541. 小熊英二『1968』【上】【下】の大著刊行
「ベ平連」の章
でも194ページ。
(2009/07/26掲載) 

 慶応義塾大学教授の小熊英二さんの著書、『1968』の上下2巻 が刊行された。
 【上巻】「若者たちの叛乱とその背景」がA5版で1,092ページ、【下巻】「叛乱の終焉とその遺産」が1,012ページ、計5,000枚もの大著のものとなっている。発行
は 「新曜社」で、定価は【上】【下】ともに各6,800円+税。
 下巻には「第15章 ベ平連」という章が述べられているが、それだけで194ページという膨大な分析となっている。
 次に紹介されてある「著者のことば」では、本書の目的として「
現代の私たちが直面している不幸に最初に直面した若者たちの叛乱とその失敗から学ぶべきことを学び」と含まれている。だがこの「ベ平連」の章は、他の章とかなり違う表現になっていると思われる。その章の冒頭では、「本章では、『あの時代』の若者たちの叛乱を語るさいに欠かせない存在であり、日本の市民運動の源流の一つともよばれる、ベ平連(「ベトナムに平和を!市民連合」)をとりあげる。/ベ平連はほんらい、若年層にかぎらない広範な市民を対象としていた。しかし、同時期に発生した若者たちの叛乱と出会い、べ平連はそのなかで独自の位置を占めることになったいた。ここでは、その軌跡を検証し、若者たちの叛乱の性格をより理解することをめざすとともに、社会運動の先駆例として学ぶべき点を描く」と書かれてあり、また、この章の最後の文章は「しかしべ平連は、七三年に彼らが夢みていたほどではなかったかもしれないが、各地に市民運動の種をまいて解散した。そして六〇年代末の若者たちの叛乱のなかで、この運動は年長者と若者が対立しつつ助けあい、『どこへも入るところのない人』の言葉にならない願望を集めるという、類例のない存在となった。その軌跡には、『一九六八年』と日本の社会運動を考えるうえで、現在でも学びとるべき多くの教訓と智恵がふくまれていたといえる」と結ばれており、プラス的な評価で分析していると思われている。
 ここでは、とりあえず、以下に「著書のことば」と、目次の紹介だけを紹介しておく。

 「あの時代」から現代の原点をさぐる――著者のことば
 
 本書は、「一九六八年」に象徴される「あの時代」、全共闘運動から連合赤軍にいたる若者たちの叛乱を全体的にあつかった、初の研究書である。
 これまで、「あの時代」を語った回想記などは大量に存在したが、あの叛乱が何であったのか、なぜ起こったのか、何をその後に遺したのかを、解明した研究はなかった。その一因は、あの叛乱が当事者たちの真撃さとはアンバランスなほどに、政治運動としては未熟だったためだと思われる。そのためあの叛乱は、当事者の回想記などではやや感傷的に語られる一方、非当事者からは一過性の風俗現象のように描かれがちだった。
 そこで著者はあの叛乱を、政治運動ではなく、一種の表現行為だったとする視点から分析を試みた。すると、さまざまなことが明らかになってきた。
 「あの時代」は、それまで発展途上国であった日本が、高度成長によって先進国に変貌する転換点だった。それまでの政治や教育、思想の枠組みが、まるごと通用しなくなりつつあった時代だった。そしてあの叛乱をになった世代は、幼少期には坊主刈りとオカッパ頭で育ちながら、青年期にはジーンズと長髪姿になっていた。都市や農村の風景も、急速に変貌していた。こうした激しいギャップが、若者たちにいわば強烈なアレルギー反応をひきおこし、それが何らかの表現行為を必要としたのである。
 また当時は、貧困・戦争・飢餓といった途上国型の「近代的不幸」が解決されつつあった一方で、アイデンティティの不安・リアリティの稀薄化・生の実感の喪失といった先進国型の「現代的不幸」が若者を蝕みはじめた日本初の時代だった。摂食障害・自傷行為・不登校といった、八〇年代以降に注目された問題は、すでに六〇年代後期には端緒的に発生しつつあったことが、今回の調査でみえてきた。
 そのなかで若者たちは、政治的効果など二の次で、機動隊の楯の前で自分たちの「実存」を確かめるべくゲバ棒をふるい・生の実感を味わう解放区をもとめてバリケードを作った。いわばあの叛乱は、「近代」から「現代」への転換点で、「現代的不幸」に初めて集団的に直面した若者たちが、どう反応し、どう失敗したかの先例となったのである。
 本書が二〇〇〇年代のいま、「あの時代」をとりあげる意義はここにある。「あの時代」の叛乱を、懐古的英雄譚として描くなら現代的意義はない。現代の私たちが直面している不幸に最初に直面した若者たちの叛乱とその失敗から学ぶべきことを学び、彼らの叛乱が現代にまで遺した影響を把握し、現代の私たちの位置を照射すること。本書の目的はそこに尽きる。そこから読者が何らかのものをつかみとってくれるなら、著者にとってこれ以上の幸いはない。

