621.軍事評論家、藤井治夫さんが3月2日に逝去。2012/03/31掲載) 

 軍事評論家の藤井治夫さん(1928年生)が3月2日に逝去されていました。マスコミを含め、ほとんどの報道がなく、お伝えすることが遅くなりました。 哀悼の意を表します。以下は、唯一、「9条連」のニュースのみに掲載されていた訃報で、全文をご紹介します。

  訃報
 9条連共同代表のお一人である藤井治夫さんが、3月1日の朝、脳出血で突然倒れ、3月2日午前0時30分逝去されました。享年84歳でした。
 藤井さんは1960年代に軍事問題の研究をはじめ、多くの著作を発表しました。
 『密約――日米安保大改悪の陰謀』(2000年創史社)、『トップシークレット 日米共同作戦の徹底研究』(1992年光人社)、『戦争がやってくる』(1991年筑摩書房)、『国家秘密法体制』(1989年日本評論社)などがあります。
 『密約』のエピローグで藤井治夫さんは、イギリスの歴史家トインビー博士の講演を引用して、「原子力時代のデモクラシー」について鋭い指摘をしています。
「原子力時代に生きている私たちは、毎日、洪水のような情報に埋もれ、……核時代あっては、暗やみをもってではなく、眼がくらむほどに明るい光線をもって真実がかくされる。代議士たちはどんな質問を本当にすべきかを知ることが、ほとんど不可能になった。なんでも分かっているようで、じつは強烈なライトで眼がくらみ、いちばん大切なことが見えなくなっていないのか」 と。
 軍事問題評論家として、多忙な毎日の中で、私たちに多くの示唆を与えて下さった藤井治夫さん。いつも暖かい眼差しで、9条連結成当時から一緒に歩んで下さった藤井治夫さん。毎月の事務局会議に熱心に足を運んで下さった藤井さんの社会変革への情熱に、あらためて敬意を表します。そして深く感謝します。
 安らかにお眠りください。

    (『世界へ未来へ 9条連ニュース』 No.207 2012年3月20日号より)

 藤井さんは、山口経済専門学校(現山口大学)を中退し、和歌山県地方労働組合評議会専門委員などをした後、上京し、日本共産党の機関紙『アカハタ』の編集部におり、『前衛』で軍事評論を載せたなどがあり、その当時から軍事評論、自衛隊問題などに詳しく取材、研究していました。その後、共産党から離れて、独自に軍事問題研究に専念、1975年には、小山内宏さんらと軍事問題研究会を設立し、事務局長となり、雑誌『軍事民論』を発行して、主筆となりました。また、1970年夏からの、ベ平連が中心とした小西誠反軍裁判(新潟地裁、第一審)では、特別弁護人になり、71年秋の新潟地裁での裁判では、自衛隊を鋭く告発し、「沖縄の民間人虐殺は、軍隊の極限状況における自己暴露であるが、そこにあらわれた――同胞といえども一個の道具だ――とする非人間性・非人民性こそ軍隊の本質である」と証言されていました。
 以下に、『ベ平連ニュース』No.70 1971年8月1日号に掲載された藤井さんの文章をご紹介します。

 

