102. 横須賀における反戦米兵運動について (新倉裕史) 2011.05.05掲載 )

【担当者】 第25回横須賀ピースフェスティバル実行委員会の発行された『ピースフェスの作り方』の中の、「反基地運動65年史」の年表に、米空母イントレピッド号の4米兵の脱走の日付が1967年10月31日となっています。実際は、これよりも早い10月23日のことで、31日は、池袋の鶴見良行さんの宅で、4米兵の記録映画を行なっていた吉田茂国葬の日でした。それで、発行者の一人、新倉裕史さんにその訂正を報告し、合わせて、この著書の中に多く出されている、横須賀での反戦米兵の活動について、具体的に問い合わせをいたしました。これに対し、新倉さんからは、先の日付の訂正の件とともに、横須賀での反戦米兵について、具体的な英文機関誌のコピーを含め詳しい報告をいただきました。以下を、その報告の部分を、この「談話室」でご紹介しておきます。(吉川勇一)

 横須賀における反戦米兵運動について
……(2)「YOKOSUKADAVID」について。
 創刊号のコピーを同封いたします。「YOKOSUKA DAVID」1号は1970年9月26日発行です(左の写真)。基地内の兵士が原稿を書き、日本人支援グループが印刷したと聞いていますが、詳しいことは分かりません(5月以降に関係者の聞き取りを予定しています)。
 「YOKOSUKA DAVID」は6号(72年12月)まで発行されました。おそらくl〜3号までが、1号と同じような発行体制。4号以後はヨコスカPCSの編集発行だと思われます。
 「YOKOSUKA DAVID」以後、「OFF THE BRJDGE」(73・4〜73・8まで全6号)、「FREEDOM OF THE PRESS」(73・10〜75・3まで全21号)が横須賀で反戦兵士運動の機関誌として発行されました(左の右側の写真)。
 「OFF THE BRIDGE」は「YOKOSUKA DAVID」の改題(兵士たちに「YOKOSUKA DAVID」というタイトルは不評だったと聞いています)。「FREEDOM OF THE PRESS」はベトナム帰還兵の会(VVAW/WSO)ヨコスカ支部の機関誌で、アメリカ本国から派遣されてきたカウンセラーと弁護士が兵士と一緒に編集、印刷したものです(右の写真)。それぞれのコピーを同封します。
(3)横須賀の米兵運動の拠点は「YOKOSUKA DAVID」、ヨコスカPCS、ベトナム帰還兵の会(VVAW/WSO)ヨコスカ支部と変わっています。
「YOKOSUKA DAVJD」は1971年9月にビクトリア良潤さんによって、ヨコスカ基地ゲートに近いロック喫茶「部族」の中に開設されました。
 72年になると、新たにヨコスカPCSの拠点が汐入駅近くのどぶ板通り作られました。最初は「YOKOSUKA DAVID」の看板が掲げられましたが、のちにVVAW/WSOヨコスカ支部の看板に変りました。私たちの運動の前身「ヨコスカ市民グループ」はこの開設に関わった市民によって作られたものです。1階が兵士たちが出入りする拠点。2階が事務所でした。現在、「非核市民宣言運動・ヨコスカ」の事務所は、この2 階です。
 ヨコスカPCSの拠点が完成した後、米国側の運動主体はビクトリア良潤さんから、本国から来た活動家に替わっていきます。ヨコスカではミッドウェイの母港化反対運動が活発化します。           、
 72年10月、ヨコスカPCSで活動するために本国から、マーク、ダンのふたりと宇野さんが横須賀に来ます。73年4月にはベトナム帰還兵の会(VVAW/WSO)ヨコスカ支部が発足し、8月には、マークと宇野さんに替わって、ディックとナンシー(ともにカウンセラー)、9月にはデイヴィッドとキャシー(ともに弁護士)がVVAW/WSOの新メンバーとして横須賀に来ます。1974年6月のミッドウェイ乗艦拒否闘争を支えたのは、上記の4人のメンバーです。
 乗艦拒否闘争の後のVVAW/WSOの新メンバーとして8月にトムとメリトンが横須賀に。75年2月には、トムとメリトンは沖縄に、替わってハリーが横須賀に。そして同年4月には、岩国で反戦兵士となったノーム・ユーイングが新メンバーとしてヨコスカへ。ノームは70年7月、岩国での営倉内反乱に加わり、非行除隊で本国に送り返された後、懲役9カ月の服役後、地域の反戦運動に参加、PCSの活動家として、75年4月に来日しました。
 ベトナム戦争の終結にともなうPCSの財政難(カウンセラーや弁護士はVVAW/WSOのメンバーとして横須賀に来ましたが、財政的にこれを支えていたのはPCSでした)でヨコスカの兵士運動の拠点を終了したのは1975年9月22日。最後の専従者はハリーでした。ハリーも日本で反戦兵士となった青年です。ノーム・ユイングはヨコスカの拠点閉鎖前の9月に岩国へ行きました。
 1975年12月31日、拠点だった1階の賃貸契約を解除。2階をヨコスカ市民グループが事務所として引継ぎます。
(4)1973年6月14日のミッドウェイ乗艦拒否闘争については、1年後の1975年6月14日に発行した「ミッドウェイ乗艦拒否闘争記録集」のコピーを同封します(左の写真)。乗艦拒否闘争後に関連する資料ファイルが盗まれ、またすでに直接支援したアメリカ人活動家はヨコスカを去った後での編集のため、不十分なできですが、唯一の関係資料です。マイケル・ハモンドに関しては、昨年発行した「横須賀から『核密約』問題を考える」のなかで触れましたので(11〜16ページ)、同封します(右の写真)。(ここをクリックすると、このページのPDFで読めます。)
「FREEDOM OF THE PRESS」のVolume ll#9は乗艦拒否闘争の報告号です。

 現在、私たちは横須賀での反戦米兵運動の記録をまとめようと思っています。米兵やアメリカ人スタッフと何年もつき合い、英会話教室もしていたのに、私たちは誰も英語を話せるようにはなりませんでした。見事なまでに片言もダメだったのですが現在は……(3人の)英語の達人が仲間に加わっているので、資料として残された機関誌等の翻訳をお願いできる条件がありますので、なんとか実現したいと思っています。
 現在、横須賀での米兵への働きかけは、月例デモで上記の3名の方が交代で呼び掛けを行っているほか、ホームページで英文のサイトを作ったり、必要に応じてアンケート調査を行っています。……
 77年の小冊子で私たちが掲げたテーマは、反戦米兵支援の経験を自衛官への働きかけにどう生かすかでした。現在それは、自衛官の人権問題というアプローチで、いじめ自殺裁判の支援や自衛官アンケート、総監部での反戦放送、平和船団からの呼び掛け等に具体化されています。関連資料として「憲法9条が自衛官を守っていると考えたことありますか」というパンフレットも同封いたします。…… (「横須賀市民グループ」新倉裕史)

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