 


1968 
――目次

(上巻)若者たちの叛乱とその背景

序 章
 「あの時代」をとりあげることについて 研究対象と研究手法

第1部

第1章 時代的・世代的背景(上)
 ――政治と教育における背景と「文化革命」の神話
高度成長と議会制民主主義への不信  都市の変化と人口状況 教育界の変貌  生徒たちのメンタリティ  ベトナム戦争の影響 「加害者意識」と貧しさ 「政治と文化の革命」という神話  「神話」誕生の背景

第2章 時代的・世代的背景(下)
高度成長への戸惑いと「現代的不幸」  幼少期との文化ギャップと「量の力」 少年期文化の影響   性にたいする感覚  大学での経験   教授からみた学生像   空虚感と「現代的不幸」 「空虚さ」から「政治運動」へ   言葉にならない「現代的不幸」へのもがき

第3章 セクト(上)
 
――その源流から六〇年安保闘争後の分裂まで
敗戦と「全学連」の誕生  共産党の穏健化とブントの結成  ブントと六〇年安保闘争 安保闘争の盛りあがりと「敗北」  ブントの分裂 学生運動の低迷と内ゲバの開始  「中核派」と「革マル派」の誕生

第4章 セクト(下)
 
――活動家の心理と各派の「スタイル」
ベストセラーになった活動家の日記  活動家たちの日常生活  活動家の出身階層と家庭環境  社会的開眼とマルクス主義理解  活動参加の契機と運動への見解  運動への迷いと内ゲバへの見解 無関心派の学生たち  セクトの「スタイル」  セクト加入へのパターン  「カツコよさ」と「ファッション」  セクトの自治会支配と権益  セクトと叛乱の関係  反戦青年委員会

第U部

第5章 慶大闘争
闘争の自然発生と高度成長のひずみ  バリケード内の「直接民主主義」と「日吉コンミューン」  闘争の実情と終焉


第6章 早大闘争
理科系拡充のための学費値上げ 「学園祭前夜」の雰囲気と「産学協同反対」 「教育工場」にたいする「人間性回復の闘い」  闘争長期化と一般学生の乖離  闘争の泥沼化と内部分裂  共闘会議の孤立と闘争の終焉

第7章 横浜国大闘争・中大闘争
「大学自主管理」としての横浜国大闘争 「生き甲斐」を求めての運動  自主管理の現実と限界  六五年末の「中大コミューン」  セクトの独走に終わった明大闘争  勝利におわった中大闘争  大学闘争の「一般法則」

 第V部

第8章 「激動の七ヵ月」
 
――羽田・佐世保・三里塚・王子
第一次羽田闘争  批判一色だったマスコミ  「10・8ショック」 少数派だった「10・8ショック」組 「完敗」だった第二次羽田闘争  転機となった佐世保闘争  戦争の記憶との共鳴  学生と市民の対話  三里塚闘争の開始  暴動と化した王子野戦病院反対闘争  触発とすれちがいと


第9章 日大闘争
恐怖政治下のマンモス営利大学  日大闘争の爆発  日大全共闘の結成と「主体性」 全学ストと世論の支持  バリケード「解放区」の実情  九月の闘争高揚  支持の減少とセクトの侵食  「大衆団交」の実現  苦境におちいった日大全共闘  東大全共闘との共闘の内実  日大を追われた全共闘  闘争終焉と変わらなかった日大

第10章 東大闘争(上)
東大闘争の特徴  医学部闘争の性格  医学部不当処分事件の発生  安田講堂占拠と機動隊導入 「大学の自治」観の世代間相違  全学的に火がついた東大闘争  噴火した大学院生の不満とミニメディアの氾濫  安田講堂再占拠と闘争の質的転換  東大全共闘の結成  全共闘と一般学生の乗離  「民主化闘争」「学内闘争」としての初期東大闘争  東大全共闘の特徴  「八・一〇告示」と全学封鎖闘争の開始  研究室封鎖と「自己否定」  学部学生に波及した「自己否定」  全学ストの成立と大河内の辞任  「進歩的文化人」への反感  「闘争の高揚」の実態  「言葉がみつからない」  民青の「行動隊」導入  共産党の方針転換と全学封鎖の挫折

第11章 東大闘争(下)
文部省の対策と加藤新執行部の登場  「七項目」の限界と全共闘の「政治」嫌悪  「民主主義」批判の台頭  学内世論の動向とゲバルトの横行  共鳴と反発の双方をひきおこした「自己否定」  第三勢力の台頭 「東大・日大闘争勝利全国総決起集会」の内幕  ノンセクトの台頭とリゴリズムへの傾斜  闘争の荒廃と内ゲバの激化  逃された「勝利」の最後の機会   セクトの思惑と大学院生のメンタリティ  代表団交渉と最後の内ゲバ合戦  安田講堂攻防戦前夜の舞台裏   攻防戦の開始と終焉  運動の後退と丸山眞男批判  闘争のあと