     レア一ド来日と自衛隊
                                        藤井 治夫
 日米共同声明以来一年半にわたる日米交渉のなかで、しだいに輪郭を明らかにしてきた対アジア新戦略は、レア−ド来日によって両国政府防衛責任者間の合意に到達したものと考えていい。
 来日直前の六月二九日に第一三回日米安全保障協議委員会が開かれ、「日本国による沖縄局地防衛責務の引受けに関する取決め」を了承、防衛庁と米沖縄交渉団首席軍事代表カーチス海軍中将との間で取決め書が交換されたことにも示されているように、軍事担当者間の詰めは、すでに十分になされていた。そうした作業のうえに立って、レアードは、日本政府首脳と共同の軍事・政治戦略について協議したのである。そして、レアードは、「訪日の当初の目的はすべて達成した」と満足げな離日談を発表して韓国へ飛び立ったのである。
 かれの「当初の目的」は、なんだったのか。訪日前の六月九日、レア−ドはウエストポイント陸軍士官学校の卒業式で演説し、これについて語っている。すなわち、自分はアメリカが太平洋地域で撤収するにつれて当然求められる日本の極東地域における安全保障上の役割について意見交換も行なうために訪日するのであり、「近い将来、日本が同地域の安全保障について支配的役割を果たすことを期待する」というのであった。
 この点については、離日にさいし自衛隊員向けに発表した特別談話のなかで、レアードがとくに、つぎのように訴えていることが注目される。
 「アメリカは、ニクソン・ドクトリンの下で日本に、引きつづき戦略核抑止力を提供してゆくことを、ここで確言したいと思います。自衛隊のみなさまも、現実的抑止というアメリカの新しい安全保障戦略の下で、統合兵力概念の欠くべからざる一環であることを理解され、日米力を合わせて、太平洋の平和と安全保障の維持に力を貸してゆくべきことを知って頂きたいと思います」
 レアードに随行して来日したブリードハイム国防次官補代理が外人記者にたいして行なったブリーフィングでは、日本が極東の中核の役割を果たすにいたる期間は「一〇年」と算定されている。こ
の背景説明では、日本の役割が通常戦力と核戦力の両面にわたって明らかにされた。
 通常戦力の面では、第一に造船能力による第七艦隊の肩代わりであり、第二に技術開発能力によってアジアの兵器廠となることであり、第三に人的資源を供給できる「潜在力」にもとづく助力である。
 核戦力の面では、第一に「核兵器の有無について議論しないこと」、つまりアメリカの核持込みを容認することが要求され、第二に一九八〇年代初期には日本が核弾頭つきミサイル迎撃ミサイルを搭載した艦船の展開をはかるだろう、との「予測」さえ語られたのである。
 レア−ドの「説得」が成功し、訪日目的が「すべて達成」されたことは、佐藤首相の発音(七月十三日記者会見)で、裏書きされた。佐藤は沖縄核撤去確認にかんする国会答弁をひるがえし、「(アメリカの核のカサの下にいながら、確認させるなどという)議論をするのはどうかと思う」と述べ、アメリカの要求をウノミにしたことを示したのである。
 通常戦力にかんする三つの要請についても同じことだ。第七艦隊の肩代わりについて、佐藤首相は否定している。だが、それは「いまただちに肩代わりはできない」という自明のことを述べたにすぎない。重要なのは肩代わりのためのプログラムなのだ。
 レアードは「日本の造船などの工業力はよく知られているが、(第七艦隊の責任を)肩代わりできる自衛力をつくるにしても数年間かかり、現在の第七艦隊の能力にまで持っていくのにも数年間は
かかる」と、離日のさいの記者会見で語っている。
 これを解読するなら、レアードのいう最初の「数年間」は四次防つぎの「数年間」は五次防とおきかえてよい。つまり海上自衛隊は、四次防で水上打撃力の保有を本格的に開始し、五次防では、その量の面でも第七艦隊に近づくのである。空挺保有量は四次防末二四万七〇〇〇トン、五次防末には三五万トンを超えるであろう。質量のいずれの点でも、第七艦隊の任務の半ばを引受けるにたる戦力となるわけだ。
 中曾根前防衛庁長官は五月三一日、経団連との懇談会の席上、四次防は「五年後の中国の核攻撃力を考慮したものだ」と述べている。四次防公表文書からは、「考慮」した結果の対策を明瞭に読みとることはできない。
 だが、六八年の国会で暴露された秘密文書「三次防技術研究開発計画」には、すでにAMM(アンチ・ミサイル・ミサイル)の研究開発が含まれていた。すなわち六七年度から防衛庁技術研究本部で
所内研究を実施し、七一年度には一億円を投じて研究試作を行なうというのであった。七二年度以降の四次防でこの秘密研究がさらに進展し、五次防段階で実用化の域にたっすることはまちがいない。
 七月八目の『ワシントン・ポスト』紙が、アメリカの核政策が変更され、太平洋地域の核戦力が削滅されるばあい、日本は中国の核戦力の脅威にさらされることになるとして、八〇年代初めには独自で海上に防御用核兵器を展開するだろうと報告したのも、根拠のないことではない。
 自衛隊の現実は、核武装の前夜として重要を、核兵器投射手段の保有、核防御体制の確立が完成の域に近づきつつあることを示している。七〇年代には原子力そのものの軍事的利用が、まず原子力潜水鑑の開発建造から着手され、五次防段階では核弾頭の導入ないし生産が日程にのぼるであろう。        

             (『ベ平連ニュース』No.70 1971年8月1日号)

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