バハァドルさんは1955年にアフガニスタンで生まれました。家族は昔30人。兄弟は他に5人いました。現在は戦争状況によりどうなったかはわかりません。父母と11人の家族が既に殺害されています。
彼は1974年8月にJICAの研修員として一年の予定で日本に入国しました。研究対象はセラミックエンジニアです。その後、1975年に京都大学に入り、在留資格の変更のため韓国の釜山に行きました。これに関しては、何故釜山に行かなくてはならないのかとバハァドルさんも批判しています。実際私たちから見てもおかしな話だと思います。何故、日本における在留資格の変更を外国で行われなければならないのか。とにかく、この変更で4-1-6という数字で表される在留資格を得、その後、この資格を更新することで1987年8月まで時が経ちます。彼は非常に研究熱心な学者であり、1987年には東京、アメリカなどでの学会を成功させています。ところが、1987年の4月に事態が急転します。教授との意見の相違などから研究所を出ざるを得なくなり、その結果、大学からの在留資格が取り下げられます。
この一件によりバハァドルさんは、大阪入国管理局と相談して、資格を変更することとなります。その後の在留資格の変遷は4月11日の裁判の記録を見てください。彼はこの後、京都大学への民事・刑事裁判で忙しくなりながらも、熊野寮にて研究を続け、「ケミカル・アブストラクト」(アメリカ)という工業化学系の雑誌に何本も論文が掲載されています。彼は逮捕されるまでの10年間、入国管理局に要請があり次第出頭しながら、このような生活を送っていました。
それでは何故2001年になって急に逮捕されたのか。これは法務省か入国管理局の問題で、私たちは推論しか立てることが出来ません。しかし、おそらく、逮捕が11月18日であったことも考えれば、11月22日の「テロ対策法」をにらんだ動きであったと言って間違いありません。テロ対策はテロに対してのみ有効であるはずで、むやみに外国人と見るだけで逮捕するのは職権濫用に他なりません。また、いかなる事実があろうとも平和を愛するはずの日本と言う国が、報復が報復を呼ぶ戦争に、いかなる分野においても参加してはなりません。無実であるバハァドルさんが逮捕され、私たちが助けようとしたとき、彼はそれを拒みました。「日本という国は今戦争に加担している。アフガニスタンにミサイルを撃ち込むアメリカの味方に立っている。私はそんな日本の政府を支持する国民からの施しは受けない。君たちは私を助ける前に、まず日本の政府による馬鹿な行為をやめさせなさい」と言うことだったと思います。果たして、私たちはこの問題を放っておけるでしょうか。
最後に、現在バハァドルさんは獄中にてロシア語とドイツ語を習得し、研究通信を発行しようとしています。皆さんはこのバハァドルさんの姿勢に何を見出すでしょうか。
アフガニスタンで公務員。JICAの研修員として、一年間の予定で来日。名古屋をはじめ、全国の企業をめぐって研修を受ける。
そのまま勉強を続けたいと考えて、京都大学工学部工業化学科の研究生となった。(私費留学生)
教官のアドバイスで工芸繊維大学の修士課程に入学。2年で修了。
京都大学工学部工業化学科の博士課程に入る。
博士課程を単位取得修了。研究生として在学。
京都大学熊野寮に入寮。
スペインでのエネルギー問題学会で発表。
研究室を続ける意志があったが、研究所に居られなくなる。熊野寮の自室を研究室として、研究を続ける。
京大の教官が身元引受人となり、半年間の在留許可を得る。以降、出入国管理局と交渉を続ける。
アフガニスタンの内戦のため、大使館が閉鎖。パスポートも切れる。
11月18日 逮捕され、京都府警下鴨署に留置。
11月28日 京都大学熊野寮の居室へ不当捜索。
12月 1991年からの十年間を出入国管理及び難民認定法違反で起訴。京都拘置所に移送。