405 飯沼二郎さん(元京都ベ平連代表)逝去。(05/09/25掲載)

 飯沼二郎さん(元京都ベ平連代表、農業経済学者、京都大学名誉教授)が9月24日午前0時58分、肺炎のため逝去されました。87歳でした。謹んで哀悼の意を表します。報道によれば、個人の意志で葬儀は行 なわれないとのことです。 (写真は、1987年3月7日、「『君が代』強制せんといて!3・7京都市民行動」のデモの先頭を歩く飯沼さん。「『君が代』訴訟をすすめる会」のサイト http://kimigayososyo.hp.infoseek.co.jp/ より。飯沼さんは、同会の1986〜1999の代表をでした。現在は田中真人さん。)
 以下は、故北沢恒彦さん(元京都ベ平連事務局長)が書かれた飯沼さんの紹介文です。

飯沼二郎 いいぬま・じろう
 農業経済学者、1918(大正7)年3月20日、東京両国の生まれ、41年、京大農学部卒業後,国会図書館、農業技術研究所を経て、54年京大に移り,京人人文学研究所助教授。65年8月「大日本帝国」の敗北の日に合わせて,20人そこそこの一群が「ベトナムに平和を」のプラカードを持って京都市役所前から一列行進を開始したとき,誰もそのことが知的には見えるがすでに不惑の域を超えた1人の男に決定的な意味をもつとは考えも及ばなかった。この定例デモの始まりは飯沼における啓示に満ちた融合の始まりでもあった。飯沼自身の言葉を借りると,それまでの飯沼は「音楽と山歩きを愛し,どちらかといえば一人部屋にこもって研究に没頭することに自分自身の落ち着きを覚える大学教師(『国家権力とキリスト者』73年)であった。もちろんこのことを価値がないというのではない。篤実な学者でありキリスト者である人間が,ひとたび夕暮れの街を無名の若者たちと肩を並べて歩き始めたとき、街ゆく人々の好奇の目とは別のところにある魂に微妙なゆらぎを与えた。飯沼にある信用が若者たちを守ったことは否定できない。しかし、歩き始める前の飯沼はどこか寂しかったにちがいない。アカデミズムの世界は冷徹,悪くいえば冷淡である。教会の世界はかならずしも検証の場といえず,隣人を愛するとはその場かぎりの祈りかも知れない。共通するのは外界をへだてる壁である。アスファルトの上におりたったときの飯沼にはこの壁を浸透して学問と教会の精神が一つに融合する愉快な回心の時が訪れたものと思われる。でなければ,あのように元気になれないはずだ。かくてデモは学問と信仰の証となって,京都べ平連の機関誌『ベトナム通信』の文章群に結晶する。飯沼は69年7月から「朝鮮人社」を主宰し,雑誌『朝鮮人――大村収容所を廃止するために』を出し在日朝鮮人問題に地道に取り組んでいる。著書『農業革命論』(67年),『風土と歴史』(70年),『見えない人々』(73年),『石高制の研究』(74年)、『イエスの言葉による行動のための手引き』『日本農業の再発見』(75年)など多数。戦後日本政府の農業政策を批判し,家族的複合経営で中耕農業の利点を生かすことを説く。(北沢恒彦)
【朝日新聞社『現代人物事典』1977年刊】

 北沢さんの文章にも出てきますが、京都ベ平連の機関誌だった『ベトナム通信』には、飯沼さんの文章が数多く掲載されています。この『ベトナム通信』は、合本が出版され、入手可能です。(『復刻版べトナム通信』不二出版、1990年 \12,000) 以下に『ベ平連ニュース』に掲載された飯沼さんの文章を二つご紹介します。

京都べ平連の今後の運動方針について

飯沼二郎

 去る十二月八日、同志社学生会館て行なわれたティーチ・インで、べ平連は一部の学生諸君から強く批判を受けた。アメリカのべトナム反戦運動が、最近、急速にラジカル化しつつあるとき、日本のべ平連は、こんな生ぬるい運動形態でいいのか、というのである。こういって批判した学生諸君の頭には、アメリカよりも、むしろ、日本の最近における学生連動の在り方こそが想い浮べられていたのに違いない。しかし、私は、べ平連のやり方は、現在のままでいいと思う。
 最近の学生運動のあり方は、まことに憂慮に耐えない。学生諸君は、果して、ヘルメットをかぶり、棍棒をもって、諸君のいう「国家権力」 に勝てるとでも思っているのだろうか。まさか、そんな阿呆は、諸君のなかに一人もいないと思う。しかしヘルメットをかぶり、棍棒を握った瞬間から、学生運動は、国民一般から完全に見放されてしまっていることを、諸君は知らなければならない。
 学生運動が「国家権力」に勝ちうるただ一つの方法は、素手で機動隊に向っていって、その警棒でうち殺されることだ。これ以外に勝ち得る方法はない。羽田デモにおいて、山崎君は警棒でうち殺されたのだ、というかもしれない。しかし、山崎君の死が、自動車にひき殺されたも野にせよ、警棒でなぐり殺されたものにせよ、学生がヘルメットと棍棒で「武装」しているかぎり、もはや、それは犬死以外のなにものでもない。命を懸けずに、何が出来るか。「自分の命を救おうと思うものはそれを失い、わたしのために自分の命をうしなうものは、それを見出すであろう。」
 京都べ平連の運動は、一人ひとりが個人の責任において参加することを立前としてきた。そのことは、一人ひとりが、その行動に命を懸けるということである。
だから、「京都ベ平連の今後の運動方針は?」と問われたならば、依然として、一人ひとりが、この運動に死ぬことだ、という他はない。それほ、私たちが、いたずらに孤高を楽しむということではない。「地の塩」として、ますます多くのなかに溶けこんで行くことを意味する。
 新聞の世論調査によれば、日本国民の八割ばベトナム戦争に反対だという。私たちは、政府与党の宣伝によって、この八割の人々が眠りこけてしまわないように、つねにその良心を揺り動かしているとともに、各種の選挙の機会をとらえて、この八割の世論を、政治の場に反映させ
なければならない。

