化を対置しよう、と考えたのが発端だった。この提案が関西ベ平連や東京ベ平連で検討されて、哲学者山田宗睦を代表とする反戦万国博協会、略称反博協会がつくられたとき、全体の構想はほぼさだまったらしい。

 とりわけ、万国博協賛の名目で、八月七日から五日間、大阪城公園の一万坪の敷地を、大阪市から借りることに成功したのが、ヒョウタンからでた駒のように、具体化のきっかけとなったのである。こうして、万国博の「人類の進歩と調和」のむこうをはって、「人類の平和と解放のために」のテーマがえらばれ、万国博の関連投資総額一兆円にはおよびもつかないが、四〇〇万円を目標とする募金活動がはじまった。反博協会といっても、反戦運動の活動家ばかりだが、だれもが一人何役か兼ね、ベ平連流のアイディアとエネルギーを存分に発揮して、しゃにむに実現までこぎつけてしまった。

「七〇年の”万国博″が、人類の進歩と調和″という美辞麗句のもとに商業主義と大国ナショナリズムの体制側からのイデオロギー”攻勢である時、それは、ただ単なる万国博反対”やいやがらせ”ですませることのできない、私たちの文化″を問われたものとしてあると思うのです。

 世界の矛盾であるヴェトナムを、沖縄を、安保を、私たちの“人類の平和と解放のために″はっきりと位置づけ、私たちの運動の中で生まれ、育ってきた全ての叡智と創造力を結集して体制側からのイデオロギー″を徹底的にのり越えた文化をつくりだそうではありませんか。私たち、反戦・平和の活動をしている人間こそが、本当の意味での万国博″を開催する権利と義務をもっていると確信しています」

 わたしはこの反博に、最初からよびかけ人として名をつらねてきたが、じつはいくつかの疑間と危惧をいだいてもいた。第一の疑問は、万国博にたいする批判と反戦、反体制の運動との関係にかかわる。ベ平連にとって万博は、しょせん反戦運動の一環と考えられているが、万国博はむしろ七〇年代の文化支配の体制を象徴するものであり、それにたいし反戦、反体制の文化を対置するという代案主義だけではすまされない。まして、それが.一九世紀的な産業と文化の祭典である万国博という形式をとるかぎり、模擬国会や模擬裁判と同じような意味での模擬万博に終り、一兆円と四〇〇方円の相違が端的にあらわれるだけではないか。むしろ、反戦、反体制の立場にたつものをふくめて、今日文化や芸術とよばれるものが、体制支配の手段に組みこまれていることを告発する場として、反博を位置づけるべきだとわたしは思う。

 第二に、反博の企画では、まず会場が確保され、つぎにテントや施設が考えられ、さまざまのメディアとジャンルにわたる反戦的な展示が求められている。だが、わたしの考えでは、反戦を基準に各ジャンルからかきあつめられた既成芸術よりも、反戦運動の具体的課題のなかから、民衆の新しいメディアを発見し、新しい表現形式をつくりだすことがいっそう重要だ。たとえば、反戦ポスターや反戦詩のパネル展示よりも、世界の解放闘争における武器の問題とか、デモのありかたについて検討する方が、芸術にとってもアクチュアルな課題だという視点が必要である。

 わたしは東京や大阪でおこなわれた「プレ反博」でもシンポジウムでも、これらの意見を率直に語り、反博の企画全体をそういう角度から検討しなおすことを要求したが、実現されなかった。何よりも、万国博に象徴される文化支配にたいするたたかいの展望にもとづいて、反博の理念とマスター・プランが明確にかかげられる必要があった。だが、実際には、ちょうど万国博と同じように、まず会期と会場が定められ、自発性の名のもとに雑多な展示内容が、いわばアンデパンダン方式であつめられ、会期がはじまるまで何がとびだすかわからない、という状態が生じたのである。

 しかし、わたしは七月末に大阪で反博のための集会にでて、はじめて期待と興味をそそられた。事務局の話によると、当初計画されたジャンル別の展示やさまざまのもよおしは、ほとんど実現しなかったかわりに、市民大学、ティーチ・イン、フォーク・ソング、講演などがいくつも同時に進行し、全体のスケジュールがたてにくい、というのだ。そのくせ、前景気は上々で、七月末ですでに全国から学生や若者たちがつめかけており、みんなテントのなかで寝泊りすることになりそうだ。つまり、展示も仕掛けもないガランドウの野外空間で、五日間の強化合宿がおこなわれ、討論やハプニングをつみかさねて、最終日の夜のデモに結集されていくわけである。わたしはこの五日間のエネルギーのるつぼから、どんな展望が生まれるかに注目せずにはいられなかった。

