627.訃報:の大島孝一さん。2012/09/07掲載) 

 東京女子学院院長で元わだつみ会理事でもある大島孝一さんが8月27日に亡くなりました。95歳でした。葬儀は8月30日に、西千葉教会で行なわれました。ご連絡は、8月29日にわだつみ会を経由して高橋武智さんに連絡があり、高橋さんが葬儀に参加されたそうです。左は2002年9月の写真です。以下 の枠内は、高橋さんからご冥福のお気持ちとともに送られた大島さんの略歴です。

 
 略歴:

 ・初めて大島さんの名前を知ったのは、『農民兵士の手紙』(岩波新書)の編者・岩手農村文化懇談会の一員としてでした。
 ・その後、日本キリスト教団内で戦争協力への反省・方向転換に努力(「教団戦争責任告白」など)。
 ・女子学院院長を14年間つとめる。

 ・靖国問題・天皇制問題などで、思想的にキリスト教界をリードするとともに、市民運動の統一行動にも積極的に参加(「天皇制情報センター」など)。

 ・戸村一作さん亡きあと、つい最近まで三里塚教会に所属、説教をされていた。
 
・最近数年間は、一切の公的活動から遠ざかっておられた。 個人的に記憶に残るのは、北海道で逮捕されたメイヤーズが再来日したとき国際文化会館で開かれた歓迎パーティに出席されたこと。メイヤーズを匿っておられたと推測された。当時の『ベ平連ニュース』に関連記事を匿名で書かれたのは大島さんだったかもしれません。

 

大島さんの訃報は、マスコミにはほとんど出ていないのですが、『日本キリスト新聞』の9月15日号には、以下のように掲載されています。

おおしま・こういち=元女子学院院長。8月27日逝去、95歳。葬儀は8月30日、日基教団西千葉教会で行われた。喪主は妻の静子さん。
 1916年、熊本県熊本市出身。40年東北大学理学部物理学科卒業。福岡管区気象台勤務。その後、東北大学理学部地球物理学教室、岩手大学学芸学部などを経て、66年女子学院院長就任。日本キリスト教団常議員、同靖国神社問題特別委員長を歴任。

 大島さんの著書には、1982年刊の『自己確認の旅』(新教出版社)、1985年刊の『戦争のなかの青年』(岩波書店)などがあります。
  以下は、『朝日新聞」2000年4月24日に掲載された大島孝一さんの文章です。(左は、女子学院の内庭です。)

 「自分と出会う」
  
    女子学院中高元校長 大島孝一 
 1995年12月、初めて中国・南京を訪ねた。その時、宿舎に旧知のH博士の訪問を受けた。
 久しぶりの挨拶ののち、あの南京大虐殺のとき、私がどこにいたか、と問われた。'16年生まれの私は、事件のそのとき、既に満二十歳の徴兵適齢に達していたので、H博士は日本人である私に軍隊関係があったかどうかを尋ねようとされたのであろう。
 事件当時の'37年は、別の意味で私にとって忘れられない出会いがあって、私はそのことを語った。いわば、アリバイを説明したことになるのだが、博士「それはよかった」と満足げであった。
 '37年4月、私は仙台の大学に入学した。その頃は、「在学徴収延期」の適用によって、卒業まで徴兵が猶予されるのであった。ところで、同じクラスに中国―当時、中華民国―からきた留学生のC君がいて、彼と私はクリスチャンであることをお互いに知り合って、親しく話をするようになった。上海での日本の軍隊―それは、海軍陸戦隊が主であったはずだ―が非戦闘員である住民に対してどんなに非道なことをふるまったか、彼は縷々(るる)と語った。
 私は、残虐行為の数々を聞くに堪えなかった。日本の軍国主義を批判するだけの見識こそなかったが、私はC君の話が決して嘘でも誇張でもないことを信じていた。しかし、私は彼の物語に同意する代わりに、「悪かった、ごめんなさい」と、日本の軍隊の非行を謝るつもりで口走った。ところが、C君は、「きみが謝ることではない、きみは僕の話をもっとよく聞いて欲しい」と私をたしなめた。
 そのとき、謝ったのではなく、実は彼の口を封じようとした私を彼は許そうとしなかったのだ。
 その12月になって、「南京陥落」を祝う提灯行列が仙台の町でも繰り広げられた。私はその夜、C君の下宿を訪ねて、町の騒ぎをよそに、遅くまでいくばくかの議論をした。さきのH博士の質問に答えたのは、そのときの場面であった。
 C君は、在学中ばかりでなく卒業後も大学に残って、戦時中も戦後もさまざまな苦労を強いられたようだ。私と彼とのつきあいは、当初は喧嘩をしたり、仲直りしたりという関係が続いた。
 私はC君のいわばメッセージを十分には受け止めることができなかった。私はありきたりの日本人と同じく、民族や国家にこだわることが多く、素直に彼の言葉を聞く耳を持とうとしなかった。彼は、中国人であることのアイディンティーを保持しつつ、国境を超えた人間同士の交わりを求めていたのではないだろうか。 いま、私は若い友人たちの勧めで戦後補償を求めるグループのいくつかとつきあっている。
 ときたま見聞きするのは、例えば韓国のハルモニ(おばあさん)が騙されていわゆる「従軍慰安婦」とさせられた無念と憤りをぶっつけても、日本の官僚は無表情に聞き流し、首相や閣僚などが、冷ややかな言葉で「謝罪」めいた発言をすることがある。
 しかし、日本軍による被害を受けた人たちは、その空疎な言葉の欺瞞を直感的に感じ取るのである。それは、「悪かった、ごめんなさい」と言って友人の口を封じようとした私の態度と異なるものではなかった。
 日本政府が一貫して戦争責任を認めようとしないのは、ちょうど私が友人の忠告を聞くのを避けようとした心理そのものであることに気がつく。
 私たちの戦後補償を求める運動は、私たち自身の変革を促すものである。 (以上)

また、以下は、『自己確認の旅』に掲載された「核兵器とキリスト者の平和運動」の全文で、PDFファイルです。ここをクリックしてください。

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