311. 新宿地下広場での大木晴子さんらの行動の『朝日』報道に反響つづく。(03/08/19掲載  09/07に追加あり

 本「ニュース」欄 No.282 ですでにお伝えした大木(旧姓山本)晴子さんらの、新宿駅西口地下広場での活動は、その後もずっと毎週土曜日に続けられ、参加者も次第に増えているが、その活動が8月18日の『朝日新聞』 全国版夕刊に写真入りで大きく報道された。 (版によっては、西口フォーク集会の写真がなく、記事も左の図よりも短いものもあった。)
 この記事を見た大木さんの知人からは、つぎつぎと電話やメールで、共感、支持の表明がとどき、大木さんは「皆さん、心地よく記事を受け入れて下さり、労いの言葉をいただき嬉しく思いました。これからも、皆で力を合わせて頑張っていけると感じました。」と語っている。
 同記事は要旨、以下の通り。

新宿地下 歌なき反戦
  34年前 フォーク集会参加の大木さん
 「一瞥だけで伝わる」

 学生運動が盛んだったころ、若者たちは土曜の夜ごと東京・新宿駅の西口地下広場に集まって、反戦フォークを歌い、議論を戦わせていた。その中にいた女性が、今年2月からもう一度、毎週土曜夜に同じ場所に立ち、仲間と「戦争反対」を訴え続けている。あの反戦フォーク集会から34年。人々の平和への思いは変わっただろうか。

 地上では台風の雨が降りしきっていた今月9日午後6時。「殺すな/武力で平和は創れない」と書かれたポスターを持った大木晴子さん(54)=東京都世田谷区=が、西口地下に現れた。
 いつもの場所で柱を背にして立つ。自作のプラカードを持った仲間が、1人、また1人と、次第に増えていった。18歳から82歳まで計15人。
 「この国は再び戦争ができる国になってしまった」「非暴力抵抗」「PEACE」……。
 7時までの1時間、それぞれがじっと立っているだけだ。周囲を行き交う人、人、人の波。大木さんたちの運動は、そこだけ時間が止まっているように見えた。
     20歳で輪の中
 69年2月。
 ベトナム戦争に反対する「ベトナムに平和を!市民連合」(べ平連)の若者たちが、毎週ここで反戦歌を歌い始める。出版社で働いていた20歳の大木さんも、その中にいた。
 若者の数は数千人に膨れ上がる。5月、当時の国鉄が学生たちの排除に乗り出し、7月を最後に広場から歌声が消えた。
 その後、結婚して幼稚園の先生になった大木さんは、集会やデモには時々参加してきた。もう一度はっきり反戦の「意思表示」をしなければと思うようになったのは、01年の同時多発テロ後だ。
 イラク戦争が近づいていた今年2月1日、知人と西口に立った。いま、歌えるような歌は見当たらない。ビラを配ろうとしたら警備員に制止された。交渉の末、東京都の許可をとりつけた。
     無関心に驚き
 駅前の様子は34年前とあまり変わらない。交番の場所も床のタイルの模様も、そのままだ。だが、人々は驚くほど無関心になっていた。プラカードに視線を向ける人はいても、足を止める人はまずいない。
 大木さんは特に、親子連れの反応が気になる。幼い子が「あれ何?」という表情を見せても、母親は答えようとしない。子どもは手を引かれ、すぐ目をそらしてしまう。
 「でもだからこそ」と大木さん。「こういう形で、一人ひとりが意思表示をしてゆくことが大切なのだと思う。一瞥するだけの人にも、私たちのメッセージは伝わるはずだから」
     ねぎらう声も
 9日、西口の彼らの周りを数千人が通り過ぎた。そのうち年配の男性3人が大木さんに「お疲れ様」と声をかけ、会釈をして行った。毎週同じ時間に通る人らしい。
 終戦の日が明けた16日には、14人が参加。大木さんは、自衛隊のイラク派遣に反対する新聞の投書を拡大コピーして持った。一人の男性が「これ読みました」と話しかけてきた。
 23日の夜も西口に立つ。何人が立ち止まるかを気にしながら。

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【写真説明】反戦を訴えるプラカードを持って、西口地下に立つ大木晴子さん。=東京・新宿で
 ベトナム反戦を訴えるフォーク集会。3千人が集まることもあった=69年5月 東京・新宿西口で

09/07に追加
 
その後、8月30日の『朝日新聞』の「天声人語」欄も、大木さんの言葉をとりあげて紹介した。大木さんは、「地下広場通信」で、次のような感想を述べているので、ご紹介する。


 新宿西口地下広場通信」03-08-30      大木晴子

 八月終わりの土曜日、地下広場に立つと「今日の『天声人語』に出ていましたね」と声をかけられました。忙しい一日だったので新聞を隅々読んでいなかった私はビックリしました。
「殺すな・武力で平和は創れない」この言葉は、いま誰もが思っている言葉ではないでしょうか。あらためて、たくさんの方々の目に止まる事になり、嬉しく思いました。
 広場を通りすぎていく人たちに変化がみられるようになりました。それは、立ち止まり、それぞれのメッセージの言葉を心に留めて帰っていかれる様子
が感じられるのです。私が持っている「殺すな」の説明、そして朝日の投稿記事は、しっかり読んでいかれる方々が・・・・。
 今日は、民族学と現代美術の研究をされている小田マサノリさんも参加。小田さんは原点の原点にかえり、参加したいと幅50センチぐらい、高さ60センチぐらいある大きなパネル【右の図】に、岡本太郎さんの「○○は爆発だ!」と叫んだ時の眼が大きく一つ、その下に「殺すな」の文字、さらに下には、赤地に黒い字でこう書かれていました。

「この眼は、ここにならぶ「殺すな」たちの文字を書いた岡本太郎の眼だ。今から36年前、この眼に見守られて最初の「殺すな」が声をあげた。まるで黒い太陽のように激しく燃えあがるこの眼は「殺すな」の原点だ。口ほどにものをいうこの眼をもう一度、今のこの暗い世界にぶつけたい。口をひらくことも歌うことも禁じられたこの地下広場につきつけたい。人間の命と自由を奪う大きな力を見返すこの眼をまたとりもどしたい。何者も見殺しにしない人間たちの声なき声としてこれをここに掲げる。」

 私は、この文章を最初に読んだ時も、入力しながら読み返したときも心の中から湧きあがる涙を押さえる事ができませんでした。 たくさんの人に伝えたいと思いました。小田さんに「私の隣に立ってください」とお願いし、立ち止まった人、立ち止まりそうな人、少し気持ちが伝わりそうな人に小田さんのプラカードを示して「読んでくださいね」と声をかけました。真剣な眼差しで読んで下さる方々と接して、「また、頑張れると思いました」
 私は、若い人たちに「この場所をよく見てね。直ぐ目の前のあなた達の事よ」と声をかけ、考えてほしいと願っています。それを聞いていた「あなたが生れてくる この国はふたたび せんそうができる 国になってしまった。」とメッセージを持って参加のY子さんは、「大木さんが言う通りですよね。ほんとうに」目に涙を滲ませていう彼女に「なんて素敵な優しさだろう、あなたのためにも頑張ろう」と心の中で思いました。みんな、言葉に出して言わないけど、苦しい事、辛い事、寂しい事、日常いっぱい抱えている。でも今の日本はおかしいと思って自分のできる事をやろうとしてる。それが、いまの新宿西口地下広場です(おおきせいこ)

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