 もっとも、六月一五日の反戦デモに数万の人びとを動員して以来、ベ平連は七〇年闘争の主役のひとつとして注目をあびるとともに、新宿西口広場の問題ともからんで、政府、自民党、警察の目のかたきとされている。反博にたいしても、大阪の警察は異常な警戒ぶりを示し、万国博協会側も会場への侵入をおそれていたといわれる。一方、万国博反対のさまざまな動きにたいする警察の弾圧は、七月ごろから執拗さをきわめ、表現と思想の権力による統制の様相を示しはじめた。たとえば、「万博粉砕共闘会議」を名のるゼロ次元、告陰、ピタミン・アート、新宿少年団などのアングラ芸術家グループが、京大バリケードと池袋アート・シアターで、全裸の「儀式」をおこなったため、公然ワイセツ物陳列容疑でしらみつぶしに逮捕され、その写真をのせた二つの雑誌の編集長も取調べをうけた。これに関連して、写真家、ジャーナリストなどで任意出頭を命じられ、尾行や盗聴につきまとわれている人びとも少なくない。しかも、取調べの過程では、もっぱらベ平連や反戦青年委員会との関係が追及され、七〇年を前にして万博反対論とともに「国辱的」なアングラ芸術を一掃せよ、と自民党筋から圧力があったことも検事の口から明らかにされている。

 反博の会場となった大阪城公園は、戦争中大きな兵器廠があったところで、終戦の前日の八月一四日、大阪大空襲で壊滅した。日本政府はすでにポツダム宣言を受諾していたが、天皇制護持を降伏の条件としており、アメリカはたんなる威嚇のためにこの大空襲をおこない多くの人命をうばったのである。いわば日米の両国家権力が、それぞれの体面のためにだけ多くの民衆を殺した。この場所の追憶にふれて、小田実はかつて『難死の思想』という文章を書いた。ここはまた、開高健の『日本三文オペラ』や小松左京の『日本アパッチ族』に描かれた、いわゆるアパッチ発祥の地でもある。広大な公園の一劃を占める緑のない赤土の会場には、大小さまざまのテントや掘立小屋がならび、色とりどりの旗がはためき、遠くからみるとさながら巨大なサーカスかジプシーの宿営地のようにみえる。参加団体には、全国各地域、各大学のべ平連、日大・東大の全共闘、各地のフォーク・ゲリラ、声なき声の会、キリスト者平和の会、家永訴訟を支援する市民の会、日中友好協会から、「京都橋の下大学」「裏切りものたち」「ホステス反戦」「パ一チンコ反戦」といったものまであり、キューバ文化省も名をつらねている。新築の大阪城がそびえたつ石垣の上は機動隊の監視所で、そこから警官が数人たえず双眼鏡で会場をみわたしている。

 八月七日の開会式のとき、二〇〇〇人ほどの参加者の先頭にたって行進したのは、世界自由人連合の岩倉正仁がつくった、鉄パイプ、チェーン、ヤカンなどの一人乗り木炭蒸気機関車「ゼロモギラ」号だった。それとならんで、もうひとつ人気を集めたのは、福岡ベ平連が九大構内からはこびだした米機ファントムの残骸の一部である。大学法強行採決に抗議して、桃山学院大教授をやめたばかりの、反博協会代表山田宗睦は、開会式でつぎのようにのべた。

 ――このファントムの残骸と手製の蒸気機関車はどちらも鉄くずのようにみえるが、みごとに万国博とハンバクを象徴している。一方は巨大な国家権力がつくりだしたきたない武器であり、もう一方は無名の人の手づくりによるたのしい作品だ……。それにつづいて、小田実も、万国博が国家権力と独占資本のつくりだした官僚制のピラミッドであるのにたいして、反博を多くの人が横に手をつなぐデモのなかから生まれた、民衆のための広場としよう、と演説した。

