466.  山田健司さん逝去。 2007/04/29掲載)

 ジャッテックの中で「司グループ」をつくり、反戦米脱走兵の援助で活動されたことのある山田健司さん(株式会社プロテック代表取締役会長)が、4月25日夜、逝去されました。この2月に還暦を迎えたばかりでした。 山田さんは、1971年秋より半年間、勅使河原プロダクションにおいて、日本での脱走兵援助活動を描いた劇映画『サマーソルジャー』の製作にも参加されました。 謹んで哀悼の意を表します。
 葬儀は、以下のように執り行われます。
   1、 日時  通夜    4月30日(月)  18時〜19時
          葬儀告別式 5月1日(火)   11時〜12時
   2、 場所 落合斎場 東京都新宿区上落合3
-34-12 (電話:03-3361-4042)(詳細地図は次を御覧下さい
                 http://www.sato1976.com/sogidate/03-otiai-map.htm )
      喪主  甲田 早苗    葬儀委員長  株式会社プロテックテック代表取締役社長 勝丸幹也
 葬儀委員会からは、つぎのようなお知らせも来ています。

当日は花祭壇で故人を偲びたいと思います。ご供花の儀は下記にお問い合わせ下さい。
   ● 通夜または葬儀にご参列いただける方は
   株式会社 すみれ 葬祭業務すみれ式典
   電話     03-5567-4004
   FAX     03-55674019・03-5907-4820
   フリーコール 0120-971-940
          東京都豊島区駒込3-1-13
   ● ご参列いただけない方
   株式会社 ラウンドアイ
   電話    03-5379-1655
   FAX    03-5379-1657
   mail    hello-re@kfx.biglobe.ne.jp  

 ここでは、山田さんが『となりに脱走兵がいた時代』(思想の科学社)に書かれた文の一部をご紹介します。

 
自由であること――大野君の回想

   
                       山 田 健 司

 イントレピッド・フォーとの出会いによって、多少とも政浩的に目覚めた私は、翌一九六八年、ノンセクト・ラジカルとして大学闘争の中にいた。学外のデモにも参加するようになり、新宿騒乱事件のときは、機動隊の盾になぐられ、新宿から初台の近くまで必死に逃げた記憶がある。
 私が在籍していた教養学部教養学科は駒場にあったので、活動の拠点はそちらだったが、六九年一月の安田講堂攻防戦の時は何とか本郷の学内に潜りこみたくて、お茶の水から本郷三丁目に向けて騒然とした中を歩いていた。そのとき、『東京オブザーバー』紙の中島記者と出会った。イントレピッド・フォーと私の出会いを“スクープ”した記者である。
 彼といっしょに学内潜入を試みたが、結局、果たせなかった。その数日後、バリケード封鎖された駒場東大の構内を案内したのが、中島記者と会った最後となった。彼はその後、ベトナムに取材に行き、行方不明となり、そして死亡が確認される。この間のいきさつは大森実氏の『石に書く』に詳しい。
 安田講堂が陥落して、私たちほ学内でできることが次第に狭められていった。そんな時に、演劇を通じて知り合った水島君から声がかかった。六九年の後半のことだったと思う。
 「実はべ卜十ム脱走兵を援助する地下組織ができて活動しているのだが、人手が足りない。山田さんもまんざら関係がないわけではないのだから、ぜひ手助けしてほしい」
 私にとっては渡りに舟の誘いだった。立教大に在籍していた妻とともに、東大生三人(山田健司、森戸好彦、菅原尭)、立大生五人(山田順子、藤井東治、松谷節子、岡崎明子、川田まり)のグループを結成し、私の名前の一字をとって、司グループと名付けた。従って、ジャテックの中で互いを呼び合う私のペンネームは司となった。……  (後略)

『となりに脱走兵がいた時代』(思想の科学社) p.282〜283

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