275. 小林トミさんの葬儀の模様(2003/01/08掲載)

 本「ニュース」欄 No.272 でお知らせした声なき声の会の代表、小林トミさんの葬儀は、6日夜のお通夜、7日昼の告別式と、仏式(小林家菩提寺の曹洞宗)で行われました。 以下は、そのとりあえずのご報告です。

 お通夜には約80人、告別式には約100人の人が参加しました。喪主はお兄さんの 高さんでしたが、ご健康上の理由で列席できず、お姉さんのやすさん(画家)がご挨拶をなさいました。(ご姉妹とはいえ、やすさんは、トミさんにとても似ていらっしゃり、最初、お姿を見たときは、トミさんが座っていらっしゃるように思えてびっくりしたほどでした。)会場には、とても美しいトミさんの写真が飾られていました(右 写真)。

 参加者には、ご親族のほか、細田伸昭さんら声なき声の会の多くの会員、鶴見俊輔・横山貞子ご夫妻、大野明男さん、黒子恒夫さん、渡辺一衛さん、余川典子さんら思想の科学研究会のメンバー、そして、旧ベ平連の仲間も多くいました。旧ベ平連からは、前記、鶴見夫妻のほか、青木和子、 阿奈井文彦、和泉あき、大木晴子、金井佳子、五味正彦、斎藤浩司、関谷滋、野田祐次、松本市寿、吉川勇一などの皆さんがおられました。また、故樺美智子さんのお兄さんのお顔も見えました。(思想の科学社、声なき声の会、東京芸大同級生、鶴見和子さん、望月寿美子さん、土井たか子さんらからの生花と並んで、「旧ベ平連有志」からの生花も飾っていただきました。 左写真 挨拶するのは、友人代表の元朝日新聞記者の岩垂弘さん)

 告別式での弔辞は、芸大同級生の大塚さん、思想の科学研究会の鶴見俊輔さん(俊輔さんは、お通夜には出られたが、7日には先約があって大阪に行かれ、弔辞はお連れ合いの横山貞子さんが代読しました。右下写真)、声なき声の会の細田伸昭さん、そして友人代表の岩垂弘さんの4人からのべられました。

 大塚さんは、小林さんがいつも太陽のような存在で周囲に暖かい雰囲気を与え、しかしその明るさのなかでもいつも前向きの方向を失わない人だったと言われました。
 鶴見さんは、弔辞の中で、小林さんが「その本領を発揮した」エピソードを一つのべられました。それは、声なき声の会の活動の中で、あるとき、「死をも決意して権力と対決すべきだという意見が出て、大部分がそれに同調した」ところ、小林さんは「自分ひとりになっても、私はごく普通の人がやれることをやるのだ」と言って「サッサと家に帰ってしまった」という話でした。鶴見さんは、小林さんが「誰でもが思っている戦争はいやだということを、誰でもができるやり方でやった人だった」とのべ、「43年、小林さん、ありがとう」という言葉で結ばれました。
 細田伸昭さんは、『声なき声のたより』の98号がでたとき、100号までは頑張ろうね、と小林さんが話していたことを紹介し、メールでの急逝のお知らせが信じられなかった、とのべ、高校生のとき、ベ平連のデモに参加して、そこで「誰デモは入れるデモ」という声なき声の会の旗を見て、ホッとして参加して以来の小林さんとのおつきあいで、小林さんは「どんな会でも、その真ん中に太陽のように明るく輝いている人だった」とのべられました。
 岩垂弘さんは、小林さんが3つの点で傑出した人だったとして、第一に、その活動が、他の人から指示されたことではなく、常に自発的なものだったこと、第二に、口説の徒ではなく常に行動を伴う人だったこと、第三に、一時的なものではなく、長く継続する行動を続けた人だった、とのべられました。

 また、岩垂さんは、告別式最後の列席者への挨拶の中では、10月に小林さんをお見舞いに行った際、小林さんがこれからやりたいと言ったことを3点、紹介されました。それは、@『声なき声のたより』を100号までは継続して出したい、A今年も6月15日の行動をやりたい、そしてB「声なき声の会」のことについて、かなり膨大な記録や感想をまとめた文章があるので、それを出版したい、ということだったそうです。これら、小林さんがやり残されたことは、ご高齢なご遺族にお任せすることは無理で、ぜひ残った友人や運動の仲間たちで実現したい、と訴えられました。

 告別式の会場には、声なき声の会の大きなブルーの旗がかざられていましたが、出棺の際は、小林さんの棺はその大きな旗で覆われ、また、あの三角の小旗もそえられて、仲間たちの手で担われ、火葬場へ向かう車に運ばれました。(左写真

  『声なき声のたより』No.98(2002年9月30日発行)の巻頭に載った小林さんの文章は、絶筆となりました。それを下に転載します。(吉川記)