 だが、わたしは会場を一巡して、当初からの危惧と期待が、ほぼ予想どおり的中したのを感じた。パネル展示によるキャンペーンは三里塚闘争、大村収容所解放闘争、家永訴訟などの切実なテーマをあつかったものをふくめて、一般に古くさく貧寒にみえた。「反戦ギャラリー」の設営にかんしては、わたし自身も相談にあずかったのだが、あつまった作品はキューバの反戦ポスターのほかごくわずかで、いっそ全然ない方がいいくらいだった。それにたいし、テントと展示形式を独特なテーマに結びつけて、人びとにパースナルに深く語りかけることに成功していた、いくつかの館があった。たとえば「らいの家」は、全国ハンセン氏病患者からあつめたハガキの便りを、小屋いっぱいに貼りだして、ハンセン氏病の問題をヴェトナム民衆の問題と同じ次元でとらえるよう要求している。夜間中学生のテントは、教育制度と労働の両面から差別と疎外をうけているかれらの苦悩の実態をつきつけている。またキリスト教館は、万国博キリスト教館の偽善と堕落をするどく批判しながら、反戦と変革の行為をとおしてのみ伝道がなされるという立場をつよくうちだしている。

 一方、反博の実質を形づくったのは、会場のあちこちにおこる大衆討論の渦であった。メイン・テントで連日ひらかれる市民大学は、有名講師を迎えての講演会形式に終始したが、そのほかにボール紙の壁にかこまれ、ゴザの上に観客をすしずめにするテント劇場パンパク座、広場のはずれにベニヤ板に白い布を張っただけの映画館、高石友也や東京フォーク・ゲリラをかこむ反戦フォーク・ソングの輪、中国文化革命や幸徳秋水の大逆事件の政治講談をきかせるハソパク寄席などがあって、いたるところで観客や聴衆と出演者の直接の対話がはじまる。ひとりの学生がマイクをもってしゃべりはじめると、たちまち人だかりして討論の輪が生まれ、シュプレヒ・コールで会場をねり歩くデモ隊もたえない。わたしの知りあいの一学生は、わたしの顔をみるなり「反バクなんて、何ですかこれは。たるんでますよ」といったかと思うと、十数人の隊列を組んで、「ハンバクのサロン的ムードを自己批判しよう」とよびかけて歩いた。いいだ・ももや鶴見良行が「自己批判のシュプレヒ・コールなんてはじめてきいた」と笑った。

 二日目の入場者は、事務局推定でのべ一万人、そのなかには確認されただけでも、六〇人以上の私服がまぎれこんでいたといわれる。三日目の市民大学で講演した鶴見俊輔によると、講演をきくために家からかよっている人や、講演をするためにホテルに泊って会場にでかけてくる人は「市民」であり、テントのなかに寝泊りしている人は「土民」だ。両者の対決では、「土民」の方が勝つのが当然だ、という。じじつ、反博そのものへの造反は、テントにたむろする「土民」のあいだから、いつも探夜におこるのだ。

 造反の第一波は、第一日の深夜、日中友好商社の物産展示をめぐっておこった。会場で最大のスペースを占めるかれらのいくつものテントには、毛沢東語録、民芸品、カンヅメ、装身具、万年筆、中国酒、ギョウザ、シューマイ、ハチミツなど中国製晶がずらりとならんでおり、日中友好協会はハンバクを営利の場にしている、見本市と反戦運動と何のかかわりがあるのか、などとはげしい批判をあびた。結局、日中側が反博の認識をあやまっていたことを自己批判し、テントのスペースを縮小してケリがついた。

 造反の第二波は、「ホット・ドッグ論争」とよばれる。反博事務局は会場内にいくつかの売店を用意していたが、初日からホット・ドッグ屋の小型自動車が入りこんで、かなりの売りあげをあげていた。事務局は売店の売りあげがおちることをおそれて、再三立退きを要求したが、十数台の小型自動車は動こうとしないため、八月八日の夕方、七名の制帽警官が会場にたち入って、ホット・ドッグ屋を排除しようとした。しかも、警官を導入したのは、西川と名のる事務局聞係者だったというので、事務局の責任を追及する大衆討論がはじまった。事務局の官僚的態度にたいする批判は、反博の自発的参加の原則へ、さらに自主警備の必要へと発展する一方、八日夜のホット・ドッグ屋追いだしの決議は、九日の市民大学でもういちど論議の末くつがえされ、同じ労働者として会場内での営業がみとめられることになった。ホット・ドッグ屋の組合はこの決定に感謝して、反博協会に一万円寄附したという。

