271.「鍋田治郎さんを偲ぶ会」のご報告(2002/12/31掲載)

 本「ニュース」欄 No.263 でお知らせした12月22日の「鍋田治郎さんを偲ぶ会」の報告が、さいたま市の榊さんから送られてきました。以下に転載いたします。      

「レッドモール」掲示板と同文ですが、「偲ぶ会」の報告です。

12月22日、「鍋田治郎さんを偲ぶ会」が30数人の参加で行われた。鍋田さんは11月3日、肺炎のため急逝された。享年73歳。
 鍋田さんの、50年を超える闘いの実績からすれば、少ない人数ではあった。

[鍋田さんの20歳代]
 1950年代の「レッドパージ反対ストライキ」、共産党入党、共産党のスターリン主義に抗して民青県委員会を主導する闘い。共産党から「トロツキスト」(革共同第二次分裂ごろ)として除名。
「偲ぶ会」にかけつけた樋口篤三さん。「50年党員は1万人から2万人はいただろう。共産党に残っているのは100人位。除名されて運動を続けているのは20人位。兄弟のようにかけがえのない鍋田さんの死は無念だ」と声を詰まらせた。

[30代]  
 1960年代後半、埼玉べ平連の結成と、一千人の動員力を誇った埼玉県反戦青年委員会の闘い。

[40代] 1970年代 
 反公害住民運動、障害者解放運動、戸村参院選、三里塚闘争、狭山闘争

[50代] 1980年代
 日韓連帯闘争「金大中救出ハンガーストライキ」。労働情報川口分局長として日産ディーゼルをはじめとする労働運動指導。指紋押捺拒否闘争。

[60代] 1990年代
 分散する運動状況に、還暦を期して発行された「N通信」で「平和があぶない!自然があぶな!」と警鐘を鳴らし続けた。

 「偲ぶ会」には、人数は少なかったが、多彩な人たちが集まった。環境保護運動、障害者解放運動を続けている人。川口の二人の市議会議員。大合理化攻撃と闘っているNTT労働者。組合は分裂してしまったが両方から郵便労働者がかけつけた。不況下で大変厳しい状況にある中小民間労働運動を続けている全国一般の仲間、彼には、当日もひっきりなしに組合や労働相談の電話かかっていた。在日韓国人、朝鮮人。指紋押捺拒否闘争を共に闘ったプロのパンフルート奏者の「追悼演奏」もあった。そして今は、現実の運動には携わってはいない人たち。

 鍋田さんは、じつに数多くの運動団体の代表、世話人を引き受けられた。我々は、あっちこっちに鍋田さんを引っ張りまわした。ご家族は、そんな鍋田さんを温かく見守っておられた。「偲ぶ会」での、みんなのざっくばらんなエピソード、話を、ご家族は大いに笑いながら喜んでおられた。ご家族は「みなさんの本音の話に感謝いたします。みなさんのような温かいお友達に囲まれて主人は幸せだったと思います。」と挨拶された。
 最後に、鍋田さんの知り合いも含む「北朝鮮帰還者」、北の民衆、拉致被害者、韓国民主化運動の人々へ思いをはせながら「イムジン河」をみんなで歌って会を閉じた。

 その後の、二次会、三次会では旧交を温めあうとともに「なんかまた、みんなでやりたいね」という声がどの党派、グループ、現役でない人からもあがっていた。
 鍋田さんのこんな声が聞こえてきそうです。「なにを、ごちゃごちゃ言っているんだ。カッコつけるんじゃない。レッドパージ後の状況の寒さはこんなもんじゃないぞ。べ平連の結成の時だってたった30人じゃないか。」

 1・18「イラク攻撃反対集会」には、「N通信・読者会」の旗を掲げた、中年・老人部隊が登場しそうです。

 「N通信」19.1999.1.9より 以下引用

  いま 反戦のざわめき を!
 新ガイドライン安保関連法案の成立、改憲をも視野に入れた自自連立の動き、権力の側は急ピッチで、侵略戦争加担の準備を進めている。
 いま、出来るところから、出来ることから、反戦の意志を、しっかり持った行動を起こしていこう!
 ざわめきを寄せ合って どよめきに高める日のために! 
 

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