(お願い)葬儀に参加されなかった方で、お志ある方は、上に記した「旧ベ平連有志」名義の生花の実費¥15,750を分担してくださいますようお願いします。一口1,000円を下記口座にお送りいただければ幸甚です。
 郵便振替口座 番号 00120-7-83204 名義 旧ベ平連運動基金


二度と戦争をおこさないために

                 小 林 ト ミ

 四月一日の朝、池袋の勤労福祉会館に六月十五日の会場の申し込みにゆき、希望の部屋がとれてほっとした。考えてみると、六〇年安保から四十二年目になる。その間、政治のあり方に関心を持ちつづけたが、小泉内閣になってから、有事法制、メディア規制法、住基ネット導入など、戦争への道を歩んでいるので不安になる。何とか、戦争への流れをせきとめなければならないと思っていた。そんな時、吉川勇一さんと福富節男さんから、六月一日(土)の午後、宮下公園に集まり、有事法制について市民が勝手に反対の声をあげようという葉書をいただいた。私は早速、六・一五の集会と、六月一日のデモの知らせを発送した。
 六月一日、渋谷は人であふれていた。宮下公園にいくと、青いテントがならんでいる。今の政府はどうしていつも弱い立場の人たちに冷たいのだろう。戦争のときも、弱い立場の人が戦争になると、空襲や食糧難でひどいめにあつた。
 集まった人びとのなかに、声なき声の人たちの顔をみて、私も参加できてよかったと思う。それに九十九里町から金井佳子さんも参加され、心強く思った。
 デモは日本山妙法寺の僧侶による太鼓の音を背に渋谷の街を一巡する。
 今の若い政治家は戦争体験がなく、口先ばかりで有事法制の重要さを強調するが、私は有事法制は市民にとって非常に危険だと思う。今、反対の声をあげなければ、恐ろしい戦争の時代がくるのだから心配になる。
 私は戦争中、空襲の下を逃げまわった経験からベトナム戦争も、湾岸戦争も、アフガン戦争のときも、いつも空襲でいためつけられる人びとの立場にたって抗議のデモの中にいた。
 一九四五年三月十日、東京大空襲では学校の先生や隣の席にいた友だちがなくなった。私の家は焼けなかったが、B29が焼夷弾を落として、家の中は昼間のように明るく、東京の空はいつまでも燃えていた。
 朝早く学校まで歩いていくと、黒い油によごれた人がバケツ一つや鍋をもって、放心したように歩いてくる。小松川橋は罹災者や家族を案じて都心にむかう人であふれていて、この世の終わりではないかと、今でもなまなましく記憶に残っている。
 三月の終わり、父の郷里に疎開したが、地方都市への空襲が激しくなり、夜になると荷物を持って田圃に避難した。広い空にB29があらわれ、焼夷弾を落とし、遠くの空も赤く燃えあがっていた。私は日本が負けるのではないかと心配だった。また、広島や長崎に恐ろしい新型爆弾を落としたというので新聞を見たがよくわからなかった。
 敗戦になり、原爆のことや、戦争の悲惨さを知り、二度と戦争をおこしてはいけないと思うようになった。
 しかし、何も行動はしなかったが、戦争になるようなときは、反対をしようと思っていた。それは六〇年安保条約改定のときにいろいろ考え、自分も反対の意思表示をしようと思ってデモに参加した。何回もデモに参加するうちに樺美智子さんがなくなった。そしてデモの波はひいていった。声なき声の会では、あの日からずっと六月十五日に集まり、国会に献花をつづけている。私はあの日のことを忘れないこと、それに戦争を二度とおこしてはいけないと考える日にしている。
 今年も京都、神戸、和歌山からの参加者を含め、一人一人が自分の意見をのべた。みんな自分自身の出来る行動をしている。
 四十二年、この会をつづけるうちに、多くの戦争体験者が亡くなり、非常に残念である。
 米大統領はイラク先制攻撃を強調し「必要となれば武力行使する」と述べたという。おそろしいことだ。米英の爆撃でイラクの人たちが死傷したという。その戦争のやり方は、広島、長崎に非人道的な原爆投下によってあきらかである。
 日本政府はイラク攻撃に反対し、世界唯一の被爆国として戦争の愚かさを説いていくことを努力していかなければならない。それが、原爆によって無念の死をとげた人たちへの残されたものの役割だと思う。
 私は七月の終わりにテレビで「ガダルカナル島撤退の決断」をみた。ガダルカナル島をめぐって、日米の激しい戦闘、本当に指導者は一人一人の兵隊の命をなんと思っているのだろう。
 今また住基ネット法などによって戦争にかりたてていくのかと考えると、心配でたまらない。もう二度と戦争はしたくないと強く思っている。
 (『声なき声のたより』No.98  2002年9月30日刊)

ニュース欄先頭へ   placarhome.gif (1375 バイト)