272.「声なき声の会」の小林トミさん逝去。72歳。(2003/01/02掲載)

小林トミさん(「声なき声の会」代表世辞人、画家、児童文学作家)が、2003年1月2日午前5時30分、十二指腸潰瘍のため(最後の注参照)、千葉県柏市北柏2の6の2の自宅で死去されました。72歳でした。 ベ平連運動設立の歳の発起人の1人でもありました。謹んでご冥福をお祈りいたします。葬儀等の予定 は以下のとおりです。

 通夜は6日(月)午後6時から、柏市北柏4の3の17、ベルホール北柏(0471-68-5568)で。
 葬儀は7日 (火)正午から午後1時まで、同所で。地図やゆき方などは、下をご覧ください。
 喪主は兄の高(たかし)氏。

 小林トミさんは、1930年5月15日茨城県生れ。1954年、東京芸大を卒業。在学中から津村節子らの『女流』同人となる。岡本太郎らの「現代芸術の会」、鶴見俊輔らの「思想の科学研究会」などに参加。子供たちに絵を教えていたが、1960年の反安保闘争のさなか、6月4日に、国会議事堂周辺で「誰デモ入れる声なき声の会」と書いた横断幕を掲げて歩いたところ、一般市民がこれに多数参加し、無党派の反戦市民グループ「声なき声の会」が生まれた。以来、その代表世話人を務めた。「声なき声の会」は、その後も機関誌『声なき声の便り』の発行を続け、毎年6月15日には、集会を開いた後、60年安保闘争で死んだ樺美智子に花を捧げるために、国会南通用門付近に集まる行動を続けてきている。ベトナム戦争時の反戦市民運動「ベトナムに平和を! 市民連合」(ベ平連)の発起人の1人でもあった。

 物理学者の渡辺一衛さんは、「60年代前半の運動の退潮期には、小林はほとんど1人で『たより』の編集からあてな書き、発送まで引き受けなければならなかった。こうした無名性と手しごとの中に、市民運動の原点はあるのだといえる。危険なデモの現場にいつも姿を見せながら、自分は闘士でもないし、かっこよくもないと内心思っている、小林トミのゆったりとした姿勢が、若い人たちに信頼され、この会の活動を底から支えてきた。」と書いている(『朝日新聞社 現代人物事典』1977年)。
 著書には、子ども時代の思い出を書いた『貝がらの町』(1980年)、『わが町・浦安』(1983年)、女子中学生を主人公とした小説『東京ダウンタウン』(1988年)などがある。 

 「ベルホール北柏」 (電話:0471-68-5568)は、JR常磐線「北柏」駅下車、南口から出口正面道路を北柏橋へ向かい、「北柏駅入り口」交差点(左側角が松本キヨシ薬局)を左折、右側約200メートルのところ。
 (注)最初、小林さんの年齢を1931年生れの71歳と記しました(『朝日人物事典』、朝日『現代人物事典』によって)が、お通夜で配布された略歴によりますと、1930(昭和5)年5月15日生れの72歳とのことです。訂正いたします。
 また、小林さんの死因は、最初、十二指腸潰瘍との通知をいただき、また、新聞の訃報などでもそうありましたが、やはり、お通夜での略歴によりますと、「体調を崩し、2002年10月7日、国立がんセンター東病院(柏市)へ入院、12月21日退院。同29日ころから昏睡状態となり、2003年1月2日午前5時30分、永眠。死亡原因は、医師の診断によると、乳ガン再発と十二指腸潰瘍となっている。」とあります。

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