154. 山尾三省さん死去 「イントレピッドの4人」の2人をベ平連につなげた人。(01/09/09掲載)

 詩人の山尾三省(やまお・さんせい)さんが、8月28日午前零時4分、胃ガンのため鹿児島県屋久島の自宅で死去されました。62歳。東京都出身。葬儀・告別式は29日に行われました。喪主は妻春美(はるみ)さん。自宅のアドレスは鹿児島県上屋久町一湊2418-38。昨年秋ごろから体調を崩し自宅で療養されていました。
 早稲田大中退。1960年代後半に東京で山田塊也さんらとコミューン運動「部族」に参加。無農薬野菜の販売などに携わりました。77年、屋久島に移住し、文筆活動を続けました。著書に『聖老人』(野草社 1981)『屋久島のウパニシャッド』(筑摩書房 1995)『ぼくらの智慧の果てるまで』(宮内勝典との対談集 筑摩書房 1995)『聖なる地球のつどいかな』(ゲイリー・スナイダーとの対談集 山と渓谷社 1998)など。
右の写真は「東京自由大学」のホームページ http://homepage2.nifty.com/jiyudaigaku/yamao.html より借用)

 山尾さんは、ベ平連が援助した反戦米脱走兵のそもそもの最初、「イントレピッドの4人」のうち、マイケル・リンドナーとリチャード・ベイリーの二人をベ平連に引き合わせた人でした
 このことについて、山尾さん自身の書かれた文があります。それを以下に転載し、ご冥福をお祈りします。
 

     
 

ある日、新宿で

山 尾 三 省


 
うすら寒い日だったと思う。風月堂で久し振りに会った二人の友達と西口へショーチューを飲みに行こうという所だった。夜の八時ごろ、雨があがった所だったと思う。中央通りを歩いていると、夏以来ちょくちょく顔を合わせ話もしたことのある奴が「バカヤローッ」とどなり散らしながら誰かと肩を組んで踊るようにすれちがった。その男はこの春北海道からテロリストになるつもりで上京してきたのだが、実際にはハイミナールを飲むことと例のグリーンハウスに寝ることしか出来なかった日本の現実の若者の一人だった。
 三〇秒もしない内に彼は引きかえして来て僕の耳にささやいた。「ごめん、ちょっと酔っぱらった真似をしてたんだ。実はちょっとばかり重大な話が……」 四人の米兵が軍艦から逃げて来ていることを聞かされた。たしか
十月の二十七日だったと思う。彼について行くと、小田急デパ−トの方へ通じる地下道の一角で五、六人の日本の若者に混じって二人の若いアメリカ人がショーチューを飲んでいた。僕らはよく舗道や地下道に腰を下ろして酒を飲むのだが、その時も連中はなんとなくまるく輪になって飲んでいた。僕らがその輪に加わった時、一人のアメリカ人は立ち上って壁の所に行きゲエゲエ吐き出した。二人ともかなり酔っているようだった。名前を聞くとエリックと言った。吐いた方のは忘れた。其後のニュースでみるとエリックの本名はベイリーだったわけだ。
「本当に脱走したのか」
「本当だ」
「これからどうするつもりだ?」一
「判らない。日本にいたい。日本が気に入った」
「しかし、日本にいればすぐ掴まる。掴まってもかまわないのか」
「ヒゲを生やしたりして変装すれば判らないと思う」
「政治的な理由からの脱走か」
「ちがう、戦争がいやになったんだ」
「逃げることに成功するには、一番確実なのは日本の平和運動のグループの助けを受けることだと思うが、どうか」
「それよりも京都に行きたい。しばらく日本を歩きたい」
「そんなことをしたらすぐ掴まるよ」
 そんなようなことを貧しい英語でエリックと話した。もう一人は気分が悪いのか頭をかかえこんでいた。残りの二人の仲間とは次の日の昼に東京タワーの下で会うことになっているという。僕には、彼等二人は脱走兵というものが持つ真剣なイメージとはちょっとちがっている風に思えた。だが事実というのは多分いつもそういうものなのだろう。今後どうするかについて、すぐにでも決めなければならないことだったが、彼等二人が残りの二人と相談した上でないと決められないというので、次の日の夜までによく相談しておくようにと言った。しぼらく話したり飲んだりしている内に、例によって警官が来て、ここは人が歩く所で坐って酒を飲む所ではないと言うので、立ち上り次の日の夜会うことにして別れた。
 次の日、僕らのグループの集まりがあり.(バム・アカデミアという名でこの夏週刊誌その他で大変に賑わった)その時に、僕らのグループとしては直接の目的が違うとして彼ら四人に援助をしないことに決めた。しようとしても出来ないことだった。個人的に、僕はべ平連に連絡をとろうと決めた。他にもいくつか政治的なグループも浮かんだが、べ平連が適当だと思えた。
 夜、風月堂に行くと(この店は客の三分の一が外人といってよいほどで、外人がちっとも目立たない店だ)エリックともう一人だけが、前の晩とはうって変わって不安そうにしていた。もう二人はどうした? と聞くと、連絡がつかない、心配だということだった。
「我々は君達の助力が必要だ」
「心配するな、日本人の大部分はベトナム戦争に反対だし、戦争が悪いことだとは誰でも知っている」
「オレにとって戦争はすでに終った。オレは今自由だが、助力が心要だ」
 前の晩吐いていた方のは眼をぎらぎらさせて黙っていた。僕ほ再び、日本にそのまま旅行者みたいにしていることの危険を話し、確実性を希むならべ平連という組織があるからそこと連絡を取ることを勧めると言った。前の晩二人を僕に紹介した男は、もし彼等が京都に行くなら一緒にヒッチハイクしてやるつもりで用意して来ていた。
「OK! おれ達はべ平連に行くよ」
 エリックが決めた。べ平連と連絡をとり、使いの者が来るまでの間、僕らは次のようなことを話していた。
「アメリカの若い世代は不幸だ」
「日本だって同じだ。世界中の若い世代は皆んな不幸さ」
「ちがう。アメリカの若者は人を殺しに行かなくちゃならない、人を殺しに行くのがいやなら監獄に行かなきやならない。二つに一つだ。しかもアメリカはこれから先もずっ と戦争をして行くのだ。ベトナムが終ったとしても、次のベトナムが必ず生れる。希望はないよ。アメリカの若者はずっとこの地獄とつき合わなきやならないんだ。おれはドラフト・カードを破る勇気がなかったのでここまで来ただけのことだ。……だけど、もう今のおれたちには殺すことは終った。それだけでもほっとしたよ」
「ああ、でもこれからが大変だ」
「勿論だ。でもその方がずっとましだよ」
「勿論そうだ。多分ね。うまく説明出来ないが、お互いに忍耐が必要だと思うよ」
 べ平連の使いの二人はやって来て、あっという間にエリックともうー人を連れて行った。あまり素早かったので、後に残った僕らは、使いの二人がべ平連からでほなく警察関係からだったのではないかと心配したほどだった。

(河出書房刊 月刊『文芸』 1968年1月号より)

 
     

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