 警官導入の問題は、高石友也らの出演するフォーク・イン・ナイトにも波及して、反戦運動と歌うこととの関連をめぐる徹夜討論に発展した。新宿西口広場の主役である東京フォーク・ゲリラが、警官導入にも無関心で歌いつづけられるプロテスト・ソングに疑問を呈したのにたいして、高石らは「自分にとって歌うことがすべてであり、それが人間の解放、広場の創出につながる。東京フォーク・ゲリラの西口広場での行動は、警察にたいする挑発ではないか」と反論する。さらに東京の連中は、高石らを「商業主義」「ステージ派」と批判し、あくまで歌うことと行動の結合を主張した。

 これらの討論は、反博という空間も、国家権力や商業主義の埒外ではありえず、体制に支えられた疑似的な解放区ではないか、という反省をよびおこした。したがって、日大全共闘、声なき声の会、東葛ベ平連などを中心とする造反グループは、事務局が設定した形式とわくをのりこえ、参加者の討論のエネルギーのなかから反博の真の意義をとりもどそうとしたのである。たとえば、九日の市民大学は、参加者自身によって大衆討議にきりかえられ、市民大学の入場料徴収は本質的に誤りであることが確認され、それにかわって予想される約百万円の赤字を解消するため、全参加者の自覚と責任によるカンパが決議された。また九日夜の朝鮮人問題をめぐる徹夜討論会では、反帝闘争をとおしての朝鮮人との連帯という公式を語る日本人青年にたいして、在日朝鮮人や華僑の青年たちが、「おれたちは同情なんかほしくない」「日本での身分の安定なんて求めていないぞ」とどなったのち、抑圧され差別されてきた実情を堰をきったように語りつづけたそうだ。こうして無数にわきおこった批判と反批判の対話の渦こそ、反戦運動の大きな転換を求める、痛苦の突出部だったといえる。

 八月一〇日、キリスト者反戦の組織するデモ隊約一五〇人が、会場をでて森の宮駅の方にむかう途中、警察の挑発にあって一人が逮捕されるという事件がおこった。会場から二〇〇〇人ほどの参会者が抗議にかけつけたとき、日大全共闘の学生たちが「官憲の挑発にのるな、会場へもどれ」と説得してことなきを得た。同じ日に会場でハプニングを演じたゼロ次元の加藤好弘は、翌朝車で会場をでたとたん、東京で釈放されたばかりなのにふたたび任意出頭を命じられた。これらのできごともまた、反博会場の内と外の関係について、あらためて考えさせるきっかけとなったのである。それらの問題について全参加者に訴えつづけた、姫路ベ平連の向井孝らの発行するガリ版刷りの新聞、『日刊ハンバク』の役わりもみのがせない。

 やはり八月一〇日、北海道から沖縄までの参加者を大阪市労働会館にあつめて、ベ平連の全国活動者会議がひらかれた。そこでは、各地の反戦運動の状況が報告され、さまざまの新しい方法が提案された。(1)米軍基地や自衛隊にたいする闘争の多様化。たとえば米子ベ平連では、自衛隊の公開日に反戦風船をこどもにもたせて入隊し、横須賀ベ平連や宇治Mアンポ社では、フォーク・デモを先頭に基地に進入する計画をたてている。埼玉ベ平連や大泉市民の集いでは、朝霞基地にたいして反戦放送をおこなっている。(2)同時多発小規模デモの提案。南大阪ベ平連では、一町内を反戦解放地区として、少人数のデモと集会をくりかえしながら、住民の意識の変化をアンケートで調査しているが、このようなデ