(下巻) 叛乱の終焉とその遺産

第12章 高校闘争
高校生運動の出現  高校生活動家の実例  蓄積されていた不満と叛乱の芽  「卒業式叛乱」の頻発  六九年秋以前の高校闘争  最大の叛乱となった青山高校闘争   高校闘争の連続発火   高校闘争の顛末

第13章 六八年から六九年へ
 
――新宿事件・各地全共闘・街頭闘争の連敗
三派全学連の分裂とセクト間抗争の激化  六八年の「国際反戦デー」 「新宿騒乱」事件  世論の離反を招いた新宿事件  ブームとなった全共闘運動  自己目的化したバリケード封鎖  各地の「全共闘運動」の理想と現実  六九年の全共闘運動の結末  「全国全共闘」の結成  完敗に終わった「沖縄デー」  打ちつづく街頭闘争の敗退  「ゲバ棒とヘルメット」の時代の終わり


第W部

第14章 一九七〇年のパラダイム転換
「戦後民主主義」という言葉  マルクス主義者とブントの「民主主義」批判  マルクス主義者の「近代主義」「市民主義」批判  六〇年安保後の『民主主義の神話』  べ平連周辺の「戦後民主主義」再検討  新左翼と全共闘の「戦後民主主義」批判  破壊された「わだつみ像」  アジアとマイノリティへの注目  「ナンセンス・ドジカル」から入管法闘争へ  「民族的”原罪”としての差別と戦争責任  華青闘の新左翼批判と七〇年のパラダイム転換  転換の背景と問題点  武装闘争論の台頭  内ゲバの激化

第15章 べ平連
ベ平連の結成  穏健とみられていた初期べ平連  べ平連の転換点  若者の流入と各地べ平連の結成  べ平連を躍進させた脱走兵援助  脱走兵援助の舞台裏  佐世保での活動と佐世保べ平連の誕生  「新しい型のコミュニケーションを作り出す運動」  「六月行動」での市民団体共闘  年長者と若者の対立とセクトの介入  べ平連の「急進化」年長者と若者との緊張と協調  花を抱えたデモ  全共闘運動との関係  脱走兵援助の実情とスパイ  新宿西口フォーク・ゲリラ  衝突現場に突き進んだ花束デモ  不定型の運動  六九年六月一五日の成功  べ平連の拡大と「黒幕探し」  「ハンパク」での糾弾騒動  「オールド・べ平連」批判  高揚から停滞へ  一つの季節の終わり  分散化していくべ平連  『冷え物』論争  「一粒の麦もし死なずば」

第16章 連合赤軍
赤軍派の誕生  内ゲバ初の死者と赤軍派結成  壮大な計画とその失敗  ハイジャック成功と解体していく赤軍派  重信房子の出国と森恒夫の赤軍派トップ就任  ヒューマニストだった坂口弘と永田洋子  革命左派の結成  革命左派の群像と武装闘争  永田の最高指導者就任  強盗を行なった赤軍派  革命左派の交番襲撃  赤軍派との接触と革命左派の処刑未遂  追いつめられる革命左派  山に集められた革命左派  煽りあう赤軍派と革命左派  二人の処刑実行   「連合赤軍」結成と事件の背景  永田による遠山批判  リンチの始まりとその理由  失われた最後の機会  大槻と金子のリンチ死  森と永田の結婚と逮捕  「ミニ・ディズニーランド」での銃撃戦  警察の報道操作と「覗き見趣味」の報道  過剰反応を示した若者たち  連合赤軍事件の虚像と実像

第17章 リブと「私」
 女性活動家たちの境遇と不満  「性解放」と「性的搾取」  リブの誕生前夜  リブ・グループの主張 「言葉がみつからない」苦悩  田中美津とその経歴  田中のリブ活動の開始  武装闘争論への傾斜  田中の転換  「革命の大義」からの脱却 「自分の分身」としての連合赤軍解釈  連合赤軍解釈から消費社会の肯定へ

結 論
「あの時代」の叛乱とは何だったのか  民主教育の下地とアイデンティティ・クライシス  なぜ「政治」だったのか「政治運動」としての評価  「自我の世代」の自己確認運動  「彼ら」が批判されるべき点  国際比較  高度成長期の運動  高度成長に適合した運動形態  大衆消費社会への「二段階転向」 「一九七〇年パラダイム」の限界  それぞれの「一九六八年」  彼らの「失敗」から学ぶもの

あとがき

関連年表

事項索引

人名索引

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