85 「橋の前で戦車を止めた話」についてお知らせください。  (匿名の中学生)  送信日時: 2004年 9月 11日(土曜) 22:53:33 (2004.09.12掲載)

 歴史新聞を作るという授業で(ベトナム戦争の反戦運動)を調べてます。このメッセージは父のパソコンを勝手に使っているので、匿名希望です。返信は談話室を使ってほしいです。もし、談話室に載せられなければ、無視してください。
 本題ですが、当時、横浜の方で工場の前で戦車を一ヶ月間止めたという話を聞きました。橋の前に座り込んで止めたそうです。その正確な場所や橋の名前など、分かりませんか? そのほかにも、署名活動のことなんかも知りたいんですが、できる範囲で結構です。
突然こんなメッセージを書いてすいません。よろしくお願いします。

【管理者より】 お問い合わせの、この出来事は、1972年、神奈川県の相模原市及び横浜市でのことでした。
 一言で言えば、崩壊寸前の南ベトナム政府軍を支えようとしたアメリカは、日本の相模原市にあった米軍相模補給廠基地から、米軍の戦車その他の戦闘車両を運び出し、これを南ベトナムに送ろうとしたのでした。これに対し、日本の野党、労組、反戦市民運動などが反対し、輸送を阻止しようとしました。「橋の前に座り込んで止めた」というのは、その中の一つにすぎませんが、かなり有名になったのは、横浜市の飛鳥田一雄市長(後に日本社会党の委員長にもなった)が、道路交通法の規定を適用し、横浜市内の村雨橋を輸送車が通過することを重量制限違反だとして拒否し、市の職員や自動車などを橋に派遣して、実際に通行を阻止したからでした(72年8月5日)。自治体が、このようにはっきりと米軍の行動に反対の措置をとったことが、大きな注目を集めたのでした。しかし、日本政府は、米軍に全面的に協力し、閣議は車両制限令を改訂してまで、戦車の輸送を可能にさせましたし、戦車の前に座り込んだ多くの市民や労組員、横浜市の職員などが警察によって逮捕されました。機動隊の暴行によって、重傷者を含む多数の負傷者も出ました。戦車の前に身を投げ出して逮捕された「ベ平連」の青年4人は起訴され、その裁判は、ベトナム戦争がアメリカ・南ベトナム政府の完全な敗北によって終了した後まで続き、4人とも、有罪の判決がおりています。
 こうした日本の反戦運動による戦車の輸送阻止は、「一ヶ月間」ではなく、100日間に及んだのです。国の解放と統一を望んで闘っていたベトナムの人民は、この日本の運動に大いに勇気づけられたといっており、2年前には、ベトナムの代表団が、相模原市を訪れ、当時の日本の反戦運動の人々と交流もしました。
 この運動についての参考文献もたくさんありますが、一番おすすめするのは、
『戦車は止まった 市民の力――1972年相模原の100日』という絵本(文=にしお けんじ 絵=やまだ ひろみ A4版横  43ページ 出版社=アゴラさがみはら出版、定価=1,000円、2002年8月5日出版)です。絵本だといって、馬鹿にしないでください。この相模原での戦車を止めた運動が、よくまとめられており、知らない人でも、この運動の大体のことがわかるようになっている本です。この本についての詳しい紹介は、このサイトの「ニュース」欄2002年のNo.233を見てください。
 
このサイトの「ベ平連年表」1972年〜73年の欄から、この運動に関係する項目だけを選び出しても、次のようにたくさんあります。かなり項目は多いようですが、実際の動きは、もっともっとたくさんありました。
 「そのほかにも、署名活動のことなんかも知りたいんですが……」とのことですが、この質問は、漠然としすぎていて、何を答えていいかわかりません。もっと具体的に質問してください。ベトナム戦争に反対する10年以上にわたる運動には、無数の大規模、小規模の署名運動がさまざまな形で行なわれ、とても一言で言えるようなものではありません。(吉川記)