モを各町内で同時におこなうことによって、機動隊の警備を分散させる方法が提案された。(3)地域ごとの反戦運動の連繋強化。千葉ベ平連は、法政大ベ平連と協力して、三里塚闘争のための援農組織をつくりだそうとしているし、愛知県や北陸地方には、ベ平連連絡会議が生まれている。さらに学生、反戦青年委、ベ平連をふくむ地域全共闘結成の動きもある。(4)高校生運動の活発化。静岡県の掛川西高では、アスパック闘争に参加した生徒の処分問題をめぐって、果敢な闘争がつづけられ、神奈川県の江南高校では沖縄研究会や反博参加の生徒が圧迫をうけている。大学闘争の高まりに呼応して、教育の国家統制にたいする高校生の抵抗もひろがり、反博会場では連日高校生だけの討論会がつづけられ、全国高校生闘争宣言も準備された。(5)反戦運動の情報網に関する提案。長野ベ平連からは、資料交換センターをもうけようと提案され、静大ベ平連はアマチュア無線のネット・ワークで、全国に反戦ニュースを流そうとよびかけた。(6)「広場」の創出。新宿西口広場や京都の橋の下大学を典型として、市民が自由に集会や討論をおこなう、「広場」をどうつくるかが議論された。(7)救援組織の確立。反戦運動の高まりとともに、弾圧もつよめられているので、米子、埼玉では地方独自の救援センターがつくられようとしている。

 この活動者会議では、今秋の運動方針として、(1)一一月の佐藤首相訪米阻止にむけて、一〇月から「高原闘争」を展開し、反安保・沖縄奪還の市民デモを全国的規模でくりかえす、(2)一〇月中に全国縦断反戦キャラバンをおこない、各地ベ平連の横のつながりをつよめる、(3)労働者のゼネストの条件をつくりだすため、市民共闘の態勢をつくりあげる、(4)一〇月に人民国会をひらき、人民がまもらない法律を指定する、(5)外国にも反安保のアピールを送り、国際的な共闘態勢をつよめる、などのことを確認した。

 だが、反博への最大の造反は、全国活動者会議の報告がなされた一〇日夜の深更におこった。反博の意義の総括と、最終日の夜に予定されたデモをめぐって、鬱積した批判と欲求不満が爆発したのだ。五日間の日程の最後に、結集されたエネルギーをデモで表現することには、おそらくだれも異存がなかっただろうが、事務局は六・一五の大動員を大阪で再現しようとはかり、「十万人の御堂筋デモ」のスローガンを一方的に発表していた。しかもこのデモは、全体を六梯団に分け、先頭に学生と反戦青年委員会、つぎにふつうの市民、最後が人びとに花をくばるフラワー部隊や、道ゆく人びとの参加をさそうフォーク・ゲリラがくるという。だが、反博全体の企画に、参加者の多様な自発性を生かすための明確なマスター・プランが必要だったとすれば、その帰結としてのデモの目的、編成、スタイルこそは、徹底的な大衆討議にゆだねられるべきだった。地べたに車座になっての徹夜討論で、批判者たちは二日の市民大学を総括集会に切りかえることを提案したが、事務局はそれを拒否することも承認することもできなかった。そこで造反派は二日午後、市民大学のテントを占拠する形で、総括集会をひらこうとしたのである。

 羽仁五郎、井上清、小田実、市民大学に予定された三人の講師をタナあげにして、延々六時間にわたる総括会議では、つぎのような発言がつづいた。――ぼくはこの場所になぜ来たのか。ぼくにとって反博は反戦のための万博ではなく、アンチ・万博だった。しかしここに来て、ぼくはなんら創造的なことをなしえなかった。この総括会議さえ、事務局批判とデモでかちとられたのだ。ここは権力との緊張関係がまったくない疑似解放区で、警官も事務局員の許可をとってはいってきたという。この柵のなかはベ平連によって確保され、外に出てゆくことを押えられている。そのなかで、たたかっているもの同士がカンパをだし、商品を売買しているのはおかしい――ぼくらは西口広場と万博の関連を十分つきつめることができず、かえって反博のために西口広場奪還をおくらせてしまった。固定した会場を設定すれば、それだけで闘争に負けてしまう。西口広場のような流動的な広場をつくることなしに、反戦運動はやれない。――六・一五以来市民運動は発展と分解の可能性をはらんでいる。この問いをベ平連全体で受けとめることが、ぼくのここへ来た動機のひとつだ。さらに万国博が大国主義、商業主義、技術主義の場であるのにたいして、全国の反戦運動の文化創造の方向を明らかにすることだ。会場に来て、この第二の要素がきわめて貧弱だと感ずる……。

