232. ベトナム訪問の報告文章、感想、論文など(その8)  山口幸夫さんの2点(02/08/01 掲載)

 この春のベトナム訪問について、山口幸夫さん(現資料資料情報室共同代表、元「相模原ただの市民が戦車を止める会』)の文章2点を以下にご紹介します。先頭部分が一部同じですが、違う内容です。

(18)

ベトナムで見たこと、考えたこと

(『Science Society Humanity 科学 社会 人間』2002年2号 2002年7月20日)

山口 幸夫

 吉川勇一さんにさそわれて、1週間ほどベトナムに行ってきた。サイゴン解放記念日の4月30日をはさんでの、ベトナムからの招待に応じたのである。
 この2月から3月にかけて、吉川さんたち、旧べ平連の活動家30人が日本のベトナム反戦市民運動の資料を携えてベトナムを訪問した。そのお返しと思われる。ベトナム友好団体連合会と平和委員会から20人の招待があったのである。都合のつく人19人が参加した。団長は1回目と同じ小田実さん。
 わたしはわけあって、海外に出ることをわが身に禁じてきた。35年ぶりなので、パスポートやらビザやらドルやら、むかしとくらべて手つづきが格段に簡単になっているのに驚いた。
 長女の裕衣(ユエ)を連れてベトナムに行く決心をしたのは、あのベトナム反戦市民運動とは何だったのか、いまのベトナムを見て、気持ちの整理をしたかったからである。わたしは、若き日に相模原の戦車を止める運動に全力をつくしたという思いと、結局は戦車を止めきれなかった実際との間で、小さからぬ敗北感を抱きつづけてきた。それに踏ん切りをつけたいひそやかな思いがあった。また同時に、ダイオキシンの被害状況とベトナムの近代化をこの眼で見てみたいと思ったのである。
 関西空港から香港経由でハノイに飛んだ。着いた翌日、ハノイ郊外のヴアン・カイン友好村に案内された。そこにはベトナム戦争の障害者、障害児の施設がある。日・英・仏・独・米らの平和委員会や退役軍人からの支援があるという。
 子どもたちの学びと作業の様子を見た。わたしたちを見て、恥じらいを示す子もいたが、まったく気にせず、積み木を重ね、崩し、また重ね、飽くことなく繰り返す子もいる。足がか細く、組み合わさったまま、椅子に座ったきりの子もいる。盲目だというのだが、それを感じさせずに造花づくりの作業をつづけている子もいた。作業机に飾ってある花瓶の花は、触ってみてはじめて造花とわかる見事なものだ。友好村の代表は、ダイオキシン被害の子もいるし、症状はいろいろだと語る。被害は3代目にも出ているという。わたしはヒロシマ・ナガサキの放射線障害で3代目についてはあいまいだが、ダイオキシンでははっきりしているのか、念押しをした。通訳の難しさがあったと思うが、どうもはっきりしなかった。ただ、米国はダイオキシンの影響を認めず、補償をする姿勢も見られない、自分の国で6万人の退役軍人に影響が出ているというのに、と代表は強い調子で断言した。
 ベトナムの電力事情がどうか、原発をやろうとしているのではないか、がもうひとつ知りたかったことだ。ベトナムの田舎に行く道々、電信柱のありなしに注意していたのだが、ないところが圧倒的に多い。半世紀むかしの日本の農村に似た風景の田んぼには、農機具も農薬を散布する道具も、一つとして見られなかった。
 ハノイの大統領官邸で副大統領のグエン・チ・ビンさんから歓待をうけた。かつてパリで臨時革命政府の代表として活躍したひとだ。わたしは副大統領に、原子力については、よくよく考えてほしい。日本をふくめた先進工業国の失敗に学んで下さい。これからは、太陽、風力、バイオマスなどの持続可能なエネルギーの時代です。それらを先進工業国もきちんと研究して来ませんでした。お国と日本は同じスタートラインに立っています。協力しあってゆきましょう、と述べた。彼女は、ベトナムでは、15年から20年先のことを議論しています、あなたのいうことはよく考えてみます、と応じた。
 ベトナム日本友好団体連合会の人たちと会談したときにも、わたしは同じ発言をした。ベトナム国営テレビやいくつもの新聞の記者たちが同席していた。返ってきた答えは同じだった。婦人同盟との会合では、枯葉剤、エネルギー問題、原発間題、合成洗剤問題などが話題にのぼった。どれも、あたりさわりのない返答が返ってきた。
 総じて、のれんに腕押しの感じだったが、友好団体連合会との公式の会談がおわって、副会長という人が寄ってきて、わたしに名刺を差出しながら、こう言った。自分は自然エネルギーに大きな関心を持っているのだが、ぜひ情報交換をしたい、と。名刺には肩書きが9つも並んでいて、ベトナム国立大学の前学長でもあった。機械工学の専門家で、しばし、話がはずんだ。思いがけない出会いだった。
 1972年8月19日、東京芝の機械振興会館でわたしはハノイ大学学長のコンツムさんという物理学者の講演を聞いた。これが友人た ちと「ただの市民が戦車を止める」会をつくるきっかけのひとつになった。ハノイで、ゆくりなくも、このことを思い出した。人と人のつながりには、はかり知れないものがあると、あらためて思わされたのである。
 ベトナム反戦運動についての総括めいたことは別の機会にゆずる。科学技術のこれからを考えるとき、アジア、特にベトナムのことがわたしの中に大きな比重をしめるようにな った。

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(19)
ベトナムで見たこと、考えたこと
(『監視団ニュース』No.304 2002年7月1日号)

