616.鶴見俊輔さんと小田実さんの「歴史的架空対話」も載った共著『オリジンから考える』刊行。2011/12/01掲載)

  岩波書店から鶴見俊輔さんと小田実さんの共著『オリジンから考える』が刊行されました。これには、小田さんの遺作寓話「トラブゾンの箱」も含まれていますが、本の最初には、鶴見俊輔さんによる架空の小田さんとの「対話」という、珍しいかたちの文章が載せられています。この本のカバーには次のような編集者による内容の紹介文が出されています。

ベトナム戦争反対の市民運動(べ平連)をリードし、護憲平和運動(九条の会)の中心として活躍してきた二人の行動的知識人が、民主主義や社会のあり方について本格的に論じあおうとした対話の計画は、作家の死で実現しないまま終わった。本書は、作家小田実が生きていたらという想定の下、哲学者鶴見俊輔が試みた小田実との架空の対話を軸に、時代に吃立する二人の思想家の思想のエッセンスを凝縮した形で収める。絶筆となった作家の未発表の遺作や生前最後の講演の記録、また哲学者の単行本未収録の諸論考で構成する刺激的考察。何を価値あるものと考えるか。生きた思想(実践的知)とは何か。生のあり方を根源から問う洞察の数々は、座標軸が見えにくくなってしまった同時代への貴重な歴史的メッセージである。

  
 

 本書の刊行は11月末、定価は1,900円+税です。
  以下に、本書の「あとがき」の鶴見俊輔さんの文をご紹介しておきます。
 

   あとがき
 小田実が長生きしたら、いくつもの童話を書いただろう。そうあってほしかった。
 童話の作風からほど遠いサマセット・モームにさえ、童話があるのだから。
 モームにくらべて、小田実には童話作家の面影があった。彼の生き方そのものが童話風だった。
 お人好しの彼が、べ平連という日本の歴史に前例のない(私は知らない)人間のつながりの形をつくる仕事に乗りだし、乗りだした直後に盲腸炎にかかって、これでやめるかと私は思ったが、彼は続けて、日本のことをよく知らないアメリカ人訪問客が、べ平連と総評とどっちが大きいかときく(実際に私はこの耳できいた)ほどの、大きなデモの形をつくりだした。
 こういうデモをつくりだすことがひとつの童話だった。
 このべ平連を、ベトナム人民勝利によって、彼は生き延びた。そのとき、彼は、なくなってしまうデモのかわりに、何か食べものの名前として、「ベヘーレン」を残したいと考えた。
 ケーキか、雑炊か、そのかたちはわからない。そのかわりに、彼が絶筆として残した「トラプゾンの猫」がある。彼が娘に語りかけるおはなしのあらがきである。
 晩年に彼は、その起源にあるギリシア、トルコ、中央アジアに夢を馳せた。小田実流の世界史の構想であったにちがいない。『イーリアス』も『オデツセイ』も、ヨーロッパ人のように神々と考える必要はない。いや、彼の視野は、人間の世界史を越え、人間と境を接して横から見た『イーリアス』批評にはじまる、猫の見た人間世界史となった。
 未完の「トラプゾンの猫」を通して、その夢をかいま見ることができる。

 この本は予想外にできた。もともと、小田実は、私が先に死ぬと考えて、疑わなかった。私もそう思っていた。二人の同意を越えて、この本はできた。
 架空対談は私の書いたものだが、私は大阪の語り口を自由にしない。不安があったので、小田実の人生の同行者、玄順恵に見てもらった。それだけでなく、老齢のゆえに文章も心もとなく、私の妻と息子、さらに椿野洋美、立石尚史の両氏に読んでもらった。
 編集者は岩波書店の高村幸治で、彼のこの出版社での最後の仕事となる。この本ができるまでを記すと、二〇〇七年春に、小田、鶴見の対談で本をつくる計画を、高村氏がたてた。これは小田の発病のため、実現できなくなった。はじめに架空対談を置いたのは、その元型へと戻る意図をふくめたものである。
 私は十五歳から二十歳まで、日本語から離れていたので、日本語に自信がない。読みかえして、このくらいのところが自分の実力だと思う。
 小田実とは、現実の人生において、お世辞なしでのつきあいであり、そのつきあいを、亡くなった後も変えることなくこの本によって保てたと思う。
      二〇一一年一〇月一四日
                           鶴見俊輔

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