(『ベ平連ニュース』No.31  1968年4月1日号)

市民運動は市民的自由の追求だ

飯沼二郎

 ベ平連によって日本にまったく新しく始められた運動形態が、今後もなお日本の政治運動の上に有効性をもちつづけていくものとするならば、ベトナム戦争が一応ひとくぎりついたこの機会に、過去の運動の総括をしておくことは、必要だと思う。
 どこのべ平連でも同様だと思うが、私たちが1965
年の春に京都てべ平連の運動を始めたのは、まったく自然発生的であった。それは、ほとんど常に、、外国の翻訳理論と運動方法の模倣から始まる(そして、いつまでも、その域から脱け出られない) 日本の政治運動の中にあって、きわめて特殊なケースてあったとおもう。
 したがって、読むべき本も、数えを乞うべき人も、
いなかった。私たちは、まず、運動のはじまりにあたって、必ず自分自身で行動の責任をとる個人の運動にしようと考えた。
 それは、その当時(そして、残念ながら、こんにちでも変わりがないが)、無責任な政治運動を、あまりにも多く、私たちの周囲にみせつけられていたからである。
 しかし、そのような運動をどう具体化したらよ
いのか、さっばわわからなかった。以下は、八年間の運動の過程で、私たちが討議しつづけた結果を、私なりにまとめたものである。
 まず私は、京都べ平連運動は、あくまでも市民動動だと考えている。私は、市民運動とは、市民
″がヤる運動という意味ではなしに市民的自由″(言輪・集会・結社などの自由) を守るための運動という意味だと思う。たとえ、どのように高潔な人格者であろうと、人間であるかぎりエゴイズムをまぬかれえないものとすれば、そのような人間が権力をにぎったばあい、その権力をみずらのエゴイズムに奉仕させないという保障は、どこにもない。
 しかし、権力者は強く、人民は弱い。だから、そ
のような権力者のエゴイズムを明らかに告発することは、人民にとって大きな危険を意味する。西洋資本主義社会で制度化された市民的自由は、死をも恐れぬ勇士にたいしてではなしに、一般の弱い人間にたいして、権力者のエゴイズムを
告発することを可能にしたのである。
 マルクスやレーニンが社会主義社会への移行を主張したのは、資本主義社会で発達した(精神的に
は市民的自由を前提とする民主主義、物質的には工場制機械生産)、そして資本主義の発達そのものによって今や空洞化〃されつつあるものを、発展的に継承し、実態化〃するためであったことは疑いない。
 ところが、ソ連においては、その物質面のみが継承され、精神面は拒否された。それが、どのような止むを得ない理由に基ずくにもせよ、こんに
ちのソ連に、ひとかけらの市民的自由もないことは明瞭である。このことが、どれだけ社会主義の真の発達にたいして、大きな妨げとなっているか、はかり知れない。ソ連共産党は、市民的自由をブルジョワ的″と呼んで敵視し、さらに、そのような体質が各国の前衛党にも多少なり受けつがれて、それが市民的自由の実現をめざす市民運動に、大きな妨げとなっている。
 しかし、真の前衛党は市民的自由の実現をめざ
す運動であるはずであり、したがって、同じ目標をめざす市民通動とは、当然連帯できるはずである。ただ、このばあい、組織論のちがいを相互に認めあうことが、両者の連帯の不可欠の前提になることは、いうまでもない。
 しかし、そのような前提が、今日の日本で、い
かに成立しにくいか、私たちは八年間の経験で、いやというほど知らされた。それでも、なお、私は、市民運動と前衛党とは車の両輪〃だとおもっている。
 市民的自由が、英雄的な勇士のためではなしに、憶病で卑怯な普通の人間のためにあるように、市民運動もまた、普通の人間のやる運動である。私は今後とも、憶病で卑怯な普通の人間に徹して、市民的自由を守っていく運動をすすめていきたい。
 具体的な目標は、全く市民的自由のない在日
朝鮮人に、市民的自由が実現されることである。

(『ベ平連ニュース』No.92  1973年5月1日号)

 

ニュース欄先頭へ  ホームページ先頭へ