442.木下順二さん逝去。 (2006/11/30掲載)

  今朝の各紙の報道によりますと、劇作家の木下順二さんが10月30日に病気で逝去されたということです。92歳。謹んでご冥福をお祈りいたします。
 劇作家としての木下さんの業績は、ここで述べる必要もなく有名ですが、木下さんは、ベ平連の運動にも深い関心を払われ、集会に出席されたり、多くの反戦の共同声明に参加されたりしました。以下に、1966年10月15日、ベ平連がサルトルやボーボワールを招いて東京・読売ホールで開催した討論集会「ベトナム戦争と反戦の原理」に参加したときの、木下さんの文章をご紹介します。(原文では傍点が付されてある部分は、ゴシック体にしてあります。)


むずかしい平和のイメージの創造
  べ平連のティーチイソを傍聴して
                            木 下 順 二

 「ベトナム戦争と反戦の原理」という名の討論集会があって、それは昼すぎの二時前から夜の九時前まで、三十分一回だけの休憩時間を含めてえんえん七時間、司会者の表現通りにまさに「マラソン討論会」であったが、それを――小一時間ほど所用でぬけ出したが――傍聴した。――と書き始めながら私が自分に問うているのは、なぜ傍聴するだけで発言を私はしなかったか。ステージの上の小説家や評論家や学者や、それら十数人の中には、時間の途中までサルトルとボーボワールもはいっていたが――ついでながら、この二人のフランス人は、言葉の関係で、討論の進行の中で自分たちが置かれている位置を測ることに大変困惑したろうと想像されるが――彼らと客席のつまりフロアのたぶん千三百人を越える人々とはほとんど平等の発言権を与えられていたということが私の気がかりの理由ではない。いきなり小田実が行なった長い発言の中の、次のような部分が私を考えこませたのである。ベトナム問題には、今やアメリカの停戦と撤兵以外に代案はない。とすればそれを実現させる有効な行動は何か。当面具体的にそのいくつかは考え得るとして、さて行動は一回限りでは有効でない。行動はくり返され、エスカレートされ、再創造され、持続されねばならない。とすると、人は、例えば作家は、書くというその本業と行動の持続とをどうやったら併立させ得るのか。小田は、そのことはまだ自分にはわかっていないといった。小田だけにではなく私自身にとっても、そのことはやはりさし迫った問題である。単に時間のやりくりのこととしてではない本質的な問題として。だが、そのことについてどのように発言すればその発言は意味を持つといえるのか?

 冒頭に小田が出したそのような本質的な問題を一応別にして、というより、別にせざるを得ないという暗黙の前提の上で、現代世界の中でベトナム戦争をどう考えるべきか、日本国内での反戦運動としてどうそれに対処すべきかのさまざまな知恵が、ステージとフロアの両方から、七時間に近い熱っぽい時間の中でしぼり出された。
 その要約は不可能だから、代わりにこの討論会を主催した「べ平連」(「ベトナムに平和を! 市民文化団体連合」)が当面考えていることとしてその日語られた具体的行動項目のいくつかを列挙すると、ベトナム特需、とくにナパーム弾製造工場の実態調査とそこへのデモ、在日米兵への反戦ビラ播布(はふ)、米政府の所在地の新聞「ワシントン・ポスト」への反戦広告掲載、国会議員のベトナム戦争に関する意見の国民審査と結果の公表、反戦講演日本縦断旅行、などなど。

 さて、と私は、当日発言しなかった自分をまた意識しながら考えるのである。あの日、参加者のどれだけかの頭のどこかにありながら、語り落とされてしまった
あることがあるのではないか。いやそれは、例えば谷川雁によって触れられはした。だが討論の中で発展させられるゆとりはあの日なかった。谷川の長い発言の中からその部分だけを記憶によってぬき出して、私の理解に引きつけながらいいかえれば、ベトナムから米軍が撤退したら何が起こるか。平和? しかしその「平和」の中で、逆にベトナム人民の力が引きさかれ、磨滅させられるという事態が起こらないと断言できるか。言葉をかえれば、われわれのいう「平和」とは何か。単に戦争のない状態をいうのか。その「平和」がもし長く続き、中国を含めた共存状態がもし長期に実現されたとして、そこに決して人民的でないなにものか、われわれとして闘いようのない敵対力が生まれないという保証はあるのか。
 私にいわせれば、その保証を、われわれがはっきりと持ち得るのは、平和についてのイメージをわれわれが明確に持ち得たとき、そのときのみである。ところが現在のわれわれが明確に持ち得るのは、「平和でない状況」のイメージだけなのだ。討論の中で想像力の必要が何度も強調され、私はそのことに全く賛成なのだが、しかしこれからさき数十年間の世界は、おそらくわれわれのどのような想像力をも越える「平和でない状況」の積み重ねになるだろう。
 ということは現在のところ、あるべき「平和」のイメージは、われわれのどのようなイメージをも越えるものだろうとしかいえないのではないか。
 従ってわれわれの、少なくとも私自身の生涯の行動は、「平和でない状況」の克服に、もっぱら注がれるよりほかないだろう。ただその行動の目標は、あくまで
それの克服にではなく、平和のイメージと平和そのものの創造に置かれねばならないのだが。
 だとすると、そこでの行動は、行動自体としては積極的であらねばならぬが、意味としてほ、平和のイメージを明確に手ににぎるまでは何としてでも
持ちこたえるという、言葉の上では消極的に聞こえるかも知れぬ行動でもあるわけなのだ。最初にいった小田のあの発言は、そういうことを私に考えこませた。
 さてこのように書いて来て、つまりこのように紙上で発言してみて、一種の空しさを私が感じないわけに行かないのは、単なる発言で、以上があるに過ぎないからである。
持ちこたえるという重い行動は、私の場合具体的にどんな行動であればよいのか。そのことを、「ベトナム戦争と反戦の原理」という名の討論集会は、私に新しく考えさせてくれたといえる。

(注)べ平連のティーチイン「ベトナム戦争と反戦の原理」討論集会は、十月十五日、東京・読売ホールで開かれた。
                                                     (サソケイ新闘夕刊 1966.10.20)      

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