 こうして、討論はベ平連の運動の体質にたいする検討にまで発展した。声なき声の会の高畠通敏は、つぎのように語った。「反博は反戦という名の商品を万国博とおなじスタイルで売り出し、受動的な観客の動員数で成功度をはかる、民青的論理におちいっている。ベ平連はあらゆる大義名分とだきあわせになった、日共風の幅ひろい民主主義を否定し、自律的小集団を核として出発したはずではないか。自発性尊重の原則は、個人が自分をとりまく制約をはねのけるためには有効だが、そこから先あまり役だっていない。とくに反博は全体の理念がアイマイなまま、関西ベ平連が設計管理を請負い、量としての群集をあつめて興行としてやってきた面が否定できない。そこに無意識のうちに、体制的なものが入りこんだのだ。事務局批判にたいし、自発性の名を使ってきりかえし、参加者ひとりひとりが創意を発揮してべつの方向をつくりだせ、というのはまやかしだ。事務局は全参加者をひきこんで自主管理にもちこみ、みずからは手をひくようにすべきだった。今日のデモに反博の理念がどう生かされるのか、それが明確にされなければ、声なき声の会は参加しない」

 日大全共闘の学生もいった。「ぼくらが反博にあつまったのは、各地の反戦、反安保の経験を交流するためだ。多くの討論がおこなわれ、対立点を明確にしながら連帯をつくりあげる点で有効だったが、この成果があらわれるのは現在の反博をこわしたときだろう。反博が体制に守られた展示会になっているのは、敵にたいするたたかいが思想的に総括されていないからだ。反博がお祭りでしかない以上、大衆討議ぬきの今日のデモもお祭りでしかない。ぼくらはベ平連に全共闘運動のひとつの源泉をみてきたが、自発性と統一性の名のもとにすべてをのみこんでゆく市民運動は、限界にきているのではないか。大学べ平連のなかは、反戦・反安保には熱心だが、学園のバリケード闘争には無関心という形で、街頭的な限界もあらわれている。われわれは内ゲバをも辞さない討論と対立のなかからのみ、強固な連帯が生れると信じている」

 それにたいして小田実は、つぎのように答えた。「ベ平連が出発したとき、日本の平和運動が何でもかんでものみこんでゆくことに反発し、私たちは安保条約の問題さえとりあげず、安保賛成、ヴェトナム戦争反対の人さえ仲間にふくんでいた。だが、今年二月の集会で、安保や沖縄の問題をとりあげるのに、反対するものはなかった。四年間にやめていった人もあるが、やめない人のなかに運動の根があり、人間は努力によって変るものだというのが共通の原則になる。脱走兵に直接タッチする人もあり、脱走兵にタッチするのはいやだが、それを支援する人を支援しようという人もいる。デモにさえ加われない人をどうするか。さまざまの段階の行動を、自分の意志と条件でたどってゆくことが重要だ。沖縄でストの犠牲者を救援し、再就職させる態勢もつくりたい」

 吉川勇一も「ベ平連には綱領、決議の形での思想的原点はないが、全共闘と同様、行動によって思想的原点を日々つくりだしている。これが自分の獲得した生活の基盤を、原爆やジェット機から守るという、六〇年安保闘争における市民運動とはちがった質をつくりだしてきたことは明らかだ。学生は学園に、反戦青年委は職場にといった発想は、かえって街頭と職場をきりはなしてしまう。大学ベ平連を一概に街頭的ときめつけるのはまちがいで、じじつ多くの学園闘争に積極的に介入してきた」と反論した。

 だが、学生たちは執拗にくいさがる。――小田、吉川はベ平連の内部で、量から質への転換がいかにして可能かに答えていない。デモに加わっても、デモには相互批判がないから、質的転換はおこらない。「何でものみこんでゆく」という問題もそこに関連する。反博では討論の広場すらないという自覚から、相互批判の場が参加者自身によってつくられた。それを歓迎するだけでいいのか。関西ベ平連の山本健治も、反博事務局員としての自己批

判をこめて、つぎのように語った。「四・二八、六・一五その他で多くの人をデモに結集し、新聞にも書きたてられるようになったが、量の拡大がわれわれ自身のつよさになっていないことに気ついた。七月二〇、二一日、梅田地下街に坐りこみ、『警官帰れ』のシュプレヒ・コールだけの非暴力直接行動に、その量がたえられるかどうかをためした。何度もごぼうぬきされたが、警官隊は結局あきらめて帰った。多数の人をあつめるため、半ばプロモー