山口幸夫
(原子力資料情報室/「ただの市民が戦車を止める」会)

クチの地下壕にて中央の列、左が筆者→

 吉川勇一さんに誘われて、1週間ほどベトナムに行ってきた。サイゴン解放記念の4月30日をはさんでの、ベトナムからの招待に応じたのである。
 この2月から3月にかけて、吉川さんたち旧べ平連の活動家30人が日本のベトナム反戦市民連動の資料を携えてベトナムを訪問した。そのお返しと思われる、ベトナム友好団体連合会と平和委員会から20人の招待があったのである。都合のつく人19人が参加した。団長は1回目と同じ小田実さん。

  30年目の踏ん切り

 わたしはわけあって、海外に出ることをわが身に禁じてきた。35年ぶりなので、パスポートやらビザやらドルやら、むかしとくらべて手つづきが格段に簡単になっているのに驚いた。
 長女の裕衣(ユエ)を連れてベトナムに行く決心をしたのは、あのベトナム反戦市民運動とは何だったのか、いまのベトナムを見て、気持ちの整理をしたかったからである。わたしは、若き日に相模原の戦車を止める運動に全カをつくしたという思いと、結局は戦車を止めきれなかった実際との間で、小さからぬ敗北感を抱きつづけてきた。それに踏ん切りをつけたいひそやかな思いがあった。
 ハノイ空港から市内までの田園地帯は50年前の越後の田舎に似ていた。ところどころに復興と建設の現場がみられる。外国にきたという感じはまったくない。道ゆく人びとがわたしたちと同じ顔つき、体つき、服装だし、オートバイも自転車も違和感がない。泊まったホテルはフランス植民地時代の名残をとどめていた。
 着いた翌日、カム・ティエン通りの記念碑に案内された。母親が亡き子を抱いた立像がある。南国らしい花が供えられ、わたしたち一行も線香をあげた。しかし、この通りが1972年12月の北爆で283人の死者を出した所だと聞かされたとき、ずきんと心がうづいた。M48重戦車が相模補給廠を出て、国道16号を横浜へ向かったのは1972年11月・8日の夜10時すぎのことだった。アリのはいでる隙間もなく機動隊が壁をつくり、わたしたちは手も足もでず、轟音と排気ガスとをまきちらしてシートをかぶった小山のような巨体が目の前を過ぎてゆく。3ケ月、止められていた戦車はベトナムの戦場へいってしまったのだ。およそひと月で着いたとおもわれる。その直後の北爆ではないか。

 案内役タンさんの問い


 旅の後半はホーチミン市とその周辺を見学した。同市の郊外75kmほどのところにクチがある。かつてベトナム解放戦線の根拠地だった。いまは観光地だ。そこへ行くバスの中で、案内役のグエン・コン・タンさん(68歳)は3つの問いをわたしたちに出した。
 そこは地下3層の構造で、1層目が3m、2層目が6m、3層目は8〜10mの深さだという。地下トンネルの総延長250kmにもなる。さて、掘った土はどうしたでしようか。2つ目、空気ぬきの穴を米軍に見付けられないために、どうしたと思いますか。彼らは2000頭の軍用犬を使いました。3つ目、南ベトナムは雨期が半年です。穴にもぐっている解放戦線の兵士たちもさすがにくさくさしてくるのです。そこへ、夕方になるとヘリコプターが飛んできて、子どもや若い女性の声で呼びかけるのです。お父さん、あなた、早く家に帰ってよ。そんなところにいな早く家に椅ってよ、そんなとこにいないで。寂しいよう、と。この誘惑にどやって耐えることが出来たでしょうか。彼は日本語をその地下トンネルの中で独習したというひとだ。
 この最後の問いに、自分ならどう答えられるかな、と迷っていると、タンさんが言った。誘惑に耐えられたのは、皆さんのたたかいがあったからです。地下で聞くラジオが、時々報じました。アメリカの市民もわたしたちを支持している、日本では市民たちが戦車を止めている、と。わたしたちはこの戦いに絶対勝てると確信しました。タンさんは微笑みをうかべながら、しずかに語った。わたしは言葉をうしなった。

  みんなに語りかけたい

 じつは、その前月、ホーチミン市にある戦争証跡博物館でM48重戦車にわたしは出会っていた。博物館の門を入るとすぐ右手にそれが置いてあった。わたしは、しばし、その前に佇んでいた。あれこれの思いが胸のなかを駆けめぐった。
 あの戦車阻止闘争に最初から参加し、市民映画上映実行委員会をつくって記録映画をとり続けた檜鼻達実くんが4月に、その映画とさまざまな記録を博物館に寄贈したことを、羽田をたつ直前にわたしは知った。半月後、そこにわたしも来たのだ。彼は重い病いをかかえた身である。相模原のたたかいには全国から市民たちが参加した。戦車の前に身を投げ出したべ平連の4人の若者たち、徹夜の監視行動の無理がたたり亡くなった学生、その後の人生を変えた沢山のひとたち。みんなに、わたしは語りかけたい。十分、そう、十二分にわたしたちの闘いは意味があったんだよ、と。
 小中陽太郎、坂元良江、金井和子さんとわたしにベトナム友好団体連合会から「諸民族の平和と友好のメダル」が贈られた。すでに、小田実、吉川勇一、高橋武智さんには贈られている。わたしの場合は、相模原闘争に参加した人びと全員に贈られたのである。それをかつての仲間たちにどうやって伝えようか、相模原で報告集会を開かなくては、そう思って、5月3日早朝、ホーチミン空港から関西空港へむかった。

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