234. 相模原での[戦車搬出阻止闘争30周年記念集会」盛会裡に終了なお、「ピースデポ」は戦車輸送阻止闘争についての米極秘文書を入手、公表。(02/08/05 掲載)

 本「ニュース」欄 No.229 でお知らせした相模原市での「8.3戦車闘争から30年 ベトナム代表団歓迎・交流の集い 」は、歴史的な村雨橋闘争から満30年にあたる8月3日午後、相模原教育会館で開催され、250名の参加者を得て盛会裡に終了した。
 集会には、ベトナムからこのために来日した3人の代表、ホーチミン市戦争証跡博物館のグエン・コック・フン館長、ホーチミン市ベトナム日本友好協会のグエン・コン・タイン書記長、そしてハノイ市文学芸術協会のバン・ヴィエット会長を迎えた。集会では元ベ平連代表、小田実さんの記念講演があり、そのあと、ベトナムの3代表からもこもごも発言があった。
 小田さんは、ベトナム反戦運動が、決して30年前の過去の歴史上の出来事というものではなく、まさに、この2002年の現在に大きな意味を持つ運動であることを強調した。テロ対策を口実とした恣意的なアフガニスタン攻撃、そして迫ってきているイラク攻撃などのアメリカの政策に、日本政府が無条件に協力しているとき、日米安保条約によっていまだに存続している相模補給廠は、30年前以上の役割をこれから果たすことになる危険性は非常に大きい、この問題を若い世代に正確に伝えることが非常に大事だと話した。

 ベトナムの3人の代表は、それぞれ、相模原での闘争がいかにベトナム人民の解放闘争を支援したかを、当時の体験から実感を込めて話した(フン館長は、南ベトナムかいらい政権に捕らえられて、当時「虎の檻」と言われた監獄にいれられており、また、タインさんは、サイゴン郊外のクチ・トンネル 根拠地にこもってゲリラ戦を戦っていた。タインさんの経験は、この「ニュース」欄 No.223 に掲載されている『週刊金曜日』に載った吉川勇一『
ベトナムで聞かされた三〇年前のデモの効果 』で紹介されている。) 当時の闘争に参加した人びとは、あの30年前の闘争で、最後には機動隊の暴力によって抑え込まれ、戦車がベトナムに送り出されてしまったことに、ある種の挫折感、無力感を感じたし、また、どれほど戦争阻止に役立ったのかも自信がなかったが、この集会での話を聞いて、大きな役割を果たしたことを実感でき、とても嬉しかったと話していた。
 ベトナム代表団からは、1972年、ベトナムのロング・アン県で、農民の主婦が米軍の戦車の前に立ちはだかってそれを止めた事実を描いた絵の大きな額が、相模原の市民に記念品として寄贈された。
 この集会の模様は、8月4日の『神奈川新聞』で大きく報道された。
同時に同紙は、「かながわ発 今、有事を問う」というシリーズの特集記事の掲載を開始したが、4日掲載の第1回は、1面のトップで、この戦車輸送阻止闘争の問題とベトナム代表の訪問の記事ををカラー写真入りで大きく掲載した(右の図)。
 3日夕刻には、町田市のホテルで、ベトナム代表歓迎のパーティが開かれ、ベトナム人民の解放歌が、日越双方の出席者からそれぞれの言葉の歌詞で合唱されるなど、この集まりも大いにもりあがった。
 なお、同日付の同じ『神奈川新聞』は、「『戦車闘争』米に危機感」と題して、「ピースデポ」(梅林宏道代表)がアメリカの国立公文書館で発見した「M48戦車輸送」と題する「極秘」扱いの文書(1972年8月15日付け)の内容を報道している(左の図)。これによると、同秘密文書には「現在の戦車輸送における閉塞状況が、沖縄を含む日本における兵站作戦の将来になげかけている意味について非常に案じている」とあり、相模原からの搬出が不可能となった場合の代替案も検討して挙げているが、それは「安全保障義務を米政府が果たす能力に貢献するものではない]とのべて、非常に憂慮していたことが示されている。

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