ター的にアトラクションを組むのが、昨日までのぼくらであり、今の小田、吉川であり、それがベ平連の手づくりの論理をおおいかくしてきた」

 さらに鶴見俊輔もまた、ベ平連運動の痛切な反省を語った。「ベ平連が大きな花火をうちあげて、全国の大衆をあつめる力をもつにいたったことを評価する。だが、そうなると、デカければデカいほどいいという量への信仰が生れ、それにたいする解毒剤を運動のなかにつくっておかないと、既成左翼と同様、支配、被支配の関係がでてくる。小田実はすぐれた組織者で、小田のゆくところベ平連ができるが、こういうべ平連は中村錦之助ファンの組織みたいで力が弱い。反博のなかでも、夜間中学生やらいの家″の展示はすばらしく、興行悪に染まらぬ解毒剤があり、尊重したい」

 こうして一〇〇〇人をこえる大テントでの討論は熱っぽくつづき、そとではデモにあつまった群集のシュプレヒ・コールや歌声が高まったが、なかでは「デモのスケジュールを既成事実化するな、反博の意義についてもっと論じあおう」という発言がくりかえされた。結局午後七時半になって、デモに加わる人は出発し、討論をつづける人はのころうと小田実がよびかけ、反戦鉾(ほこ)やフォーク・ゲリラ、フラワー部隊をふくむ、一万以上の人びとが御堂筋にむけて出発したのち、二〇〇人ほどがテントにのこって討論をつづけた。

 たしかにここには、反戦運動の量的拡大と質的高揚、あるいは大衆動員の組織力と手づくりの運動論理の亀裂が、大きく露呈されていたといえる。反博事務局やべ平連の全国的なリーダーたちに、参加者からのつきあげにたいするやや官僚的な対応がめだったとすれば、声なき声の会などのグループには、ベ平連が学生や反戦青年労働者の積極的参加によって尖鋭化する以前の、市民的コンミューンにたいする郷愁があり、日大全共闘にも学園を追われた状態からする、一種のリゴリズムがなかったとはいえない。だが、問題は多様な自発性の連合のなかに、運動全体を設計し推進し管理する指導性の核を、どのようにしてつくるかに帰着するだろう。同時に七〇年闘争にむけての高度に政治的課題に、文化革命的な展望をどう結びつけるかの難問を、反博は回避するわけにはいかなかったはずだ。

 デモ隊が出発したあとの討論で、わたしの印象に深く刻まれたのは、「らいの家」をつくった青年の発言である。かれは青森から沖縄まで、一万枚のハガキをハンセン氏病者からあつめて展示した。「癩のなかにヴェトナム民衆や戦没農民と通ずる、人間実存の契機をみいだしたかった。観客のうち三人だけ、ハガキをはがしてもって帰ってもらったが、かれらが癩者に手紙をかいて相互のあいだに共有できるものが生まれれば、博覧会形式のなかに親密なコミュニケーションが生まれるかもしれない。ヴェトナム戦争反対も、集会や街頭デモの形でなく、反博の会場にアメリカ脱走兵が逃げこみ、かれらを守らなければならなくなるという形で、人間の生命への問いかけの場となったときベ平連には力ができるだろう。同様に癩の問題も、政府への政治的圧力としてではなく、とざされた人間の問題を多くの人につきつけ、ともに住みたいという要求をよびおこして、はじめてそれを隔離している国家や政治と対決する力になるだろう」

 午後九時ごろ、この会場に右翼が襲撃してくるという情報が入り、学生たちは警備にあたった。小田実が、こういうときに整然と出てゆくのがいちばん安全だ、とよびかけ、その夜のうち帰京する必要のあったわたしも、いっしょに帰路についた。だが、あとできくと、警備から帰った学生たちは、小田らに裏切られたと感じて、涙をうかべながら心情を吐露しつづけ、小田も翌日、日大全共闘の学生とあらためて話しあうことを約束したらしい。反博の五日間をとおして露呈された傷あとと亀裂は意外に深いが、同時にまた反戦運動全体が大きな転換をせまられていることも明らかになった。この傷あとと亀裂の認識をとおして、いかにその転換をなしとげるかが七〇年といわず、この秋にかけての課題だろう。

                            (『現代の眼』 6910月号)

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