1972年5月
18 米軍スポークスマン、16〜17日の北爆は390回と発表。●岩国の米海兵隊基地からA-4スカイホーク2個中隊、南ベトナムのビエンホアヘ移駐(19日米国防総省、これを確認、またM-48戦車の日本からの空輸も認める)。
22 ニクソン米大統領、ソ連を訪問(30日まで)。●南ベトナム政府軍の装甲車、米軍相模補給廠に搬入。●沖縄へ自衛隊31人、初配備。
23 米国防総省、北爆目標に発電所、工業施設を加えると表明。●福田外相、嘉手納基地へのB-52飛来について、ベトナム爆撃後ならかまわない、補給・弾薬輸送も協議の対象外と答弁。
25 米軍、相模原補給廠から戦車5台を搬出。相模原べ平連、社会党など抗議行動。
31 午前零時すぎ、和光大べ平連など30名、相模原基地前で105ミリ自走砲6台の搬出を阻止。機動隊が排除。
1972年6月
3 べ平連第81回定例デモ。清水谷→日比谷。250名。●在日米軍司令都、M-48戦車が米陸軍相模補給廠で修理・整備されてべトナム戦域に送られていると公表。
25 タイグエン製鉄所などを北爆(スマート爆弾使用)。●「6月市民行動」主催「相模原米軍補給廠をとめろ1一デモ」。13時半、児童公園→基地正門、300名。
1972年8月
4 横浜、村雨橋で相模原補給廠からの米戦車を社会党のピケが阻止。
5 横浜ノースピア入口、村雨橋で相模原補給廠からの米軍戦車、社会党のピケに阻止される。
6 村雨橋で阻止された米軍戦車、相模原に引揚げる。
8 ハノイ放送、日本の相模補給廠の米戦車輸送問題で田中政府を非難。
14 べ平連、大泉市民の集い、ちょうちんデモなど市民団体、相模原補給廠ゲート前に常設テントを設置。●夜、相模原補給廠から戦車搬出。阻止する市民らを機動隊が排除。市道路課職員など41名逮捕される。
21 横須賀の米空母「オリスカニー」から離脱した水兵口ーレンス・ザンバニー二、相模原市長を訪問、戦車輸送阻止を激励。のち記者会見。夜、横須賀べ平連の松田正眼師と基地ゲート前でハンスト開始。
22 午前2時、相模原ゲート前の市民テントを機動隊が急襲、ザンバニー二1等兵を逮捕、松田正眼、機動隊の暴行で重傷、入院、一時危篤状態となる。●岡邦俊弁護士、鶴見良行、吉川勇一、相模原警察署に抗議。
23 相模原に「ただの市民が戦車を止める会」(梅林宏道)発足。
30 べ平連、大泉市民の集い、ちょうちんデモの会など共催「弾圧はねのけ戦車をとめろ! 8・30市民行動」、デモ。19時、相模原児童公園。200名。●「ベトナム戦争を支える安保をつぶせ!6月行動」を改組し、新たにべ平連など市民団体で「戦車をとめろ!市民行動」を結成。
31 相模原「ただの市民が戦車をとめる会」、毎日デモを開始。毎日19時、旧児童公園→ゲート前。
◎この月、65年2月からの7年半に米軍が投下した爆弾総量は755万8千トン、第2次大戦中の連合軍の投下量205万6千244トンの3.5倍。
1972年9月
4 べトナム留学生有志、相模原市長に面会、戦車搬出阻止を申入れ。
8 大平外相、衆院建設委で、相模補給廠での米軍によるNATO向け戦車修理は「安保条約違反だが黙認」と答弁。
10 ハノイ各紙、日本の戦車翰送阻止行動について「最強力な支援」と強調して報道。
13 南ベトナム軍の火炎放射自走車、横浜港に陸揚げ。●相模原「ただの市民が戦車を止める会」、市長と対話集会。
14 河津相模原市長、米軍装甲車輸送で市道通行を許可。
15 「戦車をとめろ!市民行動」主催「M-113をとめろ!市民デモ」。19時、矢懸公園→ゲート前。
16 飛鳥田横浜市長、米軍装甲車の市道通行を許可。
17 「戦車をとめろ!市民行動」主催「M-113をとめろ−市民デモ」。19時、矢懸公園→ゲート前。
18 米軍、相模原補給廠からM-113を再搬出しようとし、市民数千名が徹夜でゲー卜前に阻止坐り込み。72-9-18sagamihara.jpg (11124 バイト)

(写真は相模原での徹夜デモ。クリックすると大きな写真が見られます。戻るには上部のツールバーの「戻る」を、netscape の場合は「ジャンプ」の中の「戻る」を、押してください。)
19 機動隊が坐り込みの市民を排除し、M-113強行搬出。べ平連の4人、輸送車の前に坐り込み逮捕される。●相模原ゲート前のテント村、機動隊により破壊される。●大平外相、参院内閣委で、戦車修理間題で@米軍所有戦車が修理後に南ベトナム軍に供与されても、これは安保条約によっては排除されない、A修理後、米本土その他の地域の米軍部隊に輸送されても問題ない、と答弁。
24 「戦車をとめろ!市民行動」主催の相模原基地反対集会。デモ。比丘口公園。
25 相模補給廠からの装甲車搬出をまた強行。
28 横浜ノースピアから相模補給廠への装甲車搬入を強行。
1972年10月
1 戦車を止めよう!武蔵野三鷹市民集会」14時、井の頭文化会館。ちょうちんデモの会主催。
4 「戦車をとめろ!市民行動」総会。18時、雑誌会館。
12 「戦車をとめろ!市民行動」総会。18時、幡ヶ谷区民会館。
17 政府、閣議で車両制限令を改訂、米軍車両の通行フリーパスを保障。
19 訪米中の大平外相、米首脳との会談で安保堅持、戦車輸送確保を約束。
21 「戦車をとめろ!市民行動」主催「10・21戦車をベトナムに送るな!市民集会・デモ」。14時、坂本町公園→米大使館→日比谷。3,000名。
24 翌日にかけ、相模原補給廠から戦車搬出される。
30 相模補給廠から米M-113兵員輸送車など48台、横浜ノースピアヘ強行搬出。

1972年11月
8 相模原米軍補給廠からM-48戦車、機動隊に守られて搬出。阻止しようとした130名、逮捕される(9日も25台を搬出)。
1972年12月

9 「戦車をとめた4人を支持する会」主催 古物バザー。杉並産業館。裁判資金のための純益約20万円(10日まで)。
1973年5月
11 相模原で戦車をとめた4人(被告は3人)の裁判、第1回公判。13時、横浜地方裁判所。●相模原裁判傍聴人討論集会。15時、横浜勤労福祉